第九章 報道は、犯人の共犯者になる
言葉は、刃物より遠くまで届く。
刃物は、目の前の一人しか刺せない。
薬物は、投与された者の身体の中でしか作用しない。
血痕は、現場に残された分だけしか語らない。
だが言葉は違う。
一度放たれた言葉は、距離を超える。
時間を超える。
訂正を超える。
誰かが「容疑者」と書く。
誰かが「逃亡」と言う。
誰かが「異常性」と見出しをつける。
誰かが「関係者によると」と逃げ道を残しながら断定する。
すると人々は、自分で考えたつもりで、その言葉に沿って見る。
顔を見る。
過去を見る。
傷を見る。
沈黙を見る。
そして、もう一度言う。
やっぱり怪しい。
その瞬間、報道は事実の伝達ではなく、犯人の共犯者になる。
*
加工音声が拡散されてから、二十分で三十万回再生を超えた。
【音声流出】警視庁広報、九条容疑者の協力者を名指しか
「江口桜次郎、鳳恭介、堀島岳斗——」
【衝撃】九条容疑者を支援した“共犯ネットワーク”とは
二階堂壮也は、警視庁広報課の会議室で、その数字を見ていた。
三十万。
数字そのものに意味はない。
意味があるのは速度だ。
速すぎる。
自然発生的な炎上ではない。
火種が投げ込まれた瞬間に、燃えやすい場所へ油が撒かれ、風向きまで調整されている。
若い広報担当者が青ざめた顔で言った。
「二階堂さん、これ、本当に加工なんですよね」
二階堂はその声に反応しなかった。
担当者は慌てて言い直す。
「すみません。疑っているわけではなくて」
「疑え」
二階堂は画面を見たまま言った。
「疑うのは仕事だ」
「でも」
「俺が言ったかもしれない。そう思って検証しろ。信じるな。音声波形、元会見映像、会場の録音、記者側の録音、全部照合しろ」
「はい」
「それから、江口、鳳、堀島の名前を公式に出した事実はない。そこを最初に押さえろ」
「訂正コメントを出しますか」
「出す」
「強く否定しますか」
二階堂は一瞬だけ黙った。
強く否定する。
それは簡単だ。
しかし、否定は時に燃料になる。
強く否定すればするほど、人は「何か隠している」と思う。
特に、すでに物語を信じたい人間には。
「強くではない。正確にだ」
「正確に?」
「“当該音声について、警視庁が確認した会見記録とは一致しない部分があります。現在、改変の有無を含め確認しています”。これで出す」
「改変と断定しないんですか」
「断定には証拠が要る」
「でも、遅くなります」
「断定して間違えたら終わる。犯人はそこを待ってる」
二階堂は椅子から立ち上がった。
スマートフォンが震え続けている。
江口からは、すでに二十三件のメッセージが来ている。
――これは何。
――俺の名前が出てるんだが。
――学校に記者が来た。
――生徒が怖がってる。
――俺は九条先生を匿ったのか、人を助けたのか。
――どっちで報じられる?
――壮也。
最後だけ、名前で呼んでいた。
二階堂は、そのメッセージを見たまま数秒動かなかった。
江口が「壮也」と送ってくる時は、本当に怒っている時か、本当に怖い時だ。
おそらく、今回は両方だった。
二階堂は短く返信した。
――加工音声。
――お前の名前を公式に出した事実はない。
――学校への取材は止めるよう申し入れる。
――生徒を最優先で。
――あとで直接謝る。
すぐに返事が来た。
――足りない。
二階堂は、ほんの少しだけ息を吐いた。
――悪かった。
――まだ足りないけど、今は許す。九条先生は?
