第13話「熱」
心機一転、沢山のストックを携えて書き始めました。
引き続き拙作ではございますが、何卒お付き合いいただけますと幸いです。
――永暦元年(1160年)二月末 大和国宇陀郡 乙若丸――
その夜、体の奥底から込み上げる悪寒に、目を覚ました。
最初は、ただの風邪だと思っていた。大和の山里に移り住んでから、既に半月あまり。
慣れない土地の水と、乏しい食事と、冬の寒さが、五つの体には堪えていたのかもしれない。
都にいた頃なら、これほど粗末な暮らしを強いられることはなかった。
だが今は、雨露をしのぐだけの庵で、日々の食事すらままならない有様だ。
朝を待たずに、俺の熱は見る間に上がっていく。
最初は節々の痛みだけだった。
それが、こめかみの奥が脈打つような頭痛に変わり、やがて全身が燃えるように熱くなった。
意識の輪郭が、少しずつ溶けていくのを、俺は他人事のように感じていた。
「乙若丸、大事ないですか」
母の声が、闇の中でひどく遠く聞こえた。
俺は、答えようとしたが、喉がひどく渇いて、うまく声が出なかった。
(まずい……。これは、ただの風邪じゃない)
俺の中に残る、前世の医学知識の断片が、警鐘を鳴らしていた。
この時代、幼子の高熱は、しばしば命取りになる。
栄養状態の悪さ、薬も医者もろくにない環境。
前世でなら風邪で済んだはずの病が、この時代では死に直結する。
俺は、朦朧とする意識の中で、この時代の医療の限界を、改めて思い知らされていた。
前世なら、解熱剤を飲み、水分を補給し、数日安静にしていれば済んだはずの症状だ。
だが、この時代には、そのどれもが、満足に用意できない。
ただ、母の手による、ありあわせの手当てだけが、俺の命を繋ぐ、唯一の頼みだった。
(皮肉なものだ。……戦や政変からは、なんとか逃れてきたのに。
まさか、ただの熱病で、命を落とすことになるとは)
その皮肉さに、俺は、意識が霞む中でも、乾いた笑いを漏らしそうになった。
この乱世で、どれほど知恵を働かせても、こうした病には、なす術がない。
その無力さを改めて痛感していた。
母は、震える手で俺の額に触れ、その熱さに息を呑んだ。
「誰か、誰か薬師を!」
だが、この山里に、まともな薬師などいるはずもなかった。
ありあわせの薬草を煎じ、額を冷やし、母は夜通し俺の傍らに付き添った。
今若丸もまた、不安げな顔で、俺の枕元から離れようとしなかった。
「乙若丸、しっかりして」
その声を、俺は熱に浮かされながら聞いていた。
意識は朦朧とし、時折、現世の記憶と、この乱世の記憶とが、混ざり合って渦を巻いた。
夢とも現ともつかぬ狭間では前向きな意識など出てこない。
(このまま、死ぬのか。……せっかく、転生してきたのに)
その恐怖は、前世で死の間際に感じた、あの乾いた諦めとはまるで違っていた。
今度は、失うことが惜しいと、はっきり感じられた。
母がいる。兄弟がいる。まだ何も為していない。このまま終わるわけにはいかない
――その強い意志だけが、朦朧とする意識の中で、俺を辛うじて繋ぎ止めていた。
三日三晩、俺の熱は下がらなかった。
母は、ほとんど眠らずに看病を続けていたが、その顔には、日を追うごとに絶望の色が濃くなっていく。
うわ言のように、聞き取れない言葉を漏らすばかりで、母が呼びかけても、まともな反応を返せない。
時折、現代語らしき単語が、譫言に混じって漏れることもあったが、それを気に留める余裕は、誰にもなかった。
「奥方様。……もし、このまま亡くなられるようなことがあれば」
里の古老が、そう言いかけて言葉を濁した。母は、その先を聞くことを、頑なに拒んだ。
「まだ、諦めませぬ。乙若丸は、必ず持ち直します」
その声には、母としての意地と、絶望に呑まれまいとする必死さとが、綯い交ぜになっていた。
今若丸は、部屋の隅で膝を抱え、声を殺して泣いている。
乳飲み子の牛若丸だけが、事の重大さを知らぬまま、無邪気にすやすやと眠っていた。
皆の声が意識の底で、微かに聞こえる。
(母上……。ごめんなさい。俺のせいで、こんなに苦しませて)
その謝罪の言葉は、声にならなかった。
その頃、里の外れに、一人の男が姿を現していた。
かつて父・義朝に仕えていた郎党の一人で、家人たちから密かに事情を聞き及び母の潜伏先を突き止めて訪ねてきた者である。
名のある身分ではない、ただ顔に見覚えはある。
平治の乱では父に従わず、あらかじめ東国へ落ち延びていたため、辛くも生き延びていたらしい。
