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銀の薬師  作者: 綾月魁夜
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過去

7 過去


 朦朧とした意識の中、うっすらと目を開ける。常に視界は悪く、いつも見上げる天井にも黒い染みが点々と散らばっている。

「……、……」

 口を動かしてももれるのは乾いた吐息だけ。一言二言話すだけでも、疲労に意識がゆがむ。

「アッシュ。愛しい人。あの子が来るわ」

 ふわりと金色の光が唐突に現れた。光は豊かな金髪にかわり、やがて人の形を作る。

 ミルクティーのような色をした肌に波打つ金髪。薄く透ける紗の布を纏った姿は南にいるという伝説の舞姫を髣髴させる。

 金色にきらめく爪先がアッシュの胸元にそっと触れた。その途端、濁った双眸に強いきらめきが灯る。

「カーシャ……」

「あの子と話をしたいのでしょう?」

「ああ……。老いぼれの最期の懺悔を……聞いてもらいたい」

 目を閉じ、少し疲れたように吐息をこぼす。その様子を包み込むような愛情と、同じくらいの哀しみ、そしてほんの少しの憐れみをこめて見つめる女。母のように、恋人のように、妻のように、娘のように。

「あの子が来るまで、もうしばらく時間があるわ。少しおやすみなさい。私は、もう一人の愛しい子に会ってくるから」

「すまない……」

「謝るのはなしよ。それでいいと、私が願ったのだから」

 そっと細い指先でアッシュの双眸をふさぎ、いつくしむように軽く頬を撫でる。そうすれば、年老いた男はすぐに健やかな寝息を立て始めた。

「愛しい人。あなたは最期まであの子を想うのね」

 少しだけ悲しみの混じった眼差しで数瞬見つめ、ふわりとその姿は掻き消えた。




 まるで死んだように眠る兄を、弟は泣きそうな貌でただ見守っていた。

 大好きな兄。いつも優しく、忙しい時間を割いては自分を構ってくれた。母や周りの思惑なんてどうでもいい。ただ、自分は兄と一緒にいたかった。――それだけを願った。

「シド様。必ず、ルーク様はお目覚めになりますよ」

 きつくかみ締めすぎて唇は色を失っている。握り締めたこぶしも白くなり、そのあまりの痛々しさにリコは思わず手を差し伸べた。強く握られすぎたこぶしをそっと開き、かみ締められた唇を開かせようと声をかける。

「……うん」

 心細げな表情でうなずき、また視線をベッドに戻した。と、その視線の先が窓辺に変わる。つられてリコも窓を見れば、見たことのない金色の鷹が一羽。

「まさか……!」

 あわてて窓を開ければ、鷹は音もなく入ってくる。何度かルークの周りと回ると、その枕元に翼を休めた。

「カーシャ様の御遣いでいらっしゃいますか?」

「そのとおりだ、巫女よ」

 恐る恐るリコが鷹に問えば、鷹は明確な答えを返す。崇敬する神の一部とも言える遣いを前に、ため息のような吐息を漏らす。手を組み、感謝の祈りを神にささげた。

「お初にお目にかかります。私の名前はリコ。カーシャ様を崇敬するものです」

「私の名前はキアロ。巫女であるリコよ。その畏敬の念を忘れぬ限り、我が主の加護は永遠となるだろう」

 正式な祈りの礼を行うリコの態度を快く想ったのか、キアロは楽しそうに笑って告げた。そうして、真顔――鷹に表情があるかどうかはともかく――になると、ふわりと音もなく舞い上がる。ルークのちょうど真上を大きく旋回すると、その翼から砂金のような光が降り注いだ。光を浴びたルークは、ゆっくりと目を開ける。

「兄上!」

「ルーク様……!」

「シド……リコ……?私は……」

 ぼんやりとした表情で起き上がると、枕元に止まっている鷹に目をやった。そうして、ああ、と小さくつぶやく。

「あなたが……導いてくれたのですね」

 起き上がったままの姿で目礼を返し、すっと手を出す。キアロはためらいもなくその腕に移り、真正面からルークの姿を見た。

「ふむ……。我が主の寵愛を一身に受けられたな。……私は主の命に従ったまで。主人はもう一人の寵愛を受けし者の元におられる。行くがいい」

「ありがとうございます」

 言葉と共に翼を広げ、キアロは狭い室内をゆっくり旋回する。そうしてから音もなく外へと消えた。その姿を見送ると、ルークは立ち上がる。まだ少し体はふらつくが、前よりも快調だ。

「父上に、会いに」

 そこできっと何もかも終わる。

 そんな確信とも取れる想いが胸によぎる。

「ご一緒いたします」

「僕も一緒に行く」

 強い決意を瞳に宿した二人に微笑み、ルークはうなずいた。



 フィージとレオンに連れられ、沙綾は扉の前に立っていた。威圧感を感じ、なぜか扉に触れるのをためらわせる。

「沙綾」

 琳に促され、沙綾は一歩前に出た。そっと扉にふれ、ぐっと力をこめる。わずかにきしんだ音を立てて扉は開いた。中からは沙綾がいつも嗅ぎなれた薬の香りがする。そして――死の香りも。

「銀の娘よ。来たか」

 声は思ったよりもはっきりと聞こえた。病にかすれているが、その声は若いときと変わらぬ魅力を持っている。

「もう少ししたら、我が子らが来るだろう。それまで、その顔をよく見せておくれ」

 呼ばれるままにベッドに歩み寄り、手を差し出す。その手を、枯れ木のようにやせ細った手が壊れ物を握るように触れた。

「苦労している手だね。……いや、苦労をさせてしまったのか」

 薬草を育てるために畑仕事は欠かせず、粉末状にするために石臼も欠かせない。そんな荒仕事を続けていた手は、目立つほどひどくないがマメや手荒れが確実にある。

「綺麗になったな。綺羅によく似てきた。……光をなくしてしまったのか……。すまない」

「母を……私を、知っているのですか?」

 初めて声を出せば、何故かひどく震えていて。アッシュは安心させるように握る手に力をこめた。そうして、沙綾から視線をそらす。

「よく、知っているよ」

 ため息に似た吐息とともに吐き出した言葉は苦い。黙って控えていたフィージに視線を向けた。それだけで彼の意を汲み、フィージが口を開く。

「長い話になりそうです。姫君、どうぞおくつろぎください」

「……ありがとう」

 差し出された椅子に礼を述べて座り、沙綾は暗闇に問いかける。このまま彼の話を聞いていいのかと。けれど、なんど問いかけても話を聞く以外に選択肢は見つからない。聞くことが何故怖いのか解らないまま、沙綾はただ待った。

