第8話「六波羅へ」
心機一転、沢山のストックを携えて書き始めました。
引き続き拙作ではございますが、何卒お付き合いいただけますと幸いです。
――平治元年(1159年)十二月 熊野への道中 平清盛――
熊野詣の途上、紀伊国でその報せを受け取った。
都で異変あり。信西討死――。
馬上で、しばし目を閉じた。
全身の血が、一瞬にして冷えていくのを感じた。
熊野詣は平家一門の安泰を祈願するための、いわば恒例の行事だった。
それが、まさかこのような形で仇となろうとは、想像だにしていなかった。
(間の悪いことよ。よりにもよって、この身が都を離れている隙に)
脳裏に、幼い頃の記憶がふと蘇る。
父・忠盛は殿上人たちから蔑まれていた。それでも表情一つ変えずに耐えている。
あの頃の平家はまだ、都の貴族たちから見下される存在でしかなかった。
忠盛は、瀬戸内の海賊を平らげ、宋との交易で富を築き、地道に、しかし着実に、平家の地位を押し上げてきた。
俺はその背中を見て育った。
(父上は、耐えることで家を大きくした。
……儂もまた、耐えねばならぬ場面が、これから幾度となく来るのだろう)
脳裏に浮かんだのは、一次都を諦め、西国に地盤を築き直し、時を待つ。
それも一つの生き方ではある。だが、そう考えた刹那、もう一つの声が鋭く反発した。
(父・忠盛が、押し上げてきた平家を儂の手で無に帰するというのか)
馬上で拳を握りしめた。西国へ逃げれば、平家は再び、都から見捨てられた地方武士団に逆戻りするだけだ。
そんな道を選ぶくらいなら、たとえ危地であろうと、都に戻って正面から立ち向かう方がまだましだった。
「六波羅の様子は」
「主だった郎党は残っております。ですが、殿がこのまま都へお戻りになる想定も敵方はしておりましょう」
「討たれるとすれば、都へ戻らずとも同じことよ。……戻る」
決断は、思いのほか早かった。
紀伊の武士・湯浅宗重や、熊野別当・湛快の助力を得て、密かに都への道を急いだ。
湯浅宗重は特に、すぐさま兵の手配に動いた。
「殿がお戻りになるとあらば、この宗重、命に代えても道を切り開いてご覧に入れましょう」
その言葉に、静かに頭を下げた。
こうした在地の武士たちの支えがあってこそ、平家は、これまで生き延びてこられたのだと改めて思い知らされる。
道中、伊賀・伊勢の郎党たちが次々と合流し、軍勢は膨れ上がっていく。
馬を進めながら、絶えず算段を巡らせる。
信頼と義朝を、力ずくで討つのは得策ではない。
今の手勢では、正面切っての戦は分が悪い。ならば、別の道を探るしかない。
(信頼、義朝。……お主らの慢心が、儂の帰路を作ってくれたようなものよ)
脳裏には、一つの絵図が浮かび上がっていた。
信西という共通の敵を失った今、信頼と、二条天皇親政派
――藤原経宗、藤原惟方らとの間には、既に隙間風が吹き始めているはずだ。
信西打倒という目的を共有していただけの、脆い同盟。その脆さにこそ、付け入る隙がある。
(力で奪えぬなら、頭で崩す。……儂の得手はそちらよ)
道中、湯浅宗重が手配してくれた兵たちの顔ぶれを、一人一人、丹念に確かめていく。
この乱世において、真に頼りになるのは、都の権勢に群がる者たちではなく、こうして地道に土地を治め、いざという時に馳せ参じてくれる、在地の武士たちのはずだ。
「宗重、そなたのような者たちがいてこそ、今こうして都へ戻れるのだ。この恩、忘れはせぬ」
その言葉に、宗重は、深く頭を下げた。
「もったいなきお言葉にございます。」
その言葉に深く頷いた。
都の貴族たちからは見下されてきた武士という身の上が、こうして時代を動かす力になりつつある。
その実感を道中で、改めて噛みしめる。
都へ戻った清盛は、信頼に対し、表面上は変わらぬ恭順の態度を崩さなかった。
信頼の子・信親は娘婿である。その縁を盾に信頼を油断させ続けた。
「清盛殿がお戻りとは、重畳。これで我らの陣容も一層盤石になろう」
信頼の言葉に、恭しく頭を垂れる。
「御意にございます」
だがその裏で、内大臣・三条公教を通じ、二条親政派の藤原経宗・藤原惟方との密談が進められていた。
夜半、人目を忍んでの会合の席で、三条公教は声を潜めて切り出した。
「清盛殿。信西亡き後、信頼の専横は目に余ります。
このままでは、我らも用済みとして切り捨てられましょう」
「……して、公教殿は、何を望まれる」
「二条帝の御身を、信頼の手の届かぬ場所へお移し申し上げたい。
清盛殿の六波羅であれば、これ以上ない場所にございます」
しばし黙考する。この申し出に乗ることは、信頼への明確な裏切りを意味する。
だが、乗らねば自身がいずれ信頼の疑いを買い、この乱世から退場させられる側に回るだけだ。
「相分かった。……ただし、事を急がば、露見の恐れもある。時を選びましょうぞ」
儂の慎重な物言いに、経宗・惟方らは頷いた。
二条親政派にとって、信西打倒という目的は既に果たされていた。
信頼ら後白河院政派と手を組み続ける理由は、もはやどこにもない。
