第六章 鳳恭介は、街の逃げ道を読む
建物には、表の顔と裏の顔がある。
表の顔は、誰にでも見える。
正門。
受付。
廊下。
階段。
案内板。
来客用の導線。
人を迎えるために作られた顔だ。
だが建物には、必ず裏の顔がある。
荷物を入れるための道。
ゴミを出すための道。
清掃員が使う扉。
用務員だけが知る階段。
改修で塞がれたはずの連絡路。
避難訓練では使われるのに、普段は誰も見向きもしない非常口。
人は表の顔だけで建物を覚える。
しかし、事件は裏の顔から入ってくる。
鳳恭介は、それをよく知っていた。
*
江口桜次郎は、教室の中で息を殺していた。
旧校舎の空き教室。
埃っぽい机。
剥がれかけた掲示物。
窓の外には中庭。
その扉が、外側からゆっくりと開きかけている。
廊下には、作業着姿の男がいる。
男が噴射した白い霧は、扉の隙間から少しずつ教室へ入り込もうとしていた。
九条雅紀は窓の鍵を開け、外を確認している。
「江口先生」
「はい」
「窓から出ます」
「下、結構ありますよ」
「骨折しなければ動けます」
「骨折前提の会話、やめてもらえますか」
「では、捻挫程度を目標に」
「そういう問題じゃないです」
江口は、なるべく声を低くした。
恐怖で喉が乾いている。
教師として、学校で不審者対応の訓練は受けている。
刃物を持った者が侵入した場合。
不審物を発見した場合。
生徒を教室に閉じ込める場合。
警察へ通報する場合。
だが、指名手配された法医学者と一緒に、薬物を撒く男から逃げる訓練は受けていない。
そんな研修があったら、教育委員会を疑う。
扉の隙間が広がった。
九条は窓を開けた。
冷たい外気が入ってくる。
「先に出てください」
「九条先生が先です」
「私は後から」
「あなた、後から来ないタイプでしょう」
九条は一瞬だけ黙った。
「来ます」
「信用できない返事ですね」
江口は窓枠に足をかけた。
外は中庭に面した植え込みだった。
高さは二メートル弱。落ち方を間違えなければ、大怪我はしない。
たぶん。
「僕、社会科教師なんですけどね」
「はい」
「こういう身体能力を要求される科目じゃないんですよ」
「体育教師ではないことは理解しています」
「理解してる人間の顔じゃない」
江口は意を決して飛び降りた。
植え込みに足を取られ、情けない声が出た。
膝に鈍い痛み。だが、立てる。
すぐに九条が降りてきた。
音が小さかった。
落ち方が妙に綺麗だった。
江口は顔をしかめた。
「なんであなたの方が逃亡犯に向いてるんですか」
「逃亡犯ではありません」
「指名手配されて窓から逃げてる人は、だいたい逃亡犯です」
「定義の問題です」
「警察にその返ししないでくださいね」
教室の扉が開く音がした。
男が中に入った。
次の瞬間、窓から男の顔が覗く。
江口は息を呑んだ。
九条が江口の腕を引いた。
「走ります」
「だから、僕は体育教師じゃ——」
「今だけです」
二人は中庭を横切った。
正面には保健室のある本校舎。
だが、そこへ向かうには渡り廊下を通る必要がある。渡り廊下は見通しがよく、報道陣や生徒に見られやすい。
九条の携帯が震えた。
江口は走りながら叫んだ。
「出る余裕あります?」
「あります」
「あるのが怖い!」
九条は携帯を開いた。
表示されたのは、知らない番号からの着信だった。
九条は迷わず出た。
「九条です」
『鳳です』
穏やかな声だった。
こんな状況で聞くには、あまりに場違いな声だった。
江口は目を剥いた。
「鳳さん?」
九条は携帯を耳に当てたまま言う。
「現在、江口先生の学校内です。旧校舎中庭。不審者あり。本郷先生と思われる人物が保健室前で倒れている画像が届きました」
『把握しています』
鳳恭介は、いつも通りの調子で答えた。
『校舎配置図と文化祭用の来場者案内図を確認しました。今いる中庭から保健室へ直行するのは危険です』
「理由は」
『渡り廊下が一本しかなく、そこは外部から視認されます。さらに、現在正門側に報道関係者がいます。警察も数分以内に到着するでしょう。保健室へ向かう映像を撮られれば、九条先生が本郷先生を襲いに行った映像として使われます』
