↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約者が競りに出した母の馬を、私は自分の手で連れ帰る  作者: あずきまんま


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/6

あなたが怖がらなくていい場所

ヴィクトルは厩舎の入口で立ち止まり、マティルダの隣にいるノエルを見た。磨き上げた乗馬靴の先に藁が触れると、露骨に顔をしかめる。


「馬医が主人の許可なく客を入れるのか。王立競売場も質が落ちたものだね」


「検査対象の所有者に状態を説明しています」


ノエルは落ち着いた声で答えた。彼が「所有者」と言ったことに、マティルダは救われた気がした。ヴィクトルも気づいたらしく、口元から笑みが消える。


「所有者の同意は取ってある。出品書を見れば分かる」


「署名をした覚えはありません」


「まだそんなことを。君は最近、忘れっぽいからね。君の父上も心配していたよ」


マティルダは春星の首から腕を離し、馬房の扉を閉めた。ヴィクトルが馬へ近づくのを防ぐためだったが、彼は扉越しに春星の値踏みを始めた。


「いい毛艶だ。四十七番には高値がつくだろう。王室の納入契約が決まれば、君の父上の借金も片づく。君は何も心配せず、結婚式の支度をしていればいい」


「春星は妊娠しているかもしれません」


マティルダが告げると、ヴィクトルはノエルへ目を向けた。


「この男がそう言ったのか?」


「私も体の変化を見ました。追加の検査が必要です」


「馬医の診断を聞こう」


ノエルが前へ出た。


「妊娠の疑いがあります。現時点で健康な軍馬と断定して出品するのは不適切です。確認が済むまで出品停止を申請してください」


「君は獣医学校を出ていないそうだな。町の蹄鉄屋に何が分かる」


「王立馬医組合の認定は持っています。今朝の検査票にも署名しました」


「なら、その検査票を破りなさい。僕の紹介でここへ出入りできていることを忘れたのか」


ノエルは一度だけ唇を結んだ。マティルダは彼が仕事を失う可能性を初めて考えた。王立競売場の仕事は、町の馬医にとって大きな信用になる。彼女をかばったために奪われるのなら、春星を取り戻しても喜べない。


