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指名手配犯 九条雅紀  作者: 二条理|アコンプリス


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7/11

第七章 堀島岳斗は、縫合する

 傷口を縫う作業は、嘘を閉じる作業に似ている。

 開いた皮膚の両端を合わせ、ずれた組織を元の位置へ戻し、一本ずつ糸を通す。

 急ぎすぎれば、傷は歪む。

 雑に結べば、後で開く。

 表面だけを綺麗に合わせても、奥に血腫や異物が残っていれば、傷は必ず膿む。

 事件も同じだ。

 人は、見えている裂け目だけを塞ぎたがる。

 犯人を一人決め、動機を一つ置き、ニュースにしやすい形へ整える。

 それで社会は安心する。

 だが、奥に残った異物は消えない。

 死因も、記録も、報道も、縫い方を間違えれば後から必ず開く。

 堀島岳斗は、そういう傷を何度も見てきた。

 だがその夜、彼が縫うことになったのは、ただの外傷ではなかった。

 全国指名手配中の法医学者の左腕だった。

     *

 鳳恭介の車は、路地の奥に停まっていた。

 黒いセダン。

 目立たない。

 しかし、九条雅紀にはその車が死体のように見えた。

 動かないもの。

 外からは静かに見えるもの。

 だが、内側に何かを隠しているもの。

 九条は携帯を耳に当てたまま言った。

「鳳先生。車から離れてください」

 数秒の沈黙。

 電話の向こうで、鳳恭介が答えた。

『理由を聞いても?』

「車の下に黒い箱状の物体が見えます」

『見えます?』

「画像が送られてきました」

『なるほど』

 鳳の声は穏やかだった。

 あまりにも穏やかで、九条は逆に不安になった。

「すぐに離れてください」

『爆発物とは限りません』

「限らなくても、離れるべきです」

『九条先生がそう言うなら、そうします』

 その直後、車の運転席側のドアが開いた。

 鳳恭介が姿を現す。

 いつもと変わらない柔和な顔。

 細身のコート。

 周囲を驚かせない程度の歩幅。

 彼は車から三メートルほど離れ、そこで立ち止まった。

 九条は舞台装置の台車の陰から、その様子を見ていた。

 学校の裏通用門付近は混乱していた。

 報道陣は正門側に集まっているが、野次馬と警察車両が周囲を固め始めている。誰もがスマートフォンを手にし、誰もが自分だけは真実を撮れると思っている顔をしていた。

 台車を押していた若い男が、小声で言った。

「九条先生、どうしますか」

「降ります」

「でも、警察が」

「このままでは鳳さんが危険です」

 九条は台車から降りた。

 左前腕に巻いた包帯は、すでに赤く滲んでいる。

 動くたびに鋭い痛みが走る。

 出血量から見て、動脈性ではない。だが、腱や神経の損傷がないとは言い切れない。

 法医学者の手。

 死体を開き、傷を読み、記録を書く手。

 その手が、思うように動かない。

 九条はその事実を、他人の所見のように頭の隅へ置いた。

 今は鳳の車だ。

 鳳は車から離れた位置で、携帯を耳に当てたまま周囲を見ている。

『九条先生。画像を転送してください』

「今送ります」

 九条は差出人不明のメッセージに添付されていた画像を鳳へ送った。

 鳳はそれを見たらしく、少しだけ視線を下げた。

『これは、爆発物というより発信機に見えます』

「発信機?」

『車体底部に固定されています。形状からすれば、簡易なGPSトラッカーか、電波発信装置でしょう。ただし、遠隔起爆装置の可能性も排除できません』

「離れたままで」

『はい』

 鳳は素直に答えた。

