第二章 浄化
第2章 浄化
1
まだ首が少し痛む。
陽一は、湿布を貼った首をさすりながら街を歩いていた。
東京の街をこうやってゆっくり歩くのも久しぶりだ。この日、首を診てもらうため医者へ行った。もう二回目だ。おかげで大分よくなったが、痛みはまだ完全には消えていない。その医者の帰り、時間が余ったので、目的もなく散歩することにしたのだ。陽一は、溢れる人でごった返す交差点で信号待ちをしていた。時刻は五時過ぎだろうか。仕事の終わったサラリーマンが多いように見受けられる。彼は一応、休学中とはいえ関西の大学院生だが、ガイア教徒になってから安アパートを借りて、しばらく東京に滞在していた。
過日、放射能汚染処理施設建設反対運動の際、教団の横瀬司教といさかいを起こし、首筋を打たれ気を失ってしまった。結局、あの騒動を起こした住民たちはすべて逮捕されたが、事前にその場を逃れた教徒は一人もお咎めなしだった。教団の公権力に対する影響力は、その事実で歴然としている。陽一はあの一件以来、横瀬と行動を共にすることを敬遠してきた。あの男の主義主張は相容れないものがある。
だが、親友の晴樹は横瀬とうまくやっているらしい。というより、横瀬のほうが勝手に晴樹にまとわりついているようだった。ガイア教は諏訪家から莫大な献金を受けたとの話もあり、教団は晴樹に一目置くようになった。
陽一は人間を敵視する横瀬を許すことはできなかった。このまま泣き寝入りするつもりはない。救世主に直訴して、教団が間違った方向に進まないよう、横瀬を糾弾するつもりだ。
教団ではいつも晴樹と一緒に行動してきたが、最近は別々が多くなっていた。
駅へと向かう大通りで信号が青になり、人の流れに乗って陽一は歩き出した。老夫婦が重そうな荷物を抱えて、横断歩道をゆっくり歩いていた。急いでいる風の若いサラリーマンが、無表情で後ろからおじいさんにぶつかり、詫びも言わず過ぎ去っていった。
倒れこむおじいさんに、おばあさんが血相を変えてかがみこむ。都会の人は誰も立ち止まらない。
「大丈夫ですか?」
声をかけたのは陽一だった。
「え、ええ」
おじいさんは、服をはたきながら、緩慢な動作で立ち上がった。
「田舎から孫に会いに来たんです。どうも、お恥ずかしい」
「いや、そんなことないですよ。荷物、持ちますよ」
信号はすでに点滅していたが、陽一が老夫婦二人の荷物を持って運んだために、青のうちに交差点をわたりきることができた。
老夫婦は、しきりに頭を下げた。
「東京の人は、ほんと歩くのが早いですね」
おばあさんは通り過ぎる人たちを見ながら、半ば感嘆したように、半ば呆れたように言った。
「ええ、みなさん忙しいんでしょうね。なんか、余裕がないというか、窮屈な感じがしますね」
陽一は、都会が苦手だった。子供の頃から親の転勤のため、あちこちに住んだが、田舎のほうが自分の性に合っていると思っていた。大学で史学を勉強し世界を旅行するようになってからは、静かな歴史的遺跡の中に一日中たたずんでいるのが、彼の幸せとするところだった。
「そうだ。この後、僕は何の予定もないですから、この荷物、目的地まで一緒に持っていってあげますよ」
陽一は笑顔で言う。
老夫婦は驚いて、
「そんな。とんでもありません」
「遠慮なさらないでください」
老夫婦は何度も断ったが、結局、陽一の屈託のない笑顔に負けて、荷物を運んでもらうことになった。
少し歩き、目的のアパートの前にはすぐにたどりついた。
「孫の住んでいるのはこのアパートです。ほんとうにありがとうございました」
おじいさんが、深々と頭を下げた。
「ほんとに。今はお年寄りからお金を騙し取る人たちがたくさんいる嫌な世の中だっていうのに。あなたのようにいい人がいると救われた気持ちになります」
おばあさんも笑顔で頭を下げる。
「じゃあ、僕はこれで」
「ここまで親切にしていただいて、お礼をしたいんですが、お名前は?」
おじいさんが聞いてきたが、
「いいんですよ。当然のことをしただけです」
陽一は明るい表情のまま、老夫婦に一礼して別れた。
日本は超高齢化社会で、今や総人口の三分の一ほどが、六十五歳以上の高齢者だった。
テレビで誰かが言っていた。高齢化社会とは、人生経験豊富な人たちが作り出す社会であり、幼稚な部分は消え、高度な精神文明を備えた社会なのだと。
しかし、実際には経済は先細り、閉塞感が増すばかりで、若者たちは将来への希望を見出せずにいた。不安を抱えた若者たちは、ガイア教のような宗教の世界に飛び込む者も多かったのだ。
その若者の一人である陽一は、元来た道を戻るのもつまらないので、そのまままっすぐ進み、近くの駅を見つけようと歩き続けた。
すぐに車の多く通る街路に出た。今まで来たことのない知らない道だった。
標識で駅を確認し、そこへ向かった。日は落ちかけている。
駅へ近付くにつれて帰宅を急ぐ人の数が多くなる。
駅前の駐輪場の隣に、ケージがあり、その中に数匹の猫がいた。飼ってくれる人を見つけているのだろうか、若い女性が椅子に座って、通行人が寄ってくるのを待っている。
陽一は何気なく、その女性の顔を視界に捉えた。目鼻立ちが整っていて、きれいというより、かわいいといった感じの女の子だった。だが、一人で道端に座っているだけあり、活動的な印象を受けた。体格は小柄で、陽一はなんとなく惹かれてしまった。
吸い込まれるように、近付いていった。
「捨て猫ですか?」
陽一は立てかけられてあったボードの、捨て猫たちを救ってください、という文字をちらっと見てから、猫に視線を移し、しゃがみこみながら、女性に声をかけた。
「はい。もらってくれるいい人を探してるんです」
女性は穏やかな顔で言った。
「へえ。かわいいですね」
人差し指で、ケージの隙間から子猫の体をつついて、陽一は無意識に笑顔になった。
「本当はもらっていきたいけど、安アパートでペット禁止なんだ。ごめんな」
猫たちに向かって、申し訳なさそうに言った。
その中の一匹の黒い子猫が、陽一の指にじゃれた。
「こいつ、かわいいな」
しばらく、その黒猫と遊んだ後、陽一は名残惜しそうに、指を引っ込めた。
その様子を見ていた女性は、
「本当に猫が好きみたいですね」
と笑顔を向けた。
「ええ。猫に限らず動物は好きなんですよ」
陽一も人なつこそうな笑顔で答えた。
「よかったら、いつでも寄ってください。私、ここで飼い主探し、いつもしてますから」