二階堂は答えに詰まった。
九条は堀島の診療所にいる。
左腕を縫われ、出血し、それでもまだ事件を追っている。
言えば、江口は安心するかもしれない。
だが、情報が漏れれば診療所が燃える。
二階堂は打った。
――生きてる。
少し間が空いて、江口から返事。
――それだけでいい。でも戻すと約束させて。
――生徒と約束したから。
二階堂は目を閉じた。
九条は約束したのか。
戻る、と。
あの男は、約束の重さを知らないようで、たぶん誰より知っている。
だから余計に危うい。
二階堂は返信した。
――戻す。
――俺が引きずってでも。
送信した直後、管理官が会議室へ入ってきた。
顔が硬い。
「二階堂」
「はい」
「広報課が捜査を混乱させているという声が上がっている」
「でしょうね」
「他人事のように言うな」
「当事者です」
「なら分かっているな。これ以上、独断でコメントを出すな」
二階堂は管理官を見た。
「では、加工音声を放置しますか」
「確認中とだけ出せ」
「出します」
「九条雅紀を庇うような発言は一切するな」
「庇っていません」
「では何をしている」
二階堂は一拍置いた。
「犯人を間違えないようにしています」
管理官の目が細くなった。
「君は、九条が犯人ではないと言いたいのか」
「言っていません」
「では疑っているのか」
「疑っています」
「何を」
二階堂は答えた。
「九条に都合よく揃いすぎる証拠と、九条を犯人にしたがりすぎる報道です」
管理官は黙った。
その沈黙は短かったが、十分に重かった。
「真壁と同じことを言う」
「同じ事件を見ていますから」
「真壁は命令違反をしている」
「でしょうね」
「君もか」
二階堂は、わずかに首を傾げた。
「私は会見をしただけです」
「言葉遊びをするな」
「言葉が仕事です」
管理官は机を叩いた。
「二階堂!」
会議室の空気が凍った。
二階堂は表情を変えなかった。
怒鳴られることは想定内だ。
むしろ、怒鳴ってくれる方がまだましだった。
本当に危険なのは、静かに外されることだ。
「君を本件の広報対応から外す案が出ている」
「そうですか」
「異論は」
「あります」
「言ってみろ」
二階堂は、会議室のモニターを指差した。
そこには、加工音声を転載したアカウント群の一覧が表示されている。
投稿時刻。
文面。
拡散経路。
添付されたサムネイル。
「この音声は、私を潰すためだけのものではありません。江口、鳳、堀島、真壁、九条。全員を“共犯者”に見せるためのものです。報道がそれに乗れば、犯人はもう死体を作らなくてもいい」
「どういう意味だ」
「社会が勝手に犯人を増やします」
二階堂は画面を切り替えた。
匿名掲示板。
『江口桜次郎って教師、ガチで匿ったの?』
『生徒いる学校に指名手配犯入れたなら終わりだろ。』
『鳳恭介って九条の大学の助教らしい。逃走ルート作ったとか』
『堀島岳斗、逃亡犯を治療した医師?』
『堀島って九条の大学の一個か二個下の後輩らしい』
『真壁刑事、九条逃がした説。』
『全員共犯じゃん。』
管理官の表情が変わった。
二階堂は言った。
「このまま放置すれば、犯人は“九条一味”という物語を完成させます。そうなれば、誰かが証拠を見つけても、“共犯者の捏造”として処理される」
「君は何をするつもりだ」
「報道を罠に使います」
「また勝手なことを」
「勝手にやれば処分してください。許可を出すなら、今です」
管理官は二階堂を睨んだ。
「内容は」
二階堂は、モニターに別の文案を映した。
『佐々木彩夏氏の事案について、現場には右胸部刺創様の損傷および血痕が確認されています。』
『詳細な死因、負傷原因については現在確認中です。』
管理官が眉をひそめる。
「これは何だ」
「餌です」
「餌?」
「犯人は、九条がやったなら右胸を刺す、という物語を作っている。だから、あえてその見え方を表に出す」
「事実か」
「右胸部に損傷はあります。血痕もあります。ただし、直接死因ではない可能性が高い」