 その声が、少しだけ違った。

 怖い、という言葉を先ほど二階堂に言わされた時よりも、さらに薄い緊張が混じっている。

 九条は言った。

「鳳先生」

『はい』

「あなたを狙っている可能性があります」

『そうでしょうね』

「なぜ平静なんですか」

『平静ではありません。今、非常に困っています』

「そうは聞こえません」

『よく言われます』

 九条は鳳の背後を見た。

 路地の入口。

 塀の影。

 停車中の配送車。

 文化祭の荷物を積んだ軽トラック。

 逃げ道が多すぎる。

 多すぎる逃げ道は、罠でもある。

 携帯に二階堂から着信が入った。

 鳳との通話を切らず、別端末で受ける。

『九条、状況』

「鳳先生の車に発信機か爆発物の可能性。鳳先生は離れた」

『警察が向かってる。お前はその場を離れろ』

「鳳先生を置いて?」

『鳳さんは自分で逃げ道を読む。お前は血を垂らしながら立ってる。優先順位を間違えるな』

「血痕が残る」

『そこじゃねえ』

 二階堂の声が荒くなった。

『堀島先生に繋いだ。場所を送る。鳳先生もそこへ回す。お前の腕、縫わないと使えなくなるぞ』

 九条は左手を見た。

 指は動く。

 だが、薬指と小指にわずかな痺れがある。

「尺骨神経領域に違和感がある」

『そういう報告は医者にしろ』

「医者だ」

『患者になれ』

 通話が切れた。

 九条の携帯に位置情報が届く。

 小さな診療所。

 表向きには夜間休診中。

 そこに堀島岳斗がいるのか。

 九条は鳳へ視線を向けた。

 鳳は車から離れたまま、周囲の建物を見ていた。

 九条には分かった。

 鳳は車を見ていない。

 車の周囲の逃げ道を見ている。

 犯人がどこから発信機を取り付けたか。

 どこから撮影したか。

 どこへ逃げたか。

 その時、車のヘッドライトが一瞬だけ点滅した。

 誰も触れていない。

 鳳が顔を上げる。

 次の瞬間、車内から警告音のような電子音が鳴った。

 ピッ、ピッ、ピッ。

 周囲の野次馬がざわめいた。

「何?」

「爆弾?」

「やばくない?」

 スマートフォンが一斉に車へ向けられる。

 九条は叫んだ。

「離れてください!」

 だが、誰もすぐには動かない。

 人は危険を見た時、逃げるより先に撮ることがある。

 鳳が路地の中央へ出た。

「皆さん、車から離れてください。すぐに」

 穏やかな声だった。

 それでも、不思議と通った。

 教師の声とも、警察官の声とも違う。

 建物の避難誘導を知っている者の声だった。

 鳳は続けた。

「左側の路地ではなく、右の広い道へ。左は行き止まりです。走らず、車道へ出ないでください」

 野次馬たちが動き始める。

 九条も鳳の方へ向かおうとした。

 しかし、左腕から血が滴った。

 視界が一瞬、黒く揺れる。

 立ち止まる。

 その時、背後から誰かが九条の肩を掴んだ。

 反射的に振り向く。

 真壁彰だった。

「動くな」

「真壁」

「腕を見せろ」

「鳳先生が」

「鳳さんは逃がす。このままじゃお前は倒れる」

「倒れはしない」

「その返事は聞き飽きた」

 真壁は九条の腕を見た。

 眉間に深い皺が刻まれる。

「深いな」

「縫合が必要だ」

「分かってる」

「鳳先生は」

「二階堂が別動線を送ってる。今はお前が足手まといだ」

 九条は反論しようとしたが、できなかった。

 足元がふらついたからだ。

 真壁は九条の肩を支えた。

「歩けるか」

「歩ける」

「走れるか」

「医学的には推奨されない」

「聞いた俺が馬鹿だった」

 真壁は九条を路地の奥へ連れていく。

 背後で、電子音が速くなっている。