江口は走りながら叫んだ。
「鳳さん、こっち見えてるんですか!」
『見えてはいません。建物を見ています』
「それが怖いんですけど!」
鳳は淡々と続けた。
『九条先生。保健室へは正面から行かないでください。旧校舎一階の理科準備室を抜けて、給食搬入口側の廊下へ出るルートがあります』
「現在地からは?」
『中庭の右手、壊れた藤棚の奥に非常用扉があります。文化祭準備で施錠されていない可能性が高い』
江口は思わず叫んだ。
「なんでそんなこと分かるんですか!」
『来場者向けパンフレットの写真で、扉の前に模造紙が立てかけられていました。施錠されている扉の前には、通常物を置きません。少なくとも、今朝の時点では使われています』
「名探偵が見る場所じゃない!」
「江口先生、右です」
九条が言った。
二人は藤棚へ向かった。
確かに、その奥に古い非常用扉があった。
ドアノブを回す。
開いた。
江口は乾いた笑いを漏らした。
「学校、怖……」
九条は中へ入る。
理科準備室の匂いがした。
アルコール、埃、古い薬品棚、金属器具。
江口の同僚である五十嵐理人の顔が一瞬浮かんだが、今は関係がない。
背後の中庭に、作業着の男が現れた。
男は九条たちを見つけた。
走ってくる。
九条は扉を閉め、鍵を探した。
内鍵は壊れている。
江口は近くの棚を押した。
「手伝ってください!」
九条が加わる。
二人で棚をずらし、扉の前に押しつける。
男が外から扉を叩いた。
鈍い音が響く。
江口は息を切らせながら言った。
「鳳さん、次!」
『そのまま準備室を抜けると理科室です。理科室から廊下へ出て左。突き当たりを右。給食搬入口に向かう廊下に出ます』
「保健室は?」
『給食搬入口から本校舎裏へ回り、保健室の裏口へ行けます』
「保健室に裏口なんてありましたっけ」
『保健室単独の裏口ではありません。搬入用廊下に面した職員用出入口です。救急搬送時に使われる設計です』
江口は愕然とした。
「僕、この学校に何年いるんだろう」
『建物は、使う人にも隠し事をします』
「今それに感心してる場合じゃない!」
扉が激しく揺れた。
棚が少し動く。
九条は息を整えながら言った。
「行きましょう」
「保健室に?」
「はい」
「本郷先生が生きている保証は」
「ありません」
「なら」
「だから急ぎます」
九条は理科室へ向かった。
江口も続く。
理科室には、文化祭で使うらしい展示物が並んでいた。
火山の模型。
手作りの鉱物標本。
人体模型の片腕。
なぜか段ボール製の巨大な恐竜。
江口は走りながら呟いた。
「五十嵐先生、今年も変なことしてるな……」
九条が言った。
「後で褒めてください」
「今それ言う?」
二人は廊下へ出た。
そこには誰もいなかった。
だが、遠くから校内放送が流れている。
『生徒の皆さんは、教室または体育館に移動してください。廊下で立ち止まらないでください。繰り返します——』
江口は顔をしかめた。
「誰が放送を」
『私です』
携帯越しに鳳が言った。
江口は立ち止まりかけた。
「は?」
『いえ、正確には二階堂さん経由で学校へ連絡してもらいました。不審者対応ではなく、報道対応として人払いをする方が混乱が少ない』
「警察広報と建築学者が学校を遠隔操作しないでください!」
『非常時です』
「便利な言葉!」
九条は廊下の角で足を止めた。
前方に、誰かがいる。
男ではない。
女子生徒だった。
さっき印刷室の前で九条を見た生徒。
文化祭実行委員の腕章をつけたまま、廊下に立っている。
江口が低い声を出した。
「何してる」
「保健室に行こうと思って」
「放送聞こえなかった?」
「本郷先生って人、倒れてるんですよね」
江口は言葉を失った。
「どうしてそれを」
生徒はスマートフォンを握っていた。
「匿名掲示板に画像が出てました。保健室のドア、うちの学校だってすぐ分かりました」
九条の目が細くなった。
「画像が公開された?」
「はい。消される前に見ました」
「投稿者は」
「分かりません。でも、“九条が次に殺す人”って」
江口の顔から血の気が引いた。