「佐々木は生きている」
「だから“死因”とは書かない。“損傷”と“血痕”です」
「それで何を釣る」
「犯人、または犯人に近いアカウントは、警察のこの発表を訂正したくなるはずです」
「なぜ」
「自分の作った死因を、正しく読んでほしいからです」
管理官は眉を寄せた。
二階堂は続ける。
「犯人は九条を犯人にしたい。ただの刺殺ではなく、“法医学者らしい犯罪”にしたい。薬物、死後損壊、血痕偽装。それを世間に分からせたい。警察が雑に“右胸の傷”とだけ出せば、必ず誰かが訂正しに来ます」
「それが犯人だと?」
「犯人本人でなくても、犯人側の情報操作アカウントです」
「危険すぎる」
「もう危険です」
二階堂は静かに言った。
「今、報道は犯人の共犯者になりかけています。こちらが何もしなければ、最後まで利用される」
管理官は長い沈黙の後、言った。
「責任は君が取れるのか」
「取れません」
管理官の顔が険しくなる。
二階堂は続けた。
「人の人生が壊れた責任なんて、誰にも取れません。だから壊れる前に止めます」
*
堀島岳斗の診療所では、九条雅紀が椅子に座ったまま、端末の画面を見ていた。
堀島はその前に立ち、腕を組んでいる。
「先生」
「ん」
「座っているのは評価します」
「ありがとう」
「ですが、顔が立っています」
「顔が立つとは」
「今すぐ走り出しそうな顔です」
「走れないよ」
「そういう意味じゃないです」
堀島は深いため息をついた。
九条の左腕は縫合したばかりだ。
出血は抑えられているが、安静が必要だった。
少なくとも、指名手配中に事件現場へ行っていい状態ではない。
当然のことだ。
当然のことなのに、この部屋にいる誰も、本気で九条がじっとしているとは思っていない。
鳳恭介は、診療所の奥の小部屋でノートPCを開いている。
真壁彰は、佐々木彩夏の現場から戻る途中。
二階堂は、警視庁で報道対応。
江口桜次郎は、学校で生徒と保護者対応に追われている。
全員が、それぞれの場所で燃えていた。
九条は画面を見ながら言った。
「二階堂が餌を撒くよ」
「餌?」
「佐々木さんの右胸部損傷と血痕について、あえて不完全な情報を出す」
堀島は顔をしかめた。
「それ、大丈夫なんですか」
「大丈夫ではない」
「ですよね」
「でも、犯人が訂正すれば、情報源が見える」
「先生たち、危ない橋を渡るのが趣味なんですか」
「趣味じゃないよ」
「では習性ですか」
九条は答えなかった。
堀島は諦めたように首を振った。
その時、鳳が奥から出てきた。
「投稿群の監視準備はできました」
「鳳さん、煙を吸った人も安静です」
「吸った量は軽微です」
「患者が勝手に判断しない」
鳳は少しだけ微笑んだ。
「堀島先生は、九条先生に似ていますね」
「心外です」
「とても正確に怒るところが」
「褒め言葉として受け取りません」
九条が尋ねた。
「鳳先生、建物側から追えますか」
「はい」
鳳は端末を九条へ向けた。
画面には、ルーメン・メディカル本社ビル周辺の管理データが整理されていた。
「匿名アカウント群が動く時刻と、ルーメン本社のサーバールームの空調負荷、非常階段の開閉記録、深夜搬入口の利用記録を照合します」
堀島が眉をひそめる。
「そんなことできるんですか」
「公開情報と、ビル管理会社に提出された環境性能データ、あとは二階堂さんが合法の範囲で取ったものです」
「合法の範囲で?」
「おそらく」
「そこが一番怖いです」
鳳は画面を指差した。
「これまでの拡散開始時刻を並べると、奇妙な一致があります。山田先生の事件直後、防犯カメラ映像が流出した時刻。九条先生の顔写真が拡散した時刻。江口先生の学校画像が投稿された時刻。私の車の画像が送られた時刻。二階堂さんの加工音声が投稿された時刻」
九条は画面を見た。
時刻が並ぶ。
その横に、ルーメン本社ビルのデータ。
サーバールーム空調負荷上昇。
地下搬入口開閉。
非常階段扉開閉。
四十二階役員フロア入退室。
夜間清掃業者入館。
鳳は言った。
