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指名手配犯 九条雅紀  作者: 二条理|アコンプリス


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8/11

第八章 真壁彰は、嘘をつく

 嘘には、種類がある。

 事実ではないことを言う嘘。

 事実の一部だけを言う嘘。

 聞かれなかったことに答えない嘘。

 本当のことを言いながら、相手に別の意味で受け取らせる嘘。

 真壁彰は、そのどれも得意ではなかった。

 犯人の嘘を見抜くことはできる。

 証言のずれを拾うこともできる。

 現場の順番から、不自然な沈黙を嗅ぎ取ることもできる。

 だが、自分が嘘をつく側に回った時、真壁は途端に不器用になる。

 言葉が喉の奥で引っかかる。

 視線が逸らせない。

 余計な沈黙が生まれる。

 その沈黙の重さで、相手に悟られる。

 二階堂壮也は、そんな真壁に言った。

「嘘をつくな」

 警視庁本部の地下駐車場。

 真壁が佐々木彩夏のいる会員制ラウンジへ向かう直前だった。

 壁際に立つ二階堂は、スマートフォンを片手に、いつもの薄い笑みを浮かべていなかった。

 真壁は言った。

「お前が言うな」

「俺は嘘をつけと言ってない」

「では何だ」

「言わないことを決めろ」

 真壁は眉をひそめた。

「同じだろ」

「全然違う。嘘は折れる。沈黙は曲がる」

「詭弁だ」

「詭弁で人が助かることもある」

 二階堂は真壁を見た。

「上に聞かれたら、九条を信じているとは言うな」

「信じている」

「知ってる。だから言うな」

 真壁は黙った。

 二階堂は続けた。

「“証拠の揃い方を疑っている”と言え。“九条が無実だと思う”じゃない。“証拠が不自然だ”だ。それなら刑事の言葉になる」

「俺は刑事だ」

「だから刑事の言葉で戦え。友人の言葉で戦うな」

「友人ではない」

 二階堂は一瞬、真壁を見た。

「じゃあ、何だ」

 真壁は答えられなかった。

 九条雅紀は友人ではない。

 少なくとも、真壁はそういう言葉で人間関係を整理したことがない。

 事件現場で会う。

 死体の前で話す。

 時に苛立ち、時に助けられ、時に理解しがたいことを言われる。

 そういう男だった。

 だが、九条が犯人ではないと真壁は思っている。

 理由は情ではない。

 証拠が変だからだ。

 そう言い聞かせるたび、真壁は自分の中の別の声を聞いた。

 本当にそれだけか。

 二階堂は言った。

「上は、お前を切る準備をしてる」

「分かっている」

「分かってない。真壁、お前は自分が処分されることには鈍い。九条と同じで、自分の傷を軽く見る」

「俺は九条ほど面倒ではない」

「同じ方向に面倒だ」

 真壁はため息をついた。

「佐々木彩夏を止める」

「止めろ。だが、九条の名前を出すな」

「なぜ」

「犯人が見てる。お前が九条のために動いたと分かれば、次に使われるのはお前だ」

「すでに使われている」

「なら、これ以上便利にされるな」

 二階堂はスマートフォンを真壁に渡した。

 画面には、鳳が作ったラウンジ周辺の動線図が表示されていた。

 会員制ラウンジ。

 ルーメン・メディカル本社。

 地下搬入口。

 業務用エレベーター。

 避難階段。

 隣接ビルへの連絡通路。

 赤線、青線、黄色線。

「赤が佐々木のいる可能性が高い個室までの最短経路。青が清水側が使うなら自然な動線。黄色が逃走路」

「鳳さんは」

「別ルートで監視してる。建物の外からな。中には入れさせない」

「お前は」

「俺は会見の準備」

 真壁は顔を上げた。

「会見?」

「九条について、警察としてコメントを出す」

「今か」

「今だからだ。佐々木の記事が出る前に、こちらが言葉を置く」

「何を言うつもりだ」

 二階堂は一瞬だけ黙った。

 その沈黙で、真壁は嫌な予感を覚えた。

「二階堂」

「九条雅紀容疑者の身柄確保に全力を尽くします」

 真壁の眉が動いた。

「お前」

「分かってる」

「それを言えば、九条を切ったように聞こえる」

「そう聞かせる」

「江口が怒るぞ」

「もう怒ってる」

「九条は」

「九条はたぶん、合理的だと言う」

「腹が立つな」

「同感だ」

 二階堂は真壁の目を見た。

「犯人に思わせる。警察は九条を切った。真壁も動けない。二階堂も世論に乗った。江口は学校の件で燃える。鳳は車の件で足止め。堀島は医師だから外へ出られない。九条は孤立した」