「父上」

 短いのか長いのか、時間が流れ声が聞こえる。アッシュが何か答える前に扉は開き、ルークとシド、リコが姿を現した。

「父上、お加減はいかがでしょうか?」

 わずかに緊張したようにルークが問えば、アッシュが微かに笑う。そういえば、我が子と話をするのはいつぶりだろうと軽く思案した。そして驚く。記憶にないほどはるか昔だと。

「カーシャのおかげで今は大丈夫だ」

「そうですか……」

 ほっと安堵したその表情は複雑だ。今は、とわざわざ告げた意図は、裏を返せばもう長くないということになる。きゅっとこぶしを握り締め、ルークは言葉を待つ。

「シド、おいで」

「はい」

 父に呼ばれ、兄のそばからゆっくりと離れる。恐々と衰えた父を覗き込めば、意外な眼差しの強さとぶつかった。

「シド。お前は王になりたいか?」

「僕は……」

 突然の質問にシドも含めて全員が驚いた。その危うい質問の内容にルークの体がこわばる。それに気づいているのかいないか、シドは何度か瞳を揺らめかせた。

「母上が、僕を王位につけたがっていることは知っています。でも、僕は、王になりたくありません。ただ、兄上の……兄上の隣にいたいです」

 幼いながらに必死に考えた答えだった。母から毎晩のように聞かされる言葉よりも、兄が名前を呼んでくることのほうがとても魅力的で大切に思える。

 途切れ途切れに選んだ言葉だが、その意志の強さを感じさせるには十分だった。アッシュもルークも、どこかほっとしたように表情を緩める。

「そうか……。……少し、昔話をしようか」

 まぶたを閉じ、昔を思い出すように静かに国王は語り始めた。




 深い深い森の中。アッシュは一人で牡鹿を追っている。数名の供と狩りにきたのだが、夢中で鹿を追いかけるうちにはぐれたらしい。

 あと一息。もう少しで弓が届く。

 そんなときだった。森の木陰から出てきた一人の少女に馬が驚き、アッシュは落馬した。幸いやわらかい土の上だったことと、彼が類まれな乗馬の素質を持っていたために大きな怪我はなかった。

「ごめんなさい!大丈夫ですか?」

 最初、少女を見たときアッシュは目を疑った。その、あまりの美しさに。妖にだまされているのかとも思ったが、少女は駆け寄ってくるともう一度アッシュにたずねた。

「まさか、人がいるとは思わなくて……。ごめんなさい、怪我はありませんか?」

「あ、ああ。大丈夫だ」

 そういって立ち上がろうとしたとき、足首に鋭い痛みが走る。どうやらひねったらしく、立ち上がることは難しそうだ。それに気づいた少女が、眉をひそめてアッシュの足を押さえ込む。か細い腕のどこにそんな力があるのか、押さえ込まれたアッシュは起き上がることができない。

「動かないでください。失礼します」

 一言断りを入れると、少女は手早くブーツを脱がせ足首に触れる。軽く押したり触ったりしていたが、やがてほっとしたように微笑んだ。

「大丈夫、少しひねっただけのようですね。骨に異常はありません。今薬を塗りますので、このままでお待ちくださいね」

 持っていた籠から緑色の葉と赤い葉を数枚取り出す。腰に下げていた筒から綺麗な水で丁寧に葉を洗うと、細かくちぎって手のひらでよく揉み解し、ぺたぺたとアッシュの足首に貼り付けだした。ひんやりとした心地よい冷たさにほっと顔が緩むと、少女と視線が合う。

「ようやく笑ってくださいましたね。……こんな森の中で、自分でも怪しいって思うような人に笑えなんていえることではありませんけど……笑ったほうが魅力的ですよ」

 くすくすと冗談めかして告げると、アッシュも緊張が解けたのか頬が緩んだ。そうして、少女の手元を覗き込みながら感心したように言う。

「器用なものだな。薬師か?」

「はい。森に住む薬師です。……人を相手にすることは滅多にありませんので、外から来た人は少し珍しいんです」

「森に住む……銀の一族か?」

 不意に、少女の手が止まった。その双眸がまっすぐに、探るようにアッシュの目を覗き込む。まるで何もかもを映し出す湖のように、少女の瞳は深く澄んでいた。その瞳を真正面から受け止め、アッシュは初めて気づいた。少女の髪も瞳も、見事な銀色だということに。

「……すまない。答えたくないならそれでいい。……名前だけ、教えてくれるか?」

「…………綺羅と申します。……もうしばらく休めば、馬に乗っても支障はありません。私の村へお連れすることはできませんので、ここでお別れです」

 きゅっと最後の仕上げに白い手巾でアッシュの足首を縛る。そうして、こわばった顔のままゆっくりと後ずさった。

「待ってくれ!すまない、言ってはいけないことを言ってしまったようだ。もう二度と口にしないから、せめてもうしばらく傍にいてくれ」

 このままここで少女と別れるのは耐えがたかった。何故そんなに心惹かれたのかは解らない。美しく、心優しい少女ならば都に山といる。ましてや、自分の身分ならば引く手数多である。それなのに、なぜか綺羅という少女に惹かれた。

「……銀の一族を知っていらっしゃるということは、身分のある方ですね」

「違う。身分など……捨ててしまってもいい」

 どうせ自分は必要のない人間だ。

 そんな思いとは裏腹に、必要としてほしいという思いがあふれ、やり場のない憤りに今日森へ来た。

「……少し、お話をしましょうか。あなたが馬に乗れるまで」

 アッシュの様子に何か感じたのか、綺羅は困ったような微笑を浮かべて彼の隣に腰を下ろした。

 綺羅からは何もしゃべらない。アッシュも、いざ話となると何を話していいのかわからなかった。ただ無為に過ぎる時間がもったいなくて、思うままに口を開く。

「私は……必要のない人間なんだ」

「何故ですか?必要のない存在など、この世界には存在ませんよ。例えば、小さな虫。この虫ですら、いなければならない存在なのですから。あなたが必要ないなら、虫にも劣る存在になってしまいますよ?」

