結末
8 結末
ふっと、アンジュは誰かに呼ばれたように視線を上げた。それはその昔愛しい娘に呼ばれたときのような、そんな心が浮き上がる感覚。
「……もう、そろそろですか」
パタンと読んでいた本を閉じると、アンジュはぼんやりと揺らめく灯りを見つめる。オレンジ色に淡く輝く炎は、昔々、まだ自分が闇に魅せられる前のことを映し出した。そう、それは幸せの日々を。
「闇樹。何をしているの?」
後ろから名前を呼ばれ、振り返ればそこには一人の女性。艶めく銀色の髪に、望月の瞳。愛しい人だった。
「綺羅様。薬を、煎じておりました」
綺羅は、自分よりも五つ年上の女性だった。脈々と受け継がれてきた銀の巫女の中でもその力は高く、そして誰よりも美しかった。その姿だけでなく、心根も。
綺羅が生まれてきたときに、枕元に崇敬する神が降り立ったという。神は、綺羅をいづれ妻に迎えると、そう告げたらしい。それ以来、綺羅は巫女として、また神の妻としての修行が続いていた。
「闇樹は薬を作るのが上手よねぇ。私、薬を作るのが本当に苦手だから羨ましいわ」
闇樹の手元を覗き込みながら綺羅は感心したように言う。彼が煎じているのは、解熱と解毒の作用があるきわめて難しい薬だった。
「何をおっしゃいますか。綺羅様には尊いご使命がおありになります。私ごときの能力と比べてはいけません」
闇樹は慌ててとんでもないと首を振るが、それが謙遜だということは綺羅はよく知っていた。一族の中でも、彼は薬作りがとても優れていると評判だったからだ。綺羅はくすくすと笑い、子供にするように彼の頭を撫でる。
「き、綺羅様!もう子供ではありません!」
「ごめんなさい、あんまりかわいいから」
顔を真っ赤にして怒る闇樹がさらに可愛らしく見えて、綺羅はなおも笑う。そんな綺羅はいつものことだったので、あきらめたよう肩を落とした。少しだけすねたように唇を尖らせれば、綺羅がふわりと微笑む。
「そうね、あなたももう成人の儀を済ませたのだったわね。ごめんなさい」
「いいえ、構いませんが……人前ではしないでくださいね」
「もちろん。わかっているわよ」
なんだかんだいいながらも、闇樹は綺羅に構われることが好きだった。淡い恋心を抱く相手に子ども扱いされるのは複雑な心境だが、それでもうれしい。
「綺羅、ここにいたのか。婆様が探していたぞ」
不意にがらりと扉が開き、長身の男性が顔をのぞかせる。穏やかな黎明の瞳に、柔らかな亜麻色の髪。綺羅の幼馴染だ。
「皓貴。ごめんなさい、すぐに行くわ。またね、闇樹」
会釈で皓貴と綺羅に別れを告げ、闇樹はため息を漏らす。今夜に迫った、綺羅の相手を務める儀式を思って。
「もしも……」
もしも、自分が綺羅の相手を務めることができたならば。――他には何も望まないのに。
その夜、「婆様の屋敷」と呼ばれる長老の家で儀式が行われた。何を基準で選ばれるのかは解らない。覡の素質があると言われた皓貴、闇樹、そして他に二人の男が横一列に並んで座った。皆一族の正装をしているが、色が違う。皓貴はその瞳と同じ柔らかな黎明の色であり、闇樹は濃い緑であったりと様々だ。
「今から儀式を始める。既に解っているとは思うが、この儀式で綺羅の現世での夫が決まる。その身に銀歌様をお迎えし、銀歌様のお力を綺羅に移す大切な役目じゃ。覚悟を決めや」
元は綺麗な亜麻色の髪だったのだろう。とこどころにその名残は見えるが、大半は白く染まっている。しわくちゃの顔に小柄な体だが、さすがに前代の巫女だけあってその瞳は美しい銀色のままだ。
婆の声が途切れると、一段高くあがった舞台に綺羅がやってきた。その身を正式な巫女の衣装で包み、手に足首に鈴をつけている。歩くたびにしゃらり、しゃらりと澄んだ音色が聞こえた。しかし、その美しい音色よりもなによりも、綺羅は美しかった。複雑に結い上げられた髪、ほんのりと紅をさした頬と唇。閉じた瞳が開けば、まるでそこに銀色の花が開いたようで。思わず闇樹は息を止めた。
「我が夫となるものを」
