想い
5 想い
そろそろ日課になりつつあるノックの音が今日も聞こえた。毎日決まった時間に三回なるノックの音。
「どうぞ」
明るい声で沙綾が声をかけると、ミラとレイの二人が姿を見せた。二人とも沙綾同様表情は明るい。彼女がルークを助けたことを知っているため、最初の険悪さはすでになくなっていた。
「お嬢ちゃん、今日はちょっと待たせたか?」
ずかずかと遠慮もなく沙綾に近寄ると、くしゃくしゃとその頭をかき混ぜる。その後決まってリコに怒られるのだが、沙綾はその仕草がうれしくて仕方がない。もう二十を目前に控えていたが、子供のように扱われることが少しだけ心地よい。身近に男性がいなかったせいか、レイを年の離れた兄のように感じるときがある。
「リン、お土産だよ」
最初は琳を敬遠していたミラだが、琳がとても賢いことに気づくと、いつも何らかのお土産を持って帰ってきた。
柔らかい栗色の髪の毛に、穏やかな若草色の双眸を持つ彼は、その優しげな風貌から女性受けがいい。その人脈を使い、厨房から琳が好む木の実のパンやクッキーをよくもらってきていた。ちらりと琳が視線を上げると、今日のお土産は鮮やかな色をしたかぼちゃのクッキーだと判明する。
「ミラもレイも、いつもありがとう」
もう一週間ほど経つだろうか。沙綾が望んだ報酬は、毎日夕凪に手紙といくばくかのお金を渡してきてもらうことだった。もうあまり若くない夕凪に、力仕事は辛い。琳がいるときは琳と沙綾が手伝っていたが、彼女一人ではなかなかはかどらないことも出てくるだろう。よく近隣の村人に手伝ってもらっていることから、彼らを雇う代金をルークに請求したのだ。
「今日のお土産は姫君にもあるよ」
そういって差し出された袋には、夕凪からの手紙と足りないと思われる薬草、それから沙綾が好むお茶の葉だった。
「このお茶……」
懐かしいとも感じるお茶の香りに胸がいっぱいになり、沙綾は袋ごと抱きしめる。そしてそっと手紙を開けば、沙綾にしか読めない方法で手紙は記されていた。
昔、まだ目が見えずに苦労していたときに教えてもらった文字を読む方法だ。そっと指でなぞれば夕凪の優しい声が耳に響く。何事も変わりはないこと、ミラとレイがよく手伝ってくれること、沙綾が納得するまで治療に専念するようにと細やかな気配りがあった。
「いつも夕凪を手伝ってくれていたのね。どうもありがとう」
手紙から顔をあげ、微笑んで礼を言う。二人からは当たり前だという言葉が返ってきたが、沙綾にはそれで十分だった。
「夕凪が作るこのお茶、すごくおいしいの」
ためらいがちにお茶でもどうかといえば、真っ先にミラが賛成する。それに続いてレイもうなずき、それならリコを呼ぼう、いやいや、どうせなら皆でとたちまち人数が増えた。そうして結局のところ、一時間後にルークの部屋でお茶会という形に落ち着く。今ではルークもだいぶ調子は戻ったが、まだ執務のほとんどは自室のベッドの上で、という状態だ。油断は許されない。
いったん解散となった沙綾の部屋は少し寂しく、それが高ぶった気持ちを逆に落ち着けてくれた。
「琳、夕凪は元気だって。村の人もよくしてくれるから安心してって」
「それはよかった。ルークの容態も安定しているし、もう三日もすれば家に帰れるな」
「そう……ね。後は薬をしばらくの間置いていけば大丈夫だと思うわ。食欲もずいぶん戻ったみたいだし、安静にしていれば大丈夫ね」
「なら、今日皆が集まったときにでも言うか」
「それがいいわね。……ねぇ、琳。レイとミラに、お別れがいえないけれどもこのままでいいの?」
琳がしゃべれることを知らないのは、レイとミラの二人だけだ。二人とも琳が賢い狼だとは認識しているが、誰も琳がしゃべることを話していない。てっきり彼らの上司に当たるレオンが話しているかと思ったが、どうやら何も話していなかったらしい。