 くすくすと笑ってそう告げると、さすがにアッシュは顔をしかめる。踏み潰すことも簡単な虫以下の存在にはなりたくない。

「母は……弟ばかりを目にかける。私よりも弟は従順でおとなしくて、かわいいのだろう」

 そんな母の言いなりになっている弟も嫌いだった。後から生まれてきたくせに、大好きだった母を横取り、自分を見下す。弟よりも優れていると証明すれば、母は弟に花を持たせることもできないのかと非難し、弟はわざと負けて母に泣きつく日々。

「あなたは実際、弟よりも優れているのでしょう?ならば何を卑下するんですか。あなたはただ逃げているだけです。誰も見てくれない、ではなく、誰も見ようとしない。だから、だれもあなたを気にかけない。それだけの存在だと決め付けているんですよ」

 まっすぐに自分を見つめる綺羅の視線に、はっとした。彼女の言うことは、正しい。弟なんかいなくなれと、ただそれだけを願っていた。どうあがいても実際に弟はそこに存在しているのだから、それは消せない事実。それから逃げ回り、周りがすべて悪いと決め付けていた。

「……そう、だな」

「大丈夫。あなたならば立派な王になれますよ」

 にこりと笑って告げると、綺羅は立ち上がって駆け出す。彼女の言葉に驚いているアッシュをその場に残し、すこし離れた位置に立ち止まる。

「何故……」

「金の髪。湖の瞳。カーシャ様のご寵愛を受けていらっしゃる方が、立派でないはずはありません。どうぞ、双つの神のご加護がありますように」

 不思議な一礼をすると、綺羅はそのまま森の中へ消えていった。それと入れ違うように、はぐれた従者が駆けてくる。

「アッシュ様!お一人で先に行かれるから……どうなさいました?」

「……森の、精霊に助けられたよ」

「は?アッシュ様?」

 ぼんやりしたその様子と怪我の手当てを見比べ、ただ従者は訝るように主人を見るばかりだ。そんな従者の様子にも気づかずに、アッシュは綺羅が消えた森をただひたすら見つめていた。



 それからしばらくたった頃のことだ。春が終わりを告げ、夏がやってくるころ。アッシュは、どうしてもあの日出会った少女――綺羅のことが忘れられずに、再び森へと出かけた。うまく森の木陰に供をまき、うろ覚えの道をゆっくりと進む。そうして、少女が自分を手当てしてくれた場所までどうにかたどり着いた。

 馬をつなぎ、草の上にごろりと横になる。鳥の声が聞こえ、虫が鳴き、なんとも穏やかだ。木陰に入ればそよ風は涼しく、ついうとうとまどろみ始める。そうすれば、がさりと人の足音が聞こえた。はっとして身を起こすと、剣に手を添えて油断なく見回す。そうすれば、あの日と同じように木陰から少女が姿を現した。

「まぁ……またどこかお怪我をされたのですか?」

 心底驚いたのか、望月のように双眸が丸く開かれる。少しはにかんだように笑うと、ゆっくりと近づいてきた。

「お久しぶりです。今日はどうされたのですか?」

 自分にこびるでもなく、ただ自然と向き合ってくれる少女。そうして気づいた。自分は彼女のことが好きなのだと。

「今日は……綺羅に……いや、馬を少し、見てもらいたくて」

「変わったお方。馬のためにわざわざこんな森の奥まで来るなんて。昼間は大丈夫ですけど、夜は決して来てはいけませんよ」

 足取りも軽くつないである馬に歩み寄りながら綺羅はさりげなく告げた。一瞬言葉を聞き逃すが、何故とすぐに疑問がわく。その疑問のままに問いかけると、なんていうこともなく少女から答えが返ってきた。

「狼が出ます。私たち銀の民は狼は信頼できる友達ですが、それ以外の方には容赦なく牙と爪をむきますので気をつけてくださいね。……少し足が腫れてますね。手入れは綺麗にされていますけど、無茶な走りかたをしたのでしょう。もう少しいたわってあげてください」

 少しだけ怒ったように、しかし馬から目をそらさずに綺羅は告げる。馬に優しく語りかけ、首筋を撫でてから足に薬草を塗りだした。そうして、何を思ったのか懐から細身のナイフを取り出すと無造作に指先を傷つける。

「何を――」

「知っていらっしゃるでしょう?私たち銀の民の血が、何に使われるかを」

 少しだけ冷ややかな声。その声に頭の芯がすっと冴え渡り、そういえばと思い出す。

「……銀の神に愛されし者は、その体が薬となる。液体は万能薬となり、肉と骨は若さを、臓腑は永遠の命を与える」

「そんなことをいまだに信じていらっしゃるんですね。すべておとぎ話ですよ。もちろん、血や涙が薬にはなります。他の薬草に混ぜて使えばたちどころに傷はふさがり、体の痛みはなくなる。けれど、それだけです。永遠の命も若さも、そんなものを銀歌様は与えたりしません。……私たちは薬師の一族。ただほんの少し、銀歌様から恵みをいただき、怪我や病をほんの少しだけ早く治す業を持っているだけです。銀歌様は心優しいお方ですから……」

 何の感情もなく、けれど崇める神の名を呼ぶときだけは幸福そうに。淡々と事実だけを告げる少女の顔は、アッシュからは見えない。ただ、その冷たい響きが何故彼女らが深い森の中で生きているのかを語っていた。

「……すまない」

「あなたが謝る必要は何もありませんよ。すべてあるがままに。それが、銀歌様の教えでもあります」

 振り返り、にこりと微笑んだその姿はごく普通の少女に見えた。心優しく、美しい少女。アッシュは綺羅に歩み寄ると、その手をそっと握る。

「綺羅。私の薬師になってくれないか?」

 アッシュの湖の瞳と綺羅の月の瞳がぶつかった。二人とも言葉は口にせず、ただ探るように互いの双眸を見つめあう。

 先に言葉を紡いだのは、綺羅。

「殿下。私は、銀歌様にお仕えする巫女。たとえこの世のすべてを持つ国王陛下のお頼みであっても、それは聞き届けられません」

「もし……もし、私が王子の身分を……」

「その先は言ってはなりません。あなたは必ず次の国王になるお方。人々に必要とされるお方です。軽々しくそんなことをいってはなりません」

 アッシュの言葉を封じると、綺羅は少し悩むように顔をうつむける。そうして、仕方ないと小さく苦笑した。

「殿下。友達になりましょうか。殿下のために薬を煎じることはできませんが、あなたのために馬を見たり、話をしたりすることはできます」

「友達……」

 それは、不思議な響きだった。乳兄弟と呼ばれるものや、従者となるものは大勢いたが、友達と呼べるものは一人もいなかった。それを、綺羅はにこやかに友達になろうといってくれたのだ。こんなうれしい申し出は今まであっただろうか。