やや緊張した声音で綺羅が告げ、銀歌に捧げる神楽舞を舞う。その表情は、時を経るごとにやがて本来の彼女とは違う姿に変わる。否、姿かたちは同じだが、彼女の意思はどこか遠くへと消え、巫女としての彼女が舞う。
シャン、シャン、シャラン――
軽やかに鈴の音が鳴り、白い手足がまるで蝶のように。激しく、時にたおやかに。やがて唐突に舞は終わった。そして、綺羅が跪いた相手は――
「皓貴。あなたを、我が夫に」
闇樹を含め、残りの男たちもまっすぐに二人を見つめる。そして、その視線の中皓貴は一度だけ瞬いた。
「承りました」
皓貴がうなずいた瞬間、闇樹は思わず綺羅を凝視した。その瞳に、表情に、わずかにでも喜びの色がないかと。彼女の意思で決めたのではないかと、探してしまった。そうすれば、この決定は覆されるのにと。巫女――穢れなき乙女ではなく、俗世に在る「綺羅」という女が決めたことと言い切れるのに。
「本日より、皓貴が巫女・綺羅の現世の夫となることをここに認める。皓貴よ。おぬしの体はおぬしのものであっておぬしのものではない。巫女も覡も銀歌様であるということを決しれ忘れるなかれ」
「はい」
やがて灯りが増やされ、綺羅と皓貴が部屋を出る。これから彼らが何をするのか知り、闇樹は絶望に落ちる。たとえ、その身に銀歌を宿しているとしても、誰も知らない綺羅を知ることができる皓貴にたとえようもないくらい憎しみが募った。
あの美しい銀の髪が、柔らかな白い体が、甘い声が。すべて、彼のものになるのかと――
どこをどう歩いたのか解らないが、気づいたら村から出て森のはずれに来ていた。そこは、はるか昔から決して立ち入ってはいけない聖域。否、禁忌の地。空には銀色の望月が、銀歌に従う星が輝いているというのに、そこだけはぽっかりと闇のように暗い。
「憎らしいか?」
「誰だ」
どこからともなく、虚ろな声が聞こえた。思わず辺りを見回すが、人気はない。押し殺した声音で名を尋ねると、声はしばらくの沈黙の後に響いた。
「誰でもない。何ものでもない。我は闇。人の心に、現世の影に、常世の隅に在る闇」
「その闇が私に何のようだ」
そのとき、不思議と闇樹は怖くはなかった。常ならば、この近くに薬草を取りに来るだけでも恐怖と訳のわからない不安に襲われるというのに。もしかしたら、どこか頭の一部がおかしくなっていたのかもしれない。
「お前の憎しみが我を呼んだ。憎いか?恨めしいか?」
「……憎い。恨めしい。綺羅を手に入れることができる銀歌が恨めしい。綺羅の体を抱くことができる皓貴が憎い」
「ならば、我を受け入れよ。さすれば、お前は女を手にいれることができるだろう」
闇のささやきは強い誘惑。抗わなければいけないという気持ちと、いっそのことゆだねてしまえという気持ちが闇樹を責める。
「本当に、綺羅を……」
「我は闇。我は力。憎しみが強ければ強いほど、恨めば恨むほど我は力となる」
「私は……」
迷いは、一瞬だった。きっと、このまま二度と戻れないだろうとどこかで考える自分がいた。
けれども、それでも。力が手に入るのならば。――彼女が手に入るならば。
「受け入れよう」
その瞬間から、闇樹は聖なる色を失った。
不意に、炎の揺らめきが一段と強くなる。どれくらい物思いにふけっていたのか、気づけばあたりは薄暗い。そして、扉の外に人の気配。
「あいていますよ。お入りなさい」
穏やかとも呼べる声で言葉を紡ぐと、ほんの少しのためらいとともに少女が入ってきた。足元には威嚇に牙をむき出す狼の姿。
「あなたに……訪ねたいことがあります」
「何なりと、銀の姫」
悠然と椅子に腰をかけたまま、闇樹は少女の顔を見つめた。そして、そこにかつて愛した女の表情を見つけ、小さく微笑む。
「あなたは、何のためにここにいるのですか?何のために……一族を裏切ったのですか?」
「そうですね……あえて言うならば、私の中の一部が騒乱を求めるのですよ。闇に落ちた、私の魂の一部が、ね」
「もう……戻れないのですか?」
「戻るつもりはありませんよ。私は綺羅を必ず手に入れる。あなたの母上を……あなたの中に」
そういって闇樹はすっと手を伸ばした。何かをつかむような仕草をすれば、その手には銀色に輝く短剣。