犯人は、本郷が学校にいることを世間へ出した。
つまり、九条が本郷へ向かえば、世間はこう見る。
九条が次の被害者を殺しに行った。
九条は静かに言った。
「江口先生、この生徒を安全な場所へ」
「九条先生は」
「保健室へ行きます」
「一人で?」
「はい」
江口は即座に首を振った。
「駄目です」
「生徒が優先です」
「そうです。だからあなたを一人にしたら、もっと面倒なことになる」
生徒が言った。
「私、行けます」
「行けるじゃない。行かない」
「でも、保健室の近く、文化祭の救護物品を置いてるんです。先生たち、誰も知らないかも」
江口は眉をひそめた。
「何を置いてる」
「簡易酸素缶と救急セット。あと、保冷剤。文化祭で熱中症対策に使うやつ」
九条が生徒を見た。
「簡易酸素はどこですか」
「保健室前の準備棚です」
「使えます」
江口は低く唸った。
「なんで中学生が重要証人みたいなこと言い出すんだ……」
鳳の声が携帯から聞こえた。
『江口先生。生徒を連れて体育館側へ逃がすより、今は一緒に移動した方が短時間です。廊下で単独にすると、報道か犯人側に接触される可能性があります』
「鳳さん、学校教育的には最悪の提案です」
『建築的には最短です』
「教育と建築が喧嘩してる!」
江口は生徒を見た。
「絶対に僕の後ろ。スマホはしまう。撮らない。投稿しない。誰かに見られたら文化祭備品を取りに行ってることにする。分かった?」
「はい」
「返事は大きすぎない。今は隠密行動中だから」
「はい」
江口は九条を睨んだ。
「この子に何かあったら、僕はあなたを許しません」
「はい」
「返事が素直すぎて腹立つ」
三人は給食搬入口側の廊下へ向かった。
*
同じ頃、警視庁の会議室では、真壁彰が上司たちに囲まれていた。
九条雅紀の所在不明。
渋谷での伊藤蓮襲撃。
中学校周辺での目撃情報。
そして、学校内に本郷准教授らしき人物が倒れているという匿名投稿。
事件は、警察の指揮系統よりも速く動いていた。
管理官は声を抑えながら言った。
「九条は学校にいるのか」
真壁は答えた。
「可能性があります」
「江口桜次郎の勤務校だな」
「はい」
「江口は九条を匿っているのか」
「確認中です」
「君の周囲の人間ばかりだな」
真壁は黙った。
その指摘は正しい。
九条。
二階堂。
江口。
鳳。
事件は、真壁の周辺にいる人間を次々と巻き込んでいる。
偶然ではない。
犯人は知っている。
彼らの関係を。
役割を。
誰が誰を信じるかを。
真壁は背筋に冷たいものを感じた。
「本郷教授の安否確認を急いでください」
「すでに所轄と機動隊が向かっている」
「学校です。生徒がいます。突入は慎重に」
「君が言うな」
管理官の声が低くなった。
「君が九条を見失わなければ、こんなことにはなっていない」
真壁は何も言えなかった。
その通りだった。
正しい判断だったのか。
間違っていたのか。
まだ分からない。
分からないまま、時間だけが過ぎる。
二階堂が会議室に入ってきた。
「学校から連絡です。生徒は体育館と教室に誘導中。報道陣は正門側に集まっています」
「九条は」
「確認できていません」
管理官が苛立ったように言った。
「君たちは揃って“確認中”ばかりだな」
二階堂は表情を変えなかった。
「確認できていないことを断定すると、また誰かが犯人になります」
管理官が睨む。
真壁は二階堂を見た。
二階堂は続けた。
「匿名投稿の画像、発信元を追っています。ただ、投稿文の作りが妙です」
「何が」
「“九条が次に殺す人”という文言です。犯人が九条に本郷を殺させたいなら、普通は隠す。なのに、わざわざ公開した」
「目的は」
二階堂は画面を見せた。
匿名掲示板の反応が流れている。
『本郷って誰?』
『九条の次の被害者?』
『学校に逃げ込んで次を殺すとかやばすぎ。』
『江口桜次郎って出てきたけど』
『検索したら都内の中学校の異動情報に載ってたからたぶん中学教師』
『九条とその江口って人、繋がりあるの?』
『中学校どこよ』
『生徒いるんだぞ』
『警察何してんだよ』
『これだけ目撃されててまだ捕まらんのか』