 ピピピピピ。

 誰かが悲鳴を上げた。

 次の瞬間、車体の下から白い煙が噴き出した。

 爆発ではなかった。

 煙幕。

 だが、周囲は一気に混乱した。

 叫び声。

 咳き込む声。

 スマートフォンを落とす音。

 警察官の制止。

 鳳の車は煙に包まれ、視界から消えた。

 真壁は九条を引きずるようにして路地を抜けた。

 九条は煙の奥を見た。

 鳳の姿は見えない。

 携帯が震える。

 鳳からのメッセージ。

――私は無事です。

――煙は視線を切るためのものです。

――犯人は、九条先生を車へ近づけたかった。

――近づいた映像を撮るためでしょう。

――そこから離れてください。

 九条は画面を見つめた。

 まただ。

 犯人は死体だけでなく、映像を作っている。

 九条が鳳の車へ近づく。

 車から煙が上がる。

 鳳が消える。

 それだけを切り取れば、どう見えるか。

 指名手配犯が、協力者を消した。

 九条は唇を噛んだ。

 真壁が低く言った。

「歩け」

「うん」

「今は鳳さんを信じろ」

「わかった」

「本当に分かってる顔をしろ」

 九条は、少しだけ息を吐いた。

「努力する」

「するな。歩け」

     *

 堀島岳斗のいる診療所は、表通りから一本入った場所にあった。

 昼間は内科と小外科を掲げる地域の診療所。

 夜は白いシャッターが半分下ろされ、入口の灯りだけがついている。

 真壁が裏口のインターホンを押すと、すぐに鍵が開いた。

 中から現れた男は、白衣ではなく薄いグレーのスクラブを着ていた。

 二十七歳。九条の大学時代の後輩。

 短く整えた髪。

 表情は穏やかだが、目だけが笑っていない。

 彼は九条を見るなり、深いため息をついた。

「先生」

「堀島」

「逃亡犯って、何してるんですか」

「統計を知らない」

「医者のくせに不健康な返事しないでください」

 堀島岳斗はそう言って、九条の左腕を見た。

 表情が変わる。

「中へ」

 診察室ではなく、処置室へ通された。

 白い照明。

 ステンレスの器具台。

 消毒液の匂い。

 壁には血圧計と酸素ボンベ。

 九条が処置台に座ると、堀島はすぐに包帯を外した。

 傷口を見た瞬間、彼の口調が完全に医師のものになった。

「切創。長さ約六センチ。深さは場所によりますが、筋膜近くまで。動脈性出血はなし。腱損傷は……指を動かしてください」

 九条は指を動かす。

 堀島は表情を変えずに観察する。

「小指と薬指の感覚は」

「軽度の痺れがある」

「最悪です」

「最悪ではない」

「患者が勝手に予後評価しない」

 堀島は消毒の準備をしながら言った。

「真壁さん、外を見てください。二階堂さんから、追手が来る可能性があると」

 真壁は頷いた。

「分かった」

「拳銃は抜かないでください。ここ、診療所なので」

「抜かない」

「前に別の刑事さんが抜きました」

「誰だ」

「名前は出しません。守秘義務です」

 真壁は一瞬だけ二階堂の顔を思い浮かべたが、たぶん違うと思い直した。

 彼は処置室を出て、廊下へ向かった。

 堀島は九条の傷を洗浄しながら言った。

「痛みますよ」

「うん」

「痛い時は痛いと言ってください」

「必要なら」

「その返事をしたら麻酔を減らします」

「痛い」

「よろしい」

 堀島は局所麻酔を打った。

 九条は表情を変えなかったが、ほんのわずかに肩が動いた。

「先生」

「はい」

「僕は、あなたを尊敬しています」

「ありがとう」

「だから、こういう形で再会するのは本当に腹が立ちます」

「申し訳ない」

「謝罪が軽い」

「重い謝罪の仕方を知らない」