「ふむ……それは少し寂しいものがあるな。彼らにはよくしてもらっている。……沙綾は話してもいいと思うか?」
「ええ、夕凪が安心して任せているようだから、何も問題はないと思うわ」
「それなら、今日は少し会話に加わろう」
済ました顔でそういうが、琳がその会話を楽しみにしていることはその尻尾が証明していた。
一時間後、沙綾が入れたお茶とリコがもらってきたクッキーでささやかなお茶会が始まった。レイとミラはルークとも親しく、皆の間に主従関係の堅苦しい感じはない。
「おいしいお茶ですね。さわやかなのに苦味が少ないし、かといって甘すぎるわけでもない。ミントが入っているんですか?すっきりした感じがしますね。どこでとれたお茶ですか?」
さっそく知的好奇心もあらわにフィージが沙綾に問うた。沙綾は笑って乾燥した茶葉をフィージに渡す。
「自家製のお茶です。私は家でしか飲んだことがないものなんです」
「珍しい形ですね。ミントのようにも見えるけれど、それよりももう少し小さいですね。何かのブレンドですか?いや……一種類ですね。これの種はありますか?」
「今はないですけれども、家に帰ればありますよ」
くすくすと声を出して沙綾は笑い、その横でレオンとリコは呆れ顔だ。
「お兄様ったら……珍しいものを見るとすぐに何か探りたくなるのは悪い癖だわ」
「たまには研究抜きで物事を考えられねぇのか?」
「私は単純に珍しいものが……」
ムキになって言い返そうとするが、ルークの朗らかな笑い声にさえぎられた。これは完全に分が悪いと黙り込む。悔し紛れにクッキーをほおばり、おやと首をかしげた。
「リコ、このクッキーは誰が作ったものかわかるかい?」
「え?ええと……たしか、調理場のアクアだったかしら」
小首をかしげてリコが答えると、なるほどとうなずいてもう一枚食べる。どうかしたのかと皆がフィージを注目すれば、彼は笑ってなんでもないと答えた。
「いつも食べているものより甘くないなと思いまして」
「そういや、フィージは甘党だったな」
ふと思い出したようにレオンがそうつぶやくと、意外だったのか視線がいっせいにフィージに集まる。それに苦笑し、なんとなく言い訳がましく言う。
「頭を使う仕事は、何かと疲れるんですよ。糖分摂取は仕事の一環です」
「それはフィージの好みだろう?私もどちらかというと頭を使う仕事をしているが、甘いものはそんなに食べないからね」
すかさずルークが少し意地悪く言えば、フィージは言葉に詰まった。言い返す言葉を捜しているうちに、リコの声が割り込む。
「お兄様の負けですね。ほんと、女の私よりも甘いものがお好きなんだから」
あきれたようにそういうと、いっせいに笑いが起こる。さすがに多勢に無勢、フィージはおとなしく降参することに決めた。と、そのとき。控えめなノックの音が耳に届き、場が一瞬にして静まる。レオンが立ち上がろうとするのをレイが制し、すっと音もなく扉に歩み寄った。その仕草はさすがに剣をたしなむもので、大柄な体躯とは思えない。
ルークの私室ということで帯剣していないことをわずかに悔やむ。が、そんなことは顔に一切出さずに扉越しに声をかけた。
「誰だ?」
「えと……シドです」
少しだけおびえの混じった幼い少年の声。一同あっけにとられ、ルークが笑ってうなずいた。
「お一人でいらしたんですか?」
「だって、誰かに言ったら兄上に会えないもの」
シドと名乗った少年がするりと猫のようにしなやかな動きで私室に滑り込む。まず体を起こしたルークを見つけ、心底うれしそうに笑った。それからぐるりと見渡し、琳と沙綾を興味深そうに見る。けれど視線は一瞬で、迷いもなくルークの元へ駆け寄った。
「兄上、目覚められて本当によかった」
「心配をかけたね」