「いいんですか。そんなことなら毎日でも寄りますよ」
女性は天川見可子と名乗った。大学生だと教えてくれた。
陽一も名乗り、自分は老けているがこれでも大学院生だと言った。
「実はあなたが来るちょっと前、猫たちが教えてくれたんです。僕たちの味方がもうすぐきてくれるんだよって。その人は、僕たちだけじゃなく、たくさんの命を助けてくれる人だよって。きっとあなたのことですね」
「猫がですか・・・?猫としゃべれるんですか?」
「あ、馬鹿にしてますね。私、動物たちが考えてること、わかっちゃったりするんですよ」
「馬鹿になんかしてないですよ。アニマルコミュニケーターっていう動物と会話できる人もいるみたいだし。羨ましいなあ」
そういって純粋に羨ましがる陽一に見可子は好印象を持った。心が青空のようによどみのない人。彼女の鋭敏な直感は、陽一にそんな印象を抱いた。
「それにしても、猫たちにそう言われるのは嬉しいけど、僕はそんな偉い人じゃないけどなあ」
「彼らは人間より邪気がないから、そういうのを予知する能力に長けてるんです」
「まあ、猫たちの勘違いってこともあるだろうし」
そう言って、陽一は一人納得した。
二人の会話は弾み、彼は結局、見可子が帰る時間まで、隣に座って一緒になって飼い主探しに付き合うことにした。
彼女の笑顔に惹かれてしまった。気持ちが高ぶっている。
陽一は自分でわかった。どうやら一目ぼれであるらしいと。
2
ガイア教の組織は、頂点に救世主が君臨する。そのすぐ下に四人の司教がいる。司教のうち、識見、経験ともに優れた者を一人選任して、大司教とし救世主を補佐することになっている。司教の下のランクに司祭があり、これは人数の定数はない。
救世主は小山田志郎。メディアに積極的に登場し、宣伝力に長け、今やガイア教は世界的な宗教となった。
大司教は真田岳。元大学教授で理論派の老人である。世界の人口は百億人を突破し、急速な地球温暖化は、世界の深刻な気候変動を招いていた。夏季の熱波により、生物は脱水症状で倒れ、地上の砂漠化は進み、湖や川が次々と干上がった。かと思えば台風の増加による水害が増加し、洪水が世界中を襲い、冬季には、暑さの反動からか寒波が地球上を覆い、地上を凍りつかせた。各国の政府主導では遅々として進まない二酸化炭素排出削減に対して、真田は危機感を抱いていた。彼は宗教の力を借りることを決意した。ガイア教には多くの資金が集まった。彼は、そこに目をつけ、大学を辞め、ガイア教徒となった。豊富な資金力を背景に、植林活動に従事することができたのである。
他の司教に由良和貴、横瀬恭介、黒田道生の三人がいる。
由良は真田の大学のときの教え子で謙虚で温和であり、人望があった。真田の片腕としてよく彼を補佐した。若くして司教に抜擢されたのは真田の引き立てが大きく働いたからだともいわれる。
教団は二つの派閥に分けられており、真田と由良は穏健派で、このグループは地球と人類との調和のとれた共生を模索している。横瀬と黒田は武断派で、ともに軍人出身である。人類の文明活動は地球にとって害であるという主張をし、自然を守るために手段を選ばない。
横瀬は昔、外国の傭兵部隊に所属していた。先陣を切って現場に出動し実力行使をするガイア教突撃隊と呼ばれる部隊を率いている。黒田も元自衛官で、元軍人が二人も司教であることから、ガイア教は軍隊を作ろうとしている、とマスコミは騒いでいる。
黒田は横瀬より年長で、教徒としての年数も長く、彼が武断派のリーダーであるといってよい。救世主直属の部隊とされるガイア教親衛隊と呼ばれる部隊を率いている。彼は昔、自衛官だった頃、航空機の演習中、自分の操縦ミスで山腹に墜落したことがあった。だが、奇跡的に山肌の樹木がクッションの代わりをし、航空機はつぶれたが、コックピット部に損傷はなかった。彼も怪我一つ負わなかった。自然の樹木に救われた、そう感じた彼は、深く自然を尊崇することになる。
穏健派と武断派の二つの派閥は主義主張の違いから極めて仲は悪かった。由良のアメリカ支部行きは真田の力を弱めようと黒田が救世主に働きかけたという噂もあった。
この日、由良を除く司教たちと救世主との会合がガイア教東京本部の会議室で開かれた。
「人類の百億人という人口は、最早地球の収容容量を超えてしまっている。世界の砂漠化で恒常的な穀物の生産が困難になっており、飲料水も枯渇し、供給体制が不十分な事態に陥っている。このままでは、近い将来に食物や水の奪い合いで世界的な戦争になるだろう。ゆゆしき事態だ」
救世主は、深刻な顔で意見を言った。
それを受けて、黒田が発言した。
「戦争になれば、ある程度人類が淘汰され、人口は減少するでしょう。そうなれば地球の資源の限界も一時的には持ち直すかもしれない。だが、このまま環境破壊を続けていけば、地球の方が先に壊れ、著しい気候変動によって、人類自体が地球上で生存できなくなる可能性があります」
「それを防ぐために、砂漠化を防ぐ研究に力を入れ、植林活動を世界中で展開しているのだ。今こそ、我々教団が力を結集し、地球再生の一助となるべきだ」
真田がそう言うと、黒田はすぐさま反論した。
「大司教のおっしゃられることは甘いのです。あなたの活動は根本的な問題の解決には全くつながっていない」
「・・・。黒田司教。我々がどれだけ世界の砂漠で努力しているか、知っているのか」
「知りたくもありませんな」
その無神経な黒田の発言に、真田の胸に怒りがこみ上げたが、それを呑み込んで、冷静な態度を装った。
「なら、君には根本的な解決方法があるというのかね」
「もはや、議論している余地さえないのです。早急に人類の枝打ちが必要です」
「枝打ちだと・・・」
「ええ。世界中のガイア教徒が行動を起こし、人類を粛清し、人口を地球上で存続できる範囲数に縮小させるのです」
それを聞いて、真田が机を大きくたたいた。
「何を馬鹿な!そんなことが許されると思っているのか!」
「二人とも、よさないか」
救世主が二人の議論に割って入った。
「黒田司教。我々は、カルト教団ではない。ガイア教は、世界の四大宗教に比肩するほどの宗教にならねばならない。人類の抹殺や集団自殺は、今まで小さなカルト教団がしてきた行動だ。もっと冷静に考えたまえ」
黒田は、一瞬不服そうな表情を見せたが、黙って頭を下げた。
