第14話「弔い」
心機一転、沢山のストックを携えて書き始めました。
引き続き拙作ではございますが、何卒お付き合いいただけますと幸いです。
――永暦元年(1160年)三月初め 大和国宇陀郡 乙若丸――
ようやく意識をはっきりと取り戻したのは、峠を越えてから、さらに二日が経った深夜のことだった。
体はまだ鉛のように重く、指先一つ動かすのにも力がいる。
それでも、熱に浮かされていたあの朦朧とした感覚は、ようやく晴れ始めていた。
目を開けると、庵の中は静まり返っていた。
傍らに、母の姿はない。代わりに、見知らぬ男が一人、行灯の淡い灯りの下で、俺の顔を覗き込んでいる。
「……お目覚めになられましたな、若君」
その声には、聞き覚えがなかった。
俺は、まだ回らない頭で、その男の顔を見つめた。
武骨な顔つきの、坂東訛りの残る中年の男だった。
日に焼けた肌と、節くれだった手が、都の公家や女房たちとは全く異なる、
坂東武者の暮らしを物語っていた。
「あなたは……」
「亡き殿――義朝様に、若き日より仕えておりました、一介の郎党にございます」
その名乗りに、熱に浮かされていた間に聞いた会話の断片が、ようやく像を結び始めた。
(そうか……。あの時の声は、この男か)
「若君には、これより大事なお話をせねばなりませぬ。……心してお聞きください」
男は、俺の目をまっすぐに見据えながら、静かに語り始めた。
俺が生き延びるためには、この乱世から義朝の遺児として完全に姿を消す必要があること。
亡き義朝の恩義を受けた東国の豪族――上総介広常のもとへ、密かに送り届ける手筈を整えていること。
そして、そのためには、俺が「死んだ」ことにしなければならないこと。
「なぜ、それほどまでのことを……」
俺の問いに静かに、しかし確かな口調で答えた。
「若君は、亡き殿の御子。源氏の血を引く御方にございます。
平家は、源氏の血筋を根絶やしにすることを、決して諦めますまい。」
そこで一度言葉を切った。
「若君は、既に一度、世を忍ぶ死を経験しておられます。
それゆえに、姿を消し真の安全は保てると考え申した」
その説明に、俺は、深く頷いた。
「広常様は、亡き殿の郎党にございました。
保元・平治の両乱にも従い、殿の御恩を深く感じておられる御方。
恩に報いんがため若君を、大切にお育てくださるはずにございます」
男の言葉には、確信が込められていた。
だが、俺の頭の中では、その先の一言が、何よりも重くのしかかっていた。
「母には……何と」
俺の問いに、老臣は、一瞬、目を伏せた。
「奥方様には、真実は告げませぬ。若君が、病で本当に身罷られたと、そうお思いいただきます」
「そんな……。母を欺くのですか」
「心苦しいのは、それがしも同じにございます。
……ですが、これしか、若君のお命を完全にお守りする術がございませぬ。
奥方様が、この先どのような目に遭われようと、若君が生きておられるという噂が万が一にも漏れれば
それこそ命取りになりましょう。
奥方様御自身も、平家の前に出られる折には、心の底から悲しんでおられねばなりませぬ。
演技では、あの清盛という男の目は誤魔化せますまい」
男の言葉には、確かな理があった。
頭では理解できる。
(母を騙す。……それが、生き延びるための代償だっていうのか)
俺は、拳を握りしめた。乱世である人を欺くことに抵抗を持ってはいけないだろう。
だが、まさか、その相手の中に、母自身が含まれることになるとは、思いもしなかった。
「……分かりました」
俺は、震える声で、そう答えた。
それ以外に、選べる道はない。
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翌朝、母は、俺の息が絶えていることを知らされたようだ。
「そんな……!乙若丸!」
母の悲鳴が、庵の中に響き渡る。
今若丸もまた、声を上げて泣き崩れた。
男は用意した"亡骸"――既に病で命を落としていた、身元の知れぬ幼子の骸を
俺の身代わりとして白い布に包んで横たえてあった。
夜半に運び込まれたそれは、薄暗い行灯の灯りの下では、誰の目にも俺そのものに見えたのだろう。
良心の呵責がなかったとは言えない。
男が語ったことが最善であると自分に言い聞かせた。
俺自身は、男の手で、既にひそかに庵の外へと運び出されている。
まだ本調子ではない体を背に預けながら、離れた場所から、母の慟哭を聞いていた。
「乙若丸……!なぜ、なぜこの子を……!」
その声は鋭い刃のように胸に突き刺さる。
声を上げて駆け戻りたい衝動を渾身の力で抑え込んだ。
今、姿を見せればこれまでの全てが水泡に帰す。
それだけは、絶対に避けねばならない。
(母上……。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい)
声にならない謝罪を、闇の中で繰り返した。
涙が、頬を伝って落ちていった。
庵の中では、簡素な弔いの支度が進められているらしい。
近隣の僧が呼ばれ、読経の声が、夜の静寂に低く響いた。
今若丸の泣き声だけと、時折漏れる母の呟きだけが耳に届く。
「今若丸……。母は子を、また失うわけにはいきませぬ。
……お前だけでも、しっかりしてくれなければ」
母のその声には、絶望の底から絞り出すような、悲痛な決意が滲んでいたという。
今若丸は、涙を拭いながら、小さく頷いたそうだ。
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夜明け前には大和国を離れ、東国を目指す道を進み始めていた。
男の背で揺られながら、遠ざかっていく大和の山々をじっと見つめる。
夜明けの薄闇の中、山の稜線が墨で描いたように黒く浮かび上がっていた。
この地に来てからのわずかな日々――貧しくも、家族と共に過ごした日々は、もう二度と戻らないものとして胸に刻まれている。
「若君、辛いお気持ちは分かります。
……ですが、これは、若君が生き延びるために、源氏の未来のために必要なことにございます」
小さく頷いた。
頷きながら新たに決意する。
(この嘘は、いつか必ず、清算しなければならない。
母に本当のことを話す日が、いつか来る。
……その日まで、この嘘に見合うだけの何かを、成し遂げなければならない)
それは、これまで俺が重ねてきたどの嘘とも違う。
しかし、いかなる理由があろうと騙したという事実そのものは決して消えない。
その重みを、これから長く背負って生きていくことになる。
男は、道中ぽつりぽつりと語りかける。
「若君は、まだお小さい身で、大きなものを背負われました。
……前途は苦しいものと存じまするが、坂東に着けば、広常様が必ず若君を守ってくださいましょう」
「あなたはなぜ、そこまでしてくれるのですか」
ふと口にした問いに静かに答える。
「亡き殿には、若き日に命を救われた恩がございます。
……その恩を、若君にお返しするだけのこと。それ以上でも、それ以下でもございませぬ」
その素朴な言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
父・義朝の死は、多くの理不尽と裏切りに彩られていた。
だが、その一方で、こうして恩義を忘れずにいてくれる者もいる。
その両方を、この乱世の現実として静かに受け止めていくべきなのだ。
東の空が、白み始める。
男の足取りは、着実に、坂東の地へと向かっていた。
大和での日々はこれで幕を閉じる。
新たな決意と、拭いきれない罪悪感を背負ったまま。
(生きる。……そして、いつか、この嘘を上回るだけのものを、母上に返す)
揺れる男の背の上で、静かに目を閉じた。
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