あの日の選択
目を開いた芙蓉は身体の重さを感じて、肉体に戻ったことが分かった。
目の前には心配そうな顔をした夫がいる。
芙蓉が片手を挙げると夫がその手をとり、背中にもう一つの手を回して起こしてくれた。
「う、う・・・」
芙蓉はまた泣いた。
今度は温かい涙が頬を伝うのを感じられる。
「ど、どうした!?」
夫は泣いている芙蓉を見てあたふたしている。
「ったく。こういう時こそ夫は落ち着いて構えてないと。包容力のほの字もない。」
呆れている鳳雁の声に芙蓉がはっとなった。
鳳雁の存在をすっかり忘れていた。
こんな醜態を晒してしまうなんて。
芙蓉はあわてて涙を拭い、何とか笑顔を作ろうとした。
「・・・獣人にとって死は恐怖の対象ですから、気にすることはない。涙が枯れる時間など私にとっては一瞬ですよ。」
鳳雁の穏やかな言葉に芙蓉は押さえていた涙がまた溢れてしまった。
同時にとても恥ずかしい。
芙蓉がみっともなく泣きわめいても、それを夫の弱みとして利用しようなんて矮小なお方ではないのだ。
鳳雁にとっては、道端の小石が転がったくらい興味のないことなのだろう。
だけど、それをストレートに言葉にもしない。
懐が深いなんて言葉では言い表せないほど・・・気高いお方だ。
「素敵・・・」
芙蓉は思わず呟いていた。
尊敬なんて言葉でも畏れおおい。
なのに、その尊いお方はなぜか真っ青な顔になっている。
「いや、ちょっ!?今のは、あれですよ、尊敬というか畏敬の念というか・・・とにかく!違うから!」
鳳雁が青い顔で見ているのは芙蓉の夫だ。
「ちょっ!?奥様!夫竜を抑えて下さい!
嫉妬に狂った雄竜を相手にするほど私は若くないんですよ!」
芙蓉が夫を見上げると、夫は怖い顔で鳳雁を睨んでいる。
「あなた。まだ涙が・・・2人きりで慰めて下さい。」
芙蓉が夫の手を強く握ると、夫はようやく鳳雁から視線をそらせた。
「妻が落ち着くまで待ってろ。」
「そうさせてもらいます。」
鳳雁は光の早さで部屋から出ていった。
偉大なお方にも怖いものはあるらしい。
「ごめんな、芙蓉。そばに居てやれなくて。」
夫はいつもの優しい声で芙蓉を抱き締めてくれたので、芙蓉は少しずつ落ち着いてきた。
まだ涙は止まらないけど。
「違うの。ありがとう。私を信じて1人で行かせてくれて。・・・なのに、私はカモミールさんを連れて戻れなかった。ごめんなさい。」
「いいんだ。芙蓉のせいじゃない。象妻の魂が自ら死を受け入れたんだと、鳳雁は言ってる。」
「・・・うん。」
芙蓉はそれが悲しくて悔しい。
カモミールは死の間際まで芙蓉を案じてくれていたらしい。
芙蓉の無事を確認できたから、カモミールは旅立ってしまったのだ。
「私・・・私はまた救えなかった。どうして!?どうして死を選ぶの!?」
芙蓉は涙が止まらない。
かつて目の前で自殺してしまった鹿妻のソルに続き、カモミールも死んでしまった。
また、芙蓉の目の前で。
また、芙蓉が彼女の死を後押ししてしまったのだ。
「・・・芙蓉、何があったんだ?」
夫の声は穏やかだ。
優しく芙蓉の背中を擦ってくれる。
「私がカモミールさんの未練を断ち切ってしまったの。カモミールさんは私の無事を喜んでくれて・・・初めて見る優しい笑顔で・・・旅立ってしまった」
芙蓉はうまく説明できない。
涙で喉が詰まって声がよく出ない。
「・・・ごめんな。俺には芙蓉が泣いている理由を理解してやれない。
母さんは笑って死ねるならそれはいい人生だった証だと言ってたけど、芙蓉は象妻を憐れんでるのか?」
夫は申し訳無さそうな声で自信なさげに言うけど、核心をついている。
「ううん。私が悲しいの。私が悔しいの。私は・・・私のために泣いてるの」
カモミールが幸せだったのかは分からない。
ただ、ただ、芙蓉が悔しいのだ。悲しいのだ。
カモミールを連れて帰りたかった。
いつか、危ないところだったと、2人で振り返って笑い合える日を迎えたかった。
カモミールともっと語り合いたかった。
心を通わせたかった。
「なんで?なんで死を選ぶの!?生きてれば、いいことだってあるかもしれないのに。
なんで・・・こんな私を庇って死んじゃうの!?