「まず自分を削らないことです」

 堀島は器具を取り、傷口を確認する。

「縫います。十針前後。途中で気分が悪くなったら言ってください」

「大丈夫」

「大丈夫という言葉を信用しません」

「じゃあ、そのときは申告する」

「最初からそう言ってください」

 糸が皮膚を通る。

 九条は視線を落とさず、堀島の手元を見ていた。

「見ない方がいいですよ」

「参考になる」

「何の」

「縫合の」

「先生、法医学者ですよね。生きてる人を縫う練習はしないでください」

「する予定はないよ」

「自分は実験台にしないでください」

 堀島の声は淡々としていたが、その奥に怒りがあった。

 九条は分かっていた。

 怒ってくれる人間は、少ない。

 自分が傷つくことに対して、合理性ではなく怒りを返す人間は、もっと少ない。

 処置室の扉が開き、鳳恭介が入ってきた。

 煙の匂いを少しまとっているが、怪我はないようだった。

「ご無事でしたか」

 九条が言うと、鳳は微笑んだ。

「車は無事ではありません」

「申し訳ありません」

「九条先生が謝ることではありません。あの車、もともと車検が近かったので」

「鳳先生、そういう問題では」

 堀島が口を挟んだ。

「鳳先生も座ってください。煙を吸っている可能性があります」

「私は大丈夫です」

「本日の患者は全員その台詞禁止です」

 鳳は素直に椅子に座った。

 処置室に、九条、堀島、鳳。

 廊下には真壁。

 外には二階堂の情報網。

 そして、犯人はどこかでそれを見ている。

 堀島は九条の傷を縫いながら言った。

「それで、九条先生。これは何の事件ですか」

「殺人事件」

「それはニュースで知っています」

「死因推定AI《LUCID》に関する不正が関係している」

 堀島の手が一瞬止まった。

「ルーメンの?」

「うん」

「医療データの会社ですよね」

「表向きは」

「裏向きは?」

 九条は、山田美月のファイル、伊藤蓮の証言、本郷准教授の言葉を順番に話した。

 山田美月が掴んだ不正。

 死体所見を鍵にした暗号化ファイル。

 伊藤蓮の薬物投与。

 本郷の「死因ではない、誰を死なせるか先に」という言葉。

 そして清水輝の会見。

 堀島は聞きながら、針を進めた。

 鳳は黙っていた。

 しばらくして、堀島が言った。

「それ、本当にAIですか」

 九条が顔を上げる。

「どういう意味?」

「死因推定AIと言いながら、やっていることは医療判断ではなく、分類の誘導ですよね」

「そう」

「データを入れたら死因が出るのではなく、出したい死因に合うようにデータの重み付けを変える」

「その可能性が高い」

「それはAIというより、言い訳生成装置です」

 堀島は糸を結んだ。

「医師の判断を補助するのではなく、既に決めた結論に医学っぽい顔をつける装置」

 九条は黙った。

 鳳が静かに言った。

「建築で言えば、先に倒壊原因を決めてから、図面を読むようなものですね」

「はい」

 九条は頷いた。

「通常、死因推定は複数の可能性から絞ります。外傷、薬物、既往、環境、状況、組織所見。矛盾があれば戻る。しかし《LUCID》は、戻らない」

「戻らない?」

「都合の悪い矛盾を、低い重みとして処理する」

 九条は端末を取り出し、片手でファイルを開いた。

 堀島が眉をひそめる。

「腕」

「右手で操作するから」

「左腕を動かしたら糸を増やします」

 九条は動きを止めた。

 鳳が代わりに端末を持つ。

「私が操作します」

 画面に、山田美月が残したデータの一部が表示された。

LUCID_exception_cases

case_0412:転落死→急性心不全へ変更