「いずれにせよ、もうすぐガイアが人間を依り代として、この地上に降臨なさる。我々はその時を待ち、ガイアの御心に従うのだ」
救世主は一同にそう告げた。
様々な議題の中の一つに、諏訪製薬の献金の話が出た。ガイア教創設以来最大の献金額であった。その功績に報いるため、諏訪晴樹にそれ相応のポストを与えてはどうかという意見が出た。横瀬司教の強い推薦もあり、救世主としてもせっかく手に入れた資金源を手放すつもりはなかった。諏訪晴樹の一般教徒から司祭への昇格が決まった。
会合が終了し、救世主が、司教たちを連れて歩いていると、突然前をさえぎる者があった。
「救世主、お話を聞いてください」
高坂陽一だった。入信して間もない陽一にとって、救世主とじかに話を交わせることなど不可能であったから、こういうかたちをとらざるを得なかった。
「何だ、君は。失礼じゃないか」
司教の一人、横瀬が前に出てきた。
「ガイア教は、進むべき道を間違えているような気がします」
「若造が、でしゃばるな!」
横瀬が、いきなり陽一の頬をなぐった。
その勢いで、陽一の体は後ろへ吹っ飛んだ。
「さあ、救世主、どうぞ」
横瀬が、前にできたスペースに手を差し伸べて、前進を促した。
一向は何事もなかったように、倒れている陽一の傍らを通り過ぎた。
ただ一人、大司教の真田だけが、興味深そうに横瀬に聞いた。
「彼を知っているのかね」
「ええ、まだ入信したばかりの高坂というやつです。あなたの教え子の由良司教に配属されていた者ですが、彼がアメリカへ異動になってから、私の下に動員されて来たんです。この前、放射能汚染処理施設の建設現場に連れて行ったんですが、いきなり口答えして。とにかく生意気なやつです」
「ほう。彼が高坂君か。由良君から話は聞いている」
真田は、口元をゆるませた。なかなか見所がありそうだという顔をした。
それを見て、横瀬が釘を刺した。
「いや、取るに足らんやつです。つまらん人間ですよ」
と吐き捨てるように言った。
皆去ってしまったが、真田だけが倒れている陽一に近寄り、手を差し伸べた。
「大丈夫かね」
陽一は、「すいません。大丈夫です」と言って自分だけで立ち上がり、
「横瀬司教に殴られるのはこれで二度目です。慣れていますから」
と苦笑した。
「救世主に直訴とは君も思い切ったことをするな」
「他に方法が思い浮かばなかったものですから」
陽一は、老人が誰だかわからなかった。
「ところで、あなたは?」
「真田岳。一応、大司教をやらせてもらっている」
「これは失礼しました」
陽一は深く頭を下げた。
「ところで君はさっきガイア教が間違った方向に進んでいると言っていたね。一体どういうことかね」
興味深そうに真田は尋ねた。陽一は求めていた機会を得たことを喜んだ。
「そもそも宗教とは、人に生きる意味を与えるべき存在のはずです。しかし、横瀬司教をはじめとする一部の連中は逆に人を傷つけています」
「宗教とは、えてしてそういうものだよ。歴史上、神の名の下に殺戮を犯した例は枚挙にいとまがない。キリスト教の十字軍しかり、イスラム原理主義者のテロしかり」
「そうかもしれませんが、ガイア教は違うと思っていました。他の宗教とは一線を画すと期待を抱いていました。だが、実際は、その宗教にどんな崇高な理念があっても、それを扱う人間によって、間違った方向へ向かってしまう。ガイア教にはそうなってほしくないのです」
「・・・。君は人間の存在自体が悪だとは思わないのか。人間が利己的に生存していることによって、現在、地球上の一万種以上もの動植物が絶滅の危機に瀕している。君はこの現実をどうみるかね」
「確かに憂慮すべき事態です。人類は今まで、休むことなく前進を続けてきました。しかしその前進が、袋小路に入ってしまっている。前に進むだけではなく、後退することも一つの勇気なのかもしれません」
「君は人類に狩猟採集して生活していた原始時代へと逆戻りしろというのかい」
「そこまで飛躍してはいませんが、自然とともに生き、自然とともに歩む古代人の姿勢こそ、今の人類にとって最も欠けている考え方ではないでしょうか。現に世界には自然とうまく共生している少数部族もまだ存在しています」
「それはほんの一部でしかない。現代人はもう類人猿には戻れない。科学文明を手に入れてしまった人類は、便利な生活を享受している。その楽な生活を捨て去って、森に帰ることなど不可能だよ」
「確かにそうかもしれません。しかし、だからと言って、手をこまねいて傍観しているわけにはいきません。今のやり方を人類が続ければ、本当に地球はダメになってしまう。今こそ、人は生き方を変えねばならない時期に来ていると思うのです。人はそれをできるだけの叡智と理性を兼ね備えていると僕は信じています」
真田は、笑みを浮かべた。それは陽一に対して好意的なものであった。
「どうやら君はこちら側の人間のようだな」
「こちら側?」
陽一には真田の発言した意味がわからなかった。ガイア教の派閥の内情など陽一には知るべくもない。
「いや、何でもない。とにかく、君とは気が合いそうだ。何か相談事があったら私のところへ来たまえ」
「はい。ありがとうございます」
陽一は破顔した。救世主には自分の意見は聞いてもらえなかったが、大司教に聞いてもらうことができた。十分な成果と言えるだろう。
満面の笑みの陽一を見ながら、真田は感じた。
この男には得体の知れない可能性があるかもしれない。それは老人の直感にしか過ぎなかったが、その可能性を信じてみたい気になっていた。
3
天川見可子は大学生である。その大学の友人である坂口真由美は、バイトにサークルにコンパにと、学生生活を満喫しているようだ。それが普通の今時の女子大生なのだが、真由美に比べると見可子のほうは、どうも真面目過ぎる性格らしい。
自分では真面目などと全く思わないのだが、真由美をはじめ、周りの友達からよく言われる。誘われてもコンパに出たがらないので、そういう印象になってしまったらしい。
この日も真由美に誘われたが、いつもどおり断った。だが、自分が幹事なので、人数を合わせなければ、相手に悪い印象を与えてしまうと真由美は泣きそうな顔で言う。
「どうしても、いかなきゃならないの?」
「ごめんね、見可子。一人バイトの都合で急に来られなくなっちゃったの。この埋め合わせは後できっとするからさ」
