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銀の薬師  作者: 綾月魁夜
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6/9

事件

6 事件


 翌日の早朝。まだ朝もやが立ち込める森を二頭の馬と一匹の狼が先を急いでいた。はやる気持ちを抑え、濡れた地面に足をとられないように急ぐ。

 見慣れた家が見えてきた。一週間程離れていただけだったが、なぜだかひどく懐かしく思える。

「夕凪……?」

 玄関先に倒れている人影。その姿が見えたわけではないだろうが、沙綾は反射的に走り出した。その前を琳が走り、扉に着く前に沙綾の足を止める。そして彼女が触れるその前に、琳はすばやく夕凪の体を見回した。

「沙綾……」

「ばあや!」

 琳が名前を呼ぶと沙綾は弾かれたように夕凪にすがりつく。昨夜流しつくしたと思った涙は、また溢れ出す。

「ばあや……」

 冷たくなったその頬にふれて髪を撫で、優しく体を抱きしめる。沙綾より少し背の高い老婦人は安らかな表情だ。

「綺麗なもんだな」

 二人を気遣ってかゆっくりときたレオンは、夕凪を見てそういった。その穏やかな表情を見ていったのか、清められたその体を見ていったのかはわからない。ただ一度、夕凪に死者への礼を尽くす。

「沙綾。夕凪を眠らせてあげよう」

「……ええ」

 うなずき、夕凪を抱き上げようとしたがさすがに小柄な少女には無理があった。たたらを踏んだ沙綾をレオンが背中から支え、かわりにひょいと抱き上げる。

「ありがとう」

 朝早くに黙って出て行こうとした沙綾と琳に気づいたのは、レオン一人だけだった。正確には偶然厩で出会っただけだったのだが、二人の表情から何かに気づき、無言で同行してくれた。その優しさが沙綾にはうれしかった。

「庭に」

 言葉少なにそう告げ、琳と沙綾が先導する。

 そこは、沙綾が好んでよく眠っていた場所。大きな大木の下に。

 琳がスコップをもってくると、レオンと沙綾は無言で穴を掘り始めた。琳も何も言わずに手伝う。そうして、大人一人入れる位の穴が掘り終わると、レオンがそっと壊れ物を扱うように夕凪を寝かせる。

「ばあや……ありがとう。お母様とお父様によろしくね」

 震える声でつげ、その額に唇を落とす。名残惜しむように一度頬を摺り寄せ、沙綾はきびすを返した。一瞬迷ってからレオンがおいかけ、それを見送ってから琳はじっと夕凪を見つめる。眠っているようなその表情に、心から銀歌に感謝した。

「絶対、あの子を一人にしない。私が守る」

 低くそうつぶやくと、沙綾の足音が聞こえた。振り返れば、夕凪が大好きだったあかるい色の花を腕いっぱいに抱えている。

「ばあや、大好き」

 もう一度夕凪にキスをすると、沙綾は夕凪の体全体に花をかぶせていく。花だけでは飽き足らずに、雪のような花びらを降らせて。あふれる涙をそのままに、優しく土をかぶせていく。やがて夕凪の姿が完全に隠れると、その場にへたりと座り込んだ。

