第3話「父が斬るもの」
心機一転、沢山のストックを携えて書き始めました。
引き続き拙作ではございますが、何卒お付き合いいただけますと幸いです。
――保元元年(1156年)七月三十日 京・源義朝――
保元元年七月三十日。
都はまだ、乱の後始末の熱を冷ましきれずにいた。
焼け落ちた白河北殿の跡地からは、数日経っても薄い煙が立ち上っていると噂されていた。
源義朝は、検非違使庁からの使いを受け取り、しばらくその場から動けなかった。
手にした書状には、簡潔な文言が並んでいるだけだった。
――源為義、並びにその子息五名、義朝に於いて処断すべし。
為朝を除く、五人の弟たちの名が記されている。
義朝は目を閉じた。書状を持つ手の指先が白くなるほど、強く紙を握りしめる。
(父上の助命は、幾度も願い出た。
……それでも、聞き入れられなかったか)
崇徳上皇方についた武士たちへの処断は、朝廷内でも意見が割れていたと聞く。
信西をはじめとする一派は厳罰を主張し、穏便に済ませるべきだという声もあったはずだ。
だが、乱に呼応した武士団の棟梁の一人である源為義を生かしておくことは、後白河天皇方の面目に関わる。
義朝が実父の助命を嘆願すればするほど、周囲は「情に流されて謀反人を庇い立てするのか」という目を向けた。
結局、義朝自身の手で処断せよ、という沙汰が下った。
(これが、敗軍の辿るものでもある)
義朝は、自らに向けられた一文を、何度も胸の内で繰り返した。
繰り返すたびに、怒りとも呼べない、悲しみとも呼べない、名付けようのない感情が、腹の底に澱のように溜まっていく。
これを恨みと呼ぶべきなのか。恨むべき相手は誰なのか。
情勢を読み違えた父か。それを裁こうとする朝廷か。
それとも、父と袂を分かち後白河方につくと自ら決めた、この己自身か。
答えの出ない問いを抱えたまま、義朝は書状を握りしめ、しばらく庭に立ち尽くしていた。
蝉の声が、やけに耳障りに響いていた。
やがて、郎党の一人が声をかけてきた。
「殿。……いかがなさいますか」
義朝は、ゆっくりと目を開けた。その顔には、もはや迷いの色はなかった。
ただ、瞳の奥だけが、酷く冷たく凪いでいた。
迷いを殺すことと、迷いが消えることは違う。義朝は前者を選んだだけだった。
「行く」
それだけを言うと、義朝は太刀を取り、馬に跨った。
従者たちは、誰一人として声をかけることができなかった。
父・為義が幽閉されている場所に着いた時、その男は既にすべてを悟っていたようだった。
かつて郎党を率いた男の姿は、今は痩せ細り、鎧も剥がれ、ただの痛ましい老人である。
それでも背筋だけは、不思議とまっすぐに伸びていた。
「来たか、義朝」
為義の声は、思いのほか穏やかだった。
「……父上」
義朝は、それ以上の言葉を継げなかった。
為義は、静かに笑う。
「案ずるな。儂はとうに、この日が来ることを覚悟していた」
「父上は、なぜ崇徳院様についたのですか。後白河様につけば、このようなことには……」
「お前と同じ問いを、儂も自分にした。
だがな、義朝。人には、勝つ側につけぬこともある。それが正しいか否かは知らぬ。
ただ、儂には儂の義理があった。長年、頼長様の下で世話になった恩がある。
それを、勝ちの目だけを見て裏切るような真似は、儂にはできなんだ」
義朝は、拳を握りしめた。
「お前の手で果てるのは悪くない。
……皮肉なものよ。武門を継がせるつもりで育てた嫡男に、この首を落とされるとはな」
為義の声には、恨みも憎しみもなかった。
ただ、乱世を生きた武将としての、乾いた諦念だけがあった。
傍らの木立で、蝉がひとしきり鳴き、そしてぴたりと止んだ。
義朝は、その静寂の中で、自分がこれから為すことの重みを、初めて体の芯で理解した気がした。