「きっとだよ」
真由美は泣き顔から、にやりと笑顔の表情になった。
男性五人、女性五人のコンパだった。男性はみんな名門大学の学生だったが、遊んでいそうな雰囲気だった。
見可子は一番美人だったので、男たちはみな彼女と話したがった。男たちの会話に相槌を打つことに見可子は苦痛を感じてきた。
数時間後、真由美は要領よく男を連れて、次に行くと言ってはしゃいで店を出てしまった。
皆、店を出たが、見可子以外は次の二次会へ行くらしい。
「見可子ちゃんも来いよ」
今日会った初対面の男がなれなれしい態度でそう語りかける。色黒でブランド品を身にまとった男だった。
見可子がぐずぐずしていると、男は彼女の手を強引に握って引っ張った。
「みんなと次に行くのがいやなら、俺と一緒にどっか違うところへ行こうぜ」
「えっ、どこへ?」
「どこへって?いいところだよ」
男は笑みを浮かべた。
無理やり引っ張られる見可子は視界の隅に、街のごみを拾っている集団を認めた。
環境美化のため、無償で清掃活動しているガイア教徒たちである。人通りの多い街の雑踏に出てごみ拾いをすることは、環境美化という目的のほかに、布教活動という意味合いもあった。
見可子はその中に知っている顔を見つけた。
「高坂さん!」
大きな声で叫んだ。
陽一は空き缶を拾っている手を止め、顔を上げた。見可子に気づいた。
ゴミ袋を隣りにいた教徒に渡し、笑顔で走りよってくる。
「こんばんは」
見可子にそう言ってから、陽一は彼女の手をつかんでいる男に怪訝そうな眼差しを向けた。
「ガイア教徒に知り合いがいるのか?」
色黒の男は見可子に尋ねた。見可子は頷いた。
男は、ガイア教の一部が過激な集団であることを知っていた。関わり合いになることを避けるように、一度舌打ちして、その場から去っていった。
「誰だい?」
陽一は聞いた。
「今日、コンパで会った人。私もよく知らない人。しつこくて」
「そう。よくわからないけど、僕がここにいたのは結果的によかったみたいだね」
陽一は笑みを濃くした。
「高坂さんて、ガイア教徒だったんですね」
見可子の発言に、
「ああ。さっきの男はガイア教徒である僕を見て逃げていった。世間の人に少なからずそういう印象を抱かれているということだ。君はどんな印象を持ってるの?」
「あんまりよくわからないけど、世間で言われている、過激な自然保護活動をするのは一部の人たちなんですよね。実際、今もこうやって、環境の美化のためにこつこつと努力をしている。自然との共生を訴えているその姿勢は共感できます。私だって、猫たちと人間がうまく共存できる社会が理想です。猫たちは身近な自然なのかもしれない。邪魔だから、駆除すればいいなんて、自然を冒涜しているのと同じですよね」
「君は本当に猫が好きなんだね」
「あっ、ごめんなさい。いつのまにか自分の話をしちゃって」
「いや、いいんだよ。僕は今、真田さんという元大学の先生の下で活動しているんだ。地味な活動が多いけど、できることからはじめないとね。神である地球の上に僕たちは生かさせてもらっている。いわば地球上はすべて聖地なのさ。森の中だろうと、大都会の雑踏の中だろうと、地球上である限り、そこは聖地。僕たちは常に聖地の上で生活している。だから、場所を選ばず、ゴミを拾うんだよ」
陽一の笑顔は屈託がない。
「じゃあ、僕はごみ拾いに戻るよ」
「あっ、高坂さん」
去っていこうとする陽一に見可子が声をかけた。
「何?」
「私も手伝っていいですか?ごみ拾い。ほら、この前、一緒になって猫の飼い主探してくれたでしょ。そのお返し」
陽一は、嬉しそうに近寄って見可子の手を両手で握り締めた。
「もちろんだよ。大歓迎。ありがとう」
街路にはたくさんの酔った若者たちが、もう飲めないといいながら、次の居酒屋へと向かっている。見可子と同年代だろう。彼女はその若者たちの人波から抜け出し、陽一から新しいごみ袋を受け取ったのだった。
それから数日後、駅前で子猫たちと一緒にいる見可子の前に、陽一がまたあらわれた。
「この前は、どうも」
「あ、高坂さん」
「おっ、いたな」
陽一は、ケージの中の黒猫を認めて破顔した。
「この子猫をいただけませんか。責任を持って飼います」
「え、だってアパート、ペット禁止じゃなかったんですか?」
「大家に事情を説明したら、他の住民の許可を得ることができたら飼ってもいいって言われてね。アパートの人全員に頼み込んでオッケーをもらったんだ」
「すごい!ほんとにすごい人ですね。高坂さんて」
感心しきりの見可子に、陽一は照れながら言った。
「何もしないで最初からあきらめるわけにはいかないからね。ほら、宝くじと同じだよ。どうせ当たらないからと、くじを買わないでいると永久に当たらない。無理かもしれないけど、買っておけば当たる可能性は生じる。努力もそうさ。努力すれば、本当に小さな可能性でも実現することもあるってことだよ」
優しく、努力することを惜しまない陽一の性格。努力をし続けるということは、簡単なようでいて一番難しい。見可子は陽一を尊敬するに値する人だと思った。
見可子はケージから、黒猫を取り出し、陽一に手渡した。
「大事にしてやってくださいね」
「ああ。もちろん」
陽一は子猫をやわらかく抱きしめた。
「その子、実は一回命を救われてるんです。車に轢かれそうになったのを、見知らぬ人が助けてくれたんです」
見可子は諏訪と名乗った青年を一瞬思い出して胸の奥がわずかに熱くなった。
「へえ。そんなことがあったのか。それならなおさら大切にしなきゃ」
「名前はどうするんですか?」
見可子は諏訪のことを振りほどこうと笑顔で質問した。
「そうだな。色が黒だからクロ。でも、それじゃ面白みがないから、それをちょっと変えてクレオ。クレオなんかどう?」
「いいですね。クレオ。よかったね。新しいご主人様にめぐりあえて」
見可子はクレオのしめった鼻に人差し指を押し付けた。
二人はクレオをあやしながら、猫の飼い方などの話をしばらく続けた。
その話が一段落ついた後、陽一は急に真面目な顔になって言った。
「天川さん、ガイア教に入信しないか?」
4
河井から緊急の電話があった。
父が危ないという連絡だった。晴樹は病院へ行くのをためらい、ついにその日は見舞いにいかなかった。
父の最後を直視し、もしも閉じ込められている感情が、殻を破り、表へと溢れ出したとしたら、一体自分はどうなるのか、想像さえできなかったからだ。