「そう見せて、どうする」

「犯人は次の死体を作る。佐々木彩夏だ」

「止める」

「止められれば一番いい。だが、もし間に合わなかったら」

 二階堂の声が低くなった。

「犯人は必ず、九条の犯行に見える絵を作る。その絵を、俺たちが先に疑う」

 真壁は、スマートフォンを握った。

「分かった」

「真壁」

「何だ」

「嘘をつくな。沈黙しろ」

「それは得意じゃない」

「だろうな」

 二階堂は、少しだけ笑った。

「でも、お前は黙っている時が一番怖い」

     *

 午後九時十三分。

 会員制ラウンジのある高層ビルは、夜景の一部として静かに立っていた。

 ガラス張りの外観。

 上層階に灯る柔らかな光。

 入口には控えめな看板と、黒いスーツの受付係。

 事件が起きるには、整いすぎている場所だった。

 だからこそ、真壁は嫌な予感がした。

 派手な場所ほど、裏は静かだ。

 彼は正面入口を避けた。

 鳳の送った図面通り、ビル裏手の搬入口へ回る。

 搬入口では、ケータリング業者のトラックが一台停まっていた。

 業務用エレベーター前には、スタッフが二人。

 真壁は警察手帳を見せた。

「警視庁です。上階のラウンジで確認したいことがあります」

 スタッフの顔が硬くなる。

「何かあったんですか」

「まだ確認中です。騒ぎにしたくない」

 それは嘘ではない。

 騒ぎになれば、佐々木彩夏が危険になる。

 あるいは、もう危険になっている。

 スタッフは管理室へ連絡を入れた。

 真壁は待ちながら、周囲を見た。

 搬入口。

 ゴミ置き場。

 監視カメラ。

 カードリーダー。

 業務用エレベーターの階数表示。

 鳳からメッセージ。

――業務用エレベーターは四十一階まで直通可能です。

――ただし、三十八階で一度停止する記録があります。

――三十八階は空きテナント。

――犯人が乗り換えるならそこです。

 真壁は返信した。

――了解。

 すぐに鳳から次。

――真壁さん。

――もし四十一階で佐々木さんが倒れていた場合、犯人はすでに三十八階経由で下りている可能性があります。

――死体を見る人と、犯人を追う人を分ける必要があります。

 真壁は短く息を吐いた。

 分ける必要。

 だが、ここにいる刑事は自分一人だ。

 二階堂は会見。

 鳳は外。

 九条は診療所。

 堀島もそこにいる。

 なら、選ぶしかない。

 佐々木を救うか。

 犯人を追うか。

 その選択が出る時点で、すでに犯人の設計した建物の中にいる気がした。

 管理室から許可が出た。

 真壁は業務用エレベーターに乗った。

 四十一階のボタンを押す。

 扉が閉まる直前、携帯が震えた。

 二階堂から。

――会見始める。

 真壁は返信しなかった。

 エレベーターが上昇する。

 十階。

 二十階。

 三十階。

 三十八階で、エレベーターが止まった。

 真壁は身構えた。

 扉が開く。

 暗いフロア。

 照明は非常灯だけ。

 空きテナントのはずだった。

 だが、床に何かが落ちていた。

 黒い手袋。

 真壁は一瞬迷った。

 降りるか。

 四十一階へ行くか。

 その時、携帯に鳳からメッセージ。

――降りないでください。

――手袋は見せるためのものです。

――佐々木さんを優先。

 真壁は扉が閉まるのを待った。

 四十一階。

 扉が開く。

 ラウンジのバックヤードだった。

 薄い照明。

 カーペット。

 壁に飾られた抽象画。

 静かな音楽。

 場違いなほど上品な空間だった。

 奥の個室へ向かう。

 廊下に、人の気配はない。

 真壁は扉の前で立ち止まった。

 中から音はしない。

 ノックする。

「佐々木さん。警視庁です」