『九条、早く出頭しろ』
二階堂は言った。
「目的は、学校を包囲させることです。警察、報道、野次馬、全部を集める。九条の逃げ道を消す。同時に、九条が本郷に近づけば“殺しに来た”映像になる」
「では九条は本郷に近づかない方がいい」
「本郷が生きていれば、近づかなければ死ぬかもしれない」
会議室が沈黙した。
真壁は拳を握った。
「俺が行きます」
管理官は即座に言った。
「君は外れると言ったはずだ」
「生徒がいる」
「だからこそ、君の私情を入れない」
「私情ではありません」
「では何だ」
真壁は答えた。
「現場です」
管理官は、しばらく真壁を見ていた。
「君が行って何をする」
「順番を戻します」
「順番?」
「いま事件は、犯人の作った順番で進んでいます。九条が犯人。九条が逃走。九条が伊藤を襲撃。九条が本郷を殺す。その順番を崩さない限り、次の死体が出る」
二階堂が静かに真壁を見た。
管理官は低く言った。
「許可できない」
真壁は頷いた。
「分かりました」
そして、会議室を出た。
管理官が声を上げる。
「真壁!」
真壁は止まらなかった。
二階堂が小さく呟いた。
「本当に、嘘が下手な奴だよ」
そして、自分も会議室を出た。
*
保健室の裏へ向かう廊下は、薄暗かった。
普段、生徒が使う場所ではない。
給食の搬入、備品の移動、救急搬送時の動線。
床には台車の車輪跡があり、壁には古い傷が残っている。
鳳の声が携帯から続いている。
『次の角を右です。そこから三メートル先に職員用出入口があります』
江口は小声で言った。
「鳳さん、ナビみたいになってますね」
『建物には目的地がありますから』
「だから言い方」
女子生徒は緊張した顔で江口の後ろを歩いている。
九条は先頭だった。
その歩き方を見て、江口は気づいた。
九条は苦しそうだった。
呼吸が浅い。
時々、咳を飲み込んでいる。
顔色も悪い。
江口は小声で言った。
「九条先生、保健室に着いたらあなたも診てもらってください」
「本郷先生が先です」
「知ってます。でもあなたもです」
「必要なら」
「必要です」
九条は答えなかった。
角を曲がる。
保健室の裏口が見えた。
扉の前に、文化祭用の備品棚がある。
その下に、簡易酸素缶と救急セットが置かれていた。
女子生徒が小声で言った。
「あれです」
江口は酸素缶を取った。
「九条先生」
「本郷先生に」
「分かってます」
九条は扉に手をかけた。
中から物音はしない。
ゆっくり開ける。
保健室の匂いがした。
消毒液。
洗濯されたシーツ。
湿布。
古い木製棚。
そして、床に男が倒れていた。
五十代ほどの男性。
グレーのスーツ。
眼鏡は外れ、床に落ちている。
首元に、赤い点。
九条はすぐに膝をついた。
「本郷先生」
反応はない。
九条は頸動脈を確認し、呼吸を見た。
「生きています」
江口は息を吐いた。
「よかった」
「まだです」
九条は本郷の瞳孔を確認し、首筋の痕を見た。
「伊藤さんと同系統です。呼吸抑制。投与量は少ない。ただ、このまま放置すれば危険です」
江口は酸素缶を差し出した。
九条は手早く処置を始める。
女子生徒は入口近くで震えていた。
江口は彼女に言った。
「見なくていい。廊下を見てて」
「はい」
その時、本郷の唇がかすかに動いた。
九条が耳を近づける。
「……記録……」
「記録はどこですか」
「黒板……」
九条の目が鋭くなった。
「黒板係?」
本郷がわずかに頷いたように見えた。
「消される……前に……」
「何が消されるんですか」
本郷は苦しげに息を吸った。
「死因……じゃない……」
九条は聞き返す。
「死因ではない?」
本郷の声はほとんど消えかけていた。
「誰を……死なせるか……先に……」
そこで本郷の意識が落ちた。
九条は処置を続けながら、低く言った。
「江口先生」
「はい」
「犯人は、死因を選んでいるだけではありません」
「どういう意味ですか」
「死ぬ人間を、先に選んでいます」
江口の背筋が冷えた。
その時、廊下の女子生徒が小さく悲鳴を上げた。
江口が振り返る。
保健室の入口に、さっきの作業着の男が立っていた。