翌日の朝、沈痛な声音で河井から電話連絡を受けた。
「お父様が亡くなられました・・・」
父の最期を看取ることさえしなかった自分は、やはり人間としての情をどこかへ置き忘れてしまったのだろう。そう自分自身を切り捨てた。
父の遺体を実際目にしたときも、眉一つ動かさない自分がいた。
それから数日は、嵐のような忙しさだった。喪主として葬儀、告別式、すべてを取り仕切らねばならなかった。喪主の責任として葬儀屋に言われたとおりの作業を粛々とこなした。救いだったのは、河合の手助けが晴樹の負担をかなり軽くしてくれた。
盛大な告別式には、諏訪製薬の幹部や政治家たちも参列し、ガイア教からは救世主と、横瀬司教が顔を出した。沈痛な面持ちの陽一の姿もあった。
式が終了した後、残った段取りを河合にひとまず任せて、晴樹は休憩室の椅子に深くもたれかかった。目をつぶると緊張から幾分解放され、全身を疲労感が包んだ。
横から急に話しかけられた。
「諏訪晴樹さんですね」
晴樹は、重いまぶたを開いた。
「そうですが、どちらさまですか」
見知らぬ男だった。男は名刺を差し出した。
「わたくし、あなたのお父様に個人的に雇われていた弁護士です」
「弁護士の方が何か?」
「お父様の遺書の作成を手伝っていた者です」
「遺書・・・」
「ええ。晴樹さんが落ち着いてから、この話をするようにと、お父様からいいつかっておりました。大分お疲れのご様子で、話しかけるかどうか迷ったのですが、早くお知らせしたほうがいいかと思いまして・・・」
「まあ、どうぞ」
晴樹は空いている椅子を手で示して、弁護士に腰掛けるようにすすめた。
「失礼します」
一礼してから、晴樹と対面するようにして弁護士は座った。
「遺書にはこうあります。自らの資産は全て息子、諏訪晴樹に相続させると」
一人息子の自分が父親の資産を受け継ぐ。
父が死んでから数日、落ち着くことのなかった晴樹にとって、そんな現実的なことは不思議と頭から飛んでいた。
「それと、諏訪製薬は売却し、その売却額もすべて相続させると」
「・・・」
途方もなく莫大な資産が自分の懐に転がり込んできたことを、晴樹はこのときはまだ実感できなかった。
5
ある民放の討論番組。
有名な政治評論家と相対して、ガイア教の救世主、小山田志郎が出演していた。この日のテーマは「日本の未来について」だった。
小山田はテレビに積極的に出演し、ガイア教を派手に宣伝していた。メディアを利用して信者を増加させることに躍起になっているようだった。
番組の司会者が、話のテーマを出演者の二人に振ると、まずはテレビ慣れしている評論家が、「最近の日本は元気がなくなっている」というところから話題を切り出した。
「私は経済における日本の可能性を悲観的に捉えています。二十世紀後半の経済至上主義から脱却し、新たな価値観を模索する必要に迫られていると思います。そのためには教育改革が重要です。超大国である中国とアメリカとの二国の狭間で日本の存在意義を示せるのは、人材でしかない。英語と中国語を義務教育の必須科目とし、世界の舞台で活躍できる人材を育成するのです」
司会者も小山田も話をじっと聞いている。評論家はなおも話を続けた。
「日本は両大国をよく理解しています。歴史的にも、文化的にも、地理的にも。福沢諭吉の唱えた脱亜入欧を具現化してきたことによって、日本人は東洋人でありながら西洋の価値観もよく理解しているのです。東洋、西洋両方の価値観を併せ持っていると言っていいと思います。それこそが日本人の武器でしょう。中国とアメリカはすでに経済的摩擦をおこしています。以前の日米の経済摩擦とは比較にならないほどの大規模な次元でです。やがてそれは自由主義と共産主義の対立を絡めた深刻な問題へと発展していくでしょう。米ソ冷戦を超えた、第三次世界大戦の導火線へと火をつけることにもなりかねない。そうなれば人類にとって存続の危機です。両国の立場や思想を日本は理解することができます。それが強みだと言いました。世界平和の舵取りをわが日本が行うべきなのです。アメリカだけに偏るのではなく、ちょうど真ん中の位置、シーソーの軸となって、バランスを保つ役割。外国のメディアは、超少子高齢化社会の日本は終わっているという。だが、日本はまだ沈んでなどいない。これからの時代こそ日本の存在意義が発揮される時代と言ってもいいでしょう。それも、人類にとって最も重要な世界平和の構築と、その存続という目的のためにです」
評論家の熱弁を聞いて、小山田は大仰にうなずいてみせた。司会者はそれを見て、小山田に発言を促した。
「先生のそのお言葉は我々ガイア教にとっても心強いものです。これから日本人が重要な役割を担っていくという考えにまったく同感だからです。わたしは宗教的な見地からその可能性を論じていきたいと思います。日本人は古代、自然崇拝、アニミズムをその精神のよりどころとしてきました。その思想は我々のDNAのなかに今もしっかりと根を張っていると思うのです。先祖たちは山、川、森、海、空、そして獣にまで、自然のあらゆるものに神が宿っていると考えてきました。そういう精神の土壌があったからこそ、日本人は容易に地球そのものをご神体とするガイア教の教義を吸収することができるのです。いや、逆に日本でなければ、ガイア教は生まれなかったかもしれません。わたしが日本人であったがゆえに、地球を神として崇めることが可能であったのかもしれないのです」
評論家が相槌を打った。
「たしかに言われてみると、老木にしめ縄を張り巡らせたり、日本にはそういうすばらしい宗教観が備わっていましたよね」
「はい。しかし、時代の変化により、日本人の思想も変わってしまいました。明治時代の廃仏毀釈や神社合祀により、多くの神社仏閣と鎮守の森林が破壊されましたが、それは序の口でした。二十世紀末には、世上に物が溢れ、何もかもが満たされるようになりました。自然を崇拝することをやめ、代わりに金を信奉するようになったのです。その後、環境汚染、原発事故による放射能汚染など、日本が辿ってきた道は、深刻な状況を生み出しました」
「小山田さんは日本の未来については、悲観せざるを得ないという見解ですか?」
司会者がそう質問すると、