「夕凪の血をすったこの剣で、あなたも彼女の元へ逝くがいい。その体には綺羅が入る。意識は二つもいらない」
「夕凪を……」
「そう、私が夕凪を殺したよ。そして……憎らしいあなたの父親もね」
優しいと思わせる笑顔でそう告げると、闇樹は音もなく立ち上がった。あまりの衝撃に動けないでいる沙綾に、体当たりをするように琳が退かせる。威嚇に大きくほえ、闇樹に飛び掛る。しかし、その爪が彼に届く寸前、まるで何かに守られるように琳が弾かれた。
「ぐぅ……!」
「琳!」
床に思い切りたたきつけられ、それでも狼は立ち上がる。訝るように彼を見つめて思案すれば、琳が何か言う前に言葉が降ってきた。
「私にはその牙は届かないよ。私は新月をあがめるもの。そして、新月の化身が私の中にいる。お前が主に牙を立てられないように、私にも牙を向けることはできない」
琳がうなり声を上げ、沙綾が恐怖に身をすくませる。その瞬間、あたりが白銀に染まった。そして、闇樹の前に銀歌が立ちはだかる。
「ここにいたのか……我が身の一部よ」
「銀……歌」
不意に、闇樹の体がぐらりと傾き、長い髪が表情を覆い隠した。そして顔を上げたそこには、闇樹であって闇樹ではないものが姿を現した。
「久しぶりだな、銀歌」
「黒隷。何故彼に取り付いた?」
「お前が俺を切り捨てたからだろう?」
憎憎しそうに銀歌をにらみつけ、闇樹――否、黒隷は告げる。銀歌の表情に苦悩の色が浮いたことに気づき、心底うれしそうに笑った。
「俺はお前が憎らしい。お前の一部であるはずなのに、お前に要らないと切り捨てられた。あの森の中の、暗い暗い闇の中で何度お前を呪ったことか」
昼間でも日が差さない、鬱蒼とした森の中。神聖なる大木に封印され、来る日も来る日も闇を見続けた。何時しか、光を欲することをあきらめた。何度願っても、かなわぬ望みと。
「あいつがやってきたときは本当に嬉しかったね。これでお前に復讐ができると。あいつも、それを願っていたからな」
「黒隷……」
男の言葉に銀歌は悲しい表情でまぶたを閉じる。その貌が見えたわけではないだろうが、何かを察した沙綾遠慮がちにそっと銀歌の腕に触れた。
「銀歌様……泣いていらっしゃるのですか?」
「沙綾……」
その仕草は、なんと彼の女性にそっくりなのだろうか。彼女もよく、落ち込む自分の腕に触れてただ静かに時を過ごしてくれた。
「泣いてはいないよ。いや……泣いているように見えるのならば、それは後悔の涙だよ」
「後悔?」
「そう。私が……私が、未熟だったのだよ」
そっと沙綾の頭を撫でると、銀歌は少女を引き離す。その様子を見ていた黒隷は、くつくつと喉を震わせ、刃を銀歌に向けた。
「お前が後悔?はっ!お前の口からそんな言葉が聞けるとはな。いいか、女。こいつはな、欲望にまみれた汚い奴なんだよ」
「そんなこと……そんなことありません!」
「信じられないなら一つ、昔話をしてやろう」
そういって、黒隷はどっかりと椅子に腰を下ろす。刃を銀歌に向けたまま、一瞬だけ遠くを見つめた。けれどその視線はすぐに沙綾に移り、言葉を紡ぐ。
「あれは何時のことだったかな。遠い遠い昔のことだ。俺と銀歌は、一人の人間だった」
一人の人間だった頃の名前は覚えていない。ただ、光と影のように相反する自分たちが一つの器に入っていたという事実だけを覚えている。
「俺たちには、不思議な力があった。自分の血を与えることで病気を治したり、怪我を治したりする力だ。そう、お前が持っているの力だ」
彼ら……いや、彼はその不思議な力を使ってたくさんの村を回った。年老いた老婆の目を治し、生まれたばかりの赤子を病から救い、走れなくなった少年の足を治し――たくさんの、数え切れないくらいの村を回った。そしてある日気づいた。
「何故私は顔も名前も知らなかった人々を治療し続けているのだろうか。何故、私は旅をして回っているのだろうか」
そして幾晩も幾晩も考えた。やがて気づいた結果は。
「自己満足だったんだよ。俺には不思議な力がある。癒しの力がある。だから治してあげよう。そうすれば、俺は認められる」
誰に?