「琳……どうしようね」

 まだ、夕凪との思い出が残る場所にいるのは辛い。庭のあちこちに、家の全てに楽しかった思い出が残っているのだから。

 ふと、地面についた手に柔らかな花びらが触れた。そっと壊さないように指先で触れると、ひらひらと柔らか感触。花弁は細かくたくさ。、きっと色は鮮やかな黄色だろう。

「タンポポ……」

 種が飛んだのか、もう時期も終わるというのにけなげに咲いていた。

「タンポポは……薬にもなるからって……」

 まだ幼いころ、タンポポの柔らかな花が好きでたくさんつんだことがあった。それを夕凪は優しく諭した。

『ひぃさま、タンポポは薬にもなるとてもすばらしい花なんですよ。かわいらしい花ですが、無闇とつんではいけません』

 せっかく喜んでもらえると思ったのにとしょげていたら、夕凪の柔らかな手のひらがほほに触れる。そっと慈しむように自分のほほをなで、こつりと額をあわせた。

『でも、夕凪のために持ってきてくださったのですね。ありがとうございます。花壇に植わっている花も美しいですが、やっぱり自然に咲く花は力強くて輝いていますね』

「ばあや……」

 くっと唇をかみ締め、紗綾は優しくタンポポの花を指先でなでる。そして硬く目を閉じ、あふれる涙をこらえた。すると、戸惑った気配のままレオンがそっと近づいてくる。地面に片ひざをつき、紗綾の頭にこわごわと触れた。

「姫さん……泣きたいときは思い切り泣いたらいい。そんな……辛い顔してこらえるな」

 健気に涙を飲み込むその姿は、母の姿を思いださせる。父が長く家を空けるときは、必ず必死に涙を飲み込んでいた母。幼いながらも、自分は母にこんな顔をさせてはいけないのだと思ったことがある。

 姉は女で、男は自分と父しかいない。だから、早く母の涙を受け止められるようにならなければいけないと、そう思った。

「リン」

 尻尾をたらしている狼の名前を呼び、レオンはじっと澄んだ瞳を見つめる。そして琳がうなずくのを確認すると、足音もなくそばを離れた。

「紗綾」

「り、ん……夕凪、も、ば、ばあやも……っ、う……ふっう、あぁ――っ!」

 琳の首にしっかりと抱きつき、艶のある毛並みをぬらす。涙を流すことができない狼は、ただじっと紗綾が抱きつくに任せていた。

 声の限りに涙を流し、その涙が泣きじゃくりに変わるころ。ふらりとレオンは戻ってきた。その手には湯気のたった暖かいお茶。

「勝手に作らせてもらったぜ」

 少しだけ申し訳なさそうな顔でそういうと、目を真っ赤にした紗綾にカップを渡す。かすれて声が出せないのだろう、恥ずかしそうにうつむいて一口飲んだ。

「落ち着いたか?」

 カップの中身が半分ほどになるころを見計らって、レオンが言葉をつむぐ。ほっとため息を漏らし、紗綾は顔を上げた。

「ええ……ごめんなさい、ありがとう」

「姫さん。行く場所がねぇなら、城にこないか?ルークもまだ万全ってわけじゃねぇし、一度……陛下に会ってもらいらい」

「陛下……国王陛下に?」

「ああ。それに……姫さんをもしかしたら巻き込んでしまったのかもしれねぇしな」

 ぼそりとつぶやくようにいうと、ちらりと横目で狼を見た。琳はその視線を受け止め、思案する。

「そうだな。沙綾、しばらく王宮にいよう。ここは……もしかしたら、危険かもしれない」

「どういうこと?」

「狙われたのは、夕凪じゃなくて沙綾だったのかもしれない」

 琳が告げた事実に、沙綾ははっと息を呑む。こんな深い森の中に来る人間は、迷い人かよほど酔狂な人間か――もしくは、誰かに会いに来た人物以外いない。琳が何ものか知っているものはいないので、琳は除外される。夕凪か自分かどちらかといえば、限りなく自分に可能性が高いだろう。

「そう、ね。……王宮へ」

 沙綾がうなずくと、どこかほっとしたような複雑な表情でレオンは立ち上がった。二人をおいて先に馬の元へ戻る。

「準備もあるだろうし、先に戻ってフィージに伝えておく」

「お願いします」

 レオンの表情には気づけずに、琳と沙綾はレオンを見送った。



 それからしばらくの後、王宮へついた二人は厩でレオンに迎えられた。初めてきたときと同じように人目に付かない通路を通される。

 待っていたのは、フィージとルークの二人。

「レオンから大体状況はききました。今日はお疲れでしょう。どうぞゆっくりお休みください。部屋は王子の向かいに用意させていただきました。隣はレオンと私の部屋になります。ここならば賊の進入はまず無理です。安心してください」