その密談の場では、努めて感情を面に出さぬよう己を律する。
ここで焦れば、全てが水泡に帰す。信頼が己を疑わぬ間に、事を進めねばならない。
「二条帝の御身を、六波羅へお移しいたす」
その一言に、密談の場は静かな緊張に包まれた。
清盛は頷きながら、内心でこの乱世の理を改めて噛みしめていた。
(義朝は、力で全てを解決しようとする。それも一つの生き方よ。
だが儂は、力の裏で、常にもう一手先を読む。
……この差は貴様の命取りになるやもしれぬな)
平治元年十二月二十五日。
密議は、実行に移された。
二条天皇は密かに内裏を脱し、六波羅の清盛邸へと移される。
それを知った後白河上皇もまた、仁和寺へと秘密裏に避難した。
天皇と上皇、双方の身柄を失った信頼と義朝は、この時点で大義名分を失う。
ここにいたり二条天皇の名において、信頼・義朝追討の宣旨が発せられる。
清盛はその報せを六波羅の館で受け取った時、静かに息を吐いた。
(これで、勝負は決した。あとは、力を示すだけよ)
窓の外に広がる都の景色を眺めながら、この乱世で生き残るために必要なものが
何であるかを改めて確信していた。武力だけでは足りぬ。義理だけでも足りぬ。
誰よりも早く潮目を読み、誰よりも徹底してそれに従う
――ただそれだけが、この時代で生き延びる唯一の道なのではないか。
――同日 都・源義朝屋敷 乙若丸――
日々、都の急変は伝えられてくる。
侍女たちの声は、これまでになく切迫していた。
「二条帝が、六波羅へお移りになったとの由!」
「では、我らは……」
俺は、その報せに、内心で静かに頷いていた。
(来た。……これが、潮目が変わる瞬間だ)
史実の記憶が、正確にこの日を告げていた。
天皇と上皇、双方を失った信頼と父は、これより逆賊として追われる側に回る。
父・義朝の敗北は、もはや避けようのないものだった。
(父上……)
俺は、拳を握りしめた。この先に待つ結末を、変えられるものなら変えたい。
だが、四つの子供の身では、都で何が起きているかを見届けることすらできない。
ただ、屋敷の空気が、日を追うごとに張り詰めていくのを、肌で感じ取ることしかできなかった。
この後平清盛は平家の全盛を築き上げる。
だが、その平家でさえ、いずれは驕りによって滅びの種を蒔くことになる。
目の前で起きているこの政変も、遠い未来から見れば、ただの通過点に過ぎない。
(勝つ者も、負ける者も、いずれは同じ川に流されていく。
……なら、俺は何を目指せばいいんだ)
傍らにいた今若丸が、珍しく不安げな顔で、俺に囁きかけてきた。
「乙若丸、父上は……大丈夫だろうか」
今若丸の声には、いつもの飄々とした余裕がなかった。
その様子に、この兄もまた、ただの子供に過ぎないのだと、改めて思い知らされた。
史実を知る俺と、何も知らずに不安だけを募らせる兄と。
その差は、俺にとって、時に酷く残酷なものに感じられた。
「にいさま……」
俺は、何か気の利いた言葉をかけてやりたかった。
だが、口をついて出たのは、ただの月並みな慰めだった。
「きっと、だいじょうぶだよ」
それが嘘であることを、俺自身が一番よく知っていた。
今若丸は、その言葉に、少しだけ安堵したように頷いた。
俺は、兄のその表情を見つめながら、胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じた。
(知っているのに、本当のことが言えない。今後背負うべき業であるのであろう)
保元の乱から数年。
俺はまだ何も変えられず、ただ状況の悪化を見送り続けている。
(何かを変えるには、まだ力が足りない。
……でも、いつか。いつか、この乱世の理屈そのものを、作り替えられる立場に立てたら)
その願いは、まだあまりにも漠然としていた。
だが、俺の中で、その願いの輪郭だけは、日を追うごとに、少しずつはっきりとした形を取り始めていた。
答えの出ない問いを抱えたまま、
母・常盤のもとへと歩み寄った。
母は、幼い子らを傍らに集め、いつになく硬い顔をしていた。
「乙若丸、今若丸。……何があっても、母から離れてはなりませぬよ」
その声には、隠しきれない不安が滲んでいる。
俺は、母の手をそっと握り返しながら、これから訪れるであろう嵐に、幼い体でどう向き合うべきかを必死に考え続けていた。
乳母たちが屋敷の荷物を密かに纏め始めているのが、目に見えて分かった。
まだ誰も、はっきりと「逃げる」とは口にしない。
だが、屋敷全体が来るべき危機に備え、静かに確実に、身構え始めていた。
その気配を肌で感じながら、乱世の理不尽さを噛みしめる。
戦はこうして、何の罪もない母や幼い兄弟たちの運命をも大きく揺さぶることになる。
(せめて、この母と兄弟たちだけは、俺が守る)
その誓いを、俺は、改めて胸に刻みつけた。窓の外では、初雪が、静かに降り積もり始めていた。
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