祖母来たる!
「お婆ちゃん!!」
大きなピンクのスーツケースを引っ張っている祖母の姿を見つけた楓は大声をあげる。
「楓ちゃん!元気そうね!」
しっかりした足取りで楓の方に歩いてきた。
祖母は夜に出発して早朝に月に着く便でのやってきた。
月を夕方まで観光して、そのまま宇宙基地へ向かう。
「お婆ちゃん、疲れていない?」
「全然。むしろシャトルの座席が意外と良くってぐっすりだったわ」
パワフルだ。
今日は祖母が自分で調べた四時間ほどの半日ツアーに二人で参加する。
参加費はすでに祖母が地球からクレジットカードで二人分支払ってくれている。
「午後のツアーを予約したから午前中は時間があるわね」
「ちょっと早いけどお昼ごはんにする?」
楓はそう提案した。
「それならお婆ちゃん行きたいお店があるの」
祖母はそう言うとガイドブックを取り出した。
「ここ、月のコーヒーで生産されたコーヒーが飲めるんだって」
「月のコーヒー?それなら宇宙基地のカフェで飲んだことがあるよ」
楓が何気なく言った言葉に祖母は心底驚いたようだった。
「楓ちゃん、カフェなんて行っているの?」
祖母の驚いているような言い方に楓は疑問を持ったが、すぐに答えが分かった。
「うん。宇宙基地では行き付けのカフェがあってしょっちゅう行っているよ。そのお店でいつも月のコーヒーを飲んでいるの」
地球にいた頃はひとりでカフェなんて行くような孫ではなかった。
コーヒーなら家でインスタントコーヒーが一番。
とにかく外に出ようとはしなかった。
「出不精の楓ちゃんがカフェに通っているなんて」
祖母はしみじみと言った。
「後、日帰り専用だけどスーパー銭湯もあるよ。
寮の部屋にシャワーも浴室もあるけど、しょっちゅう入りに言ってるよ」
「あら、そうなの」
祖母は驚いた顔で返事をした。
あの出不精の孫がわざわざ銭湯に?
部屋にシャワーがあるのに?
「今年の春に出来たばかりの施設だから、お婆ちゃんが買ったガイドブックにはまだ載ってないんだと思うよ。
私も宇宙基地に何年も住んでいる人のブログを見て初めて知ったから」
あの出不精の孫がネットで情報を見て、出掛けたとは。
「お婆ちゃんが予約した宇宙基地のホテルの部屋にもシャワー室があるけど、宿泊した人は無料で入れるみたいだから一緒に行こうか。
熱海、草津、別府、有馬、下呂のお湯が再現されているの。
道後と登別も追加されるみたいなんだけどそれは来月なの、残念だけど」
数年前に温泉のお湯が科学的に再現されるようになり、一般的な銭湯などで利用されるようになった。
使用するにはその温泉郷に使用料を支払わなければならないなど、日本のたからである温泉を守るため厳しい規制がある。
しかし数ヶ所の再現温泉を置いているという事は、使用量もそれなりの額になっているだろう。
「そうなの。私はどれも本物のお湯に浸かった事があるから、再現のお湯も楽しみだわ。
それに来年、東京に三十ヶ所の温泉の再現湯がある温泉ランドが出来るの。宇宙で再現湯の予習ができるなんてね」
好奇心旺盛な祖母は新しく出来る施設にも敏感に情報をキャッチしている。
けど2020年のコロナウィルス大流行を経験しているからか人混みは避けようとする。
きっと数ヶ月たって空いてきた頃に行くのだろう。
「温泉ランドはオープンしたらすぐに行こうと思ってるの」
「えっ?そうなの?珍しい。
いつもは空いてきてから行くって言うのに」
楓は意外そうに聞いた。
「本当は空いてる方が好きなんだけどね。でもお婆ちゃんもう歳だから行きたいと思った所はすぐに行かないと。いつ行けなくなるか分からないから」
「そんな事言わないでよ。元気でいてよ、お婆ちゃん」
楓は言った。
この元気で活発な祖母はきっと長生きしてくれるのだろうと思っていた。
何となく、いつまでも元気なままで出歩いているのだと。
しかしその祖母の口から
「いつ行けなくなるか分からない」という言葉が出てきた。
そう。祖母もそれなりの年齢なのだ。
いつまでも若くはない。
こうして月や宇宙基地に来れるのもこれが最初で最後なのだ。
年齢制限があるのだから。
楓のように住むなんて絶対に許可なんか降りない。
きっと若い頃に宇宙で働けるチャンスがあったなら、祖母は絶対に挑戦したのだろう。
楓のように悩んだりしなかったはずだ。
「そうなんだね。その温泉ランドには私も行ってみたいな」
「そうね」
祖母は答える。
「凄い時代になったものよね。
温泉のお湯が科学的に再現出来るなんてね。
それで日本中の温泉が一ヶ所で入れるなんてね」
再現湯が出来た頃は反対意見が多かった。
温泉文化が廃れる、と。
それでも交通費が安くなった現在は、本物の温泉に浸かりに行く人の方が多い。
一泊で日本中湯めぐりが出来る。
祖母は日本の有名どころの温泉はほとんど入った事がある。
「でもお婆ちゃん、有名な温泉はほとんど入っているでしょ?
それでも再現湯に入るの?」
「それはそれ。これはこれ。
まぁ、大塚国際美術館みたいなものかしらね」
祖母はすまして言う。
「でも再現湯よりも今、月にいる事の方が不思議よね。
私は将来、月に行けるってあの頃の自分におしえてあげたい」
「あの頃って?」
「コロナウィルスで何処にも行けなかった時」