 返事はない。

 真壁はドアノブを回した。

 開いていた。

 個室の中は、整っていた。

 テーブル。

 白ワイン。

 ノートPC。

 椅子。

 床に落ちたスマートフォン。

 そして、佐々木彩夏が倒れていた。

 白いブラウスの右胸に、赤い染み。

 床には血が点々と落ちている。

 首筋に赤い点。

 唇はわずかに青い。

 真壁はすぐに駆け寄った。

「佐々木さん」

 呼吸。

 浅い。

 だが、ある。

 首の脈。

 弱いが、触れる。

「救急要請。四十一階、会員制ラウンジ個室。女性一名、意識不明、呼吸抑制疑い」

 真壁は無線ではなく携帯で要請した。

 正式ルートに乗せれば、遅れる可能性がある。

 それが正しいかどうかは後で考える。

 佐々木の首筋を確認する。

 注射痕。

 九条の言っていた通りだ。

 右胸の血は、見た目ほど深くない。

 傷口は布の上から作られている。

 血は滲んでいるが、失血死に至る量ではない。

 死因は右胸部刺創ではない。

 まだ死んではいないが、もし死ぬなら薬物による呼吸抑制。

 真壁は歯を食いしばった。

 九条がここにいなくても、分かる。

 見ろ。

 順番を見ろ。

 右胸に騙されるな。

 真壁は佐々木の気道を確保し、呼吸を確認した。

 その時、ノートPCの画面が点いた。

 自動復帰。

 公開前の記事が表示されている。

【法医学者Kの素顔】“右に心臓がある男”の孤独と異常性

 公開まで、一時間四十二分。

 画面の端に、別ウィンドウが開いていた。

 動画ファイル。

 真壁は触れなかった。

 証拠だ。

 だが、内容を確認しなければならない。

 手袋を装着し、最低限の操作で再生する。

 映像が流れた。

 個室に入ってくる清水輝。

 向かい合う佐々木。

 会話の音声はない。

 少しして、背後から黒い服の男が現れる。

 佐々木の口元に布を当てる。

 佐々木が崩れる。

 清水が何かを言う。

 音声はない。

 映像はそこで切れていた。

 真壁は息を止めた。

 清水が映っている。

 だが、映像は本物か。

 加工か。

 犯人がわざと残したのか。

 分からない。

 分からないが、動いた。

 真壁は鳳へメッセージを送る。

――清水が映った動画あり。

――佐々木は生存。

――薬物疑い。

――右胸は偽装。

 すぐに返信。

――三十八階へ戻ってください。

――犯人は清水を見せています。

――見せたなら、逃げ道は別にあります。

 真壁は顔を上げた。

 見せたなら。

 そうだ。

 犯人は、証拠を隠すだけではない。

 見せたい証拠を置く。

 九条を見せる。

 江口を見せる。

 鳳を見せる。

 清水さえ見せる。

 なら、この清水の映像も罠かもしれない。

 真壁は佐々木の脈をもう一度確認した。

 まだある。

 救急隊の到着まで数分。

 その数分で、犯人は逃げる。

 真壁は立ち上がった。

 廊下に出る。

 エレベーターへ向かう。

 その時、背後で佐々木のスマートフォンが震えた。

 画面に通知。

――記事が公開予約されました。

 真壁は足を止めた。

 公開予定時刻が変わっている。

 二十三時ではない。

 今から三分後。

 真壁はスマートフォンを手に取り、画面を確認する。

 予約公開。

 記事タイトル。

【独自】九条雅紀容疑者、逃亡中に女性編集者を襲撃か 現場に本人の血痕

 真壁の背筋が冷えた。

 記事内容が差し替えられている。

 佐々木が書いていた九条の私生活記事ではない。

 佐々木自身が襲われたことを、九条の犯行として報じる記事に変わっている。

 しかも、本人のアカウントから。

 佐々木が死ねば、死者の最後の記事になる。

