死の絵1
「おかえり」
ソファーで横になって液体のようにぐったりしているヴァンに迎えられる。ちなみに僕はまた半死半生になってエーカーに背負われている。
「クロイツは帰ってきて……ねえよな、やっぱ」
「残念ながら」
「だよなあ」
エーカーはため息を吐きながらソファーに勢いよく座る。
「うえっ」
その衝撃で横になっていたヴァンは跳ね、そのまま勢いを利用するかのように上半身を起こしてしっかりと座る。おもちゃみたいだ。
「疲れてるな、ココア。記者なのに体力がない」
「ずっと寝ていた人に言われたくありませんよ」
エーカーの背中から降りながら僕は思わず口を尖らせてしまう。
「まったく、名探偵と言えば僕らの子どもの頃には憧れの対象だったのに、まさかこんな人だとは思いませんでした……タリィさん、この人、元々こういう人なんですか?」
「知らないよ」
コートに汚れが付いていないか、ずっと執拗に調べていたタリィは顔はそのまま自らのコートに向けたまま目だけを僕にやり、
「俺がやりとりしてたのは主に妹さんの方だからな。当主とはいえ、そこの半死人は隠居していて滅多に顔を合わせることもなかった。遠くから見たことが一度か二度あったくらいだ。会話したのだって、ホームズ家から代理でヴァンが出席するって連絡がきて、実際にヴァンと会って、その時が初めてだ。まさか、こんな男だとは知らなかった」
冷静に考えたら、僕もタリィも貴族様に対して無茶苦茶な暴言を吐いている。
だが、当のヴァンは全く気にする素振りもなく、というよりその余裕もなく顔をしかめて、
「ああ、死ぬほど頭痛い……そうそう、俺も見た」
「は? 何がです?」
言葉が足りな過ぎるヴァンの発言に反応しつつ、僕もソファーに座る。
「塔の少女だ。一瞬だけどな」
座っていたエーカー、何やら考えながら歩き回っていたタリィ、そして自室に一度戻ろうとしていたらしいウィッチの動きが全て止まる。
当然、僕の動きもだ。
「え? ど、どこでですか?」
「どこって、塔だよ。水場のとこから見えるんだろ? ずっと寮の中で待っておくのもあれだから、水場の辺りでしばらく霧が晴れるのを待ってたんだ。そしたら一瞬、確かにはっきりと見えてな」
どういうことだろう? 僕たちが近づいていった時には、窓の奥には何も見えなかった。いなかったはずだ。
「だって、僕たちが確認した時には、いなかったんですよ!」
「……見たのか、彼女を」
足を止めたタリィはじっとヴァンを見る。ウィッチとエーカーも息を呑んで見守る。
「ああ、見たよ」
その雰囲気とは対照的にヴァンはあっさりと答えてから、
「というか、見ようと思えば――」
そこで、とんとん、と自らの頭を叩く。
「――頭が痛い……ああ、なんだっけ、そう、見ようと思えばじっと霧が晴れる瞬間を待ち続けていれば見れるんじゃあないか? とは言うものの、ちょうどその時にそこにいるとは限らないけど」
「え?」
「ココアが見た時にはいなかったんだろう? だから、窓から見える場所にいたりいなかったりするんじゃあないのか? 当たり前だな、生きているなら歩き回っている」
ああ、それは、そうか。
言い終わると、ヴァンはがくん、と座ったまま頭を沈める。どうやらまたグロッキーらしい。
「確かに、俺たちが見た時は、窓辺にいたよな?」
エーカーがその光景を思い出すように目を細めて確認してくる。
「そうね、あたしもそう思った。ただ……」
「ですね」
ウィッチが言い淀むのも分かるので、僕も頷く。
それなりに距離があって、おまけにあの一瞬は薄くなっていたとはいえ霧もあった。絶対に窓辺に少女がいた、とは言い切れない。ただ、窓の近くにいた印象はある。はっきりと見える位置に。だからこそ、近づいて窓から少女が見えなかった時に誰もが動揺したのだから。
「……ニャンの亡霊か。馬鹿な」
タリィは肩をすくめてから、
「そうだ、エーカー」
「あん?」
「天才の俺が確認してもいいんだが、一応絵画の専門家のお前に見てもらいたい」
「一応は余計だけどな……何をだ?」
「決まってるだろう、これだ」
壁にかかっている例の絵、「霧に浮かぶ塔」がタリィの手によって外される。とはいえ、この絵には塔がもう存在していないのだが。
「ああ、これか。まあ、いいけどよ……ええっと、あれだな、大してうまくない」
絵を受け取ってぱっと見ただけで、エーカーはそう言う。
「そういうことじゃあないでしょ」
「冗談だよ、ウィッチ……そうだなあ、ああ、とりあえず、ニャンの筆っぽくはある、か。ただ、お前らなら分かると思うが、絵をかじってて、ある程度小器用で、あとは時間さえあれば、贋作ってのを作るのは難しいことじゃねえ」
「無数に出来のいい贋作は存在する。だからこそ、鑑定で飯が食える連中が出てくるわけだ」
絵を外すときにコートに結構着いてしまった埃を神経質に払いながら、タリィが言う。
そういうものなのか。
「実際、あの絵の贋作を描けないのって、俺たちの中だったらウィッチぐらいのもんじゃねえか?」
エーカーの言葉に黙ってウィッチは苦く笑う。