「投稿のたびに、ルーメン本社の一部だけが動いています」
「一部?」
「サーバールームと役員フロアです。清水輝の個人カードの記録は出ていません。ですが、役員フロアに入れる清掃業者のカードが、毎回同じ時間帯に使われています」
堀島が言った。
「清掃業者が犯人?」
「実行犯の動線としてはあり得ます。ただ、投稿操作そのものはサーバールーム側でしょう」
九条は画面を見つめた。
「清水は、自分のカードを使わない」
「はい」
「代わりに業者カードを使わせる」
「建物としては、よくある隠れ方です」
鳳は穏やかに言った。
「人は、正面玄関から入った人間を記憶します。でも、建物は裏口から入った人間も覚えています」
堀島が小さく呟いた。
「この人も怖いな……」
九条の端末に、二階堂からメッセージが届いた。
――出す。
数秒後、警視庁の公式コメントが配信された。
『佐々木彩夏氏の事案について、現場には右胸部刺創様の損傷および血痕が確認されています。詳細な負傷原因、薬物反応等については現在確認中です。未確認情報の拡散はお控えください。』
堀島が画面を見た。
「本当に出した……」
九条は何も言わなかった。
鳳が別画面を開く。
匿名掲示板。
ニュースコメント欄。
短文SNS。
まとめサイト。
最初の数分は、予想通りの反応だった。
『やっぱり右胸かよ。』
『九条確定。』
『右に心臓あるから右胸にこだわるって怖すぎ。』
『血痕って九条の血?』
『もうこれ決まりだろ。』
堀島が不快そうに顔を歪めた。
「本当に、みんな好き勝手に」
九条は画面を見つめていた。
そして、九分後。
一つ目の異物が出た。
『警察発表おかしくない?』
『あれ右胸の傷で死ぬやつじゃないだろ。』
『画像見る限り出血量少なすぎ。薬物じゃね?』
鳳の指が止まる。
続けて別アカウント。
『右胸は死後じゃない?』
『というか佐々木まだ生きてる説ある。』
『首筋の注射痕の方が本命だろ。』
三つ目。
『九条がやったなら薬使うはず。』
『右胸は見せ傷。』
『警察、死因読めてなくて草。』
堀島が息を呑んだ。
「出た」
九条は低く言った。
「早すぎるね」
鳳が時刻を確認する。
「公式コメントから九分二十二秒。通常の閲覧者が画像を探し、検討し、投稿するには速すぎます」
画面の別ウィンドウで、ルーメン本社ビルのデータが動いた。
サーバールーム空調負荷上昇。
同時刻。
役員フロアの清掃業者カード使用。
さらに、非常階段扉開閉。
鳳は静かに言った。
「釣れました」
九条は画面を見つめる。
その投稿者たちは、九条を庇っているようにも見える。
だが違う。
彼らは、九条を“より高度な犯人”にするために訂正している。
右胸を刺した単純な殺人犯ではない。
薬物を使い、死後損壊を施し、血痕を操る法医学者。
犯人は、九条を怪物にしたい。
九条は言った。
「訂正しているんじゃない。犯人像を精密化している」
鳳が頷く。
「はい。雑な誤解では満足できないのでしょう」
堀島が言った。
「自分の作品を正しく見てほしい、みたいな?」
九条と鳳が同時に堀島を見た。
堀島は少し引いた。
「何ですか」
九条は言った。
「その表現は近い」
鳳も頷いた。
「犯人は、死因を作品のように扱っている」
堀島は嫌悪を露わにした。
「最悪ですね」
「うん」
九条は静かに言った。
「最悪だ」
*
真壁彰は、警視庁に戻る車の中で、鳳から送られてきたログを見ていた。
サーバールーム空調負荷。
非常階段扉。
清掃業者カード。
投稿時刻。
それらは、直接的な証拠ではない。
だが、線は引ける。
事件が動くたびに、ルーメンの建物も動いている。
真壁はハンドルを握る捜査員に言った。
「本部へ戻らない」
「え?」
「ルーメン本社へ向かう」
「ですが、管理官から戻るようにと」
「聞いている」
「では」
「戻らない」
捜査員は困惑した。
真壁は携帯を取り出し、二階堂へメッセージを送った。
――ルーメンへ行く。
すぐに返信。
――許可は?
