ゴタゴタ
新人にはあまり難しい事はさせないらしく、なんとかこなしていた。
ほとんどがコンピューターを使っての作業になる。
何よりも一番困ったのが服装だ。
私服なのだ。楓は地上にいた時からそんなに沢山は服などもっていなかった。
そもそもそんなオフィスで着るような服などもともと持ってきていない。
仕方がないので、ネット通販サイトで安めの物を大量に買い込んだ。
数年前に日本で開発されたで破れにくく、色褪せにくい人工布地で作られた物だ。
手触りもシルク風、レザー風、デニム風など色々な物がある。
それらの生地で作られた衣類がネット通販サイトで安く買えるのだ。
「松居さん、今日はこっちの部屋で書類整理していてもらえます?」
北原が書類の束を持ってきて楓にそう伝えた。
示したのは、人事部にある小さな会議室だった。
「分かりました」
楓は小会議室で作業を進める。
三十分ほどたった頃、手元のホッチキスの芯がなくなった。
楓は会議室から出て、棚からホッチキスの芯を取り出して会議室に戻ろうとしたときに、ある人物と目が会う。
例のパワハラ作業員だった。
女性事務員と話をしていたその女性は、目が会ったのが楓と分かると睨んできた。
楓は動揺し、ホッチキスの芯を取りに来た事も忘れて小会議室に戻った。
その後、すぐに瀧澤が小会議室に入ってきた。
「ごめんなさい、ちゃんと言っておけば良かった。退職の手続きに来るから、ここいてもらおうって事になったんだけど・・・」
そういう事か。
会わないように気を使ってくれていたのに、私が小会議室から出ていってしまったのか。
申し訳無さそうな瀧澤の顔を見て楓は理解する。
あの人は目が会った時、間違いなく睨んできた。
きっと、楓がパワハラを言い付けてその見返りに人事部への移動を手に入れたと思ったのだろう。
パワハラを訴えたのは事実だけど。
「彼女、来週にここから出ていってもらう予定なの。
悪いけど、松居さんには彼女がここを辞めるまで仕事を早く切り上げてもらって部屋に籠もっていてもらいますね。食事は誰かに頼んでテイクアウトして運んでもらいます」
「え、でもそこまでは・・・」
「松居さん」
瀧澤は楓を正面から見据えてキッパリと言った。
「何度も言いますがここは宇宙基地なんです。
地上の企業とは違います。
こういった些細な事であってもトラブルは一切あってはいけない。
これは会社の信用問題にも関わります」
楓はそれ以上何も言えなかった。
確かに地上の会社では、このくらいのトラブルでは契約解除などしないだろう。
しかも楓が何も言っていないのに、その人と会わないように気を使ってくれるなんてあり得ない。
「分かりました」
「それと、レーンの周りで作業していた人たち。
見て見ぬふりしていた訳だから本当は一緒に辞めてもらいたいのだけど、実行犯でないからそれは出来ない。
その人達にも会わないように配慮します。辞めてく人と配置は変えたけれど流石に連絡手段までは止められないので貴方がここにいた事は伝わってしまうと思うので」
はぁ。
面倒くさい事になってしまったものだ。
自分のやった事は正しいと思う。
こうして人事部でも評価してもらえてるし、気を使ってもらえてる。
けれど、ここまでややこしくなるとは思わなかった。
正しい事をしたと思ってても、後悔していないと思ってても。
やるんじゃなかったとは思いたくなくても。
次の日。
楓は早速引っ越した。
引っ越しは誰にも見られないように昼間、皆が仕事中である時間帯に行った。
それまで住んでいた部屋よりも食堂から遠く、人事部に近い部屋だった。
それから一週間。
人事部の人間が、毎回食事も部屋まで運んでくれた。
もう例の人は退職してしまったが、ほとぼりが冷めるまでという事でこの状態が続いていた。
ある日。
いい加減この状態に耐えられなくなった楓は、部屋での夕食を済ませるとマスクをし、帽子を深く被ると部屋を出た。
寮を抜け出して外に出る。
働き始めてから初めての外出だった。
外といっても上空はドームになっていて、プラネタリウム状態になっている。
楓は少し歩くと、目に入ったカフェに入った。
カランカランカラン
ドアに付いていた大きめのベルが低めの音を奏でる。
「いらっしゃいませ」
奥の方から声がした。
「お好きな席にどうぞ」
奥から出てきたのは年配女性だった。
楓は取りあえず窓際の席に座る。
「はいどうぞ」
高齢女性は、水とメニューを持ってきた。
メニューをパラパラとめくって、ケーキセットを注文する。
窓とドームを通して大きい満月が見えた。
地球から見る月より遥かに大きい。
楓ではぼんやりと月を眺めていた。




