その手綱を離すのは、私が決める
競売場の裏門に着いた時、春星の鳴き声が夜の石壁に反響していた。マティルダは厩務員の青年に案内され、灯りのついた馬房へ駆け込んだ。春星は汗で首を濡らし、後脚を何度も踏み替えている。腹の下に泥がつき、格子には新しい傷があった。
「春星!」
馬はマティルダの声に反応したが、すぐに頭を振った。傍らにはヴィクトルと二人の軍馬商が立っている。ヴィクトルは乗馬鞭を持ち、ひどく不機嫌そうだった。
「また君か。馬が気難しいせいで検査が進まないんだ。余計なことをするな」
「あなたが腹を蹴ったと聞きました」
「暴れる馬を従わせただけだ。軍馬は命令に従うものだろう」
マティルダは鞭の先を見た。泥が付いている。春星の腹にも同じ色の泥があった。彼女はヴィクトルを睨み、馬房の扉へ手を伸ばす。
「中へ入るな。君には扱えない」
「扱えないなら、あなたが代わりに入ってみてください。春星がどちらを怖がるか分かります」
ヴィクトルは一瞬口を閉ざした。ノエルが後ろから近づき、馬の状態を見て表情を変える。
「全員、格子から離れて。馬を落ち着かせる」
彼は厩務員に周囲の馬を別の房へ移すよう指示し、マティルダへ目を向けた。
「あなたが入るかどうかは自分で決めて。ただ、危険だ。今の春星は後ろへ回る人を蹴る」
「入ります。母から、こういう時の落ち着かせ方を教わりました」
「分かった。俺は扉のところにいる」
マティルダは外套を脱ぎ、袖をまくった。馬房へ入ると、春星の正面から声をかける。幼い頃に母が歌ってくれた短い子守歌を、ゆっくり口ずさんだ。春星は鼻を鳴らし、頭を下げた。彼女は馬の首に手を置き、呼吸に合わせて撫でる。春星が一歩前へ出たので、マティルダも同じだけ後ろへ下がった。
「そう、こっち。怖かったね。もう鞭はないよ」
馬の耳が前を向いた。マティルダは額の白い星形の毛を撫で、やっと頬を寄せた。背後でノエルが小さく息を吐く。
「よくやった。今なら診られる」
ノエルは主任馬医の到着を待つ間、春星の腹と脚を丁寧に調べた。皮膚に擦り傷はあったが、歩けないほどの損傷は見当たらない。ただ、強い緊張が続いている。彼はマティルダに水桶を持ってもらい、春星が飲む量を記録した。
「馬に歌を聞かせるなんて、ずいぶん滑稽な光景だ」
ヴィクトルが笑った。マティルダは振り返らなかった。彼のために歌ったのではない。春星のためだ。
「明日の軍馬審査では、私が所有者として異議を申し立てます」
「好きにすればいい。僕には監督官の署名もある。君の父上も僕を支持している」
「公証人の証明書があります。出品書の確認印は偽物です」
ヴィクトルの笑いが止まった。
「何だって?」
「あなたが使った印は、古い三桁の登録番号でした。昨年から四桁です。私の同意があったと証明できる書類ではありません」
「そんな紙切れで、僕の商売を邪魔する気か」
彼は馬房の扉へ踏み出した。ノエルが道を塞ぐ。
「ここから先は診療中です。動物への危害があれば、王立馬医組合へ報告します」
「報告してみろ。君の仕事を全部奪ってやる」
「その脅しも、できれば証人の前で繰り返してほしいですね」
ノエルは厩務員と軍馬商を示した。二人の商人は気まずそうに距離を取り、片方が持っていた帳面へ何かを書きつけた。ヴィクトルは鞭を床へ投げ、厩舎を出ていった。
マティルダは春星の首を撫で続けた。ノエルの言葉がなければ、自分も怒鳴り返していただろう。だが、彼女はすぐにその考えを打ち消した。自分が冷静でいられたのは、ノエルに守られているからだけではない。母の馬を守りたいという思いが、恐怖より強かったからだ。