――ない。
――だと思った。
――入口で止められる。裏へ回れ。
――鳳さんの黄色ルート。
真壁は、ほんの少しだけ笑いそうになった。
黄色ルート。
犯人が使いたくなる道。
真壁は捜査員に言った。
「裏の搬入口へ」
「本当に行くんですか」
「ああ」
「命令違反では」
「俺は道に迷った」
「無理があります」
「知っている」
捜査員は、しばらく黙ってから車を曲げた。
真壁は窓の外を見た。
夜の東京は、事件のことなど知らない顔で光っている。
だが、その光の中で、九条雅紀の名前だけが何度も点滅している。
大型ビジョン。
ニュースサイト。
スマートフォン。
SNS。
九条の顔。
江口の名前。
鳳の肩書き。
堀島の診療所。
二階堂の加工音声。
真壁の命令違反疑惑。
犯人は、死体を一つずつ置いているのではない。
名前を置いている。
九条の周囲にいる人間の名前を、共犯者として社会へ置いている。
真壁は拳を握った。
「名前を勝手に使うな」
呟きは、車内のエンジン音に消えた。
*
ルーメン・メディカル本社ビルの裏手には、搬入口があった。
昼間は配送トラックが出入りする場所だが、夜は静かだった。
警備員が一人。
監視カメラが二台。
カードリーダー付きの扉。
真壁が車を降りると、警備員がすぐに近づいてきた。
「関係者以外は——」
真壁は警察手帳を見せた。
「警視庁です。確認したいことがあります」
「令状は」
「任意の確認です」
「この時間は担当者が」
「担当者を呼んでください」
警備員は迷った。
真壁はその迷いを見た。
この男は何かを知っている。
少なくとも、今夜この場所に警察が来ることを想定していなかった顔ではない。
真壁は一歩近づいた。
「今夜、清掃業者のカードが使われていますね」
警備員の表情が変わった。
「それは」
「確認させてください」
「管理会社を通して」
「人が死にかけています」
その言葉で、警備員は黙った。
真壁は続けた。
「あなたが隠しているものが、ただの規則違反なら今言った方がいい。事件に関わるなら、もっと早く言った方がいい」
警備員の喉が動いた。
「……清掃業者は、今日は入っていません」
「記録では入っている」
「カードだけです」
「カードだけ?」
「先週、紛失したと聞いています」
真壁の目が細くなる。
「報告は」
「管理会社には」
「警察には」
「していません」
「なぜ」
警備員は視線を逸らした。
「上から、社内で処理すると」
「誰の指示だ」
警備員は答えない。
真壁はさらに詰めようとした。
その時、背後で捜査員が声を上げた。
「真壁さん!」
振り返る。
搬入口横の小さな扉が開いていた。
中から、白い煙が漏れている。
煙。
鳳の車の時と同じ。
視線を切るためのものか。
それとも、薬物か。
真壁は一瞬躊躇した。
その隙に、扉の奥から人影が出た。
黒い服。
帽子。
マスク。
実行犯。
真壁は走った。
「止まれ!」
男は搬入口ではなく、路地へ逃げた。
真壁が追う。
路地の先には、複数のビルの裏口が並んでいる。
どれも似たような扉。
どれも似たような監視カメラ。
鳳から着信。
真壁は走りながら出た。
『真壁さん、左ではなく直進です』
「見えてるのか」
『見えていません。ですが、左のビルは夜間施錠で逃げ道になりません。直進すれば、地下鉄連絡口の閉鎖シャッター脇に管理通路があります』
「了解」
『ただし』
「何だ」
『そこは、九条先生を誘い込むなら最適です』
真壁は足を止めかけた。
「どういう意味だ」
『狭く、カメラが少なく、血痕が残りやすい。犯人が九条先生の血を置くには良い場所です』
真壁は歯を食いしばった。
男は路地の奥へ消える。
追えば罠。
追わなければ逃げる。
また選択だ。
真壁は言った。
「鳳さん。別の出口は」
『あります。管理通路は地下鉄側と、隣接する商業ビルの廃棄物搬出口に繋がっています』
