母が残したのは、帰る場所ではなかった
マティルダが屋敷へ戻ると、玄関には二人の使用人が立っていた。彼らは普段なら黙って扉を開けてくれる。今日はそのまま道を塞ぎ、申し訳なさそうに頭を下げた。
「旦那様から、お嬢様を執務室へお通しするようにと」
「母の遺言書を取りたいの。お父様の執務室の金庫にあるはずです」
「先に旦那様へお会いください」
マティルダは二人の顔を見た。ここで押し通っても、彼らが職を失うだけだ。自分が争う相手を間違えてはいけない。彼女は泥だらけの乗馬靴を脱がず、父の執務室へ向かった。
父は机の向こうに座っていた。机上には返済期日の近い借用証が積まれ、その上にヴィクトルの家紋入りの封筒が置かれている。マティルダが入ると、父は眼鏡を外した。
「お前は今日、侯爵家の跡取りに恥をかかせたそうだな」
「春星を取り戻したいだけです」
「それが恥だと言っている。ヴィクトル君がどれほどの好条件で我が家を助けてくれているか分かっているのか」
「助けると言って、私の馬を売る人です」
「馬一頭と家族の暮らしを比べるな」
「母の遺言書を見せてください。あれは私の所有物です」
父は鍵束を取り出した。金庫の扉を開き、厚い封筒を机へ置く。マティルダが手を伸ばすと、父は封筒の上へ掌を重ねた。
「これを渡す条件がある。ヴィクトル君に謝り、競売の異議を取り下げなさい」
「異議を取り下げたら、遺言書を使う必要がなくなります」
「そういう理屈を言うから、お前は可愛げがない」
父は封筒を引き戻した。マティルダは追わなかった。ここで奪い合えば破れた紙だけが残る。母の遺言は一通だけではない。母が亡くなる前、法務官の立ち会いで正本を二通作り、一通を家の金庫へ、もう一通を町の公証人へ預けたことを思い出した。
「お父様は、母の願いを何だと思っていますか」
「家名を残すことだ」
「母は、私に春星を残しました。あの馬がいれば、家を離れても寂しくないようにと」
「感傷で借金は払えない」
「借金のことは知っています。だから私も嫁ぐ覚悟をした。でも、母のものを奪う人と結婚しなければ家が守れないのなら、その結婚は私の望むものではありません」
父は椅子を鳴らして立ち上がった。
「ならば出ていけ。今この家を出るなら、持参金も与えん。父親の顔に泥を塗った娘として、どこへでも行くがいい」
マティルダは戸口へ向かった。背中に「どうせ戻ってくる」という言葉が投げられたが、足を止めなかった。廊下で待っていた年配の侍女に、荷物は取りに戻るとだけ伝える。侍女は彼女の肩に外套を掛け、そっと手を握った。
「奥様は、お嬢様が自分の馬に乗ってどこへでも行けるようになるのを楽しみにしておられました」
マティルダは返事をすると泣いてしまいそうで、深く頭を下げた。
町の公証人は、夕刻の閉門まで客を受け付けていた。マティルダが駆け込むと、帳場にいた女性が彼女の名前を聞き、奥の部屋へ通してくれた。壁一面に書類棚が並び、インクの匂いがする。公証人の老人は母の名を聞くと、棚から記録簿を取り出した。
「奥様の遺言は確かにこちらで保管しています。あなたが二十歳になった時点で、春星という牝馬とその血統証書をあなたへ譲る。ほかの財産とは分けて指定されています」
「証明書をいただけますか」
「もちろん。ただし、なぜ急に必要になったのですか」
マティルダは出品書を広げ、偽の署名を見せた。老人は眼鏡を掛け直し、紙の端に押された小さな印を見た。
「これは当事務所の確認印ではありませんね」
「でも、同じ模様に見えます」
「模様は似ていますが、登録番号が違う。当事務所は昨年から四桁の番号を使っています。この印は三桁です。古い型を誰かが写したのでしょう」
マティルダは身を乗り出した。書面の偽造を示せるなら、所有権だけでなく、出品同意の無効も主張できる。
「そのことも証明していただけますか」
「印の照合証明なら、今ここで出せます。署名そのものが偽物かどうかは筆跡鑑定が必要ですが、少なくとも当事務所がこの出品書を認証した事実はありません」
彼女は証明書二通を受け取り、手数料を払った。さらに婚約契約書の本人拒否条項について尋ね、解消通知を作成してもらった。公証人はマティルダが内容を読み上げて確認するまで、署名を求めなかった。彼女は自分の意思で署名し、送達用の封筒を預けた。公証人は書類を渡す際、慎重な口調で言った。
「競売監督官は明日の朝まで戻らないと聞きました。王立軍馬審査には公開の異議申立て席があります。監督官が不在でも、所有者本人が公証人の認証写しを示せば審査官は聞かなければなりません。ただし、あなた自身が出席する必要があります」
「行きます」
マティルダはためらわず答えた。父の屋敷から追い出されたばかりで、どこに泊まるかさえ決まっていない。それでも春星の前に立つことだけは決められた。
公証人の事務所を出ると、空は赤くなっていた。通りの向こうにノエルがいた。馬医組合の建物から出てきたところらしく、手には診察器具の包みがある。
「間に合ったか」
「証明書が取れました。見て」
マティルダが封筒を開くと、ノエルは街灯の下で内容を読み、頷いた。
「これなら所有権を争える。俺も主任馬医の予約を取れた。今夜、春星を診る」
「よかった」
安堵した途端、彼女は足元がふらついた。朝から歩き続け、昼に食べたパン以外は何も口にしていない。ノエルが肩を支え、通りの端へ寄せてくれる。
「顔色が悪い。休もう」
「まだやることがあるの」
「分かっている。でも、倒れたら明日、春星の前に立てない」
ノエルは彼女の返事を待ってから、近くの食堂へ案内した。店主は彼の顔を見ると、奥の静かな席を用意してくれた。マティルダは熱い野菜の煮込みを前に、ようやく息をついた。
「父に家を出ていけと言われました」
スプーンを置いて告げると、ノエルは食事の手を止めた。
「今夜、帰る場所はある?」
「まだ考えていません。荷物も屋敷に置いたままです」
「うちの妹が営む宿がある。空き部屋を確かめよう。俺の家に来いと言うつもりはない。あなたが安心して眠れる場所を選んでほしい」
「私が貴族の娘だから、気を遣っているの?」
「違う。あなたが、俺にとって大事な人だからだ」
マティルダは彼の顔を見た。ノエルは目を逸らさなかった。昼間の告白と同じように、言葉だけを置いて返事を迫らない。
「ノエル。私、あなたのところへ行くと、つい甘えてしまいそう」
「甘えていい。ただ、春星を取り戻すのはあなたの仕事だ。俺は隣で手を貸す」
「それなら……宿を紹介してもらってもいいですか」
「もちろん」
彼女は温かい煮込みをもう一口食べた。誰かを頼ることと、誰かに決めてもらうことは違うのだと、ようやく分かった気がする。
店の扉が勢いよく開いた。王立競売場の厩務員が飛び込んでくる。昼に伝言を届けてくれた青年だった。
「先生、すぐ来てください。四十七番が暴れているんです。ヴィクトル様が軍の試乗を前倒しにしろと命じて、腹を蹴ったんです!」
ノエルは椅子を引いた。マティルダも立ち上がる。春星の腹には、まだ生まれていない仔がいるかもしれない。
「私も行きます。あの人に、もう春星を触らせない」




