第5章:二つの非合理
「……pH9.2。サンプルB、pH9.4」
市役所のデスクで、緑川 雫はプラスチックの試験管を蛍光灯に透かしていた。彼女の指先は、土に触れることを拒絶するように、薄いラテックス手袋で覆われている。
「これが、あなたの『データ』ですか」
「そうだ。あんたの言葉通り、法的な汚染基準を遥かに超えてるはずだ」
焔は、証拠品として押収した「燃えないツタ」のサンプルが入った袋も並べた。
無機質な会議室のテーブルに、焦げた土と異様な植物という、「非合理」な証拠だけが並んでいる。
雫は、焔の目を真っ直ぐに見返した。
「確かに異常な数値です。ですが、これが即座に『グレイ・デベロップメント』の犯行と結びつくわけではありません。ただの……不法投棄かもしれない」
「火災と同時に不法投棄が起き、一晩でこのツタが育つのか? そんな偶然があるか」
「合理的ではありませんね」
雫はそう言いながら、無意識にタブレットの画面をクリーニングクロスで拭き始めた。彼女が想定外のデータに直面した時の癖だった。
彼女は数秒間、画面を磨き続け、やがて指を止めた。
「……合理的でない、といえば」
彼女はタブレットのロックを解除し、一つのファイルを焔の前にスライドさせた。
「『グレイ・デベロップメント』が提出した、再開発地区の土壌調査報告書です」
「これがどうした」
「早すぎるんです」
雫の目が、初めて役人のものではなく、個人のものになった。
「通常、これだけの広範囲の土壌汚染調査には最低三ヶ月はかかる。彼らは、二週間で『適合』の報告書を出してきた。あまりに……合理的すぎるほど、早い」
焔は、報告書に並ぶ「pH6.8」「pH7.1」という数字を睨みつけた。
(偽装だ。俺が採取した場所は、ピンポイントで「殺されて」いた)
雫が続けた。「そして、あなたのサンプル。この強アルカリ性の土壌……普通の植物は根腐れします。生育できるはずがない」
「ああ。だが、こいつは育った」と焔はツタを指す。
「つまり、この植物は、この『死んだ土』でしか育たないように設計されている……。そうだ、微量要素だ」
焔は栽培学の知識を総動員した。
「強アルカリ性土壌では、鉄やマンガン、ホウ素といった微量要素は水に溶けなくなる。植物はそれを吸収できず、深刻な生理障害を起こすはずだ。それなのにこいつが育つということは……」
「……その『溶けない微量要素』を、強制的に吸収するメカニズムを持っている? あるいは、火災の熱と薬品が、特殊なキレート剤として機能している?」
雫が、焔の仮説を引き取った。
二人の視線が、初めて同じ地点で交わった。直感とデータが、一つの「非合理な答え」を指し示していた。
「赤井さん」と雫が口を開いた。「この植物、正式に分析に出す必要があります。私の知人に、植物生理学の権威がいます」
それは、バディ誕生の瞬間だった。




