第7話「三条東殿、燃ゆ」
心機一転、沢山のストックを携えて書き始めました。
引き続き拙作ではございますが、何卒お付き合いいただけますと幸いです。
――平治元年(1159年)十二月九日夜 都・源義朝屋敷 源義朝――
鎧を身に着けながら、この数ヶ月の逡巡を振り返っていた。
信頼から誘いを受けた時、迷いがなかったと言えば嘘になる。
だが、信西に冷遇され続けたこの数年の鬱屈が、最後には迷いを押し流した。
平清盛は、今、熊野詣に出ている。
都の守りが薄いこの機を逃す手はない、と信頼は繰り返し言った。
夜が更けるにつれ、屋敷の内には、これから起こることへの緊張が、張り詰めた糸のように満ちていく。
鎧の紐を締める手が、思いのほか落ち着いていることに、少し驚いていた。
保元の乱の夜、白河北殿へ向かった時にはあった、あの実父を敵に回すことへの後ろめたさは、今夜はどこにもない。
信西は、儂にとって血縁でも何でもない。言うなれば私怨の対象だ。
私情を殺す必要すらない、ある意味では気楽な戦だった。
屋敷の外では、既に兵たちが松明に火を灯し、出陣の刻を待っていた。
(気楽な戦、か。……皮肉なものだ)
儂は、傍らの嫡男・義平に短く告げた。
「今宵、信西の首を獲る」
「合点にございます、父上」
義平は、若く精悍な顔つきで頷いた。
その迷いのなさが、儂には眩しく、同時にどこか危うくも見えた。
自分もかつては、あの若さで迷いなど持たなかった。
だが今の儂には、勝利の先に何が待っているかを、まだ見通せずにいる不安が、拭いがたく纏わりついている。
(父上を斬った時とは違う。今度は、俺自身の意志で刃を振るう)
そう自分に言い聞かせた。だが、その言い聞かせの奥に、拭いきれない予感があった。
今度は勝ち切れるのか、それとも
――信頼という男の、あの妙に軽い自信に、どこまで乗ってよいものか。
考えを振り払うように、馬に跨り、松明の列へと視線を向けた。夜気は冷たく、吐く息が白く曇った。
「かかれ!!!」
その一声で、軍勢が動き出す。三条東殿を目指す道すがら
胸には、これが正しい選択だという確信よりも、この道しか残されていないという
追い詰められた者特有の乾いた覚悟だけがあった。
――同夜 都・三条東殿 藤原信西――
館の内で、微かなざわめきに気づいていた。
「何やら、外が騒がしいようだが」
傍らの家人に問うたが、はっきりした答えは返ってこない。
しばらくして、慌ただしい足音と共に、悲鳴に近い報せが届いた。
「申し上げます! 藤原信頼様、源義朝様の軍勢が、この館を!」
目を閉じる。ある程度は、覚悟していたことだ。
信頼など小物だが、義朝の不満も、見て見ぬふりをしてきたことに間違いはない。
才覚だけを頼りに朝廷を切り盛りしてきたこの身に、いつか報いが来ることは分かっていた。
(儂は、才があるだけの成り上がり者よ。それを恨む者がいるのも、道理というものだ)
これまで自分が積み上げてきたものを、素早く胸の内で数え上げた。
後白河院の信任。息子たちの官位。朝廷における実権。
それらすべてが、今夜、燃え落ちようとしている。
悔いがないと言えば嘘になる。
だが、才覚一つでのし上がった者には、才覚一つで滅びる覚悟も、初めから織り込まれていたはずだった。
「もはや、逃げるほかあるまい」
そう呟くと、素早く身支度を整えさせ、密かに館を脱する算段を命じた。
松明の火が、館の四方から迫ってくる。乾いた冬の夜気の中、炎はあっという間に燃え広がり、館の屋根を舐め上げていく。
「急がれよ! もはや猶予はございませぬ!」
輿にも乗らず、供の者もわずかに、闇に紛れて南へと落ちていく。
朝廷の実権を握った男の逃避行にしては、あまりに惨めなものだと自嘲する。
(生きて都に戻ることはあるまい。……ならばせめて、無様に討たれるのだけは、避けたいものよ)
その願いすら、叶わぬかもしれない。
闇の中を歩きながら、自らの人生を静かに振り返る。悔いはある。
だが、やり直せるとしても、同じ道を選んだだろう。
道中、供の者の一人が、疲れ果てた声で尋ねてきた。
「これから、どちらへ向かわれるおつもりですか」
「……分からぬ。」
その答えに、供の者は、それ以上何も言わなかった。
眼前の主は自分と同じように今はただ闇の中を逃げまどっているのだ。
(生涯、才覚だけを頼りに生きてきた。最期もまた、己の意志で終える。
それだけが、儂に残された最後の矜持よ)
供の者に命じ、深く穴を掘らせた。
地中に身を沈め、竹筒だけを地上に出して息を継ぎながら、しばし息を潜めた。
だが追っ手は、その僅かな痕跡を見逃さなかった。
穴の在り処を突き止められたと悟った刹那、懐の短刀を抜き、自らの手で己の最期を決した。
――同夜 都・三条東殿付近 源義朝――
燃え盛る三条東殿を、共に眺める信頼には勝ち誇った笑みが見える。
「見よ、あの信西の館が焼け落ちていく様を」
