第6話「信頼という男」
心機一転、沢山のストックを携えて書き始めました。
引き続き拙作ではございますが、何卒お付き合いいただけますと幸いです。
――平治元年(1159年)初夏 都・源義朝屋敷 源義朝――
届いたばかりの文を、灯火の下で何度も読み返す。
信西からの返答である。
差出人の名を見た時から、期待などしていなかったつもりだった。
だが、文面の冷淡さは、想定していた以上のものである。
夜風が、燈明の炎を微かに揺らしている。
その揺れをぼんやりと見つめながら、この数年の不遇を、改めて胸の内で数え上げていた。
家を栄えさせるため、自分は今ある賭けに出ていた。
娘の一人を、信西の息子に嫁がせたい――そう申し入れたのだ。
保元の乱で、実の父と兄弟を手にかけてまで後白河方についた。
その働きは、平清盛にも劣らぬはずだった。
だが、恩賞も官位も、清盛にばかり厚く、自分には冷淡なままである。
せめて、信西と縁を結べれば、この不遇にも道が開けるかもしれない。そう思っての申し入れだった。
だが、返ってきた文には、婉曲な言い回しの中に、はっきりとした拒絶が滲んでいた。
源氏の家格が、信西の一族と縁を結ぶには釣り合わぬというのだ。
(……乙若丸の、あの言葉の通りか)
脳裏に、あの夜の乙若丸の声が蘇った。
「いえがら、が、つりあわぬと、そでにされるだけにございます」
――あの時は、幼子の戯言と聞き流そうとした。
だが今、こうして現実に、その通りの結末を突きつけられると、背筋に、拭いがたい寒気が走る。
ふと、文を握りしめた指先が、震えているのに気づいた。
怒りというより、もっと深いところを抉られたような感覚だった。
(実の父を斬り。兄を斬った。それでもまだ、足りぬというのか)
あの夏の日、白河北殿の炎を見つめながら、悲しみの仲で確信したのだ。
これで武門の棟梁としての地位は固まる、と。
だが実際には、地位を盤石にしたのは平清盛である。
清盛は、後白河方についたが、儂のように血を分けた者を自ら手にかけてはいない。
それでいて、恩賞は清盛が格別に厚遇された。
この不公平の理屈が、どうしても腑に落ちない。
(俺は、あの日、家族を切り捨てた。
それは正しい選択だったはずだ。……だが、正しい選択をした者が、何故これほど報われぬのか)
灯火の炎を見つめながら、儂はその夜、長く一人で座り込んでいた。
屋敷の外では、初夏の虫の声が絶え間なく響いている。
儂は、脇息にもたれたまま、遠く保元の乱の夜を想いをはせる。
父・為義の首を落としたあの日、儂は自分に言い聞かせていた。
私情を殺してこそ、武門は栄える。武門の棟梁とはそういうものだ、と。
父自身も、そう言い残した。それは、儂にとって、これから先の全てを支える柱のはずだ。
だが柱は、思っていたよりも脆い。
血を分けた者を切り捨てるという代償を払ってなお、この乱世は儂には見返りを与えない。
恩賞は薄く、官位は伸びず、信西からの縁談は袖にされている。このザマである。
自分が何のために父を斬ったのか、その意味を見失いかけていた。
(あの日、儂が斬ったのは父の首だけではない。
儂自身の、迷いのない生き方も、共に斬ったつもりだった。……それが、この程度の扱いで済まされるのか)
灯火の炎をじっと見つめた。
炎は小さく、頼りなく揺れていたが、それでも消えずに燃え続けていた。
儂もまた、この炎のように消えずに燃え続けなければならない。
そのためには、何か新しい燃料が要る。
信西という重石を除き、然るべき地位を掴み取ること
――それこそが、あの日の代償に見合う唯一の答えのように思えてならなかった。
数日後、藤原信頼から使者が届いた。
今宵、内々に話したき儀があるという。迷わず応じた。
屋敷を訪れると、信頼は上機嫌に迎えた。
「義朝殿、よくぞ参られた。
……単刀直入に申そう。信西の専横、いつまでも見過ごしてはおけまい」
黙って信頼の言葉に耳を傾ける。
信頼の口ぶりには、自身の中にある鬱屈と、同じ質の熱がこもっているように聞こえた。
「信西は、皇族でもない身でありながら、己の息子どもを次々と要職に就け、朝廷そのものを私物のように扱っておる。義朝殿も、あの男に冷遇されていると聞く」
「……お聞き及びでしたか」
「隠すことでもあるまい。義朝殿ほどの武功を挙げた者が、あのような扱いを受けるは、道理に合わぬ。
……儂とて、同じよ。後白河院の側近でありながら、信西一人に朝廷の実権を握られ、指をくわえて見ているしかない有様よ」
信頼の鬱屈の深さを推し量りながら、密かに思った。
この男もまた、報われぬ者としての怒りを、長く溜め込んできたのだろう、と。
その言葉に、久方ぶりに何かが満たされる感覚を覚えた。
誰かに、この不遇を正当に見てもらえた、という感覚だった。
だが同時に、自分の中の冷静な部分が、小さく警鐘を鳴らしてもいた。
(この信頼という男、儂の不遇に本気で憤っているのか、それとも――)
その先の疑いを、あえて言葉にはしなかった。
信頼が何を考えていようと、今の有様ではこの機を逃す余裕がなかった。
信西という重石さえ除ければ、この不遇からも抜け出せるかもしれない。
その一縷の望みが、冷静な疑念を押し流していった。
「信頼殿の御意向、しかと承った」
儂がそう答えると、信頼は満足げに頷いた。
「頼もしい。……義朝殿の武があれば、事は成る」