 佐々木が生きても、意識不明ならすぐには否定できない。

 真壁は二階堂へ電話した。

『会見中だ』

「止めろ」

『無理だ。何が起きた』

「三分後に記事が出る。佐々木が九条に襲われたという内容だ。現場に九条の血痕とある」

『佐々木は』

「生きてる」

 電話の向こうで、一瞬だけ空気が変わった。

『生きてるんだな』

「ああ」

『なら、記事が出る前にそれを言う』

「会見でか」

『そうだ』

「佐々木の名前は」

『出さない。だが、“次の被害者とされる人物は現在救命措置中”とは言える』

「九条については」

 二階堂は短く答えた。

『追い詰める』

「二階堂」

『分かってる。俺を信じろとは言わない。言葉を信じろ』

 通話が切れた。

 真壁はエレベーターへ走った。

     *

 警視庁の記者会見室には、異様な熱気があった。

 九条雅紀の指名手配。

 江口の勤務校での騒動。

 本郷教授の搬送。

 鳳の車の煙幕騒ぎ。

 そして、次の事件が起きたという未確認情報。

 記者たちは、獲物を前にした群れのようにざわめいていた。

 二階堂壮也は、会見台の前に立った。

 フラッシュが光る。

「九条雅紀容疑者の現在の所在は」

「学校内に潜伏していたという情報は事実ですか」

「教師が匿っていたのですか」

「本郷教授を襲撃したのは九条容疑者ですか」

「次の被害者が出たという情報がありますが」

 二階堂はマイクの前で、一度だけ資料に目を落とした。

 そこには、事前に用意した発表文がある。

『九条雅紀容疑者の身柄確保に全力を尽くします。』

 その文は、九条を切る言葉だ。

 同時に、犯人を油断させる言葉でもある。

 二階堂は顔を上げた。

「まず、京東大学医学部法医学教室における山田美月さん死亡事件に関連し、九条雅紀容疑者の所在確認を進めております。警視庁としては、九条容疑者の身柄確保に全力を尽くします」

 記者たちのペンが動く。

 カメラの赤いランプが光る。

 二階堂は続けた。

「ただし、現在ネット上に流れている目撃情報、犯行情報には、未確認のものが多数含まれています。個人による追跡、撮影、接触は、関係者および周囲の方々に危険を及ぼす可能性があります。絶対におやめください」

 記者が叫ぶ。

「九条容疑者が次の事件を起こしたという情報は?」

 二階堂は、一拍置いた。

 ここから先は、用意された文ではない。

「現在、都内で一名が救急搬送される事案が発生しています」

 会見室がどよめいた。

「九条容疑者の犯行ですか」

「個別の捜査状況については回答を差し控えます」

「否定しない?」

 二階堂はその記者を見た。

「現段階で、九条容疑者の犯行と断定できる事実はありません」

 ざわめきが大きくなる。

「しかし、九条容疑者は逃走中ですよね」

「九条容疑者の身柄確保を急いでいます」

「では危険人物という認識で?」

 二階堂は、ほんのわずかに息を吸った。

「逃走中の重要人物であり、身柄確保が必要な人物です」

「危険人物では?」

「言葉を重ねないでください」

 会場が一瞬静まった。

 二階堂の目は冷えていた。

「警察が使う言葉は、現実を作ります。現時点で断定できないことを、断定したように表現することはできません」

 別の記者が声を上げた。

「九条容疑者を庇っているのですか」

「庇っていません」

「ではなぜ慎重な言い方を?」

「犯人を間違えると、次の犯人を逃がすからです」

 会見室が沈黙した。

 その沈黙を、二階堂は利用した。

「繰り返します。九条雅紀容疑者の身柄確保に全力を尽くします。同時に、警視庁は、事件を九条容疑者単独の犯行と決めつけることなく、複数の可能性を視野に捜査しています」

