四十七番の名前を呼ぶ
夜警隊長はマティルダの申し出を受け入れた。軍の預かり厩舎へ向かう道には、先頭に二人の兵士、春星を引くマティルダ、その隣にノエルが並んだ。馬は歩くたびに耳を動かしたが、彼女が声をかけると落ち着いた。ヴィクトルの姿は見えない。どこかで審査官に先回りしているのかもしれなかった。
王立軍馬審査場の門へ着くと、隊長は異議申立てを記した書面を門番へ渡した。春星は隔離用の静かな馬房へ移され、マティルダはその前の長椅子に腰を下ろした。ノエルが湯を入れた木杯を持ってくる。
「眠れるなら少し休んで。俺が春星を見ている」
「眠ったら、誰かに連れていかれる気がする」
「俺が見ていると言っても、安心できないか」
「そういう意味じゃないの」
マティルダは木杯を両手で包んだ。春星がいなくなった馬房を見た時の恐怖が、まだ体に残っている。ノエルは隣へ座り、彼女が話し出すのを待った。
「母が亡くなったあと、何かを大切にすると、いつかまた奪われると思っていました。だから婚約の話も、父が決めたなら仕方ないと受け入れたんです。自分で望まなければ、失った時に傷つかずに済むと思って」
「それで、傷つかなかった?」
「いいえ。少しずつ、自分の好きなものが分からなくなりました」
ノエルは杯を持ったまま、黙って聞いていた。彼の前では、自分の弱さを説明しても責められない。マティルダはようやく言えた。
「春星を取り戻したいのは、母の馬だからだけじゃありません。私が大切だと思うものを、私の意思で守りたいからです」
「それなら、明日の審査はあなたの言葉で始めよう」
「あなたもいてくれる?」
「もちろん。隣に立つ。でも、最初に話すのはあなたがいい」
彼はそう言って、マティルダの手に自分の手を重ねた。嫌なら離してほしいというように、力は入れていない。彼女は指を少し動かし、彼の手を握り返した。
「ノエル。あなたが隣にいると、私は強くなれます」
「あなたは最初から強い。俺がいる時だけ、無理に強がらなくていい」
マティルダは彼の肩へ額を預けた。春星のいる馬房から、静かな鼻息が聞こえる。夜明け前の冷え込みの中で、彼の肩は温かかった。
審査場の扉が開いたのは、東の空が薄く明るくなった頃だった。王立軍馬審査の責任者であるラング大佐が、二人の書記官を伴って現れる。軍馬商たちもすでに集まり、出品番号を記した札を手にしていた。ヴィクトルは最前列に座り、マティルダを見ると口角を上げた。
「始めよう。四十七番の所有権と健康状態について異議が出ている」
大佐の言葉に、マティルダは前へ進んだ。
「マティルダ・エルウッドです。春星は母の遺言により、私が二十歳になった時点で所有権を得た牝馬です。私は出品に同意していません」
書記官が彼女の名を記録する。ヴィクトルは椅子を鳴らして立ち上がった。
「婚約者が感情的になっているだけです。こちらには本人の署名があります。彼女の父親も承認している」
「父親の承認は、私の署名の代わりにはなりません」
「お前は昨日、父親から勘当されたはずだろう。そんな女の言葉を誰が信用する」
会場の何人かが顔を見合わせた。マティルダは自分の持ってきた封筒を開き、公証人の証明書を机へ置いた。
「母の遺言の認証写しです。所有権が私に移った日付も書かれています。もう一通は、公証人の印章照合証明です」
大佐が書類を受け取り、書記官へ回した。書記官は印を拡大鏡で確かめ、出品書と並べる。
「出品書に押された印は三桁の旧型です。公証人の現行印ではありません。出品書が公証人の確認を受けたという記載は事実に反します」
ヴィクトルはすぐに言い返した。
「印の型など、事務員が間違えただけだ! 署名は本人のものだ。婚約者の私が確認した」
「三日前の夕食後に私が署名したと、あなたは言いましたね」
「ああ。そうだ」
「その夜、あなたは王都の夜会にいました。私は厩舎で春星の世話をしていました。あなたが私に署名をさせたというなら、どこで、誰が立ち会ったのですか」
ヴィクトルの顔が強張った。彼は「女の記憶など曖昧だ」と言いかけたが、マティルダは遮らなかった。言わせた上で、彼女は出品書と公証人の証明書をもう一度並べた。
「私の記憶だけで決めてほしいとは申しません。この出品書の確認印が偽物であることは、今ここで照合できます。私が同意したと証明する別の書類があるなら、出してください」