ぎゅっと抱きつくその姿は、ルークとは似ていない。ルークが明るい金の髪に対してシドは赤みを帯びた茶色、その瞳もルークの不思議な碧の瞳とは違う澄んだ空の蒼だ。けれども、まとう雰囲気はさすが兄弟といおうか、幼さが残るがもう少し年を重ねればルークそっくりになるであろう。
「母上が兄上に会ったらいけないって……。病気がうつるからって」
そんなことないよね?と熱心に瞳で問いかけると、ルークはもちろん、とうなずく。シドの少し癖のある髪を優しくなでると、ちらりと腹心のものたちに視線を投げた。真っ先に気づいたのはミラで、席を立つとシドの元へ歩み寄る。
「せっかくシド様もいらっしゃったのだから、どうぞこちらへ」
すばやくルークの意味を解し、一番扉から席が遠い席、すなわち自分の席をシドに譲る。彼は黙ってやってきたとのことだったので、いつ何時誰が入ってくるかわからない。ルーク同様、皆がシドを愛している。この愛らしい少年を傷つけることはなるべくしたくなかった。
ちょうどミラの席は沙綾の真向かいに当たるため、シドは珍しい客人を存分に見ることができた。けれど、彼が何か口を開く前に、当人がゆっくりとシドの前に来る。そして以前と同じように不思議な一礼をすると、シドの目線にあわせるように膝を突いた。
「お初にお目にかかります、沙綾と申します。ルーク殿下の弟君でいらっしゃいますね?よく似ていらっしゃいますね」
にこりと笑顔で告げられた言葉に、シドも他のものも首をかしげた。外見的特長としてはまず二人は兄弟に見えない。それもあるが、何より沙綾は目が見えないはずだ。何を持って似ているのだろうと。
「ルーク殿下もシド殿下も、纏う雰囲気と申しますか……それがそっくりなのですよ」
皆の疑問を解消するように沙綾が言葉を紡ぐ。なぜわかったのかと不思議がる彼らをよそに、もう一つの声が補足するように聞こえた。
「沙綾は目が見えないから、人それぞれ特有の雰囲気とか、気で人を区別する。外見はまったく似ていないが、確かに二人は兄弟だな」
人間とは違う構造をした器官から発せられる声は、少しだけくぐもっている。けれど聞き取りにくいということはない。初めて琳に会うシドはもとより、しゃべることを知らなかったミラとレイはぎょっとしたように狼を見つめた。そんな視線には慣れた琳は、別段気分を害するわけでもなくその豊かな尻尾を一振りする。
「君の名前は?」
幼さゆえか、恐怖よりも先に好奇心が勝ったらしい。恐々と琳の頭をなでながら、シドが尋ねる。
「この子は琳。私の大切な家族です」
琳の変わりに沙綾が返事を返し、そのあごの下を軽くくすぐる。気持ちよさそうに目を細める琳に恐怖心は消えたのか、シドも同じように琳をなでた。
「さすがシド様……。リン様になれるのも早いですね」
くすくすと小さく笑いながら、リコがレオンに耳打ちする。レオンも苦笑を刻みながらうなずき、子供は柔軟性があるとひそかに考える。
神に仕える少女はともかく、自分も友人たちも琳がしゃべるたびに驚き緊張したものだ。それを、子供はすんなりと打ち解けている。見習うべきかと思ったが、さすがに年を重ねすぎていると打ち消した。
「リコ、シド様にもお茶を」
「はい」
フィージに言われ、隣室から予備のカップを手に持ってくる。入れたてのお茶をシドに差だし、ついでにクッキーも皿に取り分ける。
「ありがとう」
渡されたクッキーをうれしそうに口に運び、蜂蜜をたっぷり入れたお茶を堪能する。その弟の仕草に微笑をもらし、ふと気づいたように沙綾に視線を投げた。
「そういえば、サーヤ殿はいつまでここに?」
「そろそろ殿下の容態も安定されてきたので、明後日には帰りたいと思います」
「明後日?それはまた早急な……」
「寂しくなりますわ」
口々に言うが、沙綾はうれしそうに、そして少しだけ寂しそうに言葉を紡ぐ。
「夕凪を一人で残していますし、何より……ここは私のいる場所ではございません」