男は、今度はスプレーではなく、細いナイフを持っていた。
九条は本郷から離れられない。
江口は生徒の前に立った。
男が言った。
「そこをどいてください。江口先生」
江口の心臓が嫌な音を立てた。
「僕の名前、知ってるんですね」
「もちろん」
男は目だけで笑った。
「あなたも、九条先生の“物語”の“登場人物”ですから」
江口は、恐怖より先に怒りを覚えた。
「人の学校を、物語扱いするな」
男が一歩入ってくる。
九条が言った。
「江口先生、下がってください」
「無理です」
「危険です」
「知ってます」
江口は近くにあったパイプ椅子を掴んだ。
手が震えている。
それでも、生徒の前から退かなかった。
鳳の声が、携帯から聞こえた。
『江口先生。右手の棚に、消火器があります』
江口は目だけで確認した。
確かにある。
鳳は続ける。
『その保健室の出入口は二つです。犯人は正面から入っている。裏口は九条先生の背後。生徒を裏へ。江口先生は消火器を』
「簡単に言いますね」
『建物は簡単にできています。人間が難しくします』
「名言っぽいこと言ってる場合じゃない!」
男が踏み込んだ。
江口は消火器を掴み、ピンを抜いた。
人生で初めて、本気で消火器を人に向けた。
「僕、教師なんですけどね」
江口は噴射した。
白い粉末が保健室を覆う。
男が怯む。
九条はその隙に本郷の身体を引き、女子生徒を裏口側へ押し出した。
「江口先生!」
「行って!」
江口は叫んだ。
男が咳き込みながら、ナイフを振った。
江口は後ろへ下がる。
その時、九条が横から男の腕を掴んだ。
ナイフが軌道を変える。
刃が、九条の左前腕を裂いた。
血が飛んだ。
江口の目の前で、赤い線が九条の袖に広がる。
「九条先生!」
九条は一瞬顔をしかめただけだった。
男の手首を捻り、ナイフを床に落とす。
だが、呼吸が乱れている。力が続かない。
男は九条を突き飛ばし、保健室の窓へ向かった。
その時、外から別の声が響いた。
「動くな!」
真壁彰だった。
保健室の窓の外、校庭側から入ってきたらしい。
拳銃は構えていない。だが、その声だけで男の動きが一瞬止まった。
男は迷わず窓を開け、外へ飛び出した。
真壁が追う。
「待て!」
男は校庭へ走った。
文化祭準備で置かれたテント、看板、段ボールの間を抜けていく。
携帯が震えるのを、指だけで操作する。
鳳の声が携帯から聞こえた。
『真壁さん。校庭の左ではなく右です』
真壁は走りながら怒鳴った。
「なぜお前がいる!」
『近くにはいません。右へ。左は正門に出ます。報道陣がいます。犯人は撮影されることを避けるはずです』
「右だな」
『はい。体育倉庫裏に抜けるはずです』
真壁は右へ曲がった。
犯人の背中が見える。
あと少し。
だが、体育倉庫の裏で男は何かを投げた。
小さな缶。
煙が上がる。
真壁は足を止めざるを得なかった。
その一瞬で、男は用務員用の通用門から外へ出た。
外には、報道陣とは別の群衆がいた。
スマートフォンを構えた野次馬たち。
男はその中へ紛れた。
真壁は追えなかった。
誰もがスマートフォンを構えている。
誰が犯人か、一瞬で分からなくなる。
そこに、パトカーのサイレンが重なった。
*
保健室では、九条が自分の腕を押さえていた。
血が止まらない。
江口は震える手で救急セットを開けた。
「圧迫ですよね。圧迫。こういう時は圧迫」
「はい。正しいです」
「医者に褒められても嬉しくないです」
九条は本郷の状態を確認しながら言った。
「本郷先生は救急搬送が必要です」
「あなたもです」
「私は後で」
「後でって言う人間の後では信用できません」
女子生徒が泣きそうな顔で立っていた。
江口は彼女を見た。
「大丈夫。君は悪くない。何も悪くない」
「でも、私が投稿を見て……」
「見たことは悪くない。投稿しなかった。それで十分」
生徒は頷いたが、涙がこぼれた。
江口は、胸の奥が痛んだ。
学校に、こんな顔を持ち込ませた。
許せなかった。
誰を。
犯人を。
報道を。
ネットを。
そして、自分を。
九条の携帯が震えた。
二階堂からだった。
江口が代わりに出る。
