第十三章 本気の避難訓練
第十三章 本気の避難訓練
十一日目の夜。
「今夜は、避難訓練を行います」
夜久園長がそう告げた瞬間、悠斗は露骨に顔をしかめた。
「またやるんですか」
「前回は、誰一人として園庭までたどり着けませんでしたから」
「いわおが廊下を塞いで、きゅうがキュウリを取りに戻って、こはくが園長に化けて指示を増やして、めめが眼鏡を落として、大河が何か言っているのに誰にも聞こえなくて、ことが予言を始めて、小吉が泣いて重くなったやつですよね」
「よく覚えていますね」
「忘れられるわけがないでしょう。あれは訓練じゃなくて、全滅イベントです」
悠斗はテーブルの上に、一枚の紙を広げた。
保育園の見取り図だった。
非常口までの経路には太い赤線が引かれ、ところどころに丸や三角の印が描き込まれている。紙の端には、園児たちの名前と注意事項がびっしりと並んでいた。
夜久園長が眼鏡を押し上げる。
「これは?」
「攻略表です」
「避難計画と呼びましょう」
「どちらでも同じです」
悠斗は赤いペンで見取り図をたたいた。
「前回は全員に同じことをさせたから失敗したんです。この連中は、同じ指示で動けません。一人ずつ装備と役割を決めます」
「装備!」
きゅうが目を輝かせた。
「剣? 盾? 伝説のキュウリ?」
「水筒だ」
「地味!」
「頭の皿が乾かないようにするための水だ。避難中に池へ寄り道するな。キュウリも一本、袋に入れてある。取りに戻ったら没収する」
「伝説のキュウリは?」
「普通のキュウリだ」
きゅうは水筒を首から下げ、非常用の袋を大事そうに抱えた。
「めめは眼鏡をかけたまま避難。予備の眼鏡とケースは、避難袋に入れておく」
「わかった」
めめは赤い眼鏡の位置を両手で確かめた。
「まだ外はよく見えないけど、赤い線なら少し見える」
「十分だ。線から外れそうになったら、前の子の肩につかまれ」
「うん」
悠斗は次に、大河を見た。
「大河は最後尾だ」
大河の肩がびくりと揺れた。
「最後……?」
「後ろに残っている子がいたら、『ここにいる』と教えてくれ。危ないものを見つけたら『危ない』。大声でなくていい。俺に届けばいい」
「……できるかな」
「三つしかない。今まで練習した言葉だけだ」
大河は口をきゅっと結び、それから小さくうなずいた。
「こはくは変身禁止」
「ええっ!」
「非常ベルが鳴ると驚いて、別の姿になりやすいだろ。前回みたいに園長になられたら、指示を出す人間が二人になる」
「でも、今度はもっと上手に園長先生になれるよ」
「そこを頑張るな。今夜は、こはくのままでいるのが仕事だ」
こはくの二本の尻尾が、不満そうに床をたたいた。
「それから、いわお」
「はい」
「驚いて大きくなりそうになったら、廊下の赤い丸まで移動してから壁になれ」
「壁になってもいい?」
「あそこならいい。後ろから何か来ても、みんなを守れる。ただし、非常口の前では絶対に大きくなるな」
いわおは床に貼られた赤い丸を見つめた。
「赤い丸。守る壁」
「そうだ」
悠斗は次に、ぼんやりと立っていることを自分のそばへ引き寄せた。
「ことは俺と一緒。離れるな」
「はなれない」
「『明日は』も禁止」
「あしたは」
「今のも禁止だ」
悠斗はことの口を手で塞いだ。ことは牛の体の尻尾をゆっくり振りながら、特に抵抗もせずに悠斗を見上げている。
最後に、小吉の前へしゃがみ込む。
今夜、小吉の母親は初めて、一時間だけ仕事へ行っていた。
小吉は何度も玄関を振り返っていたが、泣いてはいなかった。目元には、いつでも涙が出られるように水分がたっぷり待機している。
「小吉は、これを持つ」
悠斗が見せたのは、いくつもの輪がついた長いロープだった。
「それ、なに」