ふわりと微笑んだその儚い表情に、一瞬目を奪われる。どこかに消えてしまいそうな、どんな表情。そんなことはありえないはずなのに、彼女に関してはそういいきれずに。
「サーヤは、帰っちゃうの?」
ふと、幼い声が沙綾を呼んだ。せっかく仲良くなれると思ったのにと、シドは見るからに沈んだ表情をしている。沙綾はシドのまだ小さいとさえ言える手をそっと握ると、ふわりと微笑んだ。
「きっとまたお会いできますよ。お呼びいただければ、いつでも」
「本当に?」
「ええ、本当です。琳もシド殿下にお会いしたいといってますから」
「シドは賢い。私を見ても泣かずにいた強い子だからな」
沙綾の言葉を肯定し、琳が柔らかな尻尾を一振り揺らす。その仕草にシドはうれしそうに笑った。
「約束だよ」
「ええ、お約束します」
シドの明るい笑顔と沙綾の穏やかな微笑に、ようやく一同落ち着いたように息をついた。そこですかさずリコが、
「お茶が冷めてしまいましたね。もう一度入れなおしますわ」
にこやかにティーポットを手にする。そうして、夕方の執務の時間までお茶会は続いた。
雨がしとしとと音もなく降っている。森の葉はみずみずしい緑をぬらし、柔らかな土には水溜りが点々とできている。
「もうそろそろ、お戻りになるころかしら」
窓の外を眺めながら、夕凪は小さくつぶやいた。
思えば、沙綾と一緒に暮らすようになってから彼女とこれほどまでに離れたのは初めてかもしれない。まだ七つの小さな少女が、あっという間に大きくなった。
「……ひぃさまは、立派な薬師になられましたよ」
そっと服の下にかけられたペンダントに話しかける。大振りの金飾りは開くように細工され、中には美しい女性の似せ絵が入っていた。
日の光が当たらないせいか、色あせもなくまるで本人をそのまま写し取ったようだ。銀の髪に、銀の瞳。沙綾をもう少し大人にしたら、きっと瓜二つになるだろう。ただ違うのは、その髪が緩く波打っているところと瞳が輝いているところだけだ。
似せ絵には、もう一人描かれていた。銀の髪に、黎明の空を映した瞳。穏やかな表情で女性と寄り添っている。
「綺羅様。皓貴様。今のひぃさまを、お見せしたいくらい……」
そこで言葉を詰まらせると、思わず浮かんだ涙をそっと拭い取る。また元通りにペンダントを戻すと、気を変えるように大きく被りを振った。
ふと、外から微かな物音が聞こえる。こんな雨の日に、まさか森の奥深くまで物取りでもあるまいしと怪訝な顔で扉を開けた。
「どなたですか?」
そこにいたのは、見知らぬ青年。黒いフードを被り、顔はよく見えない。けれど、何か違和感を感じて夕凪は眉をひそめた。
「お久しぶりですね」
「誰……まさか……」
聞き覚えのある声。穏やかで、一見優しそうに聞こえるがその奥に潜むのは冷笑。驚愕に目を見開く夕凪に、青年の口元がゆるくつりあがった。
「まさかこんなところにいるとは……。思いもしませんでしたよ」
「お前は!……なんでこの場所を知って?」
怒りと憎しみに、一瞬夕凪の視界が真っ赤に染まる。けれども一つ息を大きくすい、落ち着きを取り戻す。
「あの方の子供は、私がいただきます」
「まさか……沙綾に……」
「ええ。お会いしましたよ。本当に……綺羅にそっくりで驚きました。……憎らしい相手の血を受けた双眸は、濁っていましたしね。これも銀歌様のお導きでしょう」
「汚らわしい!その口で綺羅様と銀歌様のお名前を口にするな!」
はき捨てるように言うと、夕凪はきつい眼差しで青年を見る。しかし青年はそんなことを意に介した風もなく、余裕とも言える表情だ。
「あの子をこんな森深くにおいておくなんて、もったいないですよ。銀の姫だけが受け継ぐあの力も、彼女の美しさも。すべて、私がもらいます。もう、国王も長くないですからね」
「まさか……すべてお前が……」
「ええ、そうです。ただ、沙綾に会えたことは奇跡とも言える偶然でしたがね。あの晩、銀の一族は絶えたと思っていましたから」