case_0520:過労死疑い→自然死へ変更

case_0603:薬物中毒疑い→自殺へ変更

case_0616:法医学者関与疑い→殺人へ誘導

 堀島が顔をしかめた。

「最後のは」

「今回の事件だな」

 九条は言った。

「山田先生は、自分が死ぬ前に、今回の分類が既に用意されていることを掴んでいた可能性がある」

 鳳が画面を見つめる。

「case_0616。日付が今日ですか」

「はい」

「法医学者関与疑い、という分類が先にある」

 九条は頷いた。

「死体が出る前に、死因分類と犯人像が用意されていた」

 堀島が低く言った。

「死因が先に売られている」

「うん」

 処置室の空気が冷えた。

 堀島は最後の糸を結び、ガーゼを当てた。

「先生」

「はい」

「これは、死因推定ではありません」

 堀島の声は静かだった。

「殺す相手と、殺した後の説明を、先に決めるシステムです」

 九条は、画面を見つめた。

 本郷の言葉。

『死因じゃない。』

『誰を死なせるか、先に。』

 山田が言った。

『死因は、先に売られている。』

 それらが一つの線になる。

 《LUCID》は、死んだ人間のためのシステムではない。

 これから殺す人間のためのシステムだ。

 誰を死なせれば、どんな社会的処理がしやすいか。

 どの死因なら保険会社が納得するか。

 どの分類なら警察が早く処理するか。

 どの物語なら報道が食いつくか。

 死体ではなく、死体になる前の人間を選別している。

 九条は低く言った。

「犯人は、死体を読んでいません」

 鳳が尋ねた。

「何を読んでいるのですか」

「社会です」

 九条は答えた。

「社会が、どの死因を受け入れるかを読んでいる」

     *

 廊下で見張っていた真壁彰は、スマートフォンを確認していた。

 二階堂からのメッセージが連続して届いている。

――ルーメンの株価関連掲示板が動いてる。

――《LUCID》の注目度が上がってる。

――清水の会見切り抜きが拡散中。

――九条事件とセットで「人間の法医学の限界」がトレンド入り。

 続けて。

――佐々木彩夏というネットニュース編集者を調べてる。

――九条の私生活記事を準備していた。

――情報源は不明。

――清水周辺と接触の可能性あり。

 真壁は画面を見つめた。

 佐々木彩夏。

 初めて見る名前だった。

 だが、嫌な予感がした。

 この事件では、新しい名前が出る時、それはだいたい次の標的か、次の罠だった。

 処置室の扉が開き、堀島が顔を出した。

「縫合は終わりました」

「九条は」

「動かすべきではありません」

「動くだろうな」

「でしょうね。なので、真壁さんが止めてください」

「俺に医者の代わりをさせるな」

「警察の代わりに医者が指名手配犯を縫ったんです。お互い様です」

 堀島はそう言って、真壁を処置室へ入れた。

 九条の左腕には新しいガーゼと包帯が巻かれている。

 顔色は悪いが、意識ははっきりしている。

 鳳は端末を見ていた。

 真壁は言った。

「少しは寝ろ」

「時間がない」

「言うと思った」

 九条は画面を真壁へ向けた。

「山田先生のデータに、case_0616という分類があった。今回の事件だ」

「死ぬ前にか」

「そう」

「つまり、山田が死ぬことも、九条が疑われることも、事前にシステムへ組み込まれていた」

「その可能性がある」

 真壁は低く息を吐いた。

「清水か」

「まだ断定はできない」

「ここまで来て断定しないのか」

「死体がないから」

 堀島が横から言った。

「先生、それ悪い癖です」

 九条は少しだけ視線を落とした。