 この一文は、危険だった。

 上層部は嫌がる。

 記者は食いつく。

 犯人は苛立つ。

 だが、それでいい。

 犯人に、警察が完全には九条を切っていないと知らせる。

 同時に、世間には“まだ断定ではない”という釘を刺す。

 矛盾する二つの効果を、一つの文章に入れる。

 二階堂の仕事だった。

 その時、会見室の後方で記者の一人が声を上げた。

「記事が出ました!」

 全員がスマートフォンを見る。

 公開された記事。

【独自】九条雅紀容疑者、逃亡中に女性編集者を襲撃か 現場に本人の血痕

 会見室が爆発したように騒がしくなる。

「この記事について!」

「現場に血痕というのは事実ですか!」

「女性編集者は死亡したんですか!」

 二階堂は、画面を見た。

 記事は出た。

 だが、真壁の連絡のおかげで、二階堂は一つだけ先に言葉を置けた。

 現在、救急搬送される事案が発生している。

 九条の犯行と断定できる事実はない。

 記事の勢いを完全には止められない。

 だが、最初の一撃だけはずらした。

 二階堂はマイクに向かって言った。

「その記事の内容について、現段階で警視庁が確認した事実とは異なる部分があります」

 記者たちが一斉に顔を上げる。

「どこが異なるんですか」

「回答は差し控えます」

「それでは分かりません」

「分からないことを、分かったように書かないでください」

 二階堂の声は静かだった。

 だが、その場にいる誰もが、彼が怒っていることを感じた。

     *

 三十八階の空きテナントは、暗かった。

 真壁は業務用エレベーターを降り、懐中電灯を点ける。

 床に落ちていた黒い手袋は、まだそこにあった。

 見せるためのもの。

 鳳の言葉を思い出す。

 真壁は手袋には触れず、周囲を照らした。

 空きフロア。

 柱。

 剥き出しの配線。

 養生シート。

 奥に非常階段。

 そして、床に残る薄い靴跡。

 靴跡は、非常階段へ向かっている。

 真壁は追った。

 非常階段の扉を開ける。

 下へ続く階段。

 上へ続く階段。

 どちらだ。

 携帯が震えた。

 鳳から。

――下ではありません。

――犯人は逃げるためではなく、移動するために三十八階を使っています。

――上へ。

――屋上設備階に出るはずです。

 真壁は階段を上がった。

 四十二階。

 四十三階。

 設備階。

 息が上がる。

 扉を開ける。

 機械室の音が響いていた。

 空調設備。

 配管。

 金属の足場。

 暗い隙間。

 その奥に、人影があった。

 黒い服の男。

 真壁は叫んだ。

「止まれ!」

 男が振り向く。

 顔はマスクと帽子で隠れている。

 手には、小さな保冷ケース。

 真壁は瞬時に理解した。

 血だ。

 九条の血を持っている。

「それを置け」

 男は答えない。

 代わりに、保冷ケースを足元に置いた。

 真壁は銃を抜かなかった。

 相手が武器を持っているか分からない。

 それ以上に、ここで発砲すれば、また別の物語にされる。

 警察が逃亡犯の協力者を射殺。

 警察が証拠隠滅。

 いくらでも見出しになる。

 男がゆっくりと後退する。

 背後には設備用のはしご。

 真壁は一歩ずつ近づいた。

「清水の指示か」

 男は黙っている。

「山田美月を殺したのはお前か」

 沈黙。

「伊藤蓮、本郷、佐々木彩夏。全部お前が実行したのか」

 男は、初めて笑った。

 マスクの奥で、目だけが細くなる。

「刑事さん」

 若い声だった。

「実行犯を捕まえれば、事件が終わると思いますか」

「終わらせる」

「無理ですよ」

 男は言った。

「もう死因は配信されています」

 次の瞬間、男は保冷ケースを蹴った。

 ケースが真壁の足元へ滑ってくる。

