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婚約者が競りに出した母の馬を、私は自分の手で連れ帰る  作者: あずきまんま


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1/6

空になった馬房

母が遺した牝馬が、婚約者の名前で競りに出されていた。


マティルダは厩舎の扉に貼られた札を二度読んだ。王都秋季軍馬競売、出品番号四十七、栗毛の牝馬、七歳。備考欄には「健康、繁殖歴なし」とある。馬房には新しい藁が敷かれ、餌桶には昨日の麦が残っていたが、春星の姿だけがなかった。


「どこへ連れていったの」


厩務員の老人は帽子を握りしめた。彼はマティルダが幼い頃から母の馬を世話してきた男で、叱られるようなことがあればいつも先に言い訳を始める。それなのに、今日はなかなか口を開かなかった。


「昨夕、ヴィクトル様のご命令で。王立競売場の預かり厩舎です。わしらには止められませんでした」


「どうして私に知らせなかったの」


「お嬢様にはもうお話がついている、と」


マティルダは札を剥がそうとして、やめた。証拠になる。自分の指で皺をつけたくなかった。厩務員に留め金ごと外してもらい、胸の前に抱えたまま屋敷へ戻った。


朝食室ではヴィクトル・グランディ侯爵令息が、彼女の父と向かい合って茶を飲んでいた。婚約は二年前に決まった。父の病後、経営の傾いた家を支援してくれる相手として、ヴィクトルほど都合のよい男はいなかったのだと父は言う。マティルダ自身も、彼が母の馬を大切にしてくれると信じていた。少なくとも婚約を交わした日の彼は、春星の鼻先を撫でながらそう約束した。


「おはよう、マティルダ。朝から泥だらけだね」


ヴィクトルは彼女の乗馬靴に視線を落とし、笑った。


「春星を売ったのですか」


「売るのは明日だよ。昨日のうちに競売場へ預けておいた。あれほどの馬を庭に置いておくのは損失だ」


「私の馬です。母が私に遺した」


「結婚すれば君のものは僕のものになる。今のうちに家計を整理して何が悪い?」


「まだ結婚していません。それに、母の遺言では春星は私が二十歳になった時点で私の所有です。私は二十二歳です」


父が匙を皿に置いた。


「ヴィクトル君は王室の軍馬納入契約を得るために尽くしてくれている。あの牝馬を出せば有力な軍馬商が競りに参加するそうだ。家の将来を考えなさい」


「家の将来と、私の馬を勝手に売ることは別です」


「女の君には競りの仕組みが分からないだろう」


ヴィクトルは上着の内ポケットから薄い紙を出し、卓上に滑らせた。所有者の同意欄にはマティルダの名前があり、その下には見慣れた筆跡の署名があった。


彼女は紙を持ち上げた。母から教わった文字を、誰かが丁寧に真似ている。だが、最後の「ダ」の払いだけが妙に長い。マティルダは字を書く時、母の癖を真似て最後を短く止める。これは彼女の署名ではない。


「偽物です」


「失礼な。君が書いたものを、あとから偽物だと言い張るつもりかい?」


「いつ、どこで書いたと?」


「覚えていないなら、僕が説明してあげよう。三日前の夕食後だ」


三日前の夕食後、マティルダは厩舎にいた。春星が食欲を落としていたので、町の馬医を呼ぶか迷っていたのだ。ヴィクトルはその晩、王都の夜会へ出席したはずだった。彼女は口を開きかけたが、父が先に言った。


「こんなことで婚約者を泥棒呼ばわりするな。家の名を汚す」


「お父様は、春星がいなくなっても構わないのですか」


「お前の母親なら、家のために喜んで差し出しただろう」


その一言に、マティルダは紙を握り潰しそうになった。母は春星を高値のつく馬としてではなく、怖がりな娘が初めて一人で手綱を握った相手として愛していた。病床でさえ「あの子が走りたがる時には走らせてやって」と頼んだ。父がそのことを忘れたとは思わない。ただ、覚えていても売れるのだと知ってしまった。