「だが、清水輝が中心にいる可能性は極めて高い」

 真壁は頷いた。

「二階堂が佐々木彩夏という編集者を調べている」

 鳳が顔を上げた。

「ネットニュースの?」

「知っているのか」

「九条先生の記事を最初に実名寄りでまとめた媒体の編集者です。建築系の事故記事でも名前を見たことがあります」

 九条が尋ねる。

「事故記事?」

「はい。建物の事故や労災を、かなり刺激的な見出しで扱う人です」

 鳳は端末を操作した。

 佐々木彩夏の過去記事が表示される。

“過労死か事故死か”企業側が語らない現場の闇

“自殺と処理された死”遺族が語る違和感

“医療ミス疑惑”専門家が語る記録の穴

“法医学者Kの素顔”なぜ彼は死体に執着したのか

 最後の記事は、まだ公開前の予告ページだった。

 真壁の目が止まる。

「九条の私生活を暴く記事か」

 鳳が頷く。

「公開予定時刻は今日の二十三時」

 堀島が顔をしかめる。

「ひどいですね」

 九条は画面を見ていた。

 記事のサムネイルには、九条の大学時代の写真らしきものが使われている。

 本人も知らない写真だった。

 タイトル。

【法医学者Kの素顔】“右に心臓がある男”の孤独と異常性

 堀島が低い声で言った。

「異常性?」

 九条は表情を変えなかった。

「事実じゃないよ」

「当たり前です」

「でも、見出しとしては強い」

「先生、そこで分析しないでください」

 堀島の声には怒りがあった。

 鳳が静かに言う。

「佐々木さんは、清水から情報を受け取っている可能性がありますね」

 真壁は頷いた。

「清水にとって、九条を怪物化する記事は都合がいい」

「そして、佐々木さんが不要になれば」

 鳳はそこで言葉を止めた。

 言わなくても分かる。

 次の死体。

 九条は画面を見つめた。

「公開予定は二十三時。犯人が記事を利用するなら、その前後に動きます」

 真壁が言った。

「場所は分かるか」

 鳳がすぐに調べる。

「編集部は港区。ただ、佐々木彩夏個人の作業場所は別かもしれません」

 二階堂からメッセージが届いた。

――佐々木彩夏、今夜二十一時に清水輝と接触予定の可能性。

――場所は未確定。

――ただし、ルーメン本社近くの会員制ラウンジに予約あり。

 真壁は画面を見た。

「またルーメンか」

 九条は立ち上がろうとした。

 堀島が肩を押さえる。

「座ってください」

「行く必要がある」

「その腕で?」

「うん」

「先生、いま自分が何針縫ったか分かっていますか」

「十針」

「分かってるなら動かないでください」

「佐々木さんが次の標的なら」

「警察に任せればいい」

 堀島の声が少し強くなった。

 九条は堀島を見る。

「警察は、私を追っている」

「真壁さんがいます」

「真壁は捜査から外されている」

「二階堂さんがいます」

「広報課だ」

「鳳先生がいます」

「医師ではない」

「僕がいます」

 九条は黙った。

 堀島は静かに言った。

「先生。あなた一人で全部やらないでください」

 処置室に沈黙が落ちる。

 九条は、その言葉をどう扱えばいいのか分からないようだった。

 堀島は続けた。

「山田先生の死体を読んだのは、あなたかもしれません。伊藤さんの異変に気づいたのも、あなたかもしれません。本郷先生を助けたのも、あなたかもしれません。でも、あなたが死んだら終わりです」

「死ぬ予定は」

「予定は聞いていません」

 堀島は九条の包帯を指差した。

「この傷は、法医学者の手に付いた傷です。あなたが思っているより重い。手が動かなければ、あなたは死体を読めない。死体を読めないあなたは、犯人にとってもうただの逃亡犯です」