 真壁の視線が一瞬だけ落ちる。

 その隙に、男ははしごへ飛びついた。

 真壁は追った。

 だが、男は上部の点検口から屋上へ抜ける。

 真壁も続こうとした瞬間、足元の保冷ケースから電子音が鳴った。

 ピッ。

 真壁は動きを止めた。

 爆発物か。

 発信機か。

 煙幕か。

 分からない。

 分からないものを抱えて追うわけにはいかない。

 真壁は歯を食いしばった。

 また逃がすのか。

 その時、携帯が震えた。

 二階堂から。

――追うな。

――それが本命だ。

――ケースを確保しろ。

 真壁は画面を睨んだ。

 どうして分かる。

 だが、二階堂の言葉に従った。

 保冷ケースを慎重に確認する。

 電子音は、内部の温度管理装置だった。

 爆発物ではない。

 ケースの中には、小さな採血管が三本入っていた。

 ラベルはない。

 だが、真壁には分かった。

 九条雅紀の血。

 犯人は、それを使って現場を作っている。

 真壁は保冷ケースを証拠袋に入れた。

 その時、屋上の方から扉の閉まる音がした。

 男は逃げた。

 真壁は追わなかった。

 追えなかったのではない。

 追わないことを選んだ。

 嘘ではない。

 言わないことを決めるのと同じように、追わないことを決めた。

     *

 堀島の診療所で、九条はニュースを見ていた。

 テレビは音量を絞ってある。

 だが、テロップは読める。

『九条雅紀容疑者、女性編集者襲撃か 現場に血痕』

『警視庁「断定できる事実なし」』

 九条は画面を見つめた。

 自分の名前が、また別の事件に貼られている。

 山田美月。

 伊藤蓮。

 本郷准教授。

 佐々木彩夏。

 人の名前が並び、その隣に九条雅紀が置かれる。

 事件は、九条を中心に回っているように見える。

 だが本当は違う。

 九条は中心ではない。

 中心に見えるよう配置されているだけだ。

 堀島が新しいガーゼを用意しながら言った。

「先生、テレビ消しましょうか」

「いや」

「見ていると血圧が上がります」

「測る?」

「そういう返しをしない」

 九条は画面から目を離さなかった。

「佐々木さんは」

「二階堂さんから、生存と」

「なら良かった」

「良かった、で済む顔ではありません」

 堀島は九条の左腕を確認した。

「また出血しています」

「申し訳ない」

「謝罪では止血できません」

 九条は黙った。

 携帯が震えた。

 真壁から。

――佐々木は生存。

――右胸は偽装。薬物疑い。

――九条の血と思われる採血管を確保。

――実行犯は逃走。

――清水が映る動画あり。ただし罠の可能性。

 九条はその文面を読み、息を吐いた。

「真壁が、私の血を見つけた」

 堀島が顔を上げる。

「採血されたんですか?」

「たぶん、学校で負傷した際、どこかで回収されたか、以前から保存されていたものだろう」

 九条は携帯を見た。

 真壁の文面には、余計な感情がない。

 だが、その短い文章の一つ一つに、真壁が何を見て、何を疑い、何を追わずに残したのかが分かる。

 真壁は、佐々木を救った。

 犯人を逃がした。

 九条の血を確保した。

 清水の映像を疑った。

 正しい順番だった。

 九条は返信した。

――ありがとう。

――清水が映る動画は、彼を真犯人として見せるための可能性がある。

――ただし、清水が無関係とは考えにくい。

――映っている清水が本物か、時刻情報を確認してほしい。

 送信。

 すぐに二階堂から別のメッセージが届いた。

――江口が怒ってる。

――「九条先生を切ったような会見をした」と。

――あとで謝れ。

 九条は画面を見て、少し考えた。

――俺が謝るのか。

 返信は早かった。

――俺も謝る。