自問自答しても答えは出ずに。また、毎晩毎晩考えた。考えて考えて――考え抜いたある夜、声が聞こえた。
「誰のかわからない。けれど、声はこうささやいた。お前の力は人として持つべき力ではない。神の眷属となるか、力を捨てて人の身になるのか、そうたずねた。そして、こうも言った。人の身になるのであれば、今までの働きを評してお前の好きなものを与えよう。富も名声も女も、何でもくれるといった。しかし、神になれば人と交わることはできないが、永い命と力を授けようと」
黒隷はそこで言葉を区切ると、黙ったままの銀歌にちらりと視線を向ける。その表情は苦悩に満ちていて、黒い男は満足したようににたりと笑った。
「ここで、俺たちは二つに分かれた。おれは富がほしかった。名声がほしかった。今まで散々苦労したのだから、ここらで報われてもいいだろうと。そう考えた。しかし、こいつは違った。力を失いたくないと。この力がなければ誰も自分を見てくれないと。だから神になり、人との交わりを絶つとそういったんだ」
まっすぐに銀歌を見つめる黒い双眸が、銀色を射抜く。それに恐怖したように銀歌はうつむき、自嘲するように笑った。
「私は……怖かったのだよ。どこで生まれたのかも解らない。何故、こんな力があるのかもわからない。けれども、この力がなければ誰も自分など気にかけることはなかっただろう。もしもこの力を失って人と交わり続けたら?やがて、独りになるのではないかと。怖かったのだよ」
そういってうなだれるその姿からは、神とは想像できない。一人の人間のようで。琳は主の切ない姿に思わず尾をたれる。そしてそっとその手に頭を摺り寄せた。
「琳……ありがとう。愛しい娘よ。笑ってくれていい。神と呼ばれていても、私は愚かで醜い生き物なのだよ」
「銀歌様……」
沙綾にかける言葉は見つからずに、ただこぶしを握り締める。唇をかみ締め、見えない光を探すように視線をさまよわせた。
「こいつは、人らしい欲望をすべて捨てた。いや、俺がすべて持っていった。富と名声と金と地位と女と……すべて欲した。そんなおれとは反対に、こいつは富みも名声も金持ち芋女も要らないといった。ただほしいのは、愛情だけだと。俺はこいつを憎んだし、こいつも俺を嫌った。嫌い、憎み、要らないと最後に切り捨てた」
自分の影を切り捨てることによって、銀歌は光となった。天空へと昇り、神となり人を見つめ続けた。
「自分だけ望みをかなえたんだ。もう一つの自分を切り捨ててな。……おれは、あの薄暗い闇の中で何故と考え続けた。今まで散々人のためになることをしたんだ。この辺で楽をしたっていいじゃないか?愛情をもらったって腹が膨れるわけでもない、体が満たされるわけでもない。なのに、こいつはただ愛情がほしいと、自分を見つめる視線がほしいといった」
動けない体。見渡す限りの闇。人の声も聞こえず、ただ沈黙だけが支配する真の闇。気が狂いそうになるくらい、果てのない時間。
「闇樹は、ある意味俺を救ってくれたよ。自らの体を供し、俺の言葉に素直に耳を傾けた。だから、銀歌の力を失ったこいつに俺は俺の持つすべての知識を与えた。そして俺は、こいつの意識奥深くに眠った。俺に気づかないまま、すべて自分がしたことと思い込むように」
にやりと笑い、黒隷は立ち上がるとゆっくりと一歩踏みだす。銀歌と琳は沙綾をかばうようにその背に押しやった。
一瞬の、永いにらみ合い。
不意に銀歌は悲しそうに微笑み、一度まぶたを閉じる。何かを決意したその表情に、琳が口を開く。
「我が主」
「琳。お前は沙綾を守りなさい。これは……私がけじめをつけなければいけないことだ」