頭で分かっていたことと、今、この場に立って感じていることは、まるで違う質量を持っていた。
「他の弟たちは」
「既に、覚悟を決めておる。案ずるな」
義朝は、太刀の柄に手をかけた。指先が、微かに震えている。
それを見た為義が、初めて労わるような声を出した。
「震えるな、義朝。……これが、お前の選んだ道の代償だ。
今ここで手を止めれば、これまでお前が積み上げてきたものすべてが崩れる。分かっておろう」
「……分かっております」
「ならば、迷うな。武門の棟梁というのは、そういうものだ。
私情を殺してこそ、家が残る。……お前は、正しい選択をした。それだけは、忘れるな」
義朝は、目を閉じた。
父の言葉が、これから自分が背負っていく重みそのものであることを、痛いほど理解していた。
まぶたの裏に、幼い頃、この父に手を引かれて馬に乗せてもらった記憶が、一瞬だけよぎった。
あの時の父の掌の大きさと、今、自分が振り下ろそうとしている太刀の重さが、義朝の中でどうしても重ならなない。
重ならないまま、義朝はそれを振り下ろすしかなかった。
やがて、太刀が振り下ろされた。
弟たちの処断も、同じ日のうちに終わった。
義朝は、自らの手で、あるいは配下の手を通じて、五人の兄弟たちをこの世から送り出した。
その一つ一つの瞬間を、義朝は決して目を逸らさずに見届けた。
それだけが、自分にできる、せめてもの弔いだと信じていたからである。
最後の一人を見送った時、義朝の視界は、なぜか妙に静かだった。
感情という感情が、体の外へ流れ出てしまったかのように。
これで終わりだ。
だが同時に、何かがここから始まったのだという予感も、拭い去ることができない。
夜、都の屋敷に戻った義朝は、誰もいない部屋で一人、脇息にもたれて座り込んでいた。
灯明の炎が、微かに揺れている。
手には、まだ乾ききらぬ血の匂いが染みついているような気がしてならない。
(これで、武門の棟梁としての地位は固まった。だが……)
義朝の脳裏に、幼い息子たちの顔が浮かんだ。
(我が子には、こんな道を歩ませたくはない。……いや)
義朝は、自嘲するように小さく笑った。
武門に生まれた以上、この道から逃れることなど誰にもできない。
それが、この乱世の理だ。
自分の父が、そうであったように。自分の息子たちも、いずれ同じ理の中で生きることになるのだろう。
それを止める術は、今の義朝には何も見えなかった。
庭先で、微かに虫の声がしていた。
義朝は、その音に耳を澄ませながら、しばらくの間、動くことができなかった。
灯明の油が尽きかけ、炎が一段と細くなっても、義朝は座ったまま、闇に沈んでいく部屋の中でただ息をしていた。
―― 乙若丸――
後白河帝勝利の報せは、数日遅れて館にも届いた。
乳母がそれを聞きつけ、几帳の向こうで小さく息を呑む音がした。
「為義様が……」
その先は、誰も口にしなかった。
侍女たちの間に、重い沈黙が落ちる。
誰かが小さく洟をすする音だけが、しばらくの間、部屋の隅から聞こえていた。
乳母の腕の中で、乙若丸はまだ言葉を話せない。
だが、その小さな体の奥で、内なる意識だけが、静かに、そして深く、この日のことを胸に刻みつけていた。
(武門の家に生まれるということは、こういうことなのか)
乙若丸は、天井の梁をただじっと見つめていた。
まだ何もできない。何も変えられない。
だが、いつか。
いつか自分の足で立てるようになったら
――そう思う端から、その先の言葉は、幼い体の中で行き場を失ったまま、静かに沈んでいった。
窓の外では、夏の夜が、いつまでも明けきらないかのように、重く長く続いていた。
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