 九条の顔が、わずかに変わった。

 その言葉は効いた。

 堀島はさらに言った。

「だから、役割を分けてください。先生は推理する。僕は治療する。鳳先生は動線を読む。真壁さんは現場へ行く。二階堂さんは情報を捌く。それでいいじゃないですか」

 鳳が穏やかに頷いた。

「その方が建物としても安定します」

 真壁が眉をひそめた。

「建物として?」

「役割が偏る構造は、壊れやすいので」

「例えが分からん」

「分からなくても大丈夫です」

 九条は、ゆっくりと椅子に座り直した。

「分かりました」

 堀島が目を細める。

「本当に?」

「うん」

「動かない?」

「必要なら」

「糸を増やします」

「動かない」

 真壁が少しだけ笑った。

 九条は気づかないふりをした。

     *

 午後八時三十二分。

 佐々木彩夏は、ルーメン・メディカル本社に近い会員制ラウンジの個室にいた。

 高層ビルの四十一階。

 窓の外には東京の夜景。

 テーブルには手つかずの白ワイン。

 彼女はノートPCを開き、公開前の記事を確認していた。

【法医学者Kの素顔】“右に心臓がある男”の孤独と異常性

 悪くない見出しだ。

 強い。

 クリックされる。

 拡散される。

 もちろん、倫理的に褒められたものではない。

 そんなことは分かっている。

 だが、ネットニュースの世界では、読まれない正義に価値はない。

 誰も読まない記事は、存在しないのと同じだ。

 佐々木は、そう自分に言い聞かせてきた。

 今回の記事も同じだった。

 九条雅紀という男は、強すぎる素材だった。

 法医学者。

 指名手配犯。

 整った顔。

 完全内臓逆位。

 左利き。

 喘息。

 死体への執着。

 すべてが、読者を引きつける。

 彼が本当に犯人かどうかは、記事の本質ではない。

 疑われている。

 逃げている。

 顔がある。

 物語がある。

 それで十分だった。

 個室の扉が開いた。

 入ってきたのは、清水輝だった。

 紺のスーツ。

 落ち着いた表情。

 謝罪会見の時と同じ、整えられた顔。

「お待たせしました」

 清水は向かいに座った。

 佐々木はPCを閉じた。

「清水さん、時間がありません。記事は二十三時公開です。追加で出せる情報があるなら今ください」

「九条先生の件ですね」

「ええ。過去のトラブル、女性関係、研究室での評判。何でもいいです」

 清水はわずかに微笑んだ。

「何でも、ですか」

「もちろん裏は取ります」

「取れる範囲で?」

 佐々木は少しだけ眉を動かした。

「どういう意味ですか」

「いえ。佐々木さんは、物語の作り方が上手いと思いまして」

 その言葉に、佐々木は少し警戒した。

「私は事実を書いています」

「事実は、並べ方で物語になります」

 清水はグラスに手を伸ばした。

 だが、飲まない。

「九条雅紀は、世間が必要としている犯人です」

 佐々木は黙った。

「死体を扱う専門家が、死体を作った。誰もが理解できる。怖い。分かりやすい。そして、法医学への信頼が揺らぐ」

「それを望んでいるんですか」

「いいえ」

 清水は穏やかに言った。

「社会が、透明性を求めるきっかけになると言っているだけです」

「《LUCID》の宣伝ですか」

「宣伝ではありません。必要性の証明です」

 佐々木はPCを開こうとした。

「今の発言、記事にしても?」

「どうぞ」

 清水は微笑んだ。

「ただし、その前に一つ、確認したいことがあります」

「何ですか」

「山田美月先生から、何か受け取っていませんか」

 佐々木の表情が変わった。

 ほんのわずか。

 しかし清水は見逃さなかった。

「受け取っていますね」

「何の話か分かりません」

「山田先生は、あなたにも接触していた。九条先生を怪物として書く記事ではなく、《LUCID》の不正を告発する記事を書かせようとしていた」

 佐々木はPCを閉じた。

「帰ります」

「まだです」

 清水の声は穏やかなままだった。

 だが、個室の空気が変わった。

 佐々木は立ち上がろうとした。

 その瞬間、背後から誰かが彼女の肩を押さえた。

 いつ入ったのか。

 黒い服の男。

 佐々木は声を上げようとしたが、口元に布を当てられた。

 甘いような、苦いような匂い。

 視界が揺れる。

 清水は、静かに言った。

「佐々木さん。あなたは、九条雅紀に殺されます」

 佐々木は目を見開いた。

 清水の顔がぼやけていく。

「死因は右胸部刺創。床には九条先生の血液。あなたの記事は未公開のまま残る。世間はこう読むでしょう。九条雅紀は、自分を暴く記事を書こうとした編集者を殺した」

 佐々木は必死にもがいた。

 だが、力が入らない。

 清水の声だけが、最後まで耳に残った。

「とても分かりやすい死因です」

     *

 午後八時五十四分。

 堀島の診療所で、九条は端末の画面を見つめていた。

 佐々木彩夏の公開前記事。

 そのメタデータに、山田美月の名前があった。

 正確には、添付資料の一つに、山田が作成したファイル名が残っていた。