「ですが!」
「大丈夫。私はいなくならないよ。私でなくなったとしても……」
琳の頭を一度撫でるとすっと片手を前に差し出す。その瞬間、光の帯が黒隷に伸び、その体をぐるりと囲った。
「何を!」
「しばらくそのままでいてほしいからね。……沙綾」
「はい」
銀歌に呼ばれ、沙綾はその白い手をそっと握る。その瞬間、ふわりとぬくもりが包み込んだ。そして、耳元で聞こえるほんの少し震えた声。
「許してほしい。わたしは、愛しい娘を……お前の母を助けることができなかった。私の弱さが……悲劇を招いた。……お前に、光を返そう。せめてもの、償いに」
ぬくもりが離れ、すっとまぶたに暖かな手のひらが触れる。そして唇に冷たい感触。
「目を開けてごらん」
銀歌に促されてまぶたを開けば、目の前に端正な面立ち。母と同じ長い銀の髪に、父と同じ黎明の瞳。穏やかで優しい貌。
「銀歌様?」
「覚えておいで、沙綾。私の愛しい娘。お前の光を奪ったのは私だよ。お前の命を助けることと引き換えに、お前を私の花嫁に迎えるその日まで。けれど、私はお前を愛せない。愛しい女としてみることができない。許しておくれ。私の心は……あの日から、綺羅にとらわれたままなのだよ」
「何故……何故、銀歌様が謝られるのですか?助けていただいたこの命、そして最後の銀の娘として、私はあなたのものです」
光が戻ったばかりの双眸に涙をいっぱいためて、沙綾は言い募る。それに困ったような顔で何か答えようとした瞬間、低い笑い声が聞こえた。
「くっくっく……。銀歌、今までの報いだな。お前はすべてがほしいといった俺を切り離してまで愛情がほしいといった。」
黒隷は狂ったように笑い続け、銀歌はきつく唇をかみ締める。何か言い返そうと言葉を捜すものの、黒隷のことばは的を得ているような気がしてならない。その迷いと逡巡に、黒い男は勝ち誇った顔で続けた。
「結局はすべてこいつに自己満足さ。誰にも必要とされないのが怖いから神になって人から必要とされたい。女がほしいけれども自分は人と交わってはいけないから間接的に人と交わる。ほしい女が手に入らなかったから、代わりに別の女を、ほしい女の血を引いた子供を手に入れる。俺よりも身勝手で傲慢だ。どうあがいても、俺とお前は同じなんだよ」
「……そうかもしれないな」
銀歌はポツリとそうつぶやくと、動けない黒隷に近寄った。一度立ち止まり、まぶたを閉じる。そこには、かつて人の身であった自分の姿。そしてふわりと微笑んだ。
「もう一度、一つに戻ろう。私はお前を切り捨てたことで、きっとどこかが壊れてしまったのだよ。もう一度、人としてやり直そう」
「……俺を取り込んだら、俺の中の闇樹はきえるぞ?」
何かにおびえたように黒隷は銀歌をにらみつけて言い募る。けれども銀歌は微笑んだ。
「闇樹は消えない。私が、消させない」
そして腕を伸ばし、黒隷をやわらかく抱きしめた。
「お前は私。私はお前だ」
そのまま黒隷は泡がはじけるように光の粒子となり、銀歌の体が発光する。あまりのまぶしさに沙綾はまぶたを閉じ、琳はそれでも主に近づこうと足を前に出す。
「琳。お前はもう自由だよ。行くといい。お前の愛する主人の下へ」
「我が主!」
琳が叫ぶと、そこには二人の赤ん坊が残されていた。黒と銀の異なる瞳を持つ赤子と、銀色の瞳を持つ赤ん坊。どちらも無邪気に笑い、沙綾に向かって手を伸ばしている。
「銀歌様……」
そっと手に触れると、思った以上の力強さで握り返されて。その生命力の塊に自然と微笑んだ。と、そのとき静かに扉を開ける音がする。
「リコ」
「サーヤ様……お目が……?その赤ん坊は?」