「避難用のロープだ。みんなで輪を持って歩く」
「抱っこじゃないの?」
「泣いたお前を抱えて逃げられると思うか」
「おもい」
「自覚はあるんだな」
小吉は自分の白いひげを撫でながら、しばらくロープを見つめた。
「持てないか?」
「……持てる」
「途中で怖くなったら?」
「重くなる」
「それは困る。まず俺の名前を呼べ」
「ゆうと」
「今じゃない」
「れんしゅう」
「そうか」
妙に落ち着いた返事に、悠斗は何も言えなくなった。
全員がロープの輪を持つ。
先頭は悠斗。そのすぐ横にこと。続いて、めめ、きゅう、小吉、こはく。最後尾に大河。いわおだけはロープを持たず、赤い印の間を移動する役目だ。
「目標は二分です」
夜久園長が時計を手にした。
「無理です」
「始める前から諦めるのですか?」
「現実的な予測です。五分で全員が外に出られたら奇跡ですよ」
「それでは、始めます」
夜久園長が非常ベルのボタンを押した。
けたたましい音が、園内に響き渡った。
「うわあっ!」
いわおの体が、一瞬で横に広がり始める。
「いわお、赤い丸!」
「赤い丸!」
いわおは両足をばたつかせながら、必死に廊下の端へ移動した。体の端が靴箱に引っかかったが、どうにか赤い印までたどり着く。
「守る壁!」
そこで完全な壁になった。
非常口は塞いでいない。
「よし、成功! そのまま!」
悠斗がロープを引いた。
「全員、歩け! 走るな! 輪を離すな!」
「キュウリも離さない!」
「それも離すな!」
きゅうは避難袋を胸に抱え、短い足で懸命に歩いた。首から下げた水筒が、腹に当たってぽこんぽこんと鳴っている。
「めめ、前は見えるか?」
「赤いのが動いてる」
「それは俺のジャージだ。見失うな」
「うん」
めめは赤い線と悠斗のジャージを頼りに進んでいた。途中で眼鏡がずれたが、立ち止まらず、片手で押し上げる。
順調だった。
少なくとも、前回よりは。
「あしたはぁ」
「お前は今じゃない!」
ことの口を塞ぎながら歩いたせいで、ロープが大きく揺れた。
こはくの耳がぴんと立つ。
「びっくりした!」
その姿が一瞬、夜久園長に変わりかけた。髪だけが伸び、顔が半分ほど大人になる。
「戻れ、こはく! 今は変身しなくていい!」
「こはくのまま、こはくのまま……!」
こはくは目をぎゅっと閉じた。二本の尻尾が三本になり、また二本に戻る。顔も少しずつ幼いものに戻っていった。
「できた!」
「喜ぶのは外に出てからだ!」
玄関まで、あと少しだった。
そのとき、小吉の足が止まった。
「おかあさん」
非常ベルの音が響く中、かすかな声がこぼれた。
「おかあさん、いない」
小吉の目から涙が落ちた。
体が、ずしりと床へ沈む。
ロープが動かなくなった。
「小吉!」
後ろのこはくが引っぱる。しかし、小吉の体はますます重くなり、床板がみしりと鳴った。
「おかあさん、いない。おかあさん……」
悠斗は引き返し、小吉の前にしゃがんだ。
「俺の名前を呼べ」
「おかあさんが……」
「練習しただろ。怖くなったら、まず俺の名前だ」
小吉はしゃくり上げた。白いひげが涙で濡れている。
「……ゆうと」
「いる」
「ゆうと」
「ここにいる」
小吉は輪を握り直した。
「歩けるか?」
「おもい」
「知っている。だから自分の足で来い。一歩だけでいい」
小吉の片足が、ゆっくりと前へ出た。
床板のきしむ音が、少しだけ軽くなる。
「もう一歩」
小吉がまた歩いた。
「ゆうと」
「いる」
「ゆうと」
「いるから、前を見ろ」
小吉は泣いたまま歩いた。一歩進むたびに、体の重さが少しずつ戻っていく。
最後尾から、かすかな声がした。
「……いる」
悠斗が振り返る。
大河が廊下の奥を指さしていた。
「何だ?」