人生の最後に私なんかを気遣うの!?
彼女たちの方が・・・気高くて強くて・・・生きるべきなのに・・・」
芙蓉の背中を優しく撫でていた夫の手がピタリと止まった。
「・・・?」
芙蓉が疑問に思って夫を見上げると、夫は珍しく困った顔で芙蓉を見ている。
「芙蓉、それはダメだよ。紫竜一族に嫁いだ以上、妻にも序列に従ってもらう。けど、それは妻としての振る舞いに限った話だ。生死を決めるのはその妻本人だよ。」
「え!?」
夫はまた見当違いなことを言い出した・・・いや、そうでもないかも。
夫から見れば、芙蓉がほかの妻の死に文句を言っているように見えるのだろうし、それが間違いとは言えない。
「・・・ごめんなさい」
「え!?いや、怒ってる訳じゃないんだ!?芙蓉は優しいから、死んだ妻を責めるつもりはないんだよな!?」
夫はまた狼狽えている。
「・・・分からない。生きてて欲しかった、カモミールさんも、ソルさんも。死ぬ必要なんてなかったのにって・・・そう思うのは私のワガママでしかなくて。
私は彼女たちの死をよかったと受け入れられるほど強くないの。」
「・・・」
夫は困った顔でまた芙蓉の背中を撫で始めた。
「ごめんな。俺は、妻を慰める方法が分からなくて・・・芙蓉はいつだって俺のために、ほかの奴の前では族長妻として振る舞ってくれるのに・・・ごめんな。」
「ううん。私がこんな風に泣いてても、愛想を尽かさずにそばに居てくれる・・・それで十分なの。
私は弱いから、これからも何年も・・・死ぬまでカモミールさんたちのことを思い出して泣いちゃうかもしれない。それでも嫌いにならずにいてくれる?」
「と、当然だろ!芙蓉は死ぬまで俺のそばに居てくれるんだ。その覚悟を絶対に裏切ったりしないよ。」
夫は芙蓉を力強く抱き締めてくれたので、芙蓉も抱き締め返した。
悲しみから立ち直るにはきっと時間がかかるけど、芙蓉は1人じゃない。
夫がそばに居てくれるから、きっと・・・
どのくらい時間が経ったか分からないけど、芙蓉はようやく涙が止まった。
鏡を見ると、泣き腫らしたひどい顔だ。
夫は、お風呂に入って食事して休んでからでいいと言ってくれたけど、さすがにそんなに鳳雁を待たすのは申し訳ないので芙蓉は断った。
夫は嫌そうだったけど、かなり嫉妬したみたいだけど、芙蓉が恋心を抱いたわけではないことは理解してくれているようで、鳳雁を呼びに行った。
「すみません、お待たせしてしまって。」
やってきた鳳雁に、芙蓉は頭を下げた。
「いえいえ、お気になさらず。龍緑殿が話し相手になってくれておりましたので。父君と違って大人しいですな。」
鳳雁は楽しそうだけど、龍緑と相性がいいようには思えない。
「無駄話は終わりだ。妻の魂が離れた後の出来事を聞きたいんだろ。」
夫に促されて芙蓉はカモミールの魂を追いかけた出来事を語った。
落ち着いて話せたけど、カモミールの魂が旅立ってしまった場面までくるとまた涙が出てしまった。
「ふーむ。旅立ちかけた魂が肉体に繋がり続けることを人はミレンと呼ぶのですか。興味深い。ようやく私の疑問が解消されました。」
鳳雁は意外なところに関心している。
カモミールが死ぬと分かって芙蓉を送り出した訳ではなかったらしい。
「追いかけたのが私でなければ、カモミールさんの魂は帰ってきてくれたのでしょうか?」