「いえ、その逆です。かつてシュバイツァーは生命を畏敬することの必要性を説きましたが、地球が環境汚染で深刻な状況に陥った今、彼の言葉が重みを増しているようにも思われます。人々はやっと、地球について真剣に考え始め、日本人をはじめ、世界の人々が行動を起こしています。それはガイア教に入信するという行動です。ガイア教は確かに全世界に急速に普及しているのです。一部の心無いマスコミにガイア教は揶揄されています。救世主は世界を征服するつもりだ、などと書かれたりもしている。だが、わたしは宗教で世界を制するとは微塵も思っていません。地球を第一義に考えることは人類の存続にもつながっていくことなのです。漆黒の宇宙に漂う地球が破壊されれば、人類に逃げ場はなく、ともに滅亡するしかない。一蓮托生の身なのです」
「先生はどうお考えですか?」
司会者が評論家に意見を求めた。
「わたしは宗教に精通しているわけではありませんが、神仏習合という宗教思想こそ、世界に必要なのではないかと思います。本地垂迹説というのがあって、仏教の仏が、日本古来の神の姿になりかわり、人々を救済するという考え方ですが、日本にはそういうおおらかで寛容的な精神土壌があります。神はひとつではなく、他の神を排除する必要もない。ガイア教もぜひ、そういう宗教であって欲しいと思います」
「それはもう・・・」
小山田は笑顔で応じた。
「この番組をご覧になっている方々も是非、ガイア教に入信していただきたいと思います」
救世主は笑顔の度合いを増して、発言をそう締めくくった。
6
「失礼します」
陽一は、真田大司教に呼ばれ、彼の執務室に入室した。
救世主に直訴したあの日から、陽一は真田に目をかけられ、真田の下で活動するようになっていた。
真田は執務机で何事かデスクワークをしていたが、その手を止めると、ソファーに腰掛けるよう陽一を促した。
「今日呼んだのは他でもない。君に頼みたいことがあってね」
「はい」
陽一はソファーに座り、姿勢を正した。
「ああ、その前に聞きたいことがあるのだが。君はノアの箱舟の話を知っているかね」
唐突の問いに陽一は面食らった。
「ええ。知っていますが・・・」
「現在、二酸化炭素の増加で、地球温暖化が進んでいる。北極や南極の氷が溶け、海面がどんどん上昇している。やがて陸地は全て水没するだろう。ノアの箱舟の時代とまったく同じシナリオを人類は辿ろうとしているとは思わんかね」
「確かに。その通りです」
「我々人類は二回目の文明を生きている。一回目の文明は地球を大切にしなかったために、ノアの時代に大洪水によってリセットされたのだ」
「・・・」
陽一は黙って聞き続けた。
「だが、地球は人類を見捨てたわけではなかった。地球の意志を感じ取れる人間、ノアをこの世に遣わし、人類を存続させたのだ。かつて、大洪水から逃れたとされるノアの家族は彼を含めて八人であったといわれている。だが、生物学的に八人では人類は存続できない。そのとき他にも人類はもっと多く生存していたのだよ。何百人、何千人と生き残っていたのだ。人類はノアを指導者として、今度は地球を大切にする文明を築くよう、もう一度やり直すチャンスを与えられたのだ。ノアこそが、人類を滅亡の危機から救った救世主と言えるだろう」
「真田大司教がおっしゃりたいのは、新しくやりなおした人類が、今再び同じ過ちを繰り返しているということですね?」
陽一のその問いに、真田は何も答えなかった。その沈黙こそが、答えを雄弁に物語っていた。
「しかし、そうならないためにも、我々ガイア教徒が存在しているのではないのですか」
陽一は、語気を強めた。
真田は、そういう若い陽一を見て、意味ありげに微笑み、思いついたように言った。
「そういえば、かつて君の親友の諏訪君にも同じ質問をしたことがあるが、高坂君は何でガイア教に入ったのかね?」
真田は、白いひげをいじりながら、なにげない風であった。だが、目の奥には真剣な光が宿っていた。
「もちろん、地球のために何かをしたいと思ったからです。正確に言えば、地球に生きる命のために手助けになることがしたいと思ったのです。ですが、それが理想論なのはわかっています」
陽一は、そう言って少し躊躇したが、言葉を続けた。
「ほんの少しでも、自分ができるだけのことをすればいいと思っています。一人ひとりが自分のできうる範囲で、一隅を照らすことを意識すれば、一つ一つは小さな光でも、たくさん集まればそれは大きな光になります。地球を救う大きな力になるかもしれません」
「・・・」
「地球上に暮らし、多大な恩恵を享受している人間として、地球を尊崇するのは当然のことではないでしょうか」
「やはり違うな」
「え?何がですか」
「いや、君と諏訪君が違うと言ったのだ。諏訪君は、自分の生き方を見つけたいと言っていた。彼は自分自身のためにガイア教に入信したのだろう。もちろん、それは間違いではない。宗教は信仰を深めることによって、自分を見つめ、内観する場でもある。だが、君は違うようだ。君はすでに自分の生き方を見つけている」
「・・・」
「中部アフリカに私が植林活動に従事していた国がある。長い内戦で国土は荒れ果て、国民は貧困の極みにある」
「はい・・・」
真田大司教が、アフリカで活動していたことは陽一も知っていた。
「君にはその地で、司祭として布教活動に従事してもらいたいのだ。現地の人々に、教えを広め、共に井戸を掘り、木を植え、畑を耕しなさい。土と対話することによって、神である地球と精一杯向き合ってきなさい。それが、私の君への頼みだ」
意外な要請に陽一は驚いたが、なぜだろう、自分の居場所を与えられたような喜びが胸の内にふつふつと沸いてきたのは、自分でも不思議だった。
「もちろん、簡単なことではない。想像を絶する過酷な状況に飛び込まなくてはならん。それでもやってくれるかね」
陽一は笑顔で即答した。
「ありがとうございます。全力を尽くします。ただ、僕が司祭になっていいのでしょうか。僕には何の才能もありませんが・・・」
「君のその明るさこそが、最大の才能だよ」
真田も陽一につられて笑った。
「私は、しばらく日本で救世主の補佐をしなければならない。ガイア教も、悲しいことだが、人間の集団である以上、軋轢が生じかけている。あらぬ方向へ行こうとする勢力を牽制せねばならんでな」
その意味は陽一にもわかった。横瀬司教をはじめとする、暴力を行使することを厭わない連中のことだろう。