自ら犯した罪をなんとも思っていないどころか、どこか喜んでいる風にさえ聞こえる口調。その恐ろしさにめまいを感じ、夕凪はよろけるように一歩後ずさる。その隙間を埋めるように、男は一歩前に出た。
「いいことを教えてあげましょう。あの子は、私が誰か気づいていませんよ。そして、あの子の父親を殺したのは、私です。あの晩、騒動にまぎれてね」
「あ……皓貴様を……」
目を見開き、その事実に硬直する。そんな夕凪を優しいとさえ思える仕草で男は抱き寄せた。その手に、銀の刃を持って。
「安心して綺羅の元へいってください。沙綾は私が責任を持って妻に迎えますよ。綺羅と同じあの子を、ね」
「――――!」
ごぽり、と喉元から熱い何かがせりあがってきた。彼女の血が男を汚す前に、すっと手を離す。まるで人形のように転がった女を無表情に眺め、ただ一度だけ目を閉じた。そのまま、雨の中をゆっくりと歩き出す。
「ぎ……か…………さ、ま」
残された夕凪は、薄れ行く意識の中で必死に彼女があがめる神の名を呼んだ。悔しさに涙がにじみ、床をぬらす。
「……ど、う……か」
どうか、どうか。
愛しいあの子が真実を知って悲しみませんように。
どうか、どうか。
あの子が苦しみを背負いませんように。
「……きら……さ……ま……」
今からあなたの元へ逝きます。
ようやく、あなたの元へ。
最期の頼みを聞き届けられなかった私を、どうか……
思うとおりに動かない指先で必死に胸元を探る。震える手でペンダントを開けると、似せ絵の笑顔を目にふわりと微笑んだ。
そのまま、夕凪の体は動かなくなる。
それからどれくらいの時がたったのか。音もなく降り注いでいた雨がいつの間にか止み、空には丸い望月がかかっていた。と、月光が地上の一点へ収束する。その光は人の姿を形作り、きらきらと輝く影になった。
「哀れな子よ……」
影は夕凪の頭を優しくなでる。不思議なことに、夕凪の傷口はふさがり流れた血は綺麗に消える。そのままでは、まるで眠っているかのようだ。
「まだそこにおるのか……」
ふと視線を転じれば、ぼんやりとした淡い影が漂っている。その影に手を差し伸べると、影は生前の面影を残した、若い女性の姿にかわった。
「あの子は大丈夫。私が必ず守るから、安心おし」
涙ながらに何かを伝えようとする女性を安心させるように微笑む。その微笑にほっとしたのか、女はようやく笑顔を浮かべた。そして深々と頭を下げる。
「さぁ、お逝き。お前の待ち人が待っているよ」
すっと影が月を指差した。その瞬間、月光が淡い橋の姿に変わる。女性はその橋に向かって歩き出し、ちょうど真ん中でぴたりと止まった。何か探すようにあたりを見回し、泣き出しそうな表情をする。
「わかった。一時だけ行っておいで」
影が仕方なさそうに息をついて許可の言葉を出すと、女は至極うれしそうに笑った。そしてすっとその姿が消える。それを見送ると、影はふわりと微笑んだ。
「あの子は愛さているようだね。かわいい子。お前はまだ安心できないのか?」
「まだまだ、安心なんかできませんわ。あの子が無事に大人になって、私の元へ来る日まで……」
そこには影以外何もいなかったはずだが、つぶやきに答えるように柔らかな声が響いた。その声を予想していたように、影はそうか、とうなずく。
「あの子が悲しまないように……あの子が涙を浮かべないように……」
ただ、それだけを私は望みます……
女性の声が消えると同時に、影の姿も音もなく消える。そこに残されたのは、安らかな沈黙だけだった。
ふと、沙綾は人の気配に目を覚ます。あたりの静けさからまだ朝には程遠い時間だろう。なんとなく目が冴えて眠れずに、むくりと体を起こした。
「沙綾?どうした?」
少しだけ眠たそうな琳の声が聞こえるが、それには答えない。ただ何かを探すようにきょろきょろと首をめぐらせる。
「沙綾?」