Yamada_LUCID_internal_memo_for_media

 九条は顔を上げた。

「佐々木さんは、山田先生から資料を受け取っている」

 真壁が言った。

「なら標的だ」

 鳳が端末を操作する。

「会員制ラウンジの建物は、ルーメン本社と地下通路で繋がっています」

 真壁が眉をひそめる。

「なぜそんなことが分かる」

「ビル管理会社の公開避難図と、テナント搬入経路図です。通常客は使いませんが、関係者用の動線があります」

 二階堂から電話が入った。

『佐々木の居場所が割れた。ルーメン本社近くのラウンジ。だが、警察が向かうには時間がかかる』

 真壁は即座に言った。

「俺が行く」

『お前は公式には動けない』

「非公式に動く」

『最悪だな』

「お前が言うな」

 九条が立ち上がった。

 堀島が即座に睨む。

「座ってください」

「佐々木さんが危険」

「座ってください」

「堀島」

「先生」

 堀島の声が低くなった。

「あなたが出れば、犯人はあなたの血を使えます」

 九条は動きを止めた。

 堀島は続けた。

「その腕から、もう血が出ています。犯人が狙っているのは死体だけじゃない。あなたの血、あなたの顔、あなたの動きです。あなたが現場へ行くほど、犯人の材料が増える」

 九条は、左腕を見た。

 包帯に滲む赤。

 自分の血が、また誰かの死体に置かれる。

 その可能性に、初めて明確な寒気を覚えた。

 真壁が言った。

「九条は残れ。俺と鳳さんで行く」

 鳳が穏やかに言う。

「真壁さん、私は建物の外から読みます。中へ入るのは危険です」

「分かってる」

「本当に?」

「たぶん」

「正直ですね」

 二階堂が電話越しに言った。

『鳳さん、現場図を送ってほしい。真壁、五分後に裏口。俺が警らの無線をずらす』

「また言葉遊びか」

『いいや。今回はただの違反だ』

 真壁は短く笑った。

「分かりやすい」

 九条は言った。

「真壁」

「何だ」

「佐々木さんの右胸に傷があっても、死因と決めないでください」

「分かってる」

「首筋、口唇、眼瞼結膜、爪、注射痕を」

「分かってる」

「床の血液が俺のものでも」

 真壁は九条を見た。

「それも分かってる」

 九条は口を閉じた。

 真壁は続けた。

「お前がいなくても、見るべきものは見る」

 それは、真壁にとって最大限の約束だった。

 九条は頷いた。

「頼む」

 真壁と鳳が出ていく。

 処置室には、九条と堀島だけが残った。

 堀島は九条の前に立ち、腕を組んだ。

「座ってください」

「座っているよ」

「心が立ってます」

「心電図の話?」

「違います」

 堀島はため息をついた。

「先生。あなたは今、何を考えていますか」

「佐々木さんが間に合うかどうか」

「他には」

「清水輝が何を目的としているか」

「他には」

 九条は少し黙った。

「私の血が、佐々木さんの現場に残される可能性」

 堀島は頷いた。

「それです」

「うん」

「犯人は、あなたを殺さなくてもあなたを使える。むしろ、生きて逃げている方が使いやすい」

 九条は顔を上げた。

 堀島は続ける。

「指名手配犯が生きて動いている。どこにでも現れる。誰を殺しても、九条がやったことにできる。あなたは今、犯人にとって便利な凶器です」

 九条は黙った。

 その表現は正確だった。

 自分は人間でありながら、犯人にとって凶器として使われている。

 顔も、血も、身体も、専門性も。

 九条は低く言った。

「じゃあ、私はどうすれば」

 堀島は即答した。

「生きていてください」

 九条は堀島を見た。

「それだけ?」

「医者としては、それが最優先です」

「法医学者としては」

「知りません」

 堀島は少しだけ怒ったように言った。

「僕は、生きている先生の医者です。死体になった先生の担当じゃない」

 九条は、何も言えなかった。

 その時、端末が震えた。

 二階堂からのメッセージ。

――間に合わないかもしれない。

 続けて、画像が届いた。

 ラウンジの個室。

 倒れた佐々木彩夏。

 床に落ちたノートPC。

 白いシャツの右胸に、赤い染み。

 そして、その床に落ちている血の跡。

 九条は画面を拡大した。

 血痕の形。

 滴下角度。

 量。

 位置。

 自分の血ではない。

 少なくとも、今の腕から落ちた血ではない。

 九条は立ち上がった。

 堀島が止めるより早く、九条は言った。

「佐々木さんは、まだ死んでいない」

「なぜ分かるんですか」

「血の乾き方が違う。右胸の染みは見せるためのものだ。床の血は別の場所から持ち込まれた可能性がある」

 端末がさらに震えた。

 差出人不明。

――残念。

――今度は間に合いません。

 九条は画面を見つめた。

 続けて、一行。

――死因は、あなたの血で完成します。

 九条の左腕の包帯から、赤い血が一滴、床に落ちた。

 その音が、処置室にやけに大きく響いた。


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