大佐がヴィクトルへ向き直る。
「説明を」
「だから何だ。婚約者の代理で出品しただけだ。結婚すれば所有権は移る」
「現時点では移っていません。代理権を示す書類は?」
「父親が許した」
「父親は所有者ではありません」
大佐の声が低くなった。ヴィクトルは机を叩き、マティルダを指差した。
「こいつは僕の妻になる女だ! 家を救ってやるために馬を売って何が悪い。こんな些細なことで王室の納入契約を潰すつもりか!」
マティルダは一歩も下がらなかった。彼が欲しいのは彼女の幸福ではなく、王室との契約だ。そのために春星も、自分の意思も、値札のついたものとして扱ってきた。
「私の馬を売る権利は、あなたにはありません。結婚もいたしません。私は今ここで、あなたとの婚約を解消する意思を明確にします。両家の婚約契約書にある本人の拒否条項に従い、解消通知も提出します」
彼女は書類をもう一通取り出し、書記官に受領を求めた。昨日の夕刻、公証人に作成してもらった通知だった。書記官は審査の資料と区別して受け取り、受領時刻を記した控えを返した。婚約の解消は両家への送達を要するが、本人の拒否は撤回できない形で記録された。
「勝手なことを! お前が僕を捨てられると思うのか」
「私の返事を、あなたが決めることはできません」
マティルダは彼を見据えた。ヴィクトルは怒りに任せて近づこうとしたが、軍の警備兵が間へ入った。
大佐は机を叩いて静粛を求めた。
「健康状態についても確認する。四十七番は軍馬としての試乗を受けられるのか」
ノエルが証言台へ進み、ヘレナの署名した診断書を提出した。続いて主任馬医本人が前へ出て、春星の腹部の所見と妊娠の疑いを説明した。
「少なくとも軍馬としての試乗は禁忌です。妊娠の疑いを知らされた後も『健康、繁殖歴なし』の申告を改めなかったのは不適切です」
ヴィクトルは肩をすくめた。
「疑いにすぎないだろう。軍馬商が買うと決めれば問題ない」
「買い手が危険を承知していればよいという問題ではありません」
ヘレナは明確に答えた。マティルダは厩務員の青年へ視線を向ける。青年は緊張した様子だったが、自分から証言台へ進んだ。
「昨夜、ヴィクトル様が馬を蹴ったのを見ました。馬が嫌がっているのに、鞭を使えと命じられました。僕は従いませんでした」
会場がざわついた。ヴィクトルは青年へ怒鳴った。
「雇われの小僧が主人を裏切るのか!」
「僕は競売場に雇われています。あなたの馬を傷つけるためじゃありません」
青年は震えながらも言い切った。マティルダは彼に礼を言い、審査官へ向き直った。
「春星をここへ連れてきてもらえますか。健康状態を示すためではなく、所有者として私が引き取る意思を確認していただきたいのです」
大佐が許可すると、春星が厩務員に引かれて入ってきた。馬は人の多さに戸惑ったが、マティルダが名前を呼ぶと近づいた。彼女は手綱を受け取り、額の白い毛を撫でる。
「この馬は、私の母が私に遺した春星です。私は売りません。私が責任を持って、安全な場所へ連れ帰ります」
大佐は書類を閉じた。
「決定する。四十七番の出品は所有者の同意を欠き、無効。軍馬審査の対象から除外し、マティルダ・エルウッドへの返還を命じる」
ヴィクトルが何か叫んだが、大佐は続けた。
「さらに、グランディ家の軍馬納入業者登録を、本審査の権限により取り消す。虚偽の確認印を用いた出品、妊娠の疑いを知らされた後の危険な試乗の強行、馬への不当な加害が認められた。今期の王室納入契約への参加資格も失効する。決定は本日付で確定する」
会場の商人たちがヴィクトルから離れた。彼は大佐へ詰め寄ろうとしたが、警備兵に止められた。名誉ある王室納入業者の地位を得るために春星を売ろうとした男は、その資格を目の前で失った。
「マティルダ! 父上に言いつけてやる。お前の家は終わりだ!」
彼女は春星の手綱を握り直した。
「家の借金は、家の人たちが向き合う問題です。私の馬を奪って解決することではありません」
大佐が退場を命じ、ヴィクトルは兵士に連れられて出ていった。マティルダはようやく春星の額へ自分の額を寄せた。
「帰ろうね」
その言葉を聞いたノエルが、彼女の隣へ来た。彼は春星ではなく、マティルダへ手を差し出した。
「今度は、どこへ帰りたい?」
マティルダはその手を取った。
「あなたと相談して、私が決めたいです」




