脱出
「はあはあ・・・」
カモミールは汗だくになりながら崖を登っていた。
ようやく半分ほど登ってきただろうか?
まだ空は遠いのに、カモミールの身体はかなり疲れていた。
崖に打ち込まれた梯子を掴む手が痛い。
足は重い。
だけど休むことはできない。
下から水が迫ってきているのだ。
「カモミールさん?大丈夫?ごめんなさい。私がいるから・・・」
カモミールがおんぶしている芙蓉様は詫びるけど、芙蓉様がいてくれるからカモミールはこうも頑張れるのだ。
「大丈夫です。汗だくで・・・臭かったらすみません。」
「ううん。そんなことは全く。ごめんなさい。資料探しをしていなければもっと早く逃げられたのに。」
「いえ、手ぶらで帰るのは悔しいですから。芙蓉様はすごいです。解毒剤でまた多くの獣人たちが救われますよ!」
芙蓉様と会話している方が気が紛れる。
「うん。でもこの資料を公開したら誰でも毒が作れるようになってしまうから、犠牲者も増えるわ。」
「え?この資料をですか?また解毒剤を作って売るのはだめなのですか?」
「ワニ毒の解毒剤は私が作ったんじゃないわ。・・・頼まれて少しだけ手伝っただけなの。私にはそんな知識も技術もないから。この資料を公開して才能ある人たちに任せるしかないの。」
「そうなのですか!?」
カモミールは驚いた。
ワニ毒の解毒剤は龍希の妻が開発したとのうたい文句で紫竜一族が売りさばいたのに!?
「ええ。私は非力な人間だから。」
芙蓉様はなぜか落ち込んだ声だ。
「芙蓉様が解毒剤開発のためにと資料を公開すればどの種族も全力で取り組みますよ。
ワニ毒の解毒剤のおかげで毒の暗殺はなくなりました。芙蓉様がカラスの香油の危険性に気づいてくれたおかげで象族では多くの命が助かりました。
芙蓉様はすごいです!殺すことは簡単ですけど、誰かを生かすことは難しいのですから。」
「・・・ありがとう。私が生き延びられたのはカモミールさんのおかげよ。カモミールさんもすごいわ。」
「え!?ありがとうございます。」
あまりにもストレートに褒められたので、カモミールは照れてしまった。
カモミールを褒めてくれた獣人なんて母以来だ。
カモミールが嬉しくなっていると、ふと頭上が暗くなった。
「?」
カモミールが見上げると、なんとタンチョウの獣人が地上の穴からカモミールたちを覗き込んでいる。
「え!?あのタンチョウは!」
芙蓉様も気づいたらしい。
地底湖でワニの倉庫にカモミールたちを案内?したタンチョウだろう。
地底湖の穴から地上に脱出していたのだろうか?
それよりも、タンチョウは何の用だろう?
まさかカモミールたちを落とす気か?
この距離ではタンチョウの殺気は分からない。
カモミールが悩んでいると、タンチョウは姿を消した。
「ワニを呼ぶつもりか?」
カモミールは焦った。上から石でも落とされたら一溜りもない。
早く地上にあがらなければ。
カモミールは必死で手足を動かした。
5分、10分と経ってもワニもタンチョウも現れなかった。
あと少しだ。
地上まであと3メートルもない。
「つめた!」
カモミールは思わず悲鳴をあげた。
足元を見ると、なんと両足が水に浸かっている。
あと少しなのに!
とうとう増水のスピードに負けた。
水は驚くほど冷たい。
全身汗だくなのに、足だけは凍えて痺れるように痛い。
もう一段踏み出した拍子に靴が脱げてしまった。
「・・・カモミールさん、お願いがあるの」
「芙蓉様?すみません、もう着きますのでそれまで待って・・・」
カモミールはもうしゃべる余裕もない。
「私は後は自力で登れるわ。ファイルを持って先に登ってほしいの。」
震える芙蓉様の声で、カモミールは嘘だと分かった。
「ならば芙蓉様が先に登って下さい。」
「ダメなの。足が・・・」
芙蓉様の足も水に浸かってしまったのだろう。
カモミールの腰辺りまで水があがってきたのだ。
そのせいか身体がすさまじく重い。
このままでは手がかじかんで・・・
「カモミールさん、ごめんなさい。このファイルだけは・・・これがないと・・・」
芙蓉様は震えて絞り出すような声だ。
命の危険が迫っているのに、この方は・・・
芙蓉様の意図が分かってカモミールも覚悟を決めた。
「分かりました。ファイルを地上に投げますので、私の右側にきてください。梯子に掴まれますか?背中のファイルをとります。」
「ありがとう・・・ごめんなさい。」
芙蓉様はもう泣いている。
それでもカモミールの背中から右側に移動してきてくれ、梯子を両手で掴んだ。
「謝らないで下さい。私が自分で選んだことです。後悔なんてありません。」
カモミールは芙蓉様に最後の言葉をかけると、背中の風呂敷ではなく芙蓉様の両脇を両手で掴んだ。
「え!?」
芙蓉様が驚いてカモミールをふりかえった瞬間、カモミールは芙蓉様の身体を持ち上げた。
芙蓉様の手が梯子から離れると、最後の力を振り絞って芙蓉様の身体を上に投げた。
『お願い!届いて!』
カモミールは声をあげる間もなく、足も梯子から離れて水に落ちた。
ごぼごぼ
カモミールの身体は水に沈んでいく。
身体はもう動かず、息が苦しい。
あんな紙切れだけ残しても意味はないのだ。
芙蓉様がいないと解毒剤は作れない。
地上に出れば、芙蓉様の匂いに龍希たちが気づくと信じたい。
カモミールは解毒剤なんてどうでもいいのだ。
芙蓉様さえ無事なら・・・
父の娘たちはワニ毒の実験で暗殺されたのだろうか?
今となっては調べようもないけど、2人とも出産のダメージでは説明がつかないほどのスピードで身体が衰弱して死に至ったと聞いている。
暗殺が疑われたものの、真相は闇の中だ。
2人の娘の死で、カモミールの人生は狂わされたのだ。
それは今さらどうにもならないけど、解毒剤ができれば、毒の暗殺により人生が狂わされる獣人は減るだろうか?
「ふっ」
カモミールは笑ってしまった。
他獣人を助けて死ぬなんて、柄じゃないのに。
不確かな未来を夢見る子どもでもないのに・・・いや、芙蓉様ならきっとやり遂げてくれる。
こんなに信頼できる相手ができるなんて思わなかった。
それも人族で龍希の妻なんて・・・どんな出会いがあるか分からないものだ。
母さんは・・・あの世でカモミールを褒めてくれるだろうか?
もしもあの世で再会できたら芙蓉様の話を聞かせてあげたいな。