さすがに琳も不審に思ったのか、立ち上がると身軽にベッドに登った。そして真正面から沙綾の顔を見る。その表情はどこか泣き出しそうな、不安な色を濃く映し出していた。
「ばあやが……夕凪が……」
「夕凪が?」
それだけつぶやくと、唐突に沙綾は立ち上がる。迷いもなく窓際によると裸足のままテラスへ駆けでた。その後ろに続く琳は、訳がわからずに軽く混乱する。
「沙綾!どうした?」
「ばあや!」
琳の言葉をまったく聴かずに、沙綾は暗闇に手を伸ばした。すると、その先に淡い光がともる。もしかしたら目の見えない自分にだけ見えた幻想なのかもしれない。それでも、その光が夕凪であると、なぜか直感的に沙綾は気づいた。
「ばあや……。どうしたの、何があったの?」
知らずこぼれた涙に声がかすむ。けれど光は何も答えることなく、ただふわりふわりと沙綾の周りを漂った。そして琳の元へ近づく。
『琳様。どうか、どうか、ひぃさまのことをよろしくお願いいたします。ひぃさまが泣かないように、どうか、どうか――』
「夕凪……」
ぺたりと耳を伏せ、琳はうつむく。そうして、理解した。彼女は最期の願いを自分に託すためにきたのだと。
「安心しろ。沙綾は私が守る」
琳の声に安心したようにちかちかと数回瞬き、やがて光は薄くなる。そのまま闇に溶けるように消えた。
「これは?」
夕凪が消えた後に何か光るものが落ちている。不思議に思った琳が歩み寄り、沙綾の手元に運ぶ。
「何かしら……」
手に触れた感じでは、冷たい硬質のもの。丸くて鎖がついていることから、ペンダントだと気づく。形を確かめるように触れていると、不意にぱかりとペンダントが開いた。
「綺羅と皓貴だ」
「え……?」
開いたペンダントにはめ込まれていたのは、精緻な似せ絵。色あせもなく、当時の姿そのままに。
「母様と父様?」
そっと指で絵の部分をなぞるが、平らな紙に描かれたものは沙綾には感じることができない。せめてもう一度その姿を見たいと願うが、沙綾の瞳は相変わらず闇に閉ざされたままで。
「母様……父様……沙綾は……」
ひっく、と小さくしゃくりあげ、それを機に涙があふれて止まらない。大好きな人がどんどんといなくなり、やがて独りになってしまうのではないかという恐怖に体が震える。
「沙綾……」
琳はかける言葉が見つからず、そっと静かに寄り添う。無言で少女の横に座り、ひたすらその涙が止まるのを待つ。闇に落ちた沈黙の中、ただ沙綾のすすり泣きだけが響いていた。
やがて啜り泣きが消えるころ、沙綾のかすれた声が微かに響く。
「……明日、朝に帰るわ」
帰って、夕凪を眠らせてあげないと。
そうつぶやく彼女の瞳に涙はない。だが、傷ついたガラスのように双眸はきらめいている。それが哀しみ故のものと知っていても、琳には美しく思えた。その感情を振り払うように一つ瞬き、うなずく。
「明日は早いよ。今日はもう眠ろう」
そっと誘うように沙綾の足元に寄り添い、琳はベッドの上に丸くなった。その暖かい体を抱きしめ、沙綾は目を閉じる。
眠気は一向に訪れなかったが、何も考える気になれずにただ闇を見つめていた。
「……琳、覚えている?」
「うん?」
「初めて、出会った日の事」
沙綾の言葉にふと、想いを過去に寄せた。そうすれば、まるで昨日のことのように思い出せる。確かあれは、まだ自分も少女も幼かった日のこと。
深い森の中、まだ悲しみを知らずに微笑んでいた少女。初めて彼女を見たとき、琳は驚きに目を見開いた。主人が寵愛を贈った娘であることが一目で知れて。
「あなたはだぁれ?」
静かな湖面に花畑が広がり、その中で少女は一人遊びをしていた。色とりどりの花で冠を作り、首飾りを作り、確か花束を作っていたときのことだったと思う。
「沙綾……か?」
「うん、そうだよ。あなたはだぁれ?」
同じ言葉を二度繰り返し、黎明の瞳でまっすぐに自分を見ていた。
