私が選んだ帰り道
審査場を出ると、朝の光が石畳を照らしていた。春星はゆっくり歩き、時折マティルダの袖へ鼻を寄せる。ノエルは反対側を歩きながら、馬の歩幅と呼吸を確かめていた。
「静養が必要だ。腹の仔のことも、何度か診察を続けないといけない」
「分かっています。春星を預かってくれる場所を探します」
「俺の厩舎に空き房がある。預かり料は取るが、急いで払わなくてもいい」
マティルダは彼を見た。
「急がなくていいのと、払わなくていいのは違いますね」
「そうだな。あなたなら、そう言うと思った」
「私、働きたいんです。乗馬を教えることなら少しはできます。母に習った手綱の持ち方を、子どもたちに教えられるかもしれません」
「うちには初心者向けの教室がある。手伝ってくれるなら助かる。ただ、採用するかどうかは一度教え方を見てから決めたい」
「厳しいのね」
「あなたを特別扱いしたい気持ちはある。でも、馬に関わる仕事だけは別だ」
彼は困ったように笑った。マティルダはその顔を見て、彼と働く日々を想像した。馬の世話をして、失敗したら注意され、うまくできたら一緒に喜ぶ。そんな普通の毎日が、今は何よりも欲しかった。
南門の近くで馬車が止まった。降りてきたのはマティルダの父だった。外套の留め具を直す暇もなかったらしく、襟が曲がっている。父は春星を見るなり安堵したように息を吐き、すぐに厳しい顔へ戻った。
「マティルダ。競売で何をした。ヴィクトル君の家から、軍馬契約が失われたと使いが来たぞ」
「私が出品の無効を申し立てました。王立軍馬審査で認められ、春星は戻りました」
「どうして父親に相談しなかった」
「相談しました。遺言書を見せてほしいとお願いした時、あなたは異議を取り下げろと言いました」
父は返す言葉を探すように、しばらく黙った。ノエルが一歩離れ、二人が話せる距離を作る。マティルダはその配慮に気づき、父へ向き直った。
「婚約解消の通知も出しました。両家へ正式に届きます」
「何だと。お前は、我が家を見捨てるのか」
「見捨てたくはありません。でも、家を守るために私のものを勝手に売ることは認めません」
「借金を返せなければ、屋敷を手放すことになる」
「屋敷を残すための相談なら聞きます。支出を減らすことも、私ができる範囲の仕事をすることも考えます。でも、ヴィクトル様との結婚を条件にするなら、もう話し合えません」
父は春星を見た。母が生きていた頃、家族で馬に乗って出かけた草原のことを覚えているだろうか。マティルダには分からなかった。父の思い出を代わりに決めることはできない。
「お前の母親は、家を大切にした」
「ええ。私も大切です。でも母は、家のために私が何もかも諦めることを望んだとは思いません」
父は長く息を吐き、馬車へ戻ろうとした。マティルダはその背中に声をかける。
「お父様。私の荷物を取りに行ってもいいですか」
「好きにしろ。お前の部屋のものは、まだそのままだ」
「ありがとうございます」
父は振り向かなかった。すぐに和解できるとは思わない。けれど、怒鳴り合いで終わらずに済んだことは、マティルダにとって小さな変化だった。
ノエルの厩舎へ着くと、彼の妹エマが出迎えた。宿屋を営む彼女は兄によく似た茶色の髪を結い、マティルダの顔を見るなり笑った。
「兄から話を聞いたわ。あなたが春星の飼い主ね。ちょうど部屋は空いているから、しばらく泊まっていって。もちろん宿代は普通にいただくけれど」
「助かります。今夜からお願いします」
「うちの兄は気が利かないところがあるから、困ったら私に言って。馬のこと以外は、ほとんど何も分かっていないの」
「聞こえてるぞ」
ノエルが馬房の中から返すと、エマは肩をすくめた。マティルダは笑い、春星のために用意された藁を広げた。陽の入る馬房には、清潔な水桶と柔らかい敷き藁がある。春星は新しい場所の匂いを嗅ぎ、やがて落ち着いて餌を食べ始めた。