だが、亡き主君への恩義は、片時も忘れず母たちの窮状を聞き駆けつけたらしい。
この時、この男はこのような胸中であったらしい。
――このまま乙若丸様が身罷られれば、それも定め。だが、もし一命を取り留めたなら。
上総国の広常――義朝に長く仕え、亡き主君への恩義を人一倍重んじる、坂東でも屈指の大豪族だ。
俺をこの乱世の耳目から完全に切り離し、広常のもとで密かに匿うことができれば
幼い若君の命を、平家の追及から永劫に守り抜けるかもしれない。
さらにかつて亡き義朝様が、酒の席でぽつりと漏らしたことがある。
「乙若丸は時折、妙に大人びた物言いをすることがある。
……あれは、ただの子供ではないのかもしれぬ」と。
老臣自身もその時は聞き流していたようだが。
生死の境をさまよう幼子の顔を目の当たりにして、その言葉が、不思議な重みを持って蘇っていた。
(亡き殿が、あれほどまでに気にかけておられた子だ。
……ただの恩返しではない。この子を死なせるわけにはいかぬ)
「奥方様。……乙若丸様の容態、うかがいました」
老臣は、母に深々と頭を下げると、思いもよらない申し出をした。
老臣は、この庵にたどり着くまでの道中、幾度も自問していた。
亡き主君の忘れ形見を守るために、その母君を欺くという行いが、果たして正しいことなのか。
だが、平家の追及がいかに執拗であるかを知る者にとって、中途半端な隠し立てでは、いずれ露見する危険が拭えない。
母君にも真実を偽る。
この非情な策こそが、若君の命を守る、唯一確実な道だと、老臣は自らに言い聞かせていた。
「実は、亡き殿の御恩を受けた御方が、東国においでにございます。名を上総介広常様……。
もし乙若丸様に万一のことがあれば、せめてもの弔いを、それがしにお任せいただけませぬか」
その申し出に、母は戸惑いを隠せなかった。
「弔いを……。なぜ、そのようなことを」
「奥方様には、ただでさえ多くの重荷を背負わせております。
せめて、亡き殿に縁のある者として、これくらいのことはさせていただきたいのです」
その言葉に、母は、深い悲しみの中にも、一片の安堵を覚えたようだった。
この乱世に、まだこうして亡き夫の恩義を忘れずにいてくれる者がいる
――その事実だけで、母の張り詰めていた心が、わずかに緩んだのが、俺にも伝わってきた。
夜、熱は峠を越えたかに感じる。
しかし老臣は、母の目を盗み俺の枕元で、密かに何事かを確かめていた。
俺の朦朧とした意識は、その気配だけを、辛うじて感じ取っている。
(誰か……いる)
声をかけようとしたが、体はまだ、指一本動かせなかった。
俺の呼吸と脈を、慎重に確かめると、小さく頷いた。
「まだ、息はある。」
その呟きの意味を正確には理解出来ないまま眠りに落ちた。
この男が、何か重大な決断を下そうとしていることだけは、朧げに感じ取りながら。
――同刻 大和国宇陀郡 名もなき老臣――
闇に紛れて庵を出ると、共に来ていた供の者に、小声で指示を出していた。
「若君は、峠を越えられた。……ここからが、正念場よ」
「して、奥方様には、いつどのように」
「奥方様には、何も知らせぬ。
……知れば、奥方様御自身を、この企てに巻き込まれてしまう。
若君のお命を、本当に平家の目から隠し通すには、奥方様にも、心の底から悲しんでいただかねばならぬ」
その非情とも思える決断に、供の者は一瞬言葉を失う。
だが迷いはなかった。
亡き主君の忘れ形見を、この乱世から完全に消し去るためには母にさえ、真実を告げないという
苦渋の選択が必要なのだ。
迷いを振り切り、低い声で次の指示を続ける。
「明朝には、身元の知れぬ骸を、もう一つ手配せねばならぬ。……手筈は、既に整えてあるな」
「はい。……近隣の村で、行き倒れた子の骸を、一つ」
乙若丸を中心に歴史が書き換えられようとしている。
しかし大きな仕掛けの中心にいる本人は、遠くなる意識の中で
その感覚を感じ取ることが精一杯であった。
面白いと感じていただけましたら
評価、ブックマーク、リアクション、コメント。
更新の励みになりますので、どんな内容でもいただけると嬉しいです。
特に日間ランキングに載っていると、ブクマいただけていない皆様にも
更新が知っていただきやすいんじゃないかと思ってます。
少しでも次話を読んで良いかなと思っていただけましたら
他の方にも届けるため、次回見つけやすくしていただくために、ぜひ「評価☆」をいただけますと幸いです。