信頼が、昂った声で語りかけてくる。
「後白河院と二条帝の御身は、既に一本御書所へお移し申し上げた。これで朝廷は、我らの手の内にある」
燃え盛る炎を見つめながら、黙って頷いた。
信頼の高揚に、完全には同調しきれない自分がいることにも気づいている。
信西を除いたことで、本当に儂の不遇は晴れるのか。
それとも、また新たな重石が、別の形で儂の前に現れるだけなのか。
(信頼殿は、この勝利で満足しておられる。だが儂には、まだ何かが足りぬ気がしてならぬ)
その違和感の正体を、儂はまだ言葉にできずにいた。
ただ、燃え上がる炎の照り返しが、信頼の高揚した横顔を、赤々と照らしているのを
少し離れた場所から、静かに見つめ続けていた。
そこへ、義平が駆け寄ってきた。返り血を浴びた顔には、まだ興奮の色が濃く残っている。
「父上、これで信西は除かれました。あとは、清盛が都へ戻る前に、備えを固めるのみにございます」
「……そうだな」
儂の返答は、どこか上の空だった。
義平は、その様子に微かな違和感を覚えたようだったが、あえて深くは問わなかった。
「父上、いかがなされました。この勝利、素直にお喜びになればよろしいものを」
義平のその言葉に、儂は、しばし言葉を選んだ後、静かに答えた。
「……お前は、まだ若い。勝つことの意味を、まだ本当には知らぬのだ。
……いや、それは、儂への皮肉になるやもしれぬな」
その謎めいた答えに、義平は怪訝な顔をしたが、それ以上は問わず他の郎党たちの指揮へと戻っていく。
自分のこの空虚な感覚の正体が、まだ掴めない。
信西という重石は消えた。
だがその先に、本当に儂が望んでいたものがあるのか、まだ確信が持てなかった。
――数日後 都・源義朝屋敷 乙若丸――
都からの報せは、断片的に、しかし着実に、屋敷の奥にまで届いてくる。
乳母や侍女たちの囁きから、事の次第を組み立てていく。
「三条東殿が焼け落ちたそうな」
「信西様は、行方知れずとか」
俺の中で、記憶の断片がざわめいた。
(信西は、この後どうなるんだったか……。確か、逃げ延びた先で自害するはずだ)
史実の通りに事は進んでいる。
この時点では、まだ信頼と父の側が優勢だ。
だが、それも長くは続かない。
熊野詣に出ていた平清盛が、都の異変を知って引き返してくる。
そこから形勢は徐々に、しかし確実に逆転していくはずだった。
(父上。……あなたは今、勝ったつもりでいるのかもしれない。でも)
俺は、庭先の冬枯れた木々を見つめながら、拳を握りしめた。
四つの体では、まだ何もできない。
この先の展開を、指をくわえて見ているしかない自分の無力さが、腹の底に重く沈んでいった。
かつて祖父が斬られた日も、同じような無力感を味わったはずだった。
だが今度は、その相手が実の父であるという事実が、胸をより一層深く抉っている。
同じ頃、屋敷の別間では、母・常盤が乳母の一人と、小声で言葉を交わしていた。
「殿は、今宵は戻られぬとの由」
「都の騒ぎが収まるまで、しばらくは戻られますまい」
母の顔には、隠しきれない不安が浮かんでいた。
二年前、保元の乱の折にも同じような空気を感じた。
あの時は、勝ち戦の側に父がいた。
だが今回は――母には、まだその先を見通す術はない。
女の間に流れる沈黙は、屋敷全体を包む不安そのものを、そのまま映し出しているかのようだった。
母の膝に凭れながら、その横顔をそっと窺う。
前世では、誰かの不安をこれほど間近で感じ取ったことなど、一度もなかったように思う。
誰かの心配事は、いつも自分とは無関係な、遠い場所の出来事だった。
だが今は違う。この母の不安は、俺自身の未来そのものと、分かちがたく結びついている。
(母上……。あなたがこれから背負うことになる苦労を、俺はもう知っている。それでも、何も言ってあげられない)
小さな手で、そっと母の袖を握った。
母は、その仕草に気づくと、微かに笑みを浮かべ、俺の頭を撫でた。
「案ずるでない、乙若丸。母がついております」
その言葉が、これから起きることを思えば、あまりにも儚い約束であることを、俺は知っていた。
それでも、今この瞬間だけは、その言葉を信じたふりをして、母の温もりに身を委ねた。
夜が更けるにつれ、屋敷の中は、静かな緊張に包まれていく。
誰もが、都で何が起きているのかを正確には知らないまま、ただ不穏な気配だけを感じ取っていた。
俺は、母の腕の中で、うとうとと微睡みながらも、頭の中では、これから起きる出来事の全てを、繰り返し反芻していた。
(信西様は自害される。清盛様が都に戻り、形勢は逆転する。そして、父上は……)
父の死という、避けようのない未来。
それをどう受け止めればいいのか、俺にはまだ、答えが見つからずにいた。
窓の外では、冬の夜風が、乾いた音を立てて、庭の木々を揺らしていた。
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