あなたが怖がらなくていい場所
ヴィクトルは厩舎の入口で立ち止まり、マティルダの隣にいるノエルを見た。磨き上げた乗馬靴の先に藁が触れると、露骨に顔をしかめる。
「馬医が主人の許可なく客を入れるのか。王立競売場も質が落ちたものだね」
「検査対象の所有者に状態を説明しています」
ノエルは落ち着いた声で答えた。彼が「所有者」と言ったことに、マティルダは救われた気がした。ヴィクトルも気づいたらしく、口元から笑みが消える。
「所有者の同意は取ってある。出品書を見れば分かる」
「署名をした覚えはありません」
「まだそんなことを。君は最近、忘れっぽいからね。君の父上も心配していたよ」
マティルダは春星の首から腕を離し、馬房の扉を閉めた。ヴィクトルが馬へ近づくのを防ぐためだったが、彼は扉越しに春星の値踏みを始めた。
「いい毛艶だ。四十七番には高値がつくだろう。王室の納入契約が決まれば、君の父上の借金も片づく。君は何も心配せず、結婚式の支度をしていればいい」
「春星は妊娠しているかもしれません」
マティルダが告げると、ヴィクトルはノエルへ目を向けた。
「この男がそう言ったのか?」
「私も体の変化を見ました。追加の検査が必要です」
「馬医の診断を聞こう」
ノエルが前へ出た。
「妊娠の疑いがあります。現時点で健康な軍馬と断定して出品するのは不適切です。確認が済むまで出品停止を申請してください」
「君は獣医学校を出ていないそうだな。町の蹄鉄屋に何が分かる」
「王立馬医組合の認定は持っています。今朝の検査票にも署名しました」
「なら、その検査票を破りなさい。僕の紹介でここへ出入りできていることを忘れたのか」
ノエルは一度だけ唇を結んだ。マティルダは彼が仕事を失う可能性を初めて考えた。王立競売場の仕事は、町の馬医にとって大きな信用になる。彼女をかばったために奪われるのなら、春星を取り戻しても喜べない。
「私の問題です。ノエルを脅さないで」
「なら君が黙ればいい。今ここで謝って、二度と競売に口を出さないと約束しなさい」
「約束しません」
自分でも驚くほどはっきり言えた。ヴィクトルは眉を吊り上げ、マティルダの腕を掴もうとした。ノエルが二人の間へ入ったが、彼女は彼の袖を引いて止めた。
「触らないでください。私はあなたの妻ではありません。今の話も、誰にも許可していません」
ヴィクトルは伸ばしかけた手を引き、低い声で笑った。
「明日、馬が売れたら君は泣いて謝りに来る。君の父上に家から追い出されたら、困るのは君だよ。ここにいる男が一生面倒を見てくれるとでも?」
彼はノエルを見下ろした。
「馬糞の匂いのする男と一緒に暮らしたいなら、勝手にしろ」
マティルダは言い返そうとしたが、ノエルが先に口を開いた。
「匂いなら洗えば落ちます。人のものを勝手に売る癖は、どうすれば治るんでしょうね」
厩舎にいた厩務員が咳払いをした。ヴィクトルは顔を赤くし、踵を返した。
「競売監督官には話を通してある。明日の朝、軍の買い手が四十七番を検査する。せいぜい最後の別れを済ませておくことだ」
足音が遠ざかるまで、マティルダは動けなかった。彼女の隣でノエルが息を吐く。
「言い過ぎたな」
「いいえ。私は少し笑ってしまいました」
「あなたが笑うなら、もう一度言ってもいい」
思わず顔を上げると、ノエルは真面目な顔をしていた。ふざけているのか本気なのか、彼女には分からない。その分からなさが不思議に心地よかった。
ノエルは馬房の床へしゃがみ、春星の前脚を持ち上げた。蹄を確かめながら、マティルダに尋ねる。
「この馬が最後に種牡馬の近くへ行ったのは、いつだ?」
「春の放牧です。隣の牧場に牡馬が一頭いました。柵が壊れた日に、春星が向こうへ行ったと厩務員が」
「それなら時期は合う。王立馬医組合の主任に診てもらおう。俺の所見だけでは、あの男は無視する」
「主任に頼めるの?」