「そう、友達です。あなたの話を聞くことなら、私はできます」

「……ありがとう」

 何よりもうれしい申し出に、アッシュの顔がほころびた。そのくったくない笑顔に綺羅も笑い、いたずらっぽく告げる。

「あなたの名前は?」

「アッシュ。ただの、アッシュだ」

「アッシュ。いい名前ね。……満月の日は朝からここに来ているわ」

「わかった」

 そうして、アッシュと綺羅の穏やかな日々が始まった。



「それは、永遠に続くと思っていた」

 そう、アッシュは続ける。老いた顔は昔を思い出してか顔に赤みが戻り、幾分若く見えた。

 誰も何も言わない。ただ老人とその子供、運命の子らの吐息が響くばかりだ。

「何度も何度も、綺羅と会って話をしたよ。それはとても楽しい日々だった。彼女を愛おしいと思っていたが、手に入れようとは思わなかった。綺羅にとって、私だけが特別だと……そう信じていたから」




 夢のような日々が崩れたその日。朝から小雨が降りしきる、あまり天気のいい日とはいえなかった。それでもアッシュは馬を急がせ、いつもの場所に着いた。

「アッシュ!ねぇ、きいて、とても嬉しいことがあったの」

「どうしたんだ?」

 抱きついてくる綺羅を受け止めながら、アッシュは首をかしげる。今までこんなに喜んでいる綺羅の姿は見たことがなかった。戸惑いと、微かな不安がアッシュの胸をよぎるが、綺羅は気づかない。喜びに頬を紅潮させ、言葉を紡いだ。

「娘にやっと逢えるの。一週間後、娘が三つになるわ。……私たち一族の間では、巫女の子供は三つになるまで他人と交わってはいけないしきたりなの。その間は月下という身分の女が子を育て、たとえそれが血を分けた両親であっても会うことは許されない。けれど、三つになったら誰にも邪魔されずに、やっと本当の家族になるの」

 立て板に水のごとく、喜びを告げる綺羅。アッシュの表情が見る間に変わることにも気づかない。

「娘……?子供が?」

「ええ、そうよ。私の子供。ああ……やっと沙綾にあえるわ」

 愛しい子供の姿を思ってか、綺羅の姿は一段と美しかった。けれど、その姿がアッシュの心に影を生む。

 子供がいる。

 娘が。

 ならば、夫もいるのだろう。

 私だけの綺羅。

 ――私だけの、綺羅だった。

「……そうか、それは……嬉しいだろう。……すまない、今日は少し気分が優れない。戻るよ」

「大変、顔色が悪いわ。ごめんなさい、自分のことですごく舞い上がってしまって……薬はいる?」

「いや、大丈夫。横になればすぐによくなるよ」

 心配する綺羅を振り切り、早足で馬に向かう。そのまま訝る綺羅を置き去りに駆け去った。

 どこをどう通ったのかまったく覚えていない。気づけば雨は豪雨となり、ぐしょぬれのまま王宮にたどり着いた。誰もいない抜け道を通り、部屋まで行く。乱暴に濡れた服を脱ぎ捨て部屋着に着替える。そのままベッドに横になると、目を閉じた。

「綺羅……」

 名前をつぶやき、顔をゆがめる。瞼の裏に浮かぶのは、先ほどの喜びに満ちた表情。白い頬を紅潮させ、満月のような瞳を輝かせたその姿。その姿を追い払うように頭を大きく振る。けれど幻は消えるどころか大きくふくらみ、やがてもう一つの幻を生み出す。

 綺羅に手を引かれた子供。その子供を挟むように立つ夫。やがて綺羅は、アッシュを置いて歩き出した。その後姿に追いすがっても追いつけない。

「綺羅――!」

 声に出して名前を呼び、ようやく幻を振り払った。その額には汗が浮かび、顔色は悪い。雨に当たったせいか悪寒まで感じてきて、アッシュは苛立ったように起き上がった。


――トン トン――


 そんなときだった。扉をたたく音が聞こえ顔をしかめる。

「今は誰にも会いたくない。帰れ」

 不機嫌そのものの声で部屋からそう告げるが、扉の前にいる人物は気にした風もなく言った。

「国王陛下。今私に会わないと後悔されますよ」

「……無礼者。誰だ?」

 不遜な物言いにむっときたアッシュは、乱暴にドアを開ける。そこにいたのは、見知らぬ人物。黒一色でまとめた緩いローブに、目深に被った黒いヴェール。小柄なその体つきから女かとも思ったが、すぐに違うと気づく。

「銀の一族から参ったものです」

 綺羅が初めて見せた不思議で複雑な一礼をすると、ぱさりとフードを下ろした。そうして気づく。男に銀の色がないことを。

「本当に銀の一族か?」

 文献では、銀の一族はその体に銀色を宿すといわれている。一族のほとんどは髪や瞳に色が現れるが、まれに爪や髪の一部だけが銀色であったりすることもあるが、必ずどこかに宿しているはずだ。銀は銀歌の色。その聖なる色を宿すものだけが銀の一族となれるとある。

「私は異端のものです。だからこうしていつもフードを被っているのですよ」

「……入れ」

 男を招きいれ、アッシュは黙ったまま椅子に座る。そうして、彼の出方を待った。

「陛下。陛下は巫女が愛おしいのでしょう?」

「何故……」

 ぎくりと体をこわばらせ、真正面から男を見つめた。その深い黒の瞳に吸い込まれそうになり、慌てて視線をそらす。その様子を楽しそうに見つめ、続けた。

「陛下がいつも遠乗りで向かう先は、古の森。あそこには、我らが銀の一族がおります。陛下と巫女がどうやって出会ったのかは解りかねますが、陛下は巫女を愛した。けれど、巫女は陛下を愛していなかった。違いますか?」

