第10話「木太刀の一本なりとも」
心機一転、沢山のストックを携えて書き始めました。
引き続き拙作ではございますが、何卒お付き合いいただけますと幸いです。
――永暦元年(1160年)正月 尾張国野間 源義朝――
東国を目指す道中、義朝の軍勢は、日を追うごとに数を減らしていた。
追っ手を逃れ、馬を失い、裸足で歩き続けたその足は、既に感覚を失いかけている。
供の者はわずかに数名。かつて数百の兵を率いた源氏の棟梁の姿は、もはやそこにはなかった。
雪混じりの寒風が、頬を切るように吹きつける。
その痛みすら、どこか遠いものに感じていた。
都を落ちてから、幾日が過ぎたのか、正確には数えていない。
ただ、東へ、東へと、足を進め続けてきた。
鎌倉に着けば、まだ再起の道もあるはずだ。そう自分に言い聞かせながら、歩を進める。
道中、しばしば、傍らにいるはずの息子たちに想いを馳せる。
義平は多少なりとて大丈夫であろうが...
頼朝ははぐれたまま、行方が知れない。
乱世においては、一族が固まって動くことがかえって仇となる。
散り散りになることで、生き延びる目も増える
――そう割り切ってはいたが、胸中には、拭いがたい不安が澱のように溜まっていく。
(頼朝……。お前はまだ幼い。どうか、無事でいてくれ)
尾張国知多郡野間にたどり着いた時には久方ぶりに安堵した。
ここには、年来の家人である長田忠致がいる。
娘婿・鎌田政清の舅にあたる男だ。
長年の縁を頼れば、しばしの休息と、再起の足がかりが得られるはずである。
「忠致、世話になる」
「殿、よくぞご無事で。
……道中、さぞお辛かったことでございましょう。
さあ、まずは湯を浴びられませ。旅の疲れを癒されますよう」
忠致の物言いに、疑いを差し挟まなかった。
この乱世でまだ信じられる数少ない相手の一人である。
忠致の顔には、主を気遣う情がありありと浮かんでいるように見える。
「殿、せっかくの申し出でございます。お受けなされませ」
都より付き従う政清の言葉に、小さく頷いた。
政清自身、自らの舅である露ほども疑っていない。
(乙若丸が言っていた、"心を許せる方"とは、忠致のことだったのかもしれぬな。
ようやく、こうして一息つける)
保元の乱で父と兄弟を斬った日。
信西に冷遇された日々。信頼と手を組んだあの夜。
そして、六波羅での敗走。すべてが、走馬灯のように浮かんでは消えていく。
(すべてが、間違いだったとは思わぬ。だが、もし今一度やり直せるなら――)
湯殿の外では、夜が更けるにつれ、屋敷の物音が一つ、また一つと静まっていく。
刹那、湯気の向こうに、微かな殺気を感じ取る。
「殿! お逃げを!」
鎌田政清の叫び声と共に、複数の男たちが躍りかかってくる。丸腰の自分には抗う術がない。
「我れに木太刀の一本なりともあれば……!」
死の間際に口についた言葉が未練がましいことに、自分を嘲りながら意識は遠のいていく
――同月 都・源義朝屋敷 乙若丸――
「奥方様!一大事にございます!」
早馬を飛ばした小者の顔は血の気を失い、声は震えていた。
母・常盤は、その顔つきだけで、最悪の報せを悟ったようだった。
「殿は……」
「野間にて、長田忠致めに謀られ……お討たれになりました」
屋敷の中に、重い沈黙が落ちた。俺は、母の腕の中で、その言葉を聞いていた。
史実の記憶として、この日が来ることは、とうに分かっていたはずだった。
それでも、実際にその報せを耳にした瞬間、俺の中で何かが激しく軋む。
(知っていたのに。……知っていたのに、何もできなかった)
膝をついたまま震える声で、その最期の様子を語り始める。
「殿は、湯殿にて、丸腰のまま襲われ……最期に無念の声を発せられたまま」
その言葉に、母は、両手で顔を覆い、声を殺して泣き崩れた。
武門の棟梁として、幾多の戦場を生き抜いてきた父が、最期は、得物一つ持たぬまま、無防備な湯殿で命を落とす。
その理不尽さに、拭いがたい怒りにも似た感情を覚える。
母は崩れ落ちるように座り込み、今若丸が、母にすがりつきながら泣き出した。
俺もまた声にならない声を上げる。演技ではなない。
史実としての知識と、実際に父を失うという事実との間には、埋めようのない距離があった。
歴史書の一行として読み流していた「討死」の二文字が、実体験として迫ってくる。
俺は涙で滲む視界の中、小者に声をかける
「……父上を、討った者たちは」
「三名、この手で斬り捨ててまいりました。
……ですが、長田忠致めは、平家に取り入り、恩賞を得るつもりでございましょう」
その言葉に、俺の中で、悲しみとは別の感情が、静かに頭をもたげた。
(打算で主を売る者が、この乱世ではのさばるのか
父上は一族の栄達を望んだのだろう。仮に父が勝利をしていても清盛は同じ末路を辿ったはずだ。
どうすれば報われるんだ。……何を選べば、幸せになれるんだ)
母の背をさすりながら、静かに、しかし確かに、その問いを胸の奥深くに刻みつけていた。
都では、既に次の報せが飛び交っている。
義朝に連座する者たちへの追及。
嫡男・頼朝の行方。
数日後、また新たな報せが屋敷に届いた。
「頼朝様が、平家方に捕らわれたとの由にございます」
その報せに、母は再び顔を青ざめさせた。
俺の中で、記憶がまた一つ像を結んだ。
(頼朝は、殺されない。
……確か、清盛の継母である池禅尼が、頼朝の助命を願い出て、伊豆への流罪で済むはずだ)
その記憶を、俺は声に出すことができなかった。
だが、頼朝の命だけは長らえるという確信は、俺の胸に、微かな安堵をもたらした。
同時に、俺は思う。頼朝が生き延びるということは、いずれこの兄が、平家打倒の兵を挙げるということでもある。
その時、自分はどこで、何をしているのか。
まだ何も見えない未来だったが、俺はその輪郭を、少しずつ手繰り寄せようとしている。
乳母が、青ざめた顔で母に耳打ちした。
「奥方様。……このままでは、若君たちの御身も危のうございます」
母は、涙を拭うこともせず、幼い息子たちを、震える腕できつく抱き寄せた。
この母は今、夫を失った悲しみと、我が子を守らねばならないという責任とを、同時に背負わされている。
俺は、その重みの一端でも、自分が引き受けられないものかと、幼い頭で必死に考えていた。
答えの出ない問いなのかもしれない。
これから自分が生きていくべき道筋を、必死に考える。
俺は、母の腕の中で、これから始まる長い逃避行の予感に、静かに身を固くしていた。
窓の外では、都の空がどこまでも重く垂れ込めていた。
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