「なら、出口で押さえる」
『はい。その方が建物に勝てます』
「建物に勝つ?」
『犯人の選んだ道を、犯人より先に使うという意味です』
真壁は走る方向を変えた。
直進ではなく、右へ。
鳳が送った地図では、商業ビルの廃棄物搬出口へ回り込む道がある。
息が切れる。
それでも走る。
数十秒後、真壁は搬出口へ出た。
鉄扉が内側から開く。
黒い服の男が飛び出してきた。
真壁と目が合う。
男の目が初めて驚いた。
真壁は男の腕を掴んだ。
抵抗される。
男は小型のスプレー缶を取り出そうとする。
真壁は手首を捻り上げた。
スプレー缶が落ちる。
男を壁に押しつける。
「動くな」
男は荒い息を吐いている。
真壁はマスクを剥がした。
若い男だった。
二十代後半。
見覚えはない。
「名前は」
男は笑った。
「僕を捕まえても無駄です」
「名前を聞いている」
「清水さんは止められない」
真壁の目が鋭くなった。
「清水輝の指示か」
「指示?」
男は笑った。
「違いますよ。僕らは、正しい死因を社会に届けているだけです」
「僕ら?」
その時、男のスマートフォンが震えた。
真壁はそれを取り上げる。
画面に通知。
――実行班B、応答なし。
――拡散班、次フェーズへ。
――LUCID発表会、予定通り明日十時。
――九条雅紀が来なければ、こちらの勝ち。
真壁は画面を見つめた。
明日十時。
LUCID発表会。
男が笑った。
「間に合いませんよ」
「何に」
「世論に」
真壁は男をさらに壁に押しつけた。
「黙れ」
「もうみんな信じています。九条雅紀は犯人だ。あなたたちは共犯だ。清水さんは、透明な死因をもたらす人だ」
男の目は、狂信ではなかった。
もっと冷たかった。
事業を信じている目だ。
金と理念と成功が混ざった目。
「人間の鑑定なんて、もう古いんです」
男は言った。
「死因は、市場が決める時代です」
*
翌朝十時。
その言葉は、全員を黙らせた。
堀島の診療所で、二階堂から共有された実行犯の端末画面を見ながら、九条雅紀はしばらく動かなかった。
鳳は静かに画面を見つめている。
堀島は腕を組み、真壁からの報告を読み返している。
二階堂は電話越しに、ほとんど息を荒げていた。
『ルーメンが明日十時に《LUCID》の緊急説明会を開く。今、正式発表が出た』
端末にニュース速報が表示される。
『ルーメン・メディカル、明日十時に緊急説明会』
『相次ぐ事件を受け「死因究明の透明性」訴えへ』
『清水輝代表が登壇予定』
続けて、清水輝のコメント。
『人間の鑑定には限界があります。』
『感情、経験、属人的判断に左右されない、透明で検証可能な死因推定が必要です。』
『いまこそ、社会全体で死因究明の未来を議論すべき時です。』
九条は画面を見ていた。
山田美月が死んだ。
伊藤蓮が殺されかけた。
本郷准教授が倒れた。
佐々木彩夏が襲われた。
江口の学校が晒された。
鳳の車に罠が仕掛けられた。
堀島の立場も危うい。
真壁は命令違反。
二階堂の言葉は加工された。
そして清水輝は、そのすべてを踏み台にして、明日、商品を語る。
死因の未来を語る。
九条は低く言った。
「宣伝だな」
二階堂が電話越しに答える。
『ああ。最悪のタイミングで、最高の宣伝だ』
堀島が言った。
「警察は止められないんですか」
二階堂は苦々しい声で答えた。
『止める理由がない。表向きは企業の説明会だ。清水を任意で引っ張るにも、今の証拠では弱い。実行犯の供述も、清水の直接指示までは届いていない』
真壁の声が電話に割り込んだ。
『だが、清水は来る』
鳳が静かに言った。
「犯人が、最も人の目が多い場所を選んだ」
「なぜですか」
堀島が尋ねる。
鳳は答えた。
「そこが、一番安全だからです」
九条は頷いた。
「カメラの前では、誰も清水を殺せない。誰も清水を殴れない。誰も清水の言葉を遮れない。彼は、被害者の死を社会問題に変える。その場で《LUCID》の必要性を語る」