「私もこちらが落ち着いたら、アフリカへ戻るつもりだ。それまでよろしく頼むよ」
私の目に狂いがなければ、高坂君は大物になれるかもしれん。
真田はそう予感していたのだ。
ペットと同伴できる喫茶店で、陽一は晴樹と待ち合わせをした。
手提げケージの中には、子猫のクレオが入っている。
ガイア教に一緒に入信した二人だが、最近はあまり会っていなかった。
「それにしても急だな」
陽一のアフリカ行きに、晴樹は寂しそうだった。
「本当にすまないね。こいつの面倒を君に押し付けてしまって。他に頼める人がいなかったんだよ」
クレオのことは事前に電話で話しておいた。アフリカまで連れて行くわけにもいかず、晴樹に世話を依頼したのだ。晴樹は嫌がりもせず、すぐ飼うことを了承してくれた。
「いいんだよ。お前が帰ってくるまで責任もって預からせてもらうよ。俺が犬や猫を大好きなのは、中学時代から知ってるだろう」
「ああ。本当に助かるよ」
ガイア教徒として、二人の方向性、考え方に相違が生じていることを、お互いに意識していた。だが、それは親友であるという事実を覆すものではない。陽一は、晴樹の友情が素直に嬉しかった。
「それから、実はもう一つ頼みがあるんだ」
「何?」
「ガイア教に新しく入信した女性がいるんだけど、何かと力になって欲しいんだ」
「何だよ。陽一の彼女か?一緒に連れていけばいいじゃないか」
「いや、そういうわけじゃないんだ」
陽一はそう言ったが、照れているようだった。
「天川見可子さんていう若い女性で、動物の考えていることがわかる特殊な能力の持ち主なんだよ」
「そうなのか」
にわかには信じられない事実だが、陽一がうそをつくような人物でないことは、晴樹はよくわかっている。
「実はこの子猫のクレオをもらったのも、彼女からなんだ」
「まあ、色々事情があるみたいだが、わかったよ。陽一の頼みなら、俺のできる範囲のことはするつもりだ」
「ありがとう」
「それにしても、不思議だな。一緒にガイア教に入信して、二人ともこんなにも早く司祭という立場になった。俺は金の力に過ぎないが、お前は実力で司祭になり、アフリカで布教活動に従事することになるなんてな」
「僕にだって実力なんてないさ。ただやる気だけはあるつもりだ」
「お前がうらやましいよ」
晴樹は心からそう言った。
「ああ、そうだ。こいつを抱いてやってくれよ。新しいご主人様になついてくれるといいんだが」
陽一は、床においてあったケージを開けて、中からクレオを抱きかかえて、晴樹に手渡した。
小さな黒猫を両手で抱いた晴樹はすぐに気付いた。
「あれ、こいつ、どこかで見たことあるぞ」
一週間後、陽一はアフリカへと旅立っていった。
7
救世主、小山田志郎の邸宅に、黒田道生司教が訪れたのは、夜も更けてのことだった。
「こんな時間に何事かね。明日も朝からテレビ出演があって忙しいのだ」
小山田は、不機嫌そうに言った。彼は独身で、教団所有の建物群の中に大きな邸宅を構え、一人暮らししている。もちろん身の回りの世話は信者たちがしていたが、夜中は全員が引き払ってしまう。
黒田は、小山田も知らない若い信者を一人連れていた。縁なしのメガネをかけた、無表情な青年であった。
怪訝な視線を向ける小山田に対して、黒田が青年を紹介した。
「久能涼兵君といいます。まだ若い信者ですが、我が親衛隊に所属し、色々私の補佐をしてもらっています」
久能という青年は、表情を変えず、軽く一礼した。
「はじめまして。久能と申します。救世主は、人間の存在そのものが、地球にとって害だと声高に明言しておられる。その思想に深く感銘いたしております」
「そうか。君たちのような若者が続々とガイア教の信者になってくれている。救世主として、心強いよ」
小山田がそう言うと、黒田が暗い眼光で彼に打ち明けた。
「実はこの久能君は、暴力団にコネがありましてね。独自の銃器の密輸ルートを開拓した実績の持ち主です。神の軍隊の創設を計画する我々にはうってつけの人物であり、私の腹心として登用したのです」
青年の出自を聞いて、小山田はあからさまに不快な顔をした。
「黒田司教。私も教団所有の軍隊は必要だと思っている。そのためにこそ、軍人出身の君を司教にし、親衛隊という私直属の部隊も率いてもらっている。やがてはそれ相応の軍備も整えねばなるまい。しかし、そんなに早急に事を運ぶことが必要かね。神の軍隊の創設計画は真田大司教には話していない。彼は明らかに反対するだろう。ガイア教がこれほど大きくなった今、組織のバランスも考慮しなければならない。あまり、独自に突っ走るのは控えてもらいたい。私の立場も考えてくれたまえ」
「やはり、そういうお考えですか・・・」
黒田は、首を左右に振り、久能に全てを任せたように彼に目配せをした。
「神の軍隊の創設計画も、あなたの権力欲を満たすためだけの玩具に過ぎないということですね」
久能は、一歩進み出てそう不敵に言い放った。その響きに救世主に対する僅かの敬意も感じられない。
小山田は、確かに軍創設を企み、黒田にその計画を話した。軍を作るには元手が必要である。だが、黒田の下へは、教団からの資金的なバックアップが滞りがちであった。
教団は、地球を救うためには金がかかるということから、世界の信者たちから莫大な寄付金を受け取っている。その金は、どこへ行っているのか。救世主個人に蓄財されているのではないかという疑念は前々から囁かれていた。
そして黒田はその事実を薄々感づいていた。
救世主は金の亡者だということを。
そういう俗物的側面があったからこそ、これだけ、急速に世界中に信者を獲得することができたのだ。
黒田は無言のままであった。代わりに久能が抑揚のない声で発言する。
「黒田司教は、救世主との付き合いが長いから、面と向かっては言いづらいのでしょう。
その点、私は初対面です。あなたを弾劾するのに、何の遠慮もない」
「弾劾?」
「救世主。あなたには感謝しています。一代でこれだけガイア教を大きくすることができたのだから。だが、あなたの高邁な理想は、結局戯言でしかなく、最終的に望んでいたのは金や権力でしかなかった。そこにあなたの限界があったのだ」
「君は何様なのだ。若造にそんなことを言われる筋合いはない。君は一介の信者だろう。救世主に対する口の利き方に気をつけたまえ」
小山田は激昂した。だが久能はまるで感情を忘れてしまったかのように冷静そのものだった。