「頼むことはできる。引き受けるかどうかは相手次第だ。ただし、所有権の書類は別に必要になる」
マティルダは出品書を見せた。ノエルは最後の署名を指先で示した。
「あなたの字を、俺は知らない。だから偽造だと断言はできない。だが、あなたが書いていないという言葉は信じる」
「どうして?」
「あなたは春星が怖くて乗れなかった頃、乗れないと正直に言った。俺が手綱を持つと言っても、怖いものは怖いと。嘘をついて平気な顔をする人じゃない」
マティルダは当時の自分を思い出した。母の死後、春星の背に乗ると、母がもう隣を歩いてくれない事実が急に重くなった。ノエルは彼女に無理をさせず、地面を一緒に歩くところから始めてくれた。乗馬の指導料は受け取らず、馬医として来た日の仕事が終わったあとに付き合ってくれた。
「あなたには、ずいぶん迷惑をかけました」
「迷惑なら断っていた。俺は自分で残ったんだ」
彼は春星の脚を下ろして立ち上がる。
「あなたも、自分で選んでここへ来たんだろう。そこは忘れないでくれ」
競売場の外へ出ると、正午を告げる鐘が鳴った。ノエルは主任馬医の診療所へ行く前に、彼の仕事場で道具を置きたいと言った。二人は南門の石畳を歩き、小さな鍛冶場の裏へ回った。
建物には馬具を直すための台と、傷んだ鞍がいくつか吊るされていた。ノエルは前掛けを外し、桶で手を洗う。マティルダが立ったままでいると、作業台の横の椅子を引いてくれた。
「座って。朝から何も食べていない顔だ」
「顔で分かるの?」
「朝食を抜くと、あなたは眉間に皺ができる」
「そんなに見ていたんですか」
ノエルは返事の代わりに、棚から布に包んだパンを取り出した。二つに分け、片方を彼女へ差し出す。干した林檎と塩漬け肉を挟んだ、少し硬いパンだった。
「あなたの分がなくなってしまう」
「もともと二人分だ。今朝、厩舎であなたを見かける気がしたから」
「そんなこと、あるはずがないでしょう」
「そうだな。嘘をついた。多めに買っただけだ」
ノエルはようやく笑った。マティルダもつられて笑い、パンを受け取る。彼の仕事場で食べる昼食は、婚約者の侯爵家で出される料理よりずっと簡素だった。それでも、誰かに食べ方を注意される心配も、沈黙を責められる心配もなかった。
「あなたがさっき言ったこと、嬉しかったです」
「何を?」
「私が嘘をつかないと信じるって」
ノエルは自分のパンを置いた。
「あなたが何を言っても信じる、とは違う。間違っていたら一緒に確かめる。それでいいと思っている」
「それなら、私もあなたが間違ったら言います」
「言ってくれ。馬のことでも、俺のことでも」
ノエルは少し考え、彼女へ向き直った。
「一つだけ、今言っておく。俺はあなたが婚約していると知っている。それでも、あなたに会える日は楽しみだった。春星の診察が終わっても、話す口実を探していた」
マティルダはパンを持ったまま固まった。彼は慌てて付け加えなかった。ただ彼女がどう受け取るかを待っている。そんなふうに見つめられるのは初めてだった。
「……今は、春星を助けることを考えたいです」
「分かっている。返事を求めたんじゃない」
「でも、聞かなかったことにはしたくありません」
ノエルはゆっくり頷いた。その仕草が胸に残ったまま、マティルダは最後のパンを食べた。
診療所へ向かおうとした時、外から馬の蹄の音が近づいた。競売場の若い厩務員が息を切らして駆け込んでくる。
「アシュビー先生! 四十七番の件です。軍の検査が前倒しになりました。夜明けに搬出するそうです。監督官から使いが来て、もう馬房へ近づくなと」
マティルダは椅子から立ち上がった。夜明けまでに所有権も妊娠も証明できなければ、春星は軍の買い手へ引き渡される。
「ノエル、まず母の遺言を取りに行きます」
「俺は主任を呼ぶ。必ず競売場で合流しよう」
彼女は頷き、仕事場の扉を押し開けた。ヴィクトルの脅しよりも、今は夜明けのほうが怖かった。