 淡々と語るその口調に、なぜか恐怖がわきあがる。暗い闇の中に独りでいるときのような、なんともいえない恐怖。何があるわけでもないし、何もないはずなのに、なぜか「怖い」と感じる。それと同時に、誰にも話していないことを知る男に興味が沸いた。

「どうやって知った?」

「私は異端の者。銀の一族であり、銀の一族ではないもの。もう一つの月、新月を崇めるものにございます」

「新月を?」

「はい。銀の一族の中のほんの一握りのものだけが新月を崇めます。新月を崇拝するものは闇の一族と呼ばれ、薬師の能力を失います。代わりに、別な力が手に入るのですよ」

 ふわりと微笑んだその姿は、美しくそして妖のように魔性を秘めている。たおやかな姿に隠された毒に気づけずに、アッシュは言葉を紡いだ。

「……話を、聞こうか」

「ありがとうございます」



ふっと、息を継ぐ音が響いた。その声がかすれていることに気づき、フィージは席を立つ。その音で痛いくらいの緊張を帯びていた場が緩んだ。

「陛下、少しお休みください」

 カチャリと音を立てて茶器がなり、フィージがいたわるように声をかける。それにうなずき、アッシュは緩慢な動作で体を起こす。途端、激しい痛みが胸を襲い、かがみこんで咳き込む。

「父上!」

 ルークとシドが同時に立ち上がり、その小さくなった背をゆっくりと撫でた。なだめるように動く手のひらに、徐々にアッシュの呼吸が静まる。

「大丈夫だ」

 ふー、と大きく息を吐くと、フィージからぬるい白湯を受け取った。ゆっくりと口の中で転がすようにして飲み込み、呼吸を整える。

「カーシャ、おるかね?」

「もちろん、お傍に」

 アッシュが呼ぶと同時にふわりと金の光が舞った。それは人の姿を形作り、驚く皆にいたずらに笑いかける。

 体重を感じさせない動作で床に舞い降りると、心配そうにアッシュの顔を覗き込んだ。

「無理をして……私にも限界があるわ」

「それでも、話さなければならないだろう?」

「……そうね」

 すっとカーシャの唇がアッシュの唇と重なりすぐに離れる。その瞬間、目に見えてアッシュの顔色がよくなった。ほっと安堵の息を漏らす子供たちに笑いかけ、すっと手を伸ばす。

「ルーク。アッシュの次に愛しい子。あなたが次の国王よ。アッシュの変わりに、この国を、私のかわいい子らを導いて」

「わかりました」

「いい目をしているわ。アッシュと同じ瞳。……シド。あなたは王にはなれないけれど、決してひがんではダメよ。ルークを、兄を支えなさい。それはあなたにしかできないことよ」

「は、はい」

 緊張に少々上ずった口調でシドはうなずき、そうして兄を見た。ルークの厳しい目にその重責を知り、必ず兄を助けようと心に誓う。そんなシドの内を見透かしたようにカーシャは笑い、リコに視線を転じた。

「リコ。いつもあなたの祈りを聞いているわ。あなたの祈りは私の命。ありがとう」

「い、いいえ!私の祈りなど、些細なもので……私を含めて、民全員がカーシャ様をお慕いしております」

「あなたのその純粋さが大好きよ。だから……どうか、真実を知っても悲しまないでね」

「え……?」

 何を、と問い返す間を与えずに、カーシャはすっとリコから視線をはずす。それに戸惑いながらも問いかける機を逃し、リコは唇をかんだ。

 金の女神は視線をフィージに向ける。複雑なその眼差しの意味に気づき、フィージはただ首を横に振った。それに少しだけ悲しそうな視線で見つめ返し、レオンを見る。

「レオン。いつもルークを支えてくれてありがとう。これからも、何があっても私の愛しい子を見守ってあげて」

「お約束します」

 真摯な瞳でカーシャを見つめ返し、レオンはしっかりとうなずいた。それに満足して微笑み、最期に銀の娘と狼の隣に行く。

「沙綾……ごめんなさい」

「何を……何を、謝られるのですか?」

 不安にきつくこぶしを握り締め、沙綾はかすかにゆれる声音で問う。

「あの人を、止められなくて……」

 碧い双眸に涙をいっぱい浮かべ、カーシャはうつむいた。その姿にそれ以上問えずに、沙綾は口を閉ざす。すると、何もない空間から突然声が降ってきた。

「カーシャが謝ることではないよ」

「兄様?」

 カーシャが顔を上げると、沙綾の後ろにいつの間にか影が立っていた。銀色の影はすぐに人型となり、神の姿と変わる。誰もが初めてみるその姿に驚き、やがて慌てて深く頭をたれた。崇敬する神ではないが、それが当たり前のことと。

「お前一人の責任ではないよ。私にも……非はある」

「でも……」

「私は自分の中の欲に負けた。だから、私の愛しい子をいつまでも悲しませている。…アッシュ」

「はい」

 カーシャから視線をはずすと、銀歌はアッシュに視線を転じた。老いた国王は、その眼差しを真正面から受け止める。一瞬だけ揺らめいた瞳には罪悪感に彩られていた。

「この続きは、私が話そう」

「……よろしく、お願いいたします」

 ベッドの上から深く頭を垂れ、アッシュは悲しみと後悔に顔をゆがめる。その表情が見えたかのように、銀歌は一つ瞬いた。

「アッシュ、楽にしていなさい。カーシャの加護も、無理をすれば長く続かない」

 銀歌の言葉に続き、カーシャがそっとアッシュの背中に手を添える。そのままいたわるように横たわらせ、それをみてから銀歌は口を開いた。

「男とアッシュは、ある一つの計画を立てた」



 あの雨の日から、何年も時が経った。何度も何度も満月は訪れたが、アッシュは訪れない。かといって、綺羅から彼に連絡を取るすべはなかった。ただ、そこで彼を待つだけだった。

「今日も、来ないかな……」

 もうこないかもしれないとそんな思いが何度も頭をちらついたが、最後に会ったときの彼が気になって仕方がない。もしも、という淡い期待を抱き、結局何度も足を運んでしまうのだ。

 綺羅があきらめのため息とともに村へ戻ろうとしたその瞬間。遠くから微かにひずめの音が響く。綺羅はその音へ向かって無我夢中で駆け出した。

「アッシュ!」

「綺羅……」

 少し見ないうちに、彼女はさらに綺麗になった気がする。うっとりと目を細め、その美貌をしっかりとまぶたに焼き付けた。きっと、自分は彼女に嫌われてしまうだろうから。それでも、それでも――

