第11話「雪の中を」
心機一転、沢山のストックを携えて書き始めました。
引き続き拙作ではございますが、何卒お付き合いいただけますと幸いです。
――永暦元年(1160年)正月 都・常盤御前――
夫の死を告げられてから、幾日もまともに眠れぬ夜を過ごした。
悲しみに浸る暇さえ、この乱世は与えてくれない。
夜ごと義朝の顔を思い出しては涙し、朝が来れば、涙を拭う間もなく、幼い子らの世話に追われる。
その繰り返しの中で、私の心は、悲しみと恐怖との間を、絶えず揺れ動いていた。
かつて義朝に仕えていた郎党の中には、既に平家方に討たれた者、あるいは自ら姿をくらました者もいるという。
付き従う残る奉公人の数も、日に日に減っていった。
誰もが、この場に留まることの危うさを、肌で感じ取っていたのだろう。
乳母が、震える声で私に告げた。
「奥方様。……このままでは、若君たちの御身も危のうございます。
平家方は、源氏の血筋を根絶やしにするおつもりやもしれませぬ」
その言葉に、ようやく現実を直視せざるを得なかった。
悲しみに沈んでいる時間はもう残されていない。守るべきものが、まだこの手の中にあるのだ。
「今若丸、乙若丸、それに牛若丸を……。母は、必ずお前たちを守ります」
幼い息子たちを見回しながらそう誓った。
私の声は震えていただろう。
九条院の女房として宮仕えをしていた頃の私は、こうした修羅場とは無縁の日々を送っていたはずだった。
だが、義朝の妾となり、三人の子を産み落としたその日から
私の人生は、この乱世の理不尽と、切っても切れないものになっていた。
――同日 乙若丸――
母の決意の固さに、俺は内なる意識で密かに安堵していた。
(史実の通りだ。母上は、俺たちを連れて都を落ちる。そして大和へ――)
俺の記憶にある史実は、確かな筋道を辿っている。
だが、それが自分にとって、決して平坦ではないことも知っていた。
出立は、夜陰に紛れて行われた。
供の者はごくわずか。
長年仕えてきた奉公人たちの多くは、既に暇を取らせていた。
この先の逃避行に、大人数は却って足手まといになる。
母はそう判断したようだ。
母は乳飲み子の牛若丸を懐に抱き、今若丸と俺の手を引きながら、雪の舞う都大路を後にした。
振り返れば、長年住み慣れた屋敷が、雪の中に静かに佇んでいる。
もう二度と、この屋敷に戻ることはないかもしれない。
そう思うと言いようのない寂寥感が込み上げてくる。
「ははうえ、さむい」
今若丸が、震える声で訴えた。
母は、その声に視線を移すが、唇を噛み締めているだけだ。
まだ六つの子供には途方もない苦労であると知っているのだろう。
ここに及んで声を荒げないところも優しい母を物語っている。
「今しばらくの辛抱です。……必ず、暖かい場所に辿り着きますから」
母の声は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。
俺は、母の袖を握りしめながら、五つの足で懸命に雪道を歩いていた。
この体の非力さが、これほど恨めしく思われたことはなかった。
(せめて、母上の重荷を、少しでも軽くしてやれたら)
その願いも虚しく。できることといえば、ただ弱音を吐かずについていくことだけだった。
夜道を進むうち、一行は、名も知らぬ小さな家にたどり着いた。
そこに住む老婆が、雪に凍える一行を見かねて、快く宿を提供してくれたのだ。
「まあ、こんな小さな御方たちを連れて……。さあ、こちらへ。火に当たられませ」
その老婆の親切に、母は涙ながらに礼を述べた。
「このご恩、生涯忘れませぬ。
……このような身の上で、何もお返しできることがございませんが」
「何をおっしゃいます。
幼子を抱えて逃げねばならぬお方を、どうして見過ごしにできましょうか。
名乗るほどの者ではございませぬが、どうかお気になさらず」
そう言うと、俺たちに温かい粥を振る舞ってくれた。
俺は、その粥を口にしながら、この見知らぬ老婆の顔を、じっと見つめていた。
この人は、俺が何者かも知らず、ただ目の前で凍える子供たちを見て、手を差し伸べてくれている。
そこに、損得の計算は一切ない。
(父上は、人間の欲の末に死んだ。
……でも、この人のような、損得抜きの情けもまた、確かにこの世にはある)
暖かい火にあたりながら、この見知らぬ老婆の情けに、深く胸を打たれていた。
(この乱世にも、こういう人がいる。誰もが損得だけで動いているわけじゃない)
父・義朝の死という、打算に満ちた裏切りの結末を目の当たりにしたばかりの俺にとって