「江口だ」
『九条は』
「腕を切られた。本郷先生は生きてる。生徒も無事。犯人は逃げた」
二階堂は一瞬黙った。
『桜次郎、悪かった』
「謝罪は後で百通くれ」
『分かった』
「本気にするぞ」
『するな。九条をそこから出せ』
「無理だ。警察が来る。救急も」
『だからだ。九条がその場にいたら、本郷襲撃犯にされる』
「ふざけるな」
江口の声が低くなった。
「九条先生は助けたんだぞ」
『分かってる。でも映像は違うかもしれない。保健室で、本郷の横に血まみれの九条。床にはナイフ。これ以上ない絵面だ』
江口は言葉を失った。
その通りだった。
事実と映像は違う。
映像は、見たいように読まれる。
九条が立ち上がった。
「行きます」
「その腕で?」
「はい」
「本気ですか」
「本郷先生は生きています。江口先生とその方が証人です。真壁も来ました。私はここにいる必要がない」
「必要しかないでしょう!」
「私がいることで、あなたがたが危険になります」
江口は歯を食いしばった。
「あなた、さっきから自分を荷物みたいに扱いますね」
「現状、そうです」
「人間です」
江口は言った。
「あなたは、人間です。容疑者でも、指名手配犯でも、証拠でも、荷物でもない」
九条は、ほんの一瞬だけ黙った。
だが、答えた。
「ありがとうございます」
「感動してる場合じゃないです」
「はい」
その時、鳳の声が携帯から聞こえた。
『九条先生。保健室の裏口から給食搬入口へ戻ってください。そこから校外へ出るのではなく、体育館の舞台裏へ向かいます』
「体育館?」
『現在、生徒が集められています。危険に見えますが、逆です。人が多すぎる場所では、顔を隠せば個人は見えにくくなります。舞台裏には暗幕と衣装があります』
江口が言った。
「文化祭の演劇衣装……」
『はい。九条先生を業者ではなく、舞台スタッフに変えます』
「鳳さん、建築学者ですよね?」
『今日は動線係です』
九条は左腕を押さえた。
「血痕が残ります」
『だから急いでください。血が動線を喋る前に』
江口は思わず鳳の声がする携帯を睨んだ。
「この人たち、全員言い方が不穏なんだよな……」
九条は江口を見た。
「江口先生」
「何ですか」
「その方をお願いします」
「言われなくても」
「それから」
九条は少しだけ言い淀んだ。
「戻ります」
江口は目を見開いた。
女子生徒との約束を、九条は覚えていた。
「……絶対ですよ」
「はい」
「努力しますじゃなくて」
「戻ります」
江口は頷いた。
九条は保健室の裏口へ向かった。
その背中を、女子生徒が見ていた。
「先生」
九条が振り返る。
「約束、忘れないでください」
「はい」
九条はそう答え、廊下へ消えた。
*
九条雅紀が体育館の舞台裏へ向かっている頃、学校の正門前では報道陣が騒然としていた。
本郷准教授が搬送された。
九条雅紀が学校内にいたらしい。
生徒が巻き込まれた。
犯人らしき男が逃走した。
情報は混乱し、怒号とシャッター音が入り混じっている。
二階堂は警視庁広報として、現場にはいなかった。
だが、現場以上に早く、ネットの見出しを見ていた。
【速報】九条雅紀容疑者、中学校に潜伏か
【独自】学校内で本郷准教授が倒れる 九条容疑者との関連捜査
【動画】九条らしき人物、校内を移動
【炎上】指名手配犯を教師が匿った疑い
二階堂は、最後の見出しで指を止めた。
江口まで燃やすつもりだ。
犯人は九条だけを狙っていない。
九条を助ける者も、順番に社会へ晒していく。
九条を孤立させるために。
二階堂の端末に、また差出人不明のメッセージが届いた。
――共犯者が増えましたね。
続けて、画像が届く。
保健室の床。
血。
ナイフ。
本郷。
九条の後ろ姿。
その画像だけを見れば、九条が本郷を襲ったように見える。
さらにもう一通。
――次は、鳳先生の建物で会いましょう。
二階堂の表情が消えた。
鳳恭介。
建物を読む男。
犯人は、鳳の存在も把握している。
すぐに鳳へ電話をかけた。
鳳は静かに出た。
『はい』
「鳳さん、あんたのところに来る」
『でしょうね』
「驚けよ」