「私の問題です。ノエルを脅さないで」


「なら君が黙ればいい。今ここで謝って、二度と競売に口を出さないと約束しなさい」


「約束しません」


自分でも驚くほどはっきり言えた。ヴィクトルは眉を吊り上げ、マティルダの腕を掴もうとした。ノエルが二人の間へ入ったが、彼女は彼の袖を引いて止めた。


「触らないでください。私はあなたの妻ではありません。今の話も、誰にも許可していません」


ヴィクトルは伸ばしかけた手を引き、低い声で笑った。


「明日、馬が売れたら君は泣いて謝りに来る。君の父上に家から追い出されたら、困るのは君だよ。ここにいる男が一生面倒を見てくれるとでも?」


彼はノエルを見下ろした。


「馬糞の匂いのする男と一緒に暮らしたいなら、勝手にしろ」


マティルダは言い返そうとしたが、ノエルが先に口を開いた。


「匂いなら洗えば落ちます。人のものを勝手に売る癖は、どうすれば治るんでしょうね」


厩舎にいた厩務員が咳払いをした。ヴィクトルは顔を赤くし、踵を返した。


「競売監督官には話を通してある。明日の朝、軍の買い手が四十七番を検査する。せいぜい最後の別れを済ませておくことだ」


足音が遠ざかるまで、マティルダは動けなかった。彼女の隣でノエルが息を吐く。


「言い過ぎたな」


「いいえ。私は少し笑ってしまいました」


「あなたが笑うなら、もう一度言ってもいい」


思わず顔を上げると、ノエルは真面目な顔をしていた。ふざけているのか本気なのか、彼女には分からない。その分からなさが不思議に心地よかった。


ノエルは馬房の床へしゃがみ、春星の前脚を持ち上げた。蹄を確かめながら、マティルダに尋ねる。


「この馬が最後に種牡馬の近くへ行ったのは、いつだ?」


「春の放牧です。隣の牧場に牡馬が一頭いました。柵が壊れた日に、春星が向こうへ行ったと厩務員が」


「それなら時期は合う。王立馬医組合の主任に診てもらおう。俺の所見だけでは、あの男は無視する」


「主任に頼めるの?」


「頼むことはできる。引き受けるかどうかは相手次第だ。ただし、所有権の書類は別に必要になる」


マティルダは出品書を見せた。ノエルは最後の署名を指先で示した。


「あなたの字を、俺は知らない。だから偽造だと断言はできない。だが、あなたが書いていないという言葉は信じる」


「どうして?」


「あなたは春星が怖くて乗れなかった頃、乗れないと正直に言った。俺が手綱を持つと言っても、怖いものは怖いと。嘘をついて平気な顔をする人じゃない」


マティルダは当時の自分を思い出した。母の死後、春星の背に乗ると、母がもう隣を歩いてくれない事実が急に重くなった。ノエルは彼女に無理をさせず、地面を一緒に歩くところから始めてくれた。乗馬の指導料は受け取らず、馬医として来た日の仕事が終わったあとに付き合ってくれた。


「あなたには、ずいぶん迷惑をかけました」


「迷惑なら断っていた。俺は自分で残ったんだ」


彼は春星の脚を下ろして立ち上がる。


「あなたも、自分で選んでここへ来たんだろう。そこは忘れないでくれ」


競売場の外へ出ると、正午を告げる鐘が鳴った。ノエルは主任馬医の診療所へ行く前に、彼の仕事場で道具を置きたいと言った。二人は南門の石畳を歩き、小さな鍛冶場の裏へ回った。


建物には馬具を直すための台と、傷んだ鞍がいくつか吊るされていた。ノエルは前掛けを外し、桶で手を洗う。マティルダが立ったままでいると、作業台の横の椅子を引いてくれた。


「座って。朝から何も食べていない顔だ」


「顔で分かるの?」


「朝食を抜くと、あなたは眉間に皺ができる」


「そんなに見ていたんですか」


ノエルは返事の代わりに、棚から布に包んだパンを取り出した。二つに分け、片方を彼女へ差し出す。干した林檎と塩漬け肉を挟んだ、少し硬いパンだった。


「あなたの分がなくなってしまう」


「もともと二人分だ。今朝、厩舎であなたを見かける気がしたから」


「そんなこと、あるはずがないでしょう」


「そうだな。嘘をついた。多めに買っただけだ」


ノエルはようやく笑った。マティルダもつられて笑い、パンを受け取る。彼の仕事場で食べる昼食は、婚約者の侯爵家で出される料理よりずっと簡素だった。それでも、誰かに食べ方を注意される心配も、沈黙を責められる心配もなかった。


「あなたがさっき言ったこと、嬉しかったです」


「何を?」


「私が嘘をつかないと信じるって」


ノエルは自分のパンを置いた。


「あなたが何を言っても信じる、とは違う。間違っていたら一緒に確かめる。それでいいと思っている」


「それなら、私もあなたが間違ったら言います」


「言ってくれ。馬のことでも、俺のことでも」


ノエルは少し考え、彼女へ向き直った。


「一つだけ、今言っておく。俺はあなたが婚約していると知っている。それでも、あなたに会える日は楽しみだった。春星の診察が終わっても、話す口実を探していた」


マティルダはパンを持ったまま固まった。彼は慌てて付け加えなかった。ただ彼女がどう受け取るかを待っている。そんなふうに見つめられるのは初めてだった。


「……今は、春星を助けることを考えたいです」


「分かっている。返事を求めたんじゃない」


「でも、聞かなかったことにはしたくありません」


ノエルはゆっくり頷いた。その仕草が胸に残ったまま、マティルダは最後のパンを食べた。


診療所へ向かおうとした時、外から馬の蹄の音が近づいた。競売場の若い厩務員が息を切らして駆け込んでくる。


「アシュビー先生! 四十七番の件です。軍の検査が前倒しになりました。夜明けに搬出するそうです。監督官から使いが来て、もう馬房へ近づくなと」


マティルダは椅子から立ち上がった。夜明けまでに所有権も妊娠も証明できなければ、春星は軍の買い手へ引き渡される。


「ノエル、まず母の遺言を取りに行きます」


「俺は主任を呼ぶ。必ず競売場で合流しよう」


彼女は頷き、仕事場の扉を押し開けた。ヴィクトルの脅しよりも、今は夜明けのほうが怖かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。