「あなたの本質は経営者だった。それも自己の蓄財のみを追求した浅ましい経営者だ。そのことはあなた自身が一番よくわかっているはずです」
「・・・」
小山田は怒りのあまり、何も言い返さず眉をきつくしかめた。
「救世主よ。あなたはおっしゃられた。人間を排除せねば、地球はだめになると。私はそれを期待して信者になったのです。しかし、一向に行動に移そうとしない。神である地球救済のための聖なる行動を、一体いつ開始するというのです?」
そう詰め寄る久能に対して、小山田は自らの怒りを鎮めるように深く息をし、救世主としての度量を見せようと努めて冷静な口調で答えた。
「久能君といったかね。君のいうことはよくわかる。だがね、実際問題として、人間を殺すことができるかね。そんなことは、理性ある人間のすることではない。先進国はもちろん、途上国にももっと教育を徹底させ、人口増加に歯止めをかけ、地球に負担をかけない丁度よい人口にコントロールすることこそ、肝要ではないのか。途方もなく長い年月を要するかもしれんが、それこそが、人類の道だと、私は思っている」
「そんな甘い考えでどうするのです。地球は、環境破壊により明日の命も知れぬほどの重病なのです。もはや、一刻の猶予もないのです。今すぐ、人間の粛清にあたるべきです」
「では、一体、誰を殺すというのだね。我々に、粛清すべき人間を選別できる権利がどこにあるのだ?」
「殺す人間を選別する必要などありません。無差別に消していけばいいだけですから」
「ばかな!」
「何の生産力もない、ただ地球の資源を浪費するだけの老人など、必要ありません。子供をつくる能力のある壮年層も、人口増加をくいとめるため、早急に消さねばなりません。やがては大人になる若年層も、未来の禍根を絶つため、今のうちに始末すべきでしょう。要するに、人類全てを消去して、神である地球を守り、地上に楽園を築くのです」
救世主は、めまいを覚えた。
「そんなことをして、何になる!」
「全ては地球のためです」
「・・・」
「救世主。あなたがおっしゃったのですよ。地球にとっての害虫を駆除せねばならないと。私は、それを忠実に実行しようとしているだけです。何度も言いますが、あなたには感謝してもしきれないくらいなのです。私に目標を与えてくれた。大いなる思想を与えてくれた。目的は金や権力であったとはいえ、そういう点ではあなたは間違いなく大思想家だった。しかし、立派な思想家が有能な実践家であるとは限らない。あなたは先鞭をつけて道を指し示してくれたのです。あとは我々がその道を誤らず進みます。あなたの役割は終わったのです」
「どういうことだね」
「まずは、あなたが、その思想の見本となるべきだ。地球のために、死んでください」
久能は、無表情のまま、懐から拳銃を取り出し、水平に構えた。銃口は救世主の心臓を捉えていた。
「救世主。いや、小山田さん。安心して冥土へ旅立ってください。あとは私達に任せてください」
「な・・・」
躊躇せず、久能は引き金を引いた。
銃弾は発射されなかった。装填されていなかったのだ。
「これは何の真似だ」
救世主が問うと、黒田がそれに答えた。
「芝居じみたことをして失礼しました。今日はあくまで警告のためにやってきたのです。我々が本気だということをわかっていただけたかと思います。神の軍隊創設のために資金をお回しいただけるでしょうな」
「脅すのか」
「救世主、あなたのお命は我々の掌中にあるのです。そのことをくれぐれもお忘れなく」
「・・・わかった」
救世主、小山田志郎は苦虫をかみつぶしたような顔で答えた。
目的を達し、黒田と久能は救世主の邸宅から退出した。
「救世主を生かしておいていいのですか。始末した上で、あなたが救世主になり、ガイア教を牛耳るほうが手っ取り早いのでは」
「救世主にはまだ存在意義がある。信者獲得の求心力。生かしておいて傀儡として利用した方がよい。それに軍隊は我々がおさえている。救世主には手が出せまい」
久能の問いに、黒田はそう答えた。
それにしても、久能の発言を聞いていると、人を殺すということに対して何の躊躇もないようだ。黒田は、いつも無表情なこの若者の内面にある疑念を生じた。
こいつは人を殺すことを楽しんでいるのではないか。
黒田は釘を刺した。
「勘違いするな。我々が人類を粛清しようとするのは、地球を救うという大義のためであって、決して私利私欲のためではない。当然のことだが、自らの欲求を満たすためではなく、あくまで自己の感情を捨て、無私になり、地球のために事を遂行せねばならないのだ。そのことを忘れるな」
「・・・。もちろん、承知しています」
久能は無表情のまま返答した。
「もはや、後戻りはできん。例のパンドラの箱の計画も早急に進めねばならん」
「そちらの方はお任せ下さい。すでに関係者への手配は終わっております」
黒田は、久能の動きのすばやさに舌を巻いた。だが、その優秀さを認めると同時に、久能の腹の底に薄気味悪さを感じてもいた。この男を御しきれるのか。おとなしく服従しているだけの男なのか。僅かではあったが、不安が頭をもたげた。
「どうかしましたか?」
その不安を全て見透かしているかのように久能が声をかけてきた。
「いや、なんでもない」
こんな若造ごときを恐れてどうするのだ。黒田は頭を切り替えて、来たるべき計画の実現に向けて、その思考をめぐらせた。
望まぬ来訪者たちが帰った後、救世主は一人、物思いに沈んでいた。
飼い犬に手をかまれるとはこのことだ。黒田は忠誠心の厚い男だと思っていたが、司教という地位と権力を与えられて増長してしまった。このまま教団を意のままに操ろうとする魂胆だろう。親衛隊はこのまま武装化を進め、完全に救世主のコントロールのきかないところへ暴走していくだろう。
刺激的な言葉を並べたて、若者の心をつかみ、信者を獲得してきた。だが、その思想の中の人間を敵視する部分だけが急速に独り歩きし、突出してしまった。先ほどの久能という若者はその典型だろう。人を人とも思わない彼のような信者が多く入信し、組織化してしまった。救世主は、自ら巨大な怪物を生み出してしまったことに気付いた。
救世主は、しばらく何かを考えていたが、決心したように電話をかけた。
「こんな夜分にすまないね。真田大司教。私はしばらく消えることにするよ」