狼が怖くないのかと考え、ふと改める。そういえば、彼女は生粋の銀の一族だ。怖いはずがあるまいと苦笑した。
「私の名前は琳」
名乗り、ゆっくりと少女に近づく。少女は怖がるでもなく、りん、と舌足らずに呼んだ。そうして自分の頭に乗っていた花冠を取ると、琳の頭に載せる。その行動はさすがに予想外で、琳は驚いたように立ち止まった。
「りんに、あげるの。お友達だよ」
そういってにこりと笑ったその顔に魅せられた。もしかしたらそれは自分を創った主の想いなのかもしれない。それでもいいと、思う。純粋に自分を慕ってくれる少女を好きになったのだから。自分でそう感じているだけで、それだけで満足できる。
夕暮れまで沙綾と琳はそこですごした。少女は無心に花で遊び、琳は時折尻尾を揺らしながらその様子を眺める。ただ、それだけの時間が至極幸せだった。
「そろそろ帰らなきゃ。りんは?」
「私は……」
ふと、言葉に詰まる。帰る場所はもちろんある。けれど、主人の元へは一人で帰ることができない。かといって、少女の元へ一緒に行くにはまだ早い。彼の御方ならばためらわずに琳を迎えてくれるだろうが、自分がこの子の元へと来るのはもう数年先のはずだ。
「帰ろう?」
そんな琳の葛藤を知ってか知らずか――たぶん、無意識だろう――沙綾はごく自然に手を差し出した。帰ろうと。
それは、ある意味琳にとっては衝撃的だった。主人が帰ろうというのは当たり前のこととで、それ以外に琳に手を差し出す存在は今までいなかったのだから。
「りん、おうちに帰ろう?」
にっこりと微笑み、沙綾は当たり前のようにもう一度告げた。そうして、琳はうなずく。
その背に沙綾を乗せて「家」に帰ると、当然のように驚きが待っていた。出迎えた夕凪と皓貴は目を丸くし、ただ一人綺羅だけは微笑んでいたことを覚えている。
「今日から家族になるわね。よろしく、琳」
「家族?りんも一緒?」
母に抱きつきながら沙綾は期待に満ちた眼差しで綺羅を見る。綺羅はもちろんとうなずき、家族、という言葉にただ自分はきょとんとした。
家族って、何だろう?
「りん、ずーっとずーっと一緒だよ」
心底うれしそうに笑顔を振りまき、幼い少女は狼に抱きつく。抱きつかれた琳はなぜか湧き上がる暖かい気持ちのままに、少女の頬をなめた。最初驚いた沙綾は、それがうれしくて楽しくて、きつくきつく抱きしめる。幼い力ではただ抱きつかれてるようにしか感じなかったが。
それから何年も時がたち、色々なことを見て、経験してきた。悲しみも喜びも二人で分かち合い、家族として過ごしてきた。きっと、沙綾に子供ができて孫ができても、自分はそのまま何も変わらぬままこの子と共にすごすのだろう。そんな確信に近い想いが琳の胸にはあった。
「琳、ずーっとずーっと一緒だよ」
幼い日と同じ言葉が耳に届き、ふと我に返る。気づけば沙綾の頬はまた涙にぬれていた。
「大丈夫だ。私はどこにも行かないから。ずっと、ずっと沙綾の傍にいるから」
何よりも孤独を恐れる子供。
あの日、すべてを失ってようやく笑顔を取り戻したというのに。その笑顔を奪ったものに、琳は初めて殺意に似た憎しみを抱いた。すべてを失った日は、まだ幼すぎて。憎しみよりも喪失感が強く、こんな感情は知らなかった。
「沙綾、眠りなさい。傍にいるから」
「……うん」
塩辛い涙をぺろりと舐め、琳はあやすように尻尾を揺らす。ぱたり、ぱたりと規則正しく揺れる尻尾に、いつしか沙綾は眠りに落ちていた。
ちょうどそのころを見計らったようにふっと光の残像が室内に現れる。
「我が主」
そっと沙綾を起こさないように離れると、琳は床に座る。軽く頭を下げて主に敬意を示す。その頭をそっと撫でると、銀歌は音もなく沙綾の元へ近づいた。
「たくさん、泣いたか……」
すっと沙綾の頬を撫で、腫れてしまったまぶたに指先を当てる。赤くなったまぶたは本来の色を取り戻し、幾分か沙綾の寝顔も楽になったように感じる。