主任馬医が到着したのは、競売場の夜警が見回りを始めた頃だった。白髪交じりの女性で、名をヘレナと言った。彼女は春星の様子を確かめ、ノエルの記録を読み、マティルダにこれまでの食欲や放牧の状況を尋ねた。
「妊娠の疑いは十分にあります。腹部の所見も一致しています。ただし、ここで仔の状態までは断言できません。明日の試乗は禁じるべきです」
「そのことを証明書に書いていただけますか」
「もちろん。王立軍馬審査の基準では、妊娠の疑いがある牝馬は軍馬の試乗対象から除外します。出品者が知りながら隠したなら、納入業者の登録を取り消す理由にもなります」
マティルダは頷いた。ヴィクトルが執着しているのは、馬一頭の代金ではない。王室の軍馬納入業者として認められることだ。その資格を得れば侯爵家の跡取りとして名声を得られる、と何度も聞かされてきた。
「明日の審査で、私が証明書を出します」
「あなたが所有者だという証明も必要よ」
「用意しました」
ヘレナはマティルダの封筒を確かめた。
「よろしい。では私の報告書は二通作ります。一通はあなたへ、もう一通は審査官へ直接渡します。どちらか一方が紛失しても記録が残るように」
彼女はその場で診断書を書き始めた。マティルダは自分の名前を署名欄へ記した。最後の払いを短く止める。偽造された出品書とは違う、母から教わった書き方だった。
手続きが終わると、ノエルは春星のために柔らかい藁を運び、マティルダは水桶を替えた。二人で働いていると、言葉がなくても次に何をすればいいか分かる。ノエルが重い桶を持とうとすると、マティルダは先に取っ手を握った。
「私にも持てます」
「分かってる。半分ずつ持とう」
彼は反対側の取っ手を持った。二人で運んだ桶を置く時、指先が一瞬触れた。マティルダは手を引かなかった。ノエルも何も言わず、桶の位置を整えた。
「ノエル。今日、あなたが言ったことを考えていました」
彼は立ち上がり、彼女へ向き直った。
「俺の気持ちのこと?」
「はい。あなたが会える日を楽しみにしていたって。私は、春星を診てもらう日が近づくと、いつも厩舎を掃除していました。あなたが来る前に、きれいにしておきたかったから」
「知ってた」
「知っていたの?」
「いつも俺が来る日だけ、入口に花が置いてあった」
マティルダは思わず顔を覆った。花は母の好きだった白い小花で、彼に見せようと摘んでいたのだ。
「そんなところまで見ていたんですね」
「あなたのことなら、たいてい見ていた」
ノエルは一歩近づいたが、触れずに止まった。
「マティルダ。俺はあなたを助けたい。でも、助けた礼に好きになってほしいわけじゃない。あなたが春星を取り戻して、自由になったあとも、俺を選びたいと思ったら、その時に言ってほしい」
「私が自由になったら、あなたのところへ行ってもいい?」
「何度でも。仕事がなくても、馬の用事がなくても」
彼女は小さく笑った。これほど優しい言葉を向けられたのに、明日を迎えることが怖くなくなったわけではない。それでも、怖いまま前へ進めると思えた。
厩舎の外で軍靴が鳴った。夜警隊長が部下を連れて現れ、封書を差し出す。
「四十七番の牝馬について、出品者ヴィクトル・グランディ殿から特別搬出の申請が出ています。夜明けを待たず、軍の預かり厩舎へ移すとの命令です」
マティルダは封書を受け取らず、隊長へ証明書を示した。
「私はこの馬の所有者です。今ここで、搬出への異議を正式に記録してください」
隊長は書類を読み、表情を引き締めた。
「異議は受理します。ただし、搬出命令を取り消せるのは明朝の審査官だけです」
「ならば、馬と一緒に行きます」
ノエルが驚いて彼女を見た。マティルダは春星の手綱を握り、隊長へ告げた。
「私の馬を連れていくなら、私も審査場まで歩きます。誰にも預けたままにはしません」