「タリィは元々絵を描いていたし器用で誰かの模倣するのは得意だろうし――」
「言い方を考えろ。俺が贋作者みたいだろうが。俺は天才だから凡人共の真似くらい軽くできるし、クロイツも器用かつ繊細な絵描きだからうまく模写できるだろう。エーカーも絵描きではある、が……」
「何だよ」
「お前は無理じゃあないか? 雑だからな、基本的に。自然のまま、や感情のまま、を言い訳に荒々しく描いてよしとするタイプだ」
「お前こそ言い方を考えろよ」
ぎゃあぎゃあとひとしきり言い合ってから、冷静になったエーカーが続ける。
「そういうことだから、これがニャンの絵だとは断言できねえが……タリィ、お前が気にしてるのは、つまりこういうことだよな。絵から塔が抜け出たなんてことが起こったんじゃあなくて、この絵がすり替えられているって話だろう?」
「そうだ」
「そうなあ、そもそもこの絵、いやあの絵か、塔が主題だから、それがあるとないとでかなり印象が違う。塔をなくした精工な贋作だとしても見分けるのは難しいな」
顎に手をやり、唸りつつもエーカーは答える。
贋作か。確かに、そう考えるのが当然の考え方だ。冷静に考えればそれはそうだ。絵から塔が抜け出るなんてありえない。
「もう一つ、確認してほしい。その絵、上から塗りつぶしてあるという可能性はあるか?」
「あ? ああ、そういうことか。塔の絵の上から塗って、塔を消したってことか。いや、それもないみてえだな」
「……だとすると」
タリィが考え込む。元名探偵のヴァンが死にかけているからか、いつの間にかタリィが探偵役のようになっている。
エーカーが絵を掛けなおす。その絵を、僕は見るともなしに見る。塔がなくなった絵。だがそれだけではなく、見るものに強烈に訴えかけていたあの印象、それがなくなっている。いくら似ていても、まるで別物。そんな印象だ。不意に、気分が悪くなる。圧倒的な違和感とでもいうのか。絵だけではない。あの塔も、この寮も、山も、霧も、そして周囲にいる人々も、皆がいつの間にか別の物にすり替わっているかのような感覚。異様すぎる状況のためか、まるで現実感がない。世界が、そのまま変わってしまったかのような。
「やっぱり、絵をすり替えた、か? しかし……」
ずっと何やら考え続けているエーカーがぶつぶつと呟いていると、
「ちょっと、いい?」
ウィッチがそこで手を挙げる。
「絵のすり替え、あんまり現実的じゃあない気がするんだよね」
「あ? どうしてだよ?」
エーカーが怪訝な顔をする。
「ほら、霧中寮って、ずっと使ってなかったじゃない。それで、今回同窓会をここでするって決まって、下準備をしなきゃいけなかったの。掃除とかさ」
言われてみれば、それは当然の話だ。
「で、仕事がちょうどないからってあたしが数日前から下準備したのよ。徹底的に掃除して、苦手なのに水の魔術使って水場も使えるようにしてさ」
「大変でしたね、それ」
思わず同情してしまう。どうして彼女一人だけがそんな負担を。
その表情を見てか、
「いやいや、あくまで役割分担だぜ。ウィッチは結構きれい好きだしよ。俺は運搬系全部やったんだからな。酒を数日前から何度か往復して運んだし、料理だってここまで運んできたのは俺だ」
慌てたようにエーカーが言う。
「ちなみに、酒や料理、その他の料金は全額この天才が負担している。平等だろう?」
タリィもそう言ってから、
「ああ、そういう意味ではクロイツだけが何も貢献していないな。あいつこそ許されざる者だ」
「いやいや、あいつは終わった後の後片付けを担当するって話だっただろ。ひでえ濡れ衣着せるなよ……で、話が逸れたな、ウィッチ、続けろよ」
「ありがと。とにかく、ずっと使われていなかったら掃除なんかも徹底的にやったの。だから、少なくともこの寮の周辺には、何かを隠しておくことなんてできなかったと思うのよね」
「何かって……この絵のことですか?」
僕は絵を指さす。
「そう。すり替えるってことは、どこかにこの塔のない絵を準備してたってことでしょう? でも、そんなものなかった」
「待て。別に事前に準備しておいたとは限らないだろう。同窓会が始まった後に何者かが持ち込んで――」
言いかけてから、タリィは顔をしかめる。
「待てよ。そもそも、絵をすり替えたとして、いつすり替えたんだ?」
「いつって、そりゃあ――」
そこでエーカーも絶句する。
「このリビングダイニングには、常に人がいたはずだ。夕食の時に絵の話になった。その時には絶対に絵には塔があった。その後、夜の間は俺とエーカーが、朝、水場の辺りで俺たちが塔を発見したタイミングならヴァンがいた。それから戻ってきて、この絵に塔がないことに気づいた……」
「いつかって言われりゃあ、やっぱり俺とお前で飲んでた時じゃねえのか? 前も言ったけど、常に見張ってたわけじゃねえからなあ。俺がトイレに行っててお前の意識が朦朧としてたタイミングとかは、どうだ?」
らしくなく自信なさげな口調でエーカーは言って、ちらちらとウィッチの方を気にしている。
ウィッチの何が気になるのだろうか?