「……お心遣い、ありがとうございます」

 静かに一礼を返すと琳を伴い沙綾は部屋を出た。その姿を見送り、三人は深刻な顔を付き合わせる。

「ルーク。陛下とあわせたほうがいいと思う」

「父上に?……そう、かもしれない。フィージはどう思う?」

「……彼女には真実を知る権利があります。そして何より、夕凪を殺害したのは間違いなくあの夜の出来事が関係しているでしょう。あの晩の出来事は、陛下が一番詳しいはずです。しかし……陛下の容態を考えると……」

 二人の意見に瞑目し、ルークは浮かない顔でため息をつく。父と直に話をすることはたぶん必要だろう。父には話をしなければならない理由がある。しかし、その理由を知ったとき彼女はどう思うか。

「私は……父上に会っていただくべきだと思う。しかし、フィージの言うとおり父の体調はおもわしくない。無理にならなければいいが……」

「それなら、私が陛下にお伺いいたしましょう」

 悩むルークにフィージは告げる。本人が許可を出せば確かに沙綾は確実に彼に会うことができるだろう。一瞬瞑目し、ルークはうなずいた。

「そうだな。後で頼むよ」

 彼女は、己の父が犯したおろかな過ちをどう思うだろうか。

 軽蔑するか、憤るか。――絶望するか。

「もう、過去のことですよ」

 ルークの気持ちを察し、フィージが言葉を紡ぐ。確かにそれは事実だ。けれども、それは一部の人間にとってのみ。

「……私たちにとってはな」

 重苦しい沈黙が降りたとき、扉がたたかれる音がした。弾かれたようにレオンが扉に向かい、声をかける。

「誰だ?」

「リコです」

 なじみのある声にほっと息をつき、レオンは扉を開けた。簡単な食事の載った盆を持ったリコは、兄と王子の表情に首をかしげる。リコはまだ何が起きたのか知らない。そして、この先の話を彼女はまだ知るべきではない。そう判断すると、誰かが口を開くより先にフィージが言葉を紡いだ。

「リコ、向かいの部屋にサーヤ殿がいる。昨晩、サーヤ殿の乳母殿が亡くなられた。何か温かい飲み物を持っていってあげてくれないか?」

「まぁ……すぐに行きますわ」

 兄の言葉に目を丸くし、リコは一礼をして部屋を飛び出す。純粋に沙綾が好きなリコは、彼女が悲しんでいるのを知っていてもたってもいられなかったのだろう。扉が閉まる音を聞いてから、フィージは隣室へ消えた。少ししてからお茶の乗った盆を持って戻ってくる。

「陛下にお話を伺ってからどうするか決めましょう」

 フィージの一言でその話は打ち切りとなった。あまり明るいとはいえない表情で、フィージがお茶を入れる。

「王子、少し食べておかないと……。まだあなたの体調は万全ではないのですから」

「……そうだな。私が倒れてしまったら、彼女も危ないだろう」

 あまり食欲はないのか、浮かない顔でそれでもパンを一つつまむ。幸いチーズがたっぷり練りこんであるパンはルークの好物だった。それがせめてもの救いと思いながら、一口二口。飲み込んだ瞬間、ルークの手から食べかけのパンが落ちた。

「ルーク?」

 最初に気づいたのはレオン。しかし、気づいたときには遅すぎた。顔色をなくし、椅子から転げ落ちるように床に倒れる。

「ルーク!」

「王子!」

 フィージとレオンの悲鳴が重なり、それを見計らったかのように扉が勢いよく開いた。色白の貌をさらに蒼白にし、シドが駆け寄る。

「兄上!」

「シド様?なぜここに?」

「姫さんを呼んでくる」

 シドをフィージに任せると、レオンは開いたままの扉を飛び出す。問答無用で向かいの扉を開ければ、リコと沙綾が不安そうな貌で待っていた。

「ルークが倒れた。たぶん何かの毒物だと思うんだが……」

「すぐに行きます」

 先ほどのどこか魂の抜けたような表情から一変し、沙綾は薬袋をもってルークの元へ駆け寄った。先導する琳に従い、ルークの横に座る。脈を取り、顔や口内に触れるうちに沙綾の顔色が変わった。