「お前をこの子に託したのは正解だったようだね」
主人の意図がわからずに琳は軽く首を傾げるが、言葉を紡ぐことはしない。そんな琳にふっと小さく笑い、もう一度琳の頭を撫でる。
「かわいい子。私の愛し子を慰めておくれ。この子はまだ一人で歩くには幼すぎる。……私の元へ来るにも、もう少し時間が必要だよ」
長い永い時を独りで過ごしているんだ。もう少し待っても、何も変わらないよ。
「我が君……。あの時、私を止めなかったのはわざとでしょうか?」
あの時。初めて沙綾とであった時、琳は銀歌に内緒で彼女の元へいったのだ。本来ならばもう数年先に銀歌とともに出会うはずだった少女。主人が寵愛を与えた娘を、ただ一目見てみたかった。
「ふむ……そう思うならば、そうであろうな」
「……はぐらかさないでください」
「おや、ようやっと大人になったかい?」
「我が主」
からかうばかりで答えをくれない主人に狼が低くうなる。その様子でさえかわいいと思うのか、銀歌はただうれしそうに笑った。
「お前が思うとおりに行動してほしかったのだよ。私の傍にいるだけでは、お前に本当の幸せは訪れないからね。かわいい子。私はお前の幸せを願っているのだよ」
「……私は……」
戸惑うように視線を揺らめかせ、琳はうなだれる。けれど、銀歌は微笑むばかりで言葉を紡がない。まるで、狼が自分の意思で言葉を紡ぐのをまっているかのように。そんな主人に、狼は意を決したように口を開いた。
「私は、我が主を敬愛しております。私を創ってくださったそのことを、何よりも感謝しております。そして……沙綾にめぐり合わせてくださったことを、それ以上に感謝しております」
「いい子だね、琳。そう思ってくれることが、何よりもうれしいよ。……私はまだ、沙綾を愛することができないでいるからね。私が愛したのは綺羅であって、沙綾ではない。……綺羅と私の血を受け継いだこの子を愛おしいと思う。けれども、それだけなんだよ。……琳、私の分以上にこの子を愛してあげなさい。いつか、この子が私の元へくるそのときまで。……もしも、私がこの子を愛して上げられなかったとしても……お前の愛情は、きっとこの子の力になる」
寂しそうに告げる銀歌。その葛藤と悲しみを感じ取り、琳も切ない思いが胸によぎる。
生まれたときから自分のものになるはずだった彼の娘。確かに自分のものになったはずなのに、彼女もすべてが自分のものだとそういったはずなのに、解ってしまった。彼女は自分のものであって、自分を愛していないのだと。
正確にはわからない。けれど、自分以上にあれを愛しているのだと、解ってしまった。彼の娘が自分に向ける愛情は、あれに向ける愛情とは違う。違いすぎる。それでも――彼の娘を愛している。
「私は、自分が神であることを心底呪わしいよ」
神でなければと何度願っただろうか。何度、人の身になろうかと思っただろうか。だが、それはできない。してはいけないこと。だからせめて、彼女の血を欲した。自分と愛しい娘の血を受け継いだものならば、愛せるだろうかと。
――けれども、まだ愛する娘の面影が離れずに。死してなお、自分のものにならない彼の娘。それでも、娘が愛おしくて。いつか、少女が大人になったならば、自分は少女を愛することができるのか――
「我が主……私は……」
「何も言わなくていいよ。ただ……私のかわりに愛しい子を愛しておくれ」
「――仰せのままに」
銀歌の指先がもう一度沙綾に触れ、そのまま琳の頭に触れる。頭をたれた狼を優しく愛撫し、銀歌の姿は夜の闇に消えた。
銀歌が完全に見えなくなると、琳はするりと沙綾の腕の中にもぐりこむ。そのぬくもりを感じると、わずかながらにほっとする自分に気がついた。
「沙綾……。ずっと、ずっと傍にいるよ」
たとえ、愛するこの子が我が主の元へ行こうとも。