「春星は連れ戻します。婚約の話は、それからです」


マティルダは札と偽の出品書を持って部屋を出た。背後からヴィクトルが声を張った。


「競売場へ行っても無駄だ。僕の紹介状がなければ預かり厩舎へは入れない。それに、騒ぎを起こした女を妻に迎えるつもりはないからね!」


振り向かなかった。脅しに従えば春星は帰ってこない。家に残っていても同じだ。


王都の南門近くにある競売場は、朝から馬車と人で混み合っていた。軍服の買い手、繁殖馬を探す商人、見物に来た貴族たちが入り交じる。マティルダは事務所で出品停止を申し出たが、受付の男は署名のある紙を見せただけで首を振った。


「所有者本人の同意書が提出されています。異議があるなら、明日の競売開始までに所有権を証明する書類を持ってきてください」


「この署名は偽造です。私が本人です」


「そう言われましても、ここでは判断できません。出品を取り消す権限は競売監督官にありますが、今日は軍の検査に出ています」


「馬を見せてください。健康状態を確かめたいんです」


「預かり厩舎への立ち入りには、出品者の同行が必要です」


受付の男は申し訳なさそうだった。それでも通してはくれない。マティルダは事務所の外へ出て、厩舎を囲む柵の前に立った。中から馬のいななきが聞こえるたび、春星の声ではないかと身を乗り出した。


「柵を越えるつもりなら、左側はやめたほうがいい。板が腐っている」


振り向くと、革の前掛けをした男が立っていた。濃い茶色の髪に藁が一本ついている。片手には蹄鉄の入った木箱。馬医のノエル・アシュビーだった。春星の蹄を診るために屋敷へ来ていた頃、マティルダは彼と何度も話したことがある。彼は馬の扱いには厳しく、彼女が怖がって手綱を引きすぎた時にも遠慮なく叱った。だが、馬を怖がること自体を笑ったことはない。


「ノエル。どうしてここに」


「競売場の臨時検査を頼まれた。あなたこそ、そんな顔をして何をしている」


「春星が売られるの。私の知らないところで」


彼はすぐには慰めなかった。札を受け取って番号を読み、眉を寄せた。


「四十七番なら、奥の静養房だ。今朝、歩様がおかしいと言われて診た」


「怪我をしたの?」


「それだけじゃない。あなたが出品したわけじゃないんだな」


「絶対に違う」


ノエルは柵の向こうへ視線を向け、箱を地面に置いた。


「一緒に来てくれ。検査担当の馬医が所有者を呼ぶのは規則に反しない。俺が責任を持つ」


「あなたに迷惑がかかるわ」


「俺が呼びたいから呼ぶんだ。あなたの代わりに決めるつもりはないが、春星のことをあなたに隠すつもりもない」


マティルダは一歩近づいた。ノエルは彼女の足元を見て、短く笑う。


「泥だらけだ。走ってきたのか」


「馬車を待てなかった」


「なら、まだ走れるな。奥だ」


彼の後について柵の内側へ入ると、馬の体温と干し草の匂いが戻ってきた。春星は一番奥の馬房にいた。マティルダの呼ぶ声に耳を立て、格子へ鼻先を押しつけてくる。頬を寄せた途端、堪えていた涙が落ちた。


「迎えに来たよ。ごめんね、遅くなって」


ノエルは二人から少し離れて待っていた。彼女が春星の首を撫で終えると、馬の腹を示して言った。


「よく聞いてくれ。春星は軍馬として売っていい状態じゃない。腹の張りと乳房の変化を見た。確定には追加の診察が要るが、妊娠している可能性が高い」


「妊娠……?」


「それを知っていて健康な軍馬として売れば、馬も仔も危険だ。明日の競りを止めなきゃならない」


マティルダは春星の温かな首を抱いた。母から預かった命が、もう一つあるかもしれない。ヴィクトルが出品書に書いた「繁殖歴なし」という文字が、急に恐ろしいものに思えた。


その時、厩舎の入口から聞き慣れた声がした。


「おや。誰の許可で僕の馬に触っているんだい、マティルダ」

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