「何を食べたのですか?」

「これを……」

 フィージが差し出したパンを受け取ると、においをかぎ軽く口に含む。その瞬間吐き出し、手探りで手繰り寄せたお茶で口をすすぐ。同様にルークの口にお茶を含ませ何度もすすいだ。

「水と桶を一つください。それから急いでベッドを整えて。どなたか、殿下の口を十分にすすいでください」

 ただ見ていることしかできない彼らに指示を出すと、自分は薬袋の中身を床に広げる。一瞬の迷いもなく数種類の瓶を選び、琳が運んできた未使用のカップに中身を入れた。

「水だ」

 急いで持ってきたのだろう。ポットの周りがまだ濡れていたがそんなことはまったく気にもせずに受け取る。少量の水をカップに注ぐと、袋の中から細身のナイフを取り出した。

「姫君?」

 真っ先に気づいたフィージが訝る横で、沙綾はためらいもなく手のひらを傷つける。流れ出る赤い液体をカップに落とし、さらに水を注いだ。

「どいてください。一刻を争います」

 フィージとレオンが守るようにルークの隣にいる。彼らに険しい視線を投げれば、気おされたように道を開いた。ルークを前にして、沙綾は一瞬ためらう。けれどそれは瞬きする間のことで、すぐにカップの中身をあおった。

「待て」

 沙綾の意図を察し、レオンが制止をかける。しかしそれを無視する形でルークに薬を流し込み、無理やり飲ませる。その瞬間びくりとルークの体が跳ねた。すかさず体をひっくり返すと、頭を支えて桶を口元にあてる。あまり食べていなかったのだろう。嘔吐は短く、すぐに終わった。苦しそうにあえぐルークの背中をなだめるようにたたき、そっと首筋の辺りを指圧する。すると、もともと意識の混濁していたルークは、すぐにまた気を失った。

 沙綾の手際のよさに誰も何も手出しできずに、ただ見守るだけだった。どこか苦い表情をしているレオンとフィージに琳は気づくが、素知らぬふりで沙綾のそばに控えている。まるで、何かあったらすぐに守れるようにと。沙綾はそんなことにはまったく気づかずに、当たり前のように告げる。

「もう大丈夫です。あとは水をたくさん飲ませて休ませてください。その間に薬を作りますので」

 ほっとしたように沙綾が言うと、全員の視線がいっせいに彼女に集まった。そして、その視線の意味に気づく。

 恐れ。

 不安。

 わずかな畏敬。

 自分たちとは違う生き物を見つめるその視線にさらされることを、何度も何度も経験してきた。

 沙綾は流れ出る血を止めることもせずに、ただ静かに一つ瞬いた。怒りも悲しみもない。わずかな諦めが光を失った双眸に浮かんでいる。

 皆が何か問おうと伺っていたが、湖面のように凪いだその姿に何も言わずにリコが立ち上がる。

「どれくらい水を飲ませたらよろしいのですか?」

「ティーポット一杯分を」

「わかりました」

 ぐったりと意識を失っているルークの頭を膝に乗せ、汚れた口元を丁寧にぬぐう。先ほどよりも格段に顔色のよくなった彼にほっとし、リコは慎重に水を飲ませた。

「沙綾。口をすすぎなさい」

「……ええ」

 心配そうな琳の声に、沙綾は無理やり微笑んだ。琳が押しやったティーカップで口をすすぐが、顔色があまりよくない。

「姫君。王子を助けていただいてありがとうございました。申し訳ございません、私たちは何をすべきか、あなたが何をされているのか何もわからないのです。一瞬でも疑ったことをお許しください。手のひらの傷は大丈夫ですか?」