「綺羅、一つだけ頼みがある」

「何?」

「一度でいい。君の家族にあわせてくれないか?」

 それは無謀ともいえる言葉。銀の一族は決してよそ者を村にいれない。けれど、もしも、

綺羅が自分を少しでも愛してくれているのならば――たとえそれが、友愛だとしても。

「……わかったわ。今夜、望月の祭りがあるの。そのときに。……あなたは大切な友人だわ。私の娘を見てもらいたい」

 少しだけ迷ってから、綺羅はうなずいた。うなずいて、しまった。

 アッシュは一度硬く目を閉じると、ありがとうとかすれるような声でつぶやく。そのとき、綺羅は気づけなかった。友人の様子がおかしいことに。

「そうね……月が中天に昇るころ、またこの場所で。あまり早くいったら、村の人にばれてしまうわ」

 くすりと笑い、いまだ馬上のアッシュを見上げる。手綱を取る手にそっと触れ、押し戴くように額に当てた。

「アッシュ、あなたは私の初めての友達よ。巫女である私に気安く話しかける人はいないわ。夫を愛している。けれど、それと同じくらいあなたも大切よ」

「綺羅……」

「また夜にね。待っているわ」

 何か言いかけたアッシュをその場に残し、綺羅は駆け去った。その姿を見送り、アッシュは一度天を仰ぐ。唇だけで愛しい人の名前をつぶやき、自嘲するように笑った。

「もう、遅い……」



 星が瞬き、満ち満ちた月が天を飾る夜が来た。綺羅は巫女装束に身を包み、アッシュを待っている。その横には、彼女にそっくりな子供の姿。

「沙綾。これから来る人のことは、誰にも言っちゃだめよ?」

「父様にも夕凪にも言っちゃダメなの?」

 小さな手で母の指をしっかりと握り、沙綾は不思議そうに問うた。なぜなら、母は父と夕凪には何でも話しなさいといつも言っていたからだ。いつもといっていることが違うと、不思議そうに首をかしげる。そんな我が子の姿をみて、綺羅は微笑んだ。

「他のことなら何でも話していいのよ。これから来る人は、私と沙綾だけの友達だからよ」

「ともだち?」

「そう、友達。もう少ししたらあなたにも友達ができるわ」

 母の言うことは半分も理解できなかったが、ただこれから来る人は特別な人なのだと。それだけは解った。だから、沙綾は目を輝かせてうなずく。

「うん、わかった。母様と二人だけのひみつだね。あ、でも……りんにも言っちゃダメ?」

「琳にはいいわよ。琳に隠し事はできないからね」

 くすくすと楽しそうに笑って母はうなずいた。綺羅の許可をもらい、沙綾は目に見えてほっとした表情になる。そんな娘を愛おしそうに見つめていると、やがて蹄の音が聞こえてきた。けれど、何かが違う。いつもの聞きなれた音ではない。

「……沙綾、村へ戻りなさい。父様のところへ行くの」

「母様は?」

「すぐに行くわ。だから、急いで」

 ただならぬその様子におびえ、それでも沙綾は駆け出した。すぐに父に知らせなければとそれだけを思い、一心に走る。

 やがてその姿が見えなくなると、アッシュがやってきた。しかし、いつもと様子が違う。硬質なよろいを身につけ、その後ろにも十騎ほどの騎士がいる。

「アッシュ。どういうこと?」

「……綺羅、私ときてもらう。さもなければ、このまま森は炎に包まれることになるだろう」

「……なんですって?」

 あまりに言われたことが非現実的で、思わず綺羅は問い返した。冗談だろうと思いたくて、けれども彼はきっと本気だろうとなぜか解る。

「私と一緒に来い。お前が来れば、村も子供も無事だ」

「……アッシュ。本気なの?そんなバカなこと、本気で考えているの?」

「本気だし、バカなことでもない。……最初から、こうすればよかったのだ」

「ふざけないで!私はあなたのものにはならないと最初に言ったはずよ」

「それならば……仕方がない」

 アッシュが手を振ると同時に、十騎の馬が一気に森の奥へと駆け出した。それをみて、綺羅も反射的に駆け出そうとするがその行く手をアッシュがさえぎった。

「どいて!あそこには私の家族がいるのよ。あなたと一緒に行く気はないわ!」

「綺羅。私のものになれ」

「いやよ!私は銀の一族の巫女。いつか銀歌様にお仕えするの。あなたの元には死んでも行かないわ」

「そうか……」

 どこか解っていたような、あきらめたような声。その声音に一瞬気を抜いた瞬間、綺羅は馬上の人となっていた。無理やり馬に抱き上げられたのだ。

「下ろして!アッシュ、目を覚まして!いつものあなたに戻って!」

「暴れるな。落ちる」

 闇雲に暴れる綺羅を器用に抱きなおすと、馬を走らせる。その先は森の外ではなく中。村へと向かっていた。

 綺羅が見た村は、悲惨な状況だった。炎が木々を燃やし、たった十人の男が村を蹂躙している。幼い女子供は逃げ惑い、男は立ち向かうも人形のように倒れていく。

「ひどい……!」

「お前がしたことだ。お前が素直に言うことを聞かないから、こうなった」

「私のせい……?……アッシュ、お願い……下ろして」

 涙で顔をぬらし、アッシュを見つめる。その銀色の眼差しに貫かれ、アッシュは一瞬腕の力を抜いた。その瞬間、馬から転がり落ちるように綺羅は抜け出す。走った先は、愛する家族の元。

「綺羅!」

 戻れという男の声を無視し、綺羅はひたすら走った。そして、目を見開く。家は炎に包まれ、その前に倒れているのは自分が愛した夫。

「皓貴!いや……お願い、目を開けて……」

「きら……?」

「こうき!」

 うわごとのように名前をつぶやいた男にすがりつき、綺羅は涙ながらに名前を叫ぶ。今から自分の血を飲ませても、間に合わない。もう、命のともし火が消えかかっているのが解った。