その一言にふと、自分がまた何かの駒として使われようとしているのではないかという予感を覚えた。
だが、その予感を打ち消すように、自らに言い聞かせる。
(駒でも構わぬ。今度こそ、この身で一門の栄華を掴み取る)
信頼は、盃を傾けながら、さらに続けた。
「義朝殿、この企てが成った暁には、そなたには、しかるべき地位を約束しよう。
もう二度と、清盛ごときに劣る扱いは受けさせぬ」
その言葉に、儂は、これまで押し殺してきた渇望が、静かに揺さぶられるのを感じた。
この数年、誰よりも欲していたのは、まさにその一言だったのかもしれない。
「……その言葉、しかと胸に刻みまする」
そう答えながらも、内心では、この賭けの危うさを、完全には拭い去れずにいた。
だが、この機を逃せば、今の不遇は、この先もずっと続くことになる。
その恐れの方が、疑念よりも、遥かに大きかった。
――同時期 都・源義朝屋敷 乙若丸――
父が屋敷に戻ってきた日、俺は父の顔つきに、何かいつもと違うものを感じ取った。
険しさの中に、微かな高揚のようなものが滲んでいる。
それが俺には、酷く不吉なものに見えた。
「ちちうえ、おかお、こわい」
思わずそう漏らすと、乳母が慌ててたしなめた。
だが父自身は、その言葉に足を止め、屈み込んで俺の頭を撫でた。
「……お前には、そう見えるか」
「うん」
父は、しばらく黙って俺の顔を見つめていた。
それから、小さく笑った。俺がこれまで見たことのない、どこか自嘲めいた笑みだった。
「お前は、正直な子だな」
それだけ言うと、父は立ち上がり、奥へと去っていった。
その遣り取りを、傍らで見ていた乳母が、後になって、他の女房に小さく漏らしたことがあった。
「乙若丸様は、まだ四つだというに、殿のお顔色を、まるで大人のようにお読みになる。
……時々、少し薄気味悪くなることがございます」
その言葉を、俺自身は知る由もなかった。
だが、もし聞いていたなら、きっと、もう少し気をつけねばと、密かに気を引き締めていただろう。
父の背中を見送りながら、内心で密かに緊張していた。
(父上と、信頼が、近頃頻繁に会っている。
……これは、まずい流れだ)
平治の乱。
俺の中の記憶にある史実では、この年の暮れ、藤原信頼と源義朝が結託し、信西邸を襲撃する。
信西は自害に追い込まれ、信頼と義朝は一時都を掌握。
だが、熊野詣に出ていた平清盛が舞い戻り、形勢は逆転する。
そして父・義朝は敗走の末、東国へ落ち延びる途中で命を落とす。
俺は、庭先で独り、その記憶を反芻しながら、拳を握りしめていた。
二年前、保元の乱の時とは違う。
あの時はまだ、赤子で何もできなかった。だが今は、少しは言葉を発せる。
少しは、大人たちの間に割って入ることもできるかもしれない。
(だが、何を言えばいい。
「父上、信頼と手を組めば死にますよ」などと、四つの子供が言ったところで、誰が信じる)
むしろ、そんなことを口にすれば、末恐ろしい子だと警戒されるだけかもしれない。
――俺の中で、もう一つの思いが頭をもたげた。
父の死そのものが、俺がやがて出家し、生き延びて、後の世で何事かを為すための、避けられない一歩なのだとしたら。
それを今、無理に変えてしまっていいのか。
答えの出ない問いを抱えたまま、屋敷の廊下を父が去っていった方角を、しばらくの間、じっと見つめていた。
庭先では、初夏の陽射しが、木々の葉を白く輝かせていた。
夕刻、母・常盤が、俺を膝に乗せながら、ぽつりと呟く。
「近頃、殿はお忙しいご様子。……都では、また何か大きなことが起きるのかしら」
母の声には、二年前の保元の乱の時と同じ、隠しきれない不安が滲んでいた。
母の膝の上で、その不安をどう受け止めればいいのか分からなかった。
何かを言って安心させてやりたい。だが、この時代の子供が口にして良い言葉には、限りがある。
「ははうえ」
「なあに」
「……なんでも、ないです」
言いかけた言葉を、俺は飲み込んだ。
この母だけには、いつか本当のことを話せる日が来てほしいと、密かに願っていた。
今はまだ、その日ではない。だが、いつか。
母は、そんな俺の様子に、何かを察したのか、ただ黙って頭を撫でてくれた。
その手のひらの温もりだけが、俺にとって、この不穏な時期における唯一の確かな拠り所だった。
その夜、俺は褥の中で、今若丸に小さく話しかけた。
「にいさま、ちちうえは、だいじょうぶかな」
今若丸は、寝入りばなの声で、あくびまじりに答えた。
「父上は源氏の棟梁だぞ。心配することはない」
その屈託のない声に、俺は何も言い返せなかった。
ただ、闇の中で目を開けたまま、来るべき冬の気配を、一人で見つめ続けていた。
俺は、この夜、これから半年の間に起きることを、改めて頭の中で整理していった。
信頼と父の挙兵、信西の自害、そして、清盛の反撃による逆転。
その一つ一つが、既に定まった道筋のように、俺の記憶の中に横たわっていた。
だが、その道筋を、俺自身の手で、少しでも変えられないものかという思いも、拭い去ることができなかった。
(今はまだ、四つの子供でしかない。……でも、いつか、この力の使い方が分かる日が来る)
その確信だけを、俺は、闇の中で、静かに握りしめていた。
都では、まだ誰も気づいていない嵐の種が、確かに芽吹き始めていた。
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