「傷はたいしたことありません。大丈夫です。……こちらこそ、取り乱してしまって申し訳ございませんでした」

 いくら一刻を争う事態とはいえ、一人で急ぎすぎた。そのせいで、余計な不安を彼らに与えてしまったことは薬師として恥ずべきことだろう。軽くうつむいて唇をかみ締め、後悔の念にまぶたを閉じる。けれどそれも一瞬のことで、顔を上げた沙綾はいつものとおりだった。

「薬を作りますので、殿下を休ませてください。それから……部屋を……申し訳ございません」

「そんなこと気にしなくていい。それより、姫さんの体は大丈夫なのか?」

「……先ほどの薬は、嘔吐を促す薬です。少量でも強い力が働くので。……大丈夫です。少し休めばよくなりますから」

「……そうか」

 本人にそういわれてしまえばレオンに紡ぐ言葉はなくなる。心配そうな顔でうなずき、それでも沙綾に言われたとおりルークを抱き上げ隣室に運んだ。その後ろにリコと促されたシドも続く。

「姫君もどうか、隣室へ」

「え、え。でも……もう少しだけ」

 どうやら、立ち上がるのも辛いらしい。顔色が一段と悪くなり、呼吸がわずかに荒い。

「先ほど王子に飲ませた薬は、本当に嘔吐を促すだけのものですか?」

 不意にフィージが沙綾に問いかける。詰問するようではないが、どこか厳しい口調。嘘は許さないという意志の強さに沙綾の体は知らず震えた。

 幾度か唇を湿らせ、何かを探すように瞬きを繰り返す。

「…………正確には、違います。薬となる毒を飲ませました。それによって嘔吐します。……薬は、今の薬だけでなく、すべての薬は、量を間違えれば簡単に人を死に導きます。私たちが薬と呼ぶものは、すべて毒になりうるのです」

 世間一般に流布している常識には、薬が毒になるという発想はない。それは限られたごく一部の人しか知らないこと。それが悲しく、もどかしく、沙綾は唇をかみ締めた。

「……わかりました。あなた御ご自身はどうなのですか?」

「私は……耐性がありますから。少し休めばすぐに治ります。…………怒らないのですね」

「怒る?なぜ?」

「結果的に薬になるとはいえ、私は大切な殿下に毒を飲ませました。それを、怒らないのかと」

 目が見えているはずはないのに、まっすぐに自分を見つめる少女。今までただ綺麗としか認識していなかったが、その瞳の奥に暗い闇があることに気づく。その闇はまだ表に出てはいなかったが、いつか噴出すことを少女は解っているのだろう。だから、ぎりぎりでそれを抑えている。

「あなたは間違えなかった。王子は生きている。その事実があるのに、何故怒るのですか?」

 子供を諭すように笑いを含んで告げると、沙綾がまじまじとフィージを凝視した。その視線には、不思議でたまらないと表情いっぱいに告げられ、思わず微笑んだ。

「あなたは、一度王子を助けてくださいました。そして、自ら毒であると知っている薬を含んで王子に飲ませてくださいました。そんなあなたに、礼を言えども責めるべき言葉などありません。ありがとうございます」

「……どうぞ、殿下の下へ。私もすぐに参ります」

 沙綾は戸惑ったようにフィージを見つめ、やがて視線をはずす。うつむいたまま促せば、否といわずに彼は部屋を出た。

 静かに涙をこぼす沙綾に寄り添い、琳は血の流れ続ける手のひらを舐める。ふしぎと血はすぐに止まり、それでも舐められるくすぐったさに、幾度も響くフィージの言葉に少女は微笑んだ。

「琳……初めてだね」

「そうだな」

 毒を飲ませたと正直に言って怒らなかった人は。

 毒になると知っても礼を言われたことは。

「今までずっと嘘をついてきたけど、あの人は怒らなかった。私、すごく嬉しいの」

「苦しかっただろう?」

「すごく。でも、本当のことを言うともっと苦しいから」

 何度も人を助けてきた自分の業。それでも、真実を知ると皆が皆必ずといっていいほど怒りを少女にぶつけた。たとえ助かっても助からなくても。

 助かれば偶然とみなされ、助からなければ毒をもったと怒鳴られ。助かる見込みがあっても、彼女の作った薬を飲ませずに助けられなかったこともある。それもすべて彼女の責任にされた。