『建物を使う犯人なら、いずれ私を試したくなると思っていました』
「楽しそうに聞こえるんだけど」
『楽しくはありません』
「なら、声に出せよ」
『怖いです』
二階堂は、ほんの一瞬だけ黙った。
鳳の声は、いつも通り穏やかだった。
だからこそ、その一言が妙に重かった。
「九条は今、そっちのルートに向かってる。腕を切られてる」
『では、医師が必要ですね』
「堀島先生に繋ぐ」
『その前に、九条先生を学校から出します』
「どうやって」
鳳は答えた。
『体育館の搬入口から、舞台装置の搬出車に紛れさせます。文化祭前なら不自然ではありません』
「鳳さん、あんた本当に建物を見てるだけか?」
『今日は、人も少し見ています』
その時、二階堂の別端末が鳴った。
真壁からだった。
『犯人を逃した』
「知ってる」
『鳳さんは無事か』
「今のところ」
『九条は』
「まだ学校内。出す」
『俺も行く』
「お前は来るな。上に止められてるだろ」
『止められているだけだ』
「それを普通は来るなと言う」
電話越しに、真壁の息が聞こえた。
『二階堂』
「何だ」
『犯人は俺たちを知っている』
「知ってる」
『次は鳳さんだ』
「それも知ってる」
『なら、先に動く』
二階堂は目を閉じた。
真壁は嘘が下手だ。
命令違反も下手だ。
だが、現場に向かう時だけは迷わない。
「分かった。だが一人で動くな」
『お前が言うな』
「俺は一人で動いてない。全員巻き込んでる」
『最悪だな』
「自覚はある」
二階堂は通話を切った。
そして、差出人不明のメッセージをもう一度見た。
――次は、鳳先生の建物で会いましょう。
犯人は、次の舞台を指定してきた。
九条を殺人犯にし、江口を共犯者にし、鳳を挑発する。
事件は、ただ人を殺しているのではない。
彼らの役割を、一人ずつ利用している。
*
体育館の舞台裏は暗かった。
生徒たちは客席側に集められている。
教師たちが不安を隠しながら誘導している声が聞こえる。
九条は暗幕の影に立っていた。
左腕には、江口が巻いた包帯がある。
だが血は滲み続けている。
鳳の指示で、舞台衣装の黒いパーカーを羽織った。
顔はフードで隠す。
舞台装置搬出用の台車が、体育館裏の搬入口に横付けされていた。
文化祭実行委員の演劇用セット。
背景板。
照明スタンド。
暗幕。
その隙間に身を潜める。
九条は、ふと体育館の客席側を見た。
生徒たちがいる。
その中に、さっきの女子生徒もいた。
彼女は九条に気づいたのか、ほんの一瞬だけこちらを見た。
九条は軽く頭を下げた。
彼女も小さく頷いた。
約束。
戻る。
九条はその言葉を、胸の内で確認した。
台車が動き出す。
搬入口の扉が開く。
外の光が差し込んだ。
その瞬間、遠くで誰かが叫んだ。
「いたぞ! 舞台裏だ!」
警察か。
報道か。
犯人側か。
分からない。
台車を押していた若い男が焦った声を出した。
「九条先生、降りますか」
「いいえ」
九条は、左腕を押さえた。
「進んでください」
台車は搬入口を出た。
外ではサイレンが鳴っている。
報道陣の声も聞こえる。
スマートフォンのカメラがこちらを向く。
その全ての視線の中を、九条は舞台装置の影に隠れて通り抜けた。
建物が、彼を逃がしている。
いや。
鳳恭介が、建物に残された逃げ道を読んでいる。
九条の携帯が震えた。
鳳からのメッセージ。
――学校を出たら、北側の細い道へ。
――その先に車があります。
――私が運転します。
九条は画面を見た。
次の瞬間、別のメッセージが重なった。
差出人不明。
――鳳先生の車には乗らない方がいい。
九条は目を細めた。
続けて画像が届く。
黒い車。
運転席に座る鳳恭介。
そして、その車の下に取り付けられた、小さな黒い箱。
九条は台車の中で、息を止めた。
鳳の車に、何かが仕掛けられている。
携帯がまた震える。
鳳からの着信。
九条は出た。
『九条先生、車が見えますか』
鳳の声は穏やかだった。
九条は言った。
「鳳先生」
『はい』
「車から離れてください」
電話の向こうで、初めて鳳が沈黙した。
九条は続けた。
「建物の次は、あなたの逃げ道が罠です」