「き、ら。愛しているよ。私はいいから、沙綾を……かわいい私たちの娘を・・・」

「皓貴……いやよ……」

「綺羅。わがままを言わないで。さぁ……」

 ぎこちない仕草で涙を流す妻の髪を撫で、促す。綺羅は何度も迷いに視線を揺らめかせたが、やがてその唇に最期のキスをすると勢いよく駆け出した。

 涙で曇る視界を拭い去り、今はただ愛する娘のことだけを考える。

「さあや!りん!」

 大声で名前を呼びながら走るその姿を、不思議と誰も止めなかった。もしかしたら、アッシュにそう命じられていたのかもしれない。今はそれが好都合とばかりにひたすら走る。

「助けて!」

 遠くから悲鳴のような声が聞こえ、綺羅は足を速めた。遠すぎて娘かどうか判断はできないが、もしかしたらと望みをかける。

 果たして、そこにはぐったりと動かない狼の姿と、同じように血を流して倒れている娘の姿があった。そして、そこにさらに刃をつきたてようとする男の姿。

「さあや!」

 綺羅は声限りに叫ぶと、渾身の力で男に体当たりをした。男はよろめき、刃はそれる。その隙に娘を抱きしめた。

「沙綾!」

 返事のない娘にさっと顔から血の気がうせる。けれど今はこの場を離れることが先と、娘を抱いたまま駆け出した。

 闇雲に走り、大木の陰に隠れる。

「沙綾、沙綾。お願い、目を覚まして……」

 頬を撫で、綺羅は何度もキスをする。やがてまぶたが動き、ゆっくりと黎明の瞳が母を捕らえた。

「母……様?」

「あぁ……沙綾……」

 ぎゅっと抱きしめ、もう一度娘にキスをする。それにほんの少しだけ微笑み、沙綾はすぐに意識を手放した。血の気の失せた表情に綺羅は息を呑み、沙綾をしっかりと抱きしめたまま月を見上げる。銀色に輝く双眸でまっすぐに満ちた月を見つめ、静かに祈りを捧げた。すると、銀の光がすっと人型となっておりてくる。

「銀歌様。どうか、この子をお願いします。私は……すぐにあなたの元へ参ります」

 きっとそうなるであろうと、どこか確信した口調。それに小さく瞬き、銀歌は軽く吐息を漏らした。

「私の元へきても……私のものにはならないのだろう?愛しい娘よ」

「……私は……皓貴を愛しています。すべてあなたのもの。けれど、これだけは譲れないのです」

「ならば、お前のかわりに娘をもらおう。私と愛しい子と、あれの血が混ざったこの娘を」

「……沙綾の命が助かるならば」

「必ず約束しよう」

「ありがとうございます」

 そういって微笑んだ瞬間、背後に気配を感じた。そのときには既に遅く、痛みというよりも焼けるような熱が背中を襲った。声もなく沙綾を抱きしめたまま倒れる綺羅。その衝撃か、沙綾の瞳が開いた。

「さあや、怪我はない?」

「母様……?」

「どこも、いたくない?」

 かすれるような、泣きそうな声で母が尋ねると、娘は精一杯微笑んでうなずいた。なんとか母を安心させたかったのだが、いつもと違うその気配に顔がこわばる。

「痛くないよ。母様が抱きしめてくれるから……どこも、いたくないよ」

「よか……た。……ごめ、ね、さあや。母様、なにもにしてあげられなくて。一緒に、いられなくて、ごめん……ね」

「一緒に、いられないの?母様……どこかにいったら、やだよぉ」

 ひっく、と幼い泣き声が聞こえ、綺羅は困ったように微笑んだ。その双眸から涙があふれ。ごぼりといやな音を立てて喉から血があふれ出る。

「泣かないで。父様と……いつも、沙綾を……見守っているから」

 そういって、娘に口付けようとした瞬間。意識が闇に落ち、腕がずるりと外れる。

 幼い子供には支えきれずに、母の体の下敷きになる。けれどその重みは心地よく、そして悲しくて。沙綾はその体にしがみつくようにして叫んだ。

 心からの叫びに、あたりが銀色に染まる。やがて銀白色に森は染まり、光が消えた後には何も残っていなかった。そう、あれだけ森を紅に染めた炎も、凶刃を手にした男たちも、村人の、母の亡骸も。すべてが何もなかったように消えうせた。ただそこに在ったのは、小さな子供と一匹の狼、そして間違いを犯した国王の姿。

「これは……」

 唐突にすべてが消えてしまった森の中でアッシュが呆然としていると、銀色の光が一つの影になる。それは書物で見たことのある月の神の姿。

「月の……神?」

「哀しきものよ。我が妹の加護を受けし者よ。何故間違いを犯した?」

「私は……私はただ、あの娘がほしかった。誰よりも私を理解してくれたあの娘が。なのに……娘は私を裏切った」

 怒りのにじむ声に銀歌は悲しそうにまぶたを伏せる。すっと右手をあげると、そこには生前そのものの綺羅の姿が浮かび上がった。

「アッシュ。私は言ったわ。あなたのものにはならないと。……なれないと。私は銀の神に仕える巫女。銀歌様のものよ。皓貴を……夫を愛しているわ。けれど、やがて私は銀歌様の元へいく。それを承知で、皓貴も私を愛してくれたわ」

「月の神の元へ行くのは、お前が死んでからのことだろう?それまで、お前はあいつのものになる。あいつに微笑みかけ、あいつの腕の中で眠る。それが許せない」

 悲しみをたたえた綺羅の瞳から、涙が一滴零れ落ちた。その涙はとめどくなくあふれ、綺羅の美しい顔がゆがむ。

「私は、あなたのものでもあったのよ。私に友達はいない。あなたにもいない。あなたを理解し、私を理解してくれるあなたは、私のたった一人の友達よ。なのに、あなたは私のすべてを欲した。……悲しいことよ」

「何故だ?何故私ではいけなかった。お前は私を理解してくれて、私はお前を理解した。それなのに、何故いけなかった?」

「あなたは、たった一つだけ理解してくれなかった。それは、私が巫女であること。生まれたときから銀歌様のものであることを、理解してくれなかった」

 アッシュには何を言われているのかが解らなかった。彼女が銀歌のものであるということは理解しているのに、何故理解していないといわれなければならないのか。それが解らなかった。