「その僅かなタイミングに合わせてちょうど絵をすり替えたというのか? それに、俺の意識が朦朧としていようと、お前がトイレに行っていようと、だ。絵を持った賊がこの部屋に忍び込んで絵をすり替えて元の絵を持ってどこかに去っていく。この一連に気づかないなんてことがあるか?」
それは、確かに現実離れしている。
場がしんとする。誰も、ここで口にする言葉を持っていない。ふと横を見ると、ヴァンは完全にソファーにごろりと横になっている。顔色が悪く目を見開いているから、死んでいるみたいだ。そのヴァンの目が、ぎょろりと動く。
「……もう、夕日か。全員、朝からろくに食べてない。早めに夕食にした方がいいんじゃないか?」
いきなり何の話かと思っていたが、確かに例の鎧戸から外を覗けば、かすかに夕日がさしてきている。朝から衝撃的なことがありすぎて、朝食昼食をとっていないことすら気にしていなかった。それにしても、もう夕方か。塔からの往復でかなり時間を使ってしまったらしい。まあ、迷わないようかなり慎重に進んでいたから仕方ないか。
「……日の昇り沈みには、違和感はない」
ぼそり、と。
僕にだけ聞こえるくらいの声量で、タリィが呟く。
何の事だろうとまじまじと顔を見ると、彼はあからさまにはっとした顔をして、
「ああ、何でもない。そう、何でもない……」
タリィはそう言ってから、
「そうだな。どちらにしろ、今下山してしまえば途中で夜になる。自殺行為だ。夕食にしよう……とはいえ、あまり食料は残っていないな」
「俺はまだ気分が悪くて食欲ないから、お前らで食べてくれ」
提案者のヴァンはそう言って目を閉じている。無茶苦茶だ。
手早く準備をしていくが、確かにタリィの言う通り、料理は残り少ない。そもそもが昨夜の会食と今日の朝食分くらいしか用意していないのだろうから、当然と言えば当然だ。
「その分、酒でも飲むか」
はっはっは、と笑いながらエーカーは立ち上がり、残りの酒を持ってくるためだろう、地下へと向かう。
「こんなことがあって、まだ飲むわけ?」
ウィッチが呆れ声を出してその背中を見送る。
「命の水だ。大目に見ろ」
なおも笑いながらエーカーの姿が消える。
とんでもない男だ。
「……俺はもう酒は飲まないぞ」
ヴァンが独り言を呟くが、僕に言わせてみれば当たり前だ。
「あたしも飲む気にならないわね……ああ、そうだ。あれ、やっとこ」
と、足取りも軽くウィッチは自分の部屋に消えていく。
「……なんですか、あれって?」
僕の疑問に、タリィが答える。
「ああ、彫刻だろ。あいつは彫刻家だから」
「え、今、やるんですか?」
「やると思う。案外真面目なんだ。才能がないなりにな。正直なところ、俺たちの中で芸術的センスが一番ないのはウィッチだろうな。だからこそ、芸術というものに一番憧れが強い」
不意に、ぞっとするような蔑む目をするタリィ。冗談で他人を凡人と言っていた時には、絶対に見せなかった目だ。
「……才能がないのは、そんなにいけないことですか?」
反射的に、内心の反発をそのままに突っかかってしまうと、
「いいや。凡人であることが罪だとは全く思わない。だが、芸術に憧れるなんて最悪だ」
タリィは口を歪める。
「ウィッチにとっては芸術は憧れの対象。エーカーの奴は多分、体現するものなんだろうな。芸術とは何かなんて考えて絵を描いてない。クロイツ、あの二代目にはただの飯のタネだ。ニャンには――よく、分からない」
そして、とタリィは宙を睨み、
「俺にとっては――芸術はつまり、クソだ。そのクソに憧れるなんて、才能以前の問題だ」
その眼光の厳しさに、僕は何も言えなくなる。
「……いよっし、お待たせ。酒だけはまだまだあるぜ。全員もっと飲むかと思ってたんでな。いやあ、怪我の功名……あれ、ウィッチは?」
入れ違いでエーカーが両手に酒を担いで戻ってくるので、
「ウィッチさん、部屋に戻りましたよ」
「ああ、そうなのか? ……大丈夫かな、一人にして」
眉をひそめてエーカーは酒を下ろす。
「心配しすぎだ、エーカー。そんなことより俺も飲むぞ。この幻想的な状況、この中で酔いに酔えば、かなりいい発想が生まれる可能性もある。俺の天才的な芸術が生まれる瞬間をお前たちは目撃することに――」
ばきん、と重く響く音でタリィの発言は停止する。
全員で顔を見合わせる。どうも、さっきの音、ウィッチの部屋からした気がする。