――お前も謝れ。

――江口は面倒だが正しい。

 九条は、ほんのわずかに口元を緩めた。

「笑いました?」

 堀島が言う。

「ん?」

「今、少し笑いました」

「そんなことないよ」

「医者の観察眼を舐めないでください」

 その時、テレビの速報音が鳴った。

 二人は同時に画面を見る。

【速報】九条容疑者、過去にも不審死に関与か ネットニュース編集者が調査中だった資料に複数の死亡事案

 九条の表情が消えた。

 堀島がリモコンを手に取った。

「消します」

「待って」

 画面に、佐々木彩夏の記事の一部が表示されている。

 そこには、過去の死亡事案のリストがあった。

 過労死疑い。

 転落死。

 自殺処理。

 急性心不全。

 医療ミス疑い。

 どれも《LUCID》の例外ケースにあったものと一致している。

 だが、記事の見出しはこうだった。

『九条雅紀は、なぜ“死因が揺れる事件”に現れるのか』

 九条は低く言った。

「違う」

「何がですか」

「私が現れた事件ではない」

 画面の中で、コメンテーターが深刻そうに話している。

『九条容疑者が過去に関わった複数の死亡事案についても、今後検証が必要でしょう。』

 九条は、端末を握った。

「《LUCID》が関わった事件だ」

 堀島は画面を見た。

「それを、九条先生が関わった事件にすり替えている」

「うん」

 九条は立ち上がった。

 堀島がすぐに止める。

「どこへ」

「行かないよ」

「本当に?」

「うん」

 九条は端末を操作した。

「二階堂に伝える。次は、報道そのものが犯人の共犯者になる」

     *

 警視庁本部。

 二階堂壮也は、会見後の控室でスマートフォンを見ていた。

 九条からのメッセージ。

――次は、報道そのものが犯人の共犯者になる。

 二階堂は、深く息を吐いた。

「もうなってるよ」

 机の上には、各社の速報記事が並んでいる。

『九条容疑者、過去の不審死にも関与か』

『“右に心臓がある男”の異常な執着』

『法医学者が死因を操った可能性』

『逃亡を助けた人物は誰か 教師、建築学者、医師……広がる協力者の輪』

 二階堂は最後の記事で手を止めた。

 協力者の輪。

 そうではない。

 犯人が、協力者に見えるよう並べている。

 江口。

 鳳。

 堀島。

 真壁。

 自分。

 全員が、九条の逃亡を助ける共犯者として語られ始めている。

 その時、差出人不明のメッセージが届いた。

――次は、あなたの番です。

 二階堂は画面を見つめた。

 続けて、もう一通。

――報道は、あなたより上手に嘘をつく。

 添付ファイルが一つ。

 音声データ。

 再生する。

 それは、二階堂の声だった。

『九条雅紀容疑者の身柄確保に全力を尽くします。』

 会見の音声。

 続けて、別の声が重なる。

 切り貼りされた音声。

『九条雅紀容疑者は、危険人物です。』

『協力者も捜査対象です。』

『江口桜次郎、鳳恭介、堀島岳斗——。』

 二階堂は再生を止めた。

 作られている。

 今度は、自分の言葉が材料にされている。

 数秒後、その加工音声が匿名アカウントに投稿された。

【音声流出】警視庁広報、九条容疑者の協力者を名指しか

 二階堂は目を閉じた。

 来た。

 犯人は、死体だけでなく、言葉も偽装する。

 なら、次の戦場は決まった。

 報道だ。

 彼は真壁にメッセージを送った。

――次章、地獄。

――俺の言葉が殺される。

 送ってから、二階堂は苦笑した。

 小説の章題みたいだな、と思った。

 しかし、現実は笑えなかった。

 加工音声は、すでに一万回再生を超えていた。


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