「いわおが、いる」
赤い丸の上で壁になったいわおが、取り残されている。
「あっ」
全員が同時に声を上げた。
「誰か一人忘れるの、やめません?」
夜久園長が穏やかに言った。
「訓練でよかったですね」
「まだ終わっていません!」
悠斗はロープをこはくに預け、いわおのところまで走った。
「いわお、もう小さくなっていい!」
「守らなくていい?」
「全員通った! 今度はお前も逃げる番だ!」
いわおの体が、ぷしゅう、と空気の抜けるような音を立てて縮んだ。
悠斗はその手をつかみ、ロープの先頭へ戻る。
「全員いるな?」
「キュウリいる!」
「お前のキュウリは数えていない!」
「こと、いる」
「めめもいる」
「こはくのまま、いる!」
「……ここにいる」
最後に大河が答えた。
悠斗は全員の顔を確かめ、非常口を開けた。
夜の空気が流れ込んでくる。
「外へ出ろ!」
園児たちはロープを握ったまま、次々と園庭へ出た。
最後の一人が敷居を越えたところで、夜久園長が時計を止める。
「四分四十六秒です」
「遅い」
悠斗はその場に膝をついた。
「遅すぎる。これが本当の火事だったら、廊下に煙が回ってる」
「でも、全員が外へ出られました」
「訓練なんだから、出られて当然でしょう」
「前回は誰も出られませんでした」
「比較対象がひどすぎるんですよ」
息を切らしながら顔を上げると、園児たちが悠斗を見ていた。
きゅうはキュウリ入りの袋を守りきった。
めめは眼鏡を落とさなかった。
こはくは最後までこはくの姿だった。
大河は、置き去りになったいわおを見つけた。
いわおは非常口を塞がなかった。
ことも、予言を言い切っていない。
そして小吉は泣きながらでも、自分の足で園庭まで歩いた。
「もう一度やるぞ」
悠斗が言うと、全員から不満の声が上がった。
「ええー!」
「キュウリ食べたい!」
「疲れた!」
「眼鏡、曇った!」
「おかあさん、まだ?」
「本番は疲れていても来るんだよ。次の目標は四分半。休憩したら、もう一回だ」
夜久園長が悠斗の隣に立った。
「本気ですね」
「誰かが死んだら、連勝記録が途切れますから」
「そういうことにしておきましょう」
「そういうことです」
二度目の記録は、四分三十九秒。
三度目は、四分三十一秒だった。
二分には、まだ遠い。
それでも三度とも、全員が園庭へ出た。
*
明け方、悠斗はいつものノートを開いた。
きゅう。避難中、池へ寄らなかった。キュウリにも手をつけなかった。
めめ。眼鏡を落とさず、赤い線を最後まで追えた。
大河。取り残された者を報告できた。声量は小さいが、俺には聞こえた。
こはく。途中で変身しかけたが、自分で戻った。
いわお。指定位置で壁になり、指示で解除できた。
小吉。母親がいない状態で一時間。途中で泣いたが、自力で避難。
こと。「ま」と発言。予言には至らず。
避難訓練、最短四分三十一秒。全員避難完了。
悠斗は最後の行に、大きく丸をつけた。
十一連勝。
窓の外が、うっすらと白み始めている。
「次は四分二十秒だな」
ノートを閉じると、背後から眠そうな声がした。
「ゆうと」
振り返ると、小吉が毛布を引きずって立っていた。
「どうした」
「いる?」
「いるよ」
悠斗が答えると、小吉は安心したように目を細めた。
そのまま悠斗の足元に座り込み、毛布にくるまる。
「おい。そこで寝るな。重くなったら動かせないだろ」
「ねない」
「目を閉じているじゃないか」
「とじてるだけ」
「それを寝るって言うんだよ」
間もなく、小吉から小さないびきが聞こえ始めた。
悠斗はため息をつき、ノートの余白に一行だけ書き足した。
小吉。俺がいるか確認後、足元で寝た。
少し迷ってから、その横にも丸をつけた。