 やがて少女は嘘をつくことを覚えた。正確には、嘘ではなく真実すべてを話すことを止めた。そうすれば、誰も怒らない。だれも怒鳴らない。けれど、そのことが澱のように心にたまっていく。人を救うことができて嬉しいはずなのに、なぜか苦しくて苦しくて。

 ――薬師は、裏を返せば毒を扱う生業。加減を間違えれば確かに誰でも簡単に殺すことができるだろう。事実、一族を抜けてそのような生業を営むものもいる。けれど、覚えておきなさい。私たちの薬は命を救うもの。決して命を奪うものではないことを。誇りを持ちなさい。薬師の一族であることを、命を助けることができることを――

 幼いころに何度も何度も聞かされた長老の言葉をふと思い出した。そうして、自分はその言葉のとおりに誇りを持って仕事を続けてきた。だから、きっと彼はありがとうといってくれたのだろう。

「さぁ、もう一つ薬を作ろう」

「ええ。救けるために」

 薬師として恥ずかしくない仕事を完遂するために。



 沙綾が隣室へいくと、皆が不安そうにルークを見守っていた。顔色はだいぶよくなったとはいえ、容態はかんばしくないのが明らかにわかる。

「お待たせいたしました」

 沙綾自身もまだ顔色はあまりよくなかったが、背筋はぴんとのび、その口調にはためらいが一切ない。どこか神々しいとさえ感じるその姿に、皆がしらずに安堵する。

 沙綾はティーカップに入れた薬をそっとルークに飲ませた。何事もなく嚥下してくれたことにほっとし、一人ひとりを見つめるように首をめぐらせる。

「もともと体力のあるお方です。きっと、今夜には目覚めるでしょう。今はゆっくりと休ませてください」

「それなら、場所を変えましょう。リコとシド様に伺いたいことがあります」

 フィージがそう告げ、先導して歩く。その後にぞろぞろとついていくと、シドが心配そうに後ろを振り返った。それに気づいた琳が、沙綾の隣を離れてシドの横につく。

「大丈夫だ。沙綾の薬はよく効く。すぐに目覚めるよ」

「……うん」

 言葉少なにうなずき、琳のふわふわした頭を軽く撫でた。先に待っていた沙綾に足早に追いつくと、きゅっと手を握る。

「兄様を、助けて」

「必ず。お約束します」

 沙綾の変わらぬ笑顔にほっと安堵の息を漏らし、部屋の外で待っていた皆に追いついた。

 フィージにつれられて、彼の部屋へといく。思い思いの場所に皆が座るのを待ってから、フィージが口火を切った。

「シド様。どうしてあのとき、王子の部屋へいらっしゃったのですか?」

「母様が……話しているのを聞いたんだ」

 それは、偶然のことだったという。ルークのことを聞きに母の元へ訪れると、中から何か話し声がした。低くてもう一人の声はよく聞こえなかったが、確かに母はこう言った。

「これでルークは終わりかの。前の眠り毒は失敗したが、今回おんしの渡した毒は確かよの?」

「……も、いません……かです」

 ただ一言それしか聞こえなかったが、それで十分だった。常々兄を嫌っていた母が、とうとうここまでするとは思わなかった。そして、眠りの病も母が仕組んでいたことを知り目の前が暗くなる。しかし、ここでぼんやりしている時間はない。急いで兄の下へ向かわなければ。

「急いできたけれど……結局間に合わずに……」

 唇をかみ締め、シドは必死で悔し涙をこらえる。

 母はどう思っているか知らないが、自分は兄が大好きで、王位なんていらないと。そう思っている。けれど、自分の意志が弱いために大切な兄を危うく死に追いやろうとしてしまった。それが悔しくて仕方がない。