「・・・私には獣人の気持ちは分かりません。ですが、一つ、我が一族に伝わるお話をしましょう。獣人の魂は肉体を離れて死の世界に行った後、新たな肉体に宿り、またこちらの世界に戻ってくると言われております。
魂には古い肉体の記憶は残っておりませんが、自ら死を受け入れて旅立った魂ほど早く戻ってくるとか。理由は分かりませんが、ミレンを残して死んだ魂は古い記憶に囚われるのかもしれませんな。」
「・・・」
鳳雁の話は生まれ変わりの信仰とよく似た話だった。
夫は怪訝な顔をしているけど、鳳雁なりに芙蓉を慰めようとしてくれているのだろう。
「ありがとうございました、鳳雁様。」
「とんでもありません。奥様、お疲れ様でした。さ、ストールをお返ししますよ。」
鳳雁はいつの間にかストールを持っている。
「なんでお前が持ってる?」
夫も驚いている。
「床に落ちたまま放置されていたのでね。これは我が一族が奥様に贈ったものなので。」
鳳雁はそう言いながらもストールを夫に手渡した。
「まだ、私が持っていてもいいのですか?」
芙蓉は畏れおおい。
このストールの秘密を知ってしまった今になっては。
「もちろんです。奥様が亡くなる時にお返しください。」
鳳雁はそう言うけど、
「・・・どうして私に?鳥族の妻もいるのに。」
芙蓉の長年の疑問だ。
「ああ。紫竜族長はお忘れのようでしたな。雄竜とそいとげる覚悟を持った妻にだけ贈る、紫竜との古くからの約束なのですよ。」
鳳雁は意外なことを言い出した。
「え!?でも・・・」
芙蓉は困った。鳳雁の話を否定したくはないけれど、芙蓉が夫と添い遂げる覚悟を持ったのは・・・ストールをもらった後だった。
それが具体的にいつかは芙蓉も思い出せないけど、生まれてすぐ呪われた娘を夫が転変まで守り抜いてくれた時、芙蓉はようやく人ではない夫を夫として受け入れられたのだ。
「おかしいだろ!なら、なんで龍栄の最初の妻にスカーフを贈った?」
夫は別の理由で疑問を呈した。
龍栄の最初の妻・・・龍栄を憎んで復讐に命をかけた白鳥ココのことだ。
「あの白鳥は覚悟を持っておりましたよ。復讐のために龍栄と添い遂げる覚悟を、ね。」
この鳳雁の笑みは怖い。
添い遂げる覚悟とは、夫への愛を理由としていなくともいいらしい。
「私の覚悟は、どうやって分かったのですか?」
竜湖が朱鳳に話したとは思えない。
夫だって、あの頃は芙蓉のことを信頼していなかった。
「私が見届けましたよ。初めてお会いした時にね。」
鳳雁はさらに意外なことを言う。
「初めて?」
芙蓉が鳳雁と初めて会ったのは・・・香流渓に紅葉を見に夫が連れて行ってくれた時だ。
あの頃は、芙蓉はまだ妾・・・と思っていた頃で、鳳雁と夫が話しているのを見て、近くで待っていようとしたら、明日香の娘と遭遇して・・・
「あ!」
芙蓉ははっとなった。
そうだ。あの時、芙蓉は明日香と人の世界に戻る選択肢もあった。
だけど、芙蓉は夫のもとに戻ることを選んだのだ。自分で。
「芙蓉!?どうした?」
夫が心配そうに覗き込んできた。
あの頃の芙蓉の気持ちを夫は知らない。
夫は初めから芙蓉を妻にするつもりだったのだから、自分を妾だと勘違いしていたなんてとても言えない。
「・・・思い出してました。あの香流渓で、私はあなたのもとにいることを選んだこと。」
芙蓉は微笑んで夫からストールを受け取った。