「こういえば解るかしら?私と皓貴は清い仲よ。正確には少し違うけれど……沙綾は、皓貴の血を受け継いでいるけれど、同時に銀歌様の血を受け継いでいるの」

「……何?」

「皓貴は覡なのよ。その身に銀歌様をのせることができる人。私は皓貴と契りを結んだわけではないわ。銀歌様と契りを結んだの」

 なんという男だと、正直な感想はそれだった。

 たとえそれが神だとしても、愛した女を与えることができる男はそうそういるものではない。もし自分が覡だとしても、決してできはしないだろう。神をおろしているときの感覚はわからないが、それは自分であって自分ではないときのこと。そんなときに女を愛することは、自分ならばできない。たとえそれが役目であっても。

「皓貴は、銀歌様のために存在する人。そして、私は銀歌様のものなのよ。たとえ、皓貴を愛していたとしても、私は皓貴のものにはなれないの」

「私は……」

 ふらりと揺らめいたその体を、綺羅が抱きしめることはもうできない。手を伸ばしても、その手がぬくもりをつかむことはできない。それは、自分がしてしまったこと。

「私は……!」

「もう、終わってしまったことよ。だから……この森には二度と近づかないで。最期のお願いよ」

「……約束、しよう」

「ありがとう」

 ふわりと微笑み、綺羅は空気に溶けるように消えた。その姿を見送り、アッシュは疲れたように肩を落とす。その姿を憐れみをこめて見つめ、銀歌は告げた。

「今日のことは、誰の記憶にも残らない。すべて夢の出来事となろう。けれど……我が妻が許したとしても、私はお前を許すことはできない」

「……承知しております」

 すべては自分の欲から生まれてしまった悲劇だ。どんなことを言われても耐える覚悟はあった。

「お前には、今夜のことを克明に……そう、悲鳴のすべてを、木々が燃えるにおいを、人が倒れる音を。すべて覚えておいてもらう」

「……仰せのままに」

 深く頭をたれた瞬間、アッシュは自室に戻っていた。鎧は着ておらず、柔らかなガウンにその身は包まれていたが、血のにおいだけが夢ではないと語っている。

「綺羅……」

 愛した女性の名前を小さくつぶやき、アッシュは倒れこむように眠りについた。



「眠って、起きて。あの夜の出来事を知っている者に聞いてみたが、誰も覚えていなかったよ」

 口を閉ざした銀歌のあとをつぐように、アッシュが言葉を紡いだ。けれど、彼は今でも覚えていると、そうつぶやく。

「沙綾。私を恨んでくれていい。綺羅をお前から奪ったのは、私なのだから」

「私は……」

 青ざめた顔でアッシュを見つめる沙綾を、銀歌が優しく抱きしめる。そのぬくもりに助けられるように沙綾は口を開いた。

「あなたをそそのかした男は、誰なのですか?」

「あの夜の後、どこへ消えたのか私は知らない。名前は、闇樹といった」

 アッシュのその言葉に息を呑んだのは、沙綾ではなくリコ。真っ青な顔で衝撃と落胆と絶望をない交ぜにしたような視線を向ける。

「それは……本当なのでしょうか?」

「ああ。覚えているよ。黒に銀をちりばめたような髪に、闇のように深い漆黒の目。女のように華奢だが……あれは、闇に属するものだ」

「アンジュ様が……」

 ふらりとゆれたその体を、いつの間にか背後に来ていたフィージが支える。リコの様子が腑に落ちず、アッシュは問いかけるようにフィージに視線を向けた。

「アンジュは……現在、神官を務めております。……王妃様と共謀なさって……ルーク様を……」

「そうか……。あれの望みは、たぶん沙綾だろう。綺羅に固執していたからな。……恋敵はなんとなくわかるものだ」

 くすりと悪戯に笑い、けれどすぐに笑顔を消すとシドに目を向ける。リコほどではないが、シドの顔色も悪い。

「シド。お前の母親は、本当は心根の優しい女だ。それは私が保障しよう。そこまで気に病むことはない。ルークも、あれを恨んではいけない。……あれは、心根は優しいが少し臆病でな。お前の母親が完璧すぎて、自分もそうでなければならないともがいているのだよ。許しておくれ」

「……昔、シドの……いえ、義母上に、おまえは義母上の子供だとそういっていただいたことがあります。その言葉を信じております」

 ルークとシドはうなずくと、それを満足そうに見やり、アッシュはまぶたを閉じた。ひどく疲れたのか、顔色があまりよくない。

「アッシュ。そろそろ限界よ。眠りなさい」

 優しくカーシャがささやくと、アッシュは疲れたようにため息を漏らす。その姿を見ていた銀歌は、一つ瞬くとすっとアッシュの額に手を伸ばした。

「アッシュ。哀れな子よ。お前はやがてカーシャの元へいく。それでも我が妻が忘れられないか?」

「……カーシャの元へいく、そのときまでは。どうぞ、彼の人を想わせてください」

「ならば、夢を授けよう。カーシャの元へ行くまで、あの娘と過ごす夢を」

 そうささやくと、アッシュはすっと眠りに落ちた。カーシャはその姿を複雑な眼差しで見つめる。

「ルーク、シド。一週間。愛しい人が、あなたたちとともに過ごせる時間よ」

 それは、死を宣告されたに等しい。けれど、二人ともわかっていた。静かにうなずき、シドはルークの手をしっかりと握る。

「兄様」

「解った」

 言葉少なに兄弟は視線を交わし、ふっとカーシャの姿は消えた。そうして残された銀歌は、沙綾に視線を向ける。

「闇樹の元へ行こうか」

「……はい」

 ともすれば足元が揺らいでしまいそうな不思議な感覚。気力だけでしのいでいる沙綾を勇気付けるように、銀歌はその手をきつく握り締めた。

「巫女よ。お前はどうする?」

「私は……私は……」

 きゅっと唇をかみ締め、リコはまぶたを閉じた。

 聞きたいことがたくさんある。けれども、聞くことが怖い。

 迷うリコに、そっとフィージが手を伸ばした。

「迷っているならば、気持ちの整理をつけてから行きなさい。今のまま彼に会ったら、きっと言いたいことの半分も言葉になりませんよ」

「……はい、兄様。……後から、必ず、いきます」

 揺れる瞳のまま沙綾に告げると、沙綾はふわりと微笑んだ。彼女も戸惑い混乱しているだろうに、その強さを羨ましく思う。

「気をつけて」

 ルークの声が響き、その瞬間視界は銀白色に変わった。



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