「この子たちは……銀歌様と、闇樹、様です」
そして、銀の瞳を持つ赤ん坊を抱き上げ、リコに歩み寄る。
「闇樹様の生まれ変わりです」
「……きっと、銀歌様のお導きでしょう。私がこの子を育てます」
「この子は、正真正銘最後の銀の民。もう、崇めるべき神も……お隠れになりました」
その言葉に、リコは目を見張る。一度強くまぶたを閉じると、少しだけ悲しみの混じった微笑を浮かべた。
「この子に、太陽の加護があらんことを。この子の道行く先が日の光であふれんことを」
そして、無邪気に笑っているもう一人の赤子を見つめる。その視線に沙綾が気づき、そっと抱きあげた。
「銀歌様……いえ、この子はもう一度生をやり直します。孤独で寂しい思いをしたぶん、きっと幸せになります」
「もう誰も……悲しまないといいですね」
リコがそうつぶやき、沙綾がうなずく。ふと、窓の外に目を向けると柔らかな日差しが降り注ぎ始めていた。新しい日差しの中から、女性が現れた。半ば光と同化した、陽の女神。
「兄様は……決められてしまったのね。いつも私に何の相談もなく……私は、本当に兄様を愛していたのに……。残されたものの気持ちなんて考えずに、いつも自分勝手なんだから」
緑の双眸にたくさんの涙をため、カーシャは無邪気な赤ん坊を見つめた。そしてすっと手を上げるときらきらとした光の粒子が人の形となる。
人の形はカーシャと同じように光と同化していたが、それでも沙綾には誰かすぐにわかった。自分と同じ銀色の髪。満月の双眸。優しい微笑み。
「……母様……?」
「沙綾……。ずっと、ずっとあなたを見ていたわ。私のかわいい子供。大きくなったわね」
「母様……私、わたし……」
ぽろぽろと涙をこぼし、その涙が赤子に降り注ぐ。赤子は不思議そうに涙を見つめ、濡れる頬に手を伸ばした。その暖かさに駆け出そうとした足が止まる。
「銀歌様の変わりに、私があなたを見守るわ。夜空を照らす月となって。あなたの行く先に暗闇が降りないように」
「いつか……いつかまた、会える?」
「もちろんよ。皓貴と……父様と夕凪と三人で待っているわ。琳と一緒に来ることを。けれども、すぐはダメよ。あなたはたくさんたくさん幸せになるの。好きな人と結婚して、子供生んで。そして、もう何もすることがなくなったら会いにきなさい。それまで……あなたはこの地上で幸せになるのよ」
「……はい、約束、します」
涙ながらにそれでも微笑めば、母は満足そうに笑った。ゆっくりと歩み寄り、日差しのような暖かさで沙綾を包み込む。
「沙綾。私のかわいい子供。あなたが微笑んでいるなら、私も笑えるわ。あなたが悲しくて涙を流したくなったら、月を見なさい。私はいつでもあなたのそばにいるわ。……沙綾。永遠にあなたを愛している」
そう告げると、愛しい娘にそっと口づけた。その瞬間、光が溶けるように消える。ただ、母親のぬくもりだけを残して。
「母様……。……カーシャ様、ありがとうございました」
「兄様の愛した、兄様と同じ血を持つ子。あなたに、光の祝福を。兄様はもう……私のことを覚えていないだろうけれど……兄様をお願いします。私では……ダメだから」
「カーシャ様……。きっと、銀歌様はカーシャ様のことを忘れてはいません。人の身になられても、赤子になっても……きっと、銀歌様のお心にはカーシャ様のことが残っています」
「……そうね。……ありがとう、沙綾」
ふわりと哀しい微笑を残すと、カーシャも光が溶けるように消える。その名残を見送ってから、沙綾はリコに微笑んだ。
「行きましょう」
帰るべき場所へ。
待つ人の下へ。