二階堂が言った。
『そして、九条が出てこなければ、清水の勝ちだ』
堀島の顔色が変わった。
「まさか」
九条は言った。
「行く」
「駄目です」
堀島は即答した。
「先生、駄目です。腕を縫ったばかりです。指名手配中です。会見場なんて警察も報道もいる。行けばその場で逮捕されます」
「うん」
「うんじゃない!」
堀島の声が初めて荒れた。
「あなたは、自分を何だと思ってるんですか」
「法医学者」
「患者です!」
処置室に沈黙が落ちた。
堀島は肩で息をしていた。
「先生。あなたが死んだら、誰が山田先生の死体を読むんですか。誰が伊藤さんや本郷先生や佐々木さんの証言を繋ぐんですか。誰が清水を止めるんですか」
九条は静かに答えた。穏やかに。
「――だから、行くんだよ」
堀島は言葉を失った。
鳳が画面から目を上げた。
「会場はルーメン本社のカンファレンスホールです。出入口は三つ。正面、報道受付、搬入口。壇上に立つには、正面から入る必要はありません」
二階堂が電話越しに言った。
『鳳さん、設計するな』
「もうしています」
『知ってた』
真壁の声。
『九条。出れば逮捕する』
「うん」
『それでも来るのか』
「うん」
『なら、俺が逮捕する』
「お願いします」
真壁は黙った。
二階堂が低く言った。
『九条。これは自首じゃない。会見への乱入でもない。お前がカメラの前に出れば、犯人はお前を最後に完成させるぞ』
「そうだな」
『本当に分かってるのか』
「ああ」
九条は画面の清水輝のコメントを見た。
人間の鑑定には限界があります。
その言葉は正しい。
人間は間違える。
法医学者も間違える。
刑事も、広報も、教師も、建築学者も、医師も、記者も、社会も。
だが、間違えるからこそ疑う。
機械のように結論へ進むのではなく、何度でも戻る。
死体へ戻る。
記録へ戻る。
言葉へ戻る。
人間へ戻る。
九条は立ち上がった。
左腕が痛む。
胸が苦しい。
だが、意識は明瞭だった。
「清水輝は、死因を推定していない」
九条は言った。
「死因を選んでいる」
その言葉に、誰も反論しなかった。
九条は続けた。
「なら、明日の会見で、選ばせる」
堀島が尋ねた。
「何を」
「自分の死因を」
全員が九条を見た。
九条は静かに言った。
「清水輝が作った物語の死因か。山田美月が残した事実の死因か」
二階堂が電話越しに低く笑った。
『最悪だな』
「うん」
『でも、逆襲には最高の見せ場だ』
堀島が眉をひそめた。
「二階堂さん?」
『なんでもない』
鳳が穏やかに言った。
「では、逃げ道ではなく、登場する道を読みましょう」
真壁が短く言う。
『俺は、逮捕する準備をする』
二階堂が続ける。
『俺は、会見を止めない準備をする』
堀島は深いため息をついた。
「僕は、縫い直す準備をします」
九条は堀島を見た。
「できれば縫い直しは避けたい」
「なら動かないでください」
「難しいかも」
「でしょうね」
堀島は諦めたように言った。
九条は、端末に映る自分の指名手配写真を見た。
その顔は、もう自分のものではなかった。
ニュースの見出しになり、匿名投稿の素材になり、報道番組のフリップになり、犯人の物語の主人公にされている。
なら、自分で取り戻すしかない。
名前をではない。
顔をではない。
物語をでもない。
死因を。
九条雅紀は、静かに言った。
「明日、記者会見に出ます」
その夜、九条雅紀の目撃情報は全国でさらに増え続けた。
新宿。
渋谷。
品川。
名古屋。
京都。
存在しない駅。
閉店した店。
十年前の写真。
誰もが九条を見たと言った。
だが、本物の九条雅紀がどこにいるのかを知っている者は、ほんの数人だけだった。
そして翌朝十時。
全国のカメラが、ルーメン・メディカルの会見場へ向けられることになる。