ささやかな、しかし確かな救いだった。
老婆は翌朝の出立に際し、馬と鞍を整え、下人までつけて送り出してくれた。
「道中、くれぐれもお気をつけて。
……どうか、若君たちがご無事で、良き人生を歩まれますように」
その言葉を背に、再び雪道を進んでいく。
行く先は、母の生まれ故郷である大和。
都から離れたその地でなら、しばしの間、平家の追及を逃れられるはずだ。
道の分かれ道に差し掛かった時、供の下人が、雪に覆われた二筋の道を前に、迷った顔をした。
「……どちらの道が、近道でございましょうか」
「みぎのみち。……ひだりは、たにがある」
俺は、思わずそう口にしていた。供の男は怪訝な顔をしたが、念のため右の道を選んだ。
しばらく進むと、確かに左手には、雪に隠れた深い谷が口を開けていた。
「よくお分かりになりましたな、若君」
供の男の感心した声に、母は驚いたように俺を見た。
俺自身、なぜそう感じたのか、うまく説明できなかった。
前世の地図の記憶か、それとも、この土地の傾斜からわずかに読み取った何かか。
こうした些細な勘の鋭さが、少しずつ周囲の目に留まり始めていることを、俺はまだ自覚していなかった。
道中、俺は馬上から、白く染まった山野を眺めていた。
前世では、雪景色を見ても、ただ「綺麗だ」としか思わなかった。
だが今は違う。
この雪の一片一片が、母の足取りを重くし、幼い兄弟の体温を奪っていく敵のように感じられる。
息を吐くたびに白く曇る様子さえ、この乱世の過酷さを絶えず思い知らされる仕掛けのように思えた。
「あしがいたい」
今若丸が、小さく漏らした。
「にいさま、もうすこしだよ。がんばろう」
その月並みな言葉に、今若丸は、それでも小さく頷いた。
兄のその健気さに、胸の奥が締め付けられる。
今若丸は、この逃避行の先に何が待っているかを知らない。
ただ目の前の寒さと疲労にだけ耐えながら、母と弟についていくことだけを考えているのだろう。
その素朴な信頼が、俺には、時にひどく眩しく、時にひどく痛ましく感じられた。
(この兄は、何も知らない。ただ、目の前の苦難に耐えているだけだ。……それに比べて、俺は)
馬上に揺られながら、これまでの自分の人生――否、二つの人生を振り返っていた。
前世では、知識は自慢の種でしかなかった。
歴史書を読み耽り、誰かに披露することもなく、ただ自分の中の知識欲を満たす。
だが今、その知識は、生き死にを左右する重みを持っている。
使い方を誤れば、誰かを死なせることになりかねないが
使い方を間違えなければ、誰かを救えるかもしれない。
(この重みに、俺はまだ慣れていない。……でも、慣れなければならない。この先、ずっと)
それは前世では一度も感じたことのない、確かな手応えでもあった。
何かを本気で背負うということが、これほど重く
そしてこれほど生きている実感を伴うものだとは、俺は思ってもみなかった。
母は、馬の手綱を引きながら、時折、背後を振り返っては、幼い息子たちの様子を確かめていた。
その横顔には、疲労の色が濃く滲んでいたが、それでも気丈に前を見据え続けている。
この人は、乱世に翻弄されながらも、決して子らを見捨てなかった。
父・義朝とはまた違う強さが、この母にはある。
(母上のような強さを、俺も持ちたい。……いや、持たなければならない)
道中、一行はいくつかの村を通り過ぎた。
行き交う人々は、皆一様に貧しく、都の戦乱の余波を受けて疲弊しているように見える。
その光景を見つめながら、ふと思った。こ
の国のあちこちで、名もなき人々が、権力争いの影響を受けている。
父の死も、我ら母子の逃避行も、その無数の悲劇の一つに過ぎないのかもしれない。
(いつか、こういう悲劇そのものを、少しでも減らせる立場に立てたら。
……今はまだ、夢のような話だけど)
その思いを、俺はまだ誰にも語らない。
(俺が目指すべきものは、こういう人たちが、これ以上犠牲にならずに済む仕組みなんだ)
雪はやむことなく降り続き、一行の足跡を、後から後から覆い隠していく。
それはまるで、源氏がこれまで歩んできた道のりごと、白く塗り潰されていくかのようだ。
数日の後、一行は、母の生まれ故郷である大和国の山里に、ようやくその身を落ち着けることになる。
だが、その安息もまた、そう長くは続かないことを、この時の俺は、まだ知る由がなかった。
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