エマが宿の鍵を取りに戻ると、厩舎には二人だけになった。ノエルは道具箱を片づけ、作業台に置いた帳面を閉じる。マティルダは春星の首を撫でながら、ずっと言いたかったことを口にした。
「ノエル。今朝、どこへ帰りたいかと聞いてくれましたね」
「ああ」
「私は、ここへ帰ってきたい。春星の世話をして、仕事を覚えて、あなたと夕食を食べたい。そういう毎日を、自分で選びたいです」
ノエルはゆっくり彼女へ歩み寄った。
「それは、俺と暮らしたいという意味?」
「はい。あなたのことが好きです」
言ってしまうと、恥ずかしさよりも安堵が大きかった。誰かに決められた婚約ではなく、自分で好きになった人へ、自分の言葉で伝えられた。
「春星を助けてくれたからだけじゃありません。私が怖がっている時、怖いままでいいと言ってくれたこと。間違えたら一緒に確かめようと言ってくれたこと。あなたが私を一人の人間として扱ってくれるところが好きです」
ノエルは嬉しそうに笑ったが、すぐには抱きしめなかった。
「俺もあなたが好きだ。馬のことになると頑固で、怒ると俺の話も聞かなくなる。だけど、間違ったら謝れるし、怖くても逃げない。あなたと一緒に暮らしたいと思っていた」
「今、抱きしめてくれますか」
「もちろん」
ノエルは彼女の肩へ腕を回し、ゆっくり抱き寄せた。マティルダは彼の胸元に額をつけた。作業着には革と干し草の匂いがする。ヴィクトルが侮辱したその匂いを、彼女は好きだと思った。
「私、明日から仕事を覚えます」
「まずは休んで。それから、春星の診察に立ち会ってほしい」
「厳しい先生ですね」
「あなたには、もっと厳しくなるかもしれない」
マティルダは顔を上げた。
「なら、私も遠慮なく言い返します」
「望むところだ」
彼が笑いながら額へ口づけた時、春星が大きく鼻を鳴らした。二人は同時に振り向き、顔を見合わせて笑った。
◇
春の雨が上がったばかりの朝、マティルダは厩舎の奥で小さな足音を聞いた。
春星の馬房には、生まれたばかりの仔馬が立とうとしていた。細い脚を何度も踏み替え、母馬の腹へ鼻を寄せる。マティルダは膝をつき、仔馬が自分の力で立ち上がるのを見守った。ノエルは傍らで母馬の状態を診ている。
「元気な女の子だ。春星も落ち着いている」
「本当に、よかった」
仔馬は一度よろけたが、すぐに踏ん張った。春星が優しく鼻先を寄せる。マティルダは母が残した馬と、その馬が新しく生んだ命を見て、泣きながら笑った。
「名前、決めていたんでしょう?」
ノエルが尋ねた。
「ええ。春星の仔だから、暁星にしようと思って」
「いい名前だ」
彼は仔馬から目を離さずに言った。マティルダは彼の横顔を見て、今日の午後に予定している小さな食事会のことを思い出した。エマと厩務員たちが準備を進めている。婚約解消の手続きが正式に終わったことを、二人は家族と友人に報告するつもりだった。
「ノエル。食事会で、私から話してもいい?」
「もちろん。あなたが何を話すのか、俺も楽しみにしてる」
「きっと長くなりますよ」
「聞くよ。何度でも」
マティルダは立ち上がり、彼の手を取った。春星と暁星は並んで藁を踏み、窓から差し込む光の中で静かに息をしている。
「私、あなたと結婚したいです」
ノエルは彼女へ向き直った。いつもの仕事着のまま、馬房の前で片膝をつく。
「マティルダ。俺も、あなたと結婚したい。あなたが自分で選んだ道を、これからは隣で一緒に歩かせてほしい」
「はい」
彼女は彼を立たせ、抱きしめた。春星が鼻を鳴らし、暁星が母馬の後ろへ回り込む。二人は笑いながら仔馬の動きを見守った。
この厩舎には、誰かに決められた席も、返事を奪う人もいない。マティルダはノエルの手を握り、母が大切にした馬たちのいる場所で、これからの暮らしを自分の言葉で約束した。