「その証言をしてくれただけで十分間に合う。ルークを助けられる」

「レオン……本当に?」

「ああ、もちろんだ」

 自信あふれるレオンの言葉にシドは嬉しそうな笑みを浮かべた。それと対照的に、リコの顔色はどんどん青ざめていく。小刻みに震える手をしっかりと組み合わせ、神に祈るように目を閉じた。

「リコ。言いたいことはわかるね?」

「……はい、お兄様」

 フィージと同じ澄んだ紅茶の瞳を涙で潤ませ、リコはこぶしに力をこめる。そうしなければ、声が震えてしまいそうだったかだ。

「私に食事を持っていってほしいと頼んだのは……アンジュ様です」

 やはり、とフィージとレオンは顔を見合わせ、シドは驚きの眼差しをリコに向ける。沙綾は一度だけ会ったことのある神官を思い出した。

 自分にあったとき、何かに驚いていた声。何も言わなかった琳。わずかな空白。

「神官と王妃に会う必要があるな」

「けれど、証拠がありません」

 ただあるのはシドが聞いたという会話とリコが預かった食事。どちらも知らぬと言われればそれまでだ。

「…………」

 完全に手詰まりになってしまったとき、今まで黙っていた琳が口を開いた。

「そもそも、何故ルークは王妃に狙われるんだ?」

「それはもちろん、ルークを廃してシドを王位につけたいからだろう?」

 何を当たり前のことを、とレオンが言うと、そうではないと琳は首を振る。

「それは解る。単純な構図だ。古くから慣わしがあるのだろう?それを決めるのは誰だ?」

 確か、初めてレオンに会ったときに聴いた言葉。

「生まれた王子が二人以上ならば、そのうち光をまとうものが次の国王になる。それを決めるのは三人の神官か、現国王陛下です」

 しかし、今は神官の数が足りないと聞いている。ならば、王妃は何故ルークを狙うのか?

「つまり、王妃はルークが次代の国王になると既に知っていることになる。だからそれを覆すためにルークを執拗に狙う」

 どうやって王妃はそれを知ったのか。答えは簡単だ。

「国王陛下自らがそれを王妃に教えたのでしょう。既に公布されていると思われているかもしれません。たぶん陛下は、この騒動を知りません。もしくは、知っていたとしても何も発言権を許されていないか……」

 フィージはそこまで言うと口をつぐむ。それ以上は、臣下として口にしてはいけない言葉だ。

「夕凪が殺されたのは?」

 琳が問いかける。ルークが狙われる理由は解った。しかし、まったく関係のない夕凪が殺されたのはどういうわけか。たぶん、王妃か神官が狙ったもので間違いはないだろう。しかしその理由がわからない。

「夕凪というより、姫さんを狙ったんじゃねぇのか?」

 ルークを目覚めさせた薬師がいなくなれば誰にも王子を救うことができない。けれど、沙綾がまだ城にいることを知らずに訪れたのならばつじつまは合う。

「陛下に、ルークが次代国王だと書面をもらおう」

 そうすれば、ルークも沙綾も安全になる。

 そうレオンが提案すれば、フィージが何か思案した。そうして、しばらくの沈黙の後うなずく。

「そうですね。それが一番確実な方法のようです。シド様、リコ。王子を頼みました」

 もしかしたら、眠っているルークが危ないかもしれない。

 そう暗に告げ、フィージは立ち上がった。

「行きましょう。どうぞ、姫君も一緒においでください」

「私も?」

 ルークに付き添っているべきだと考えていた沙綾は、フィージの提案に瞬いた。そうして、レオンの言葉を思い出す。国王に会ってほしいといった彼の言葉を。

「……わかりました」

 これ以上、何事も起きないように。

 これ以上、彼のお方を危険にさらさないように。

 これ以上、彼のお方を傷つけないように。

 それぞれの思いを胸に。


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