第五章 江口桜次郎は、匿わない
学校という場所は、奇妙なほど犯罪に向いていない。
廊下には人目があり、教室には窓があり、どこかで必ず誰かが喋っている。
職員室には電話が鳴り、保健室には来室記録が残り、校門には防犯カメラがある。
教師は生徒の顔を覚え、生徒は教師の癖を覚えている。
つまり、隠れるには最悪の場所だ。
しかし、最悪の場所だからこそ、誰もそこに逃亡犯がいるとは思わない。
江口桜次郎は、その矛盾を嫌というほど知っていた。
学校は安全な場所だと信じられている。
だからこそ、危険なものが入り込んだ時、気づくのが遅れる。
その日の夕方、江口は職員室の窓から、校門の方を見ていた。
七夕祭前の校内は、いつもより騒がしい。
体育館からは吹奏楽部の音が漏れ、廊下では段ボールを抱えた生徒が走り、家庭科室からは甘い匂いが漂っている。
職員室のプリンターは朝からずっと動きっぱなしで、どこかのクラスが作ったポスターの誤字を巡って、国語科の教師が頭を抱えていた。
平和だった。
少なくとも、表面上は。
だが、江口のスマートフォンには、平和とは程遠い通知が並んでいる。
【速報】京東大女性医師死亡事件 九条雅紀容疑者を全国に指名手配
【続報】渋谷の医療カンファレンス会場で九条容疑者を目撃か
【独自】元ルーメン技術者が意識不明 九条容疑者との関連を捜査
【検証】“死体を知り尽くした男”はどこへ逃げたのか
容疑者。
指名手配。
凶悪犯。
その言葉の横に、九条雅紀の顔写真がある。
江口は画面を見つめながら、思わず呟いた。
「顔が良すぎると、犯罪ニュースまで絵面がうるさいな」
隣の席の教師が振り向いた。
「江口先生、何か言いました?」
「いえ。七夕祭の治安が心配だなと」
「毎年心配ですよ。去年なんか、お化け屋敷の床が抜けましたからね」
「今年は床じゃなくて社会が抜けそうです」
「え?」
「なんでもありません」
教師は首を傾げて戻っていった。
江口はスマートフォンを伏せた。
朝から、九条雅紀のニュースは止まらない。
江口は九条と深い付き合いがあるわけではない。
江口桜次郎にとって九条雅紀は、二階堂壮也や真壁彰を通じて知った、妙に冷静で、妙に美しく、妙に人間の自己保存本能が薄い法医学者だった。
死体について話す時は正確で、本人の危機について話す時は雑。
江口はそう認識している。
その男が人を殺したとは、どうしても思えなかった。
だが、思えないことと、信じることは違う。
教師という仕事をしていると、その差に敏感になる。
生徒が「自分はやっていない」と言う。
親が「うちの子に限って」と言う。
同僚が「悪い子ではない」と言う。
それでも、事実は別の場所にある。
だから江口は、九条を信じているとは言えなかった。
ただ、ニュースの中の九条雅紀は、江口の知っている九条雅紀ではなかった。
それだけだった。
スマートフォンが震えた。
二階堂からのメッセージ。
――生きてるか。
江口は眉をひそめる。
――七夕祭という名の文化祭準備で死にかけてる。用件は。
すぐに返事が来る。
――九条がそっちへ行く。
江口は画面を二度見した。
それから、ゆっくりと返信した。
――誤送信?
――正常。
――異常だろ。
――分かってる。十分だけ預かれ。
――犬猫みたいに言うな。
――犬猫より目立つ。
――でも今、学校周辺は目撃情報が少ない。文化祭準備中なら外部業者が多い。紛れられる。
江口は額に手を当てた。
なるほど。
理屈は分かる。
今日の校内には、印刷業者、音響業者、PTA、卒業生、地域ボランティア、警備会社、出入りの花屋までいる。普段なら部外者は目立つが、今日は逆に目立たない。
しかも学校は、警察の捜索優先順位としては低い。
指名手配された法医学者が、中学校に逃げ込むなど、普通は考えない。
普通は。
江口は打った。
――無理だよ。生徒がいる。
二階堂の返信。
――だから頼んでる。九条が一人で逃げると、死人が増える。
江口は、指を止めた。
死人が増える。
その一文だけで、二階堂が軽口を捨てていることが分かった。
――説明して。
――時間がない。伊藤蓮は助かったが、次に本郷が狙われる。九条が本郷の居場所を追ってる。
――ただ、発作気味で長く動けない。吸入薬なし。
――警察は九条確保を最優先。犯人も九条を追ってる。
江口は目を閉じた。
学校に逃亡犯を入れる。
生徒がいる。
もし何かあれば、自分の教師人生どころでは済まない。
だが、断ったらどうなる。
九条は捕まるかもしれない。
あるいは、犯人に見つかるかもしれない。
そして、次の誰かが死ぬかもしれない。
江口は唇を噛んだ。
教師は、生徒を守る仕事だ。
だから、危険な人間を校内に入れてはいけない。
だが、教師は、人間を一つのレッテルで判断しない仕事でもある。
だから、ニュースが「容疑者」と呼んだ人間を、ただそれだけで見捨てていいのか。
江口は、スマートフォンを握り直した。
――十分だけ。生徒には絶対に近づけない。文化祭準備エリアから外す。
――何かあれば、俺はお前を一生恨むよ。
二階堂から、すぐに返事が来た。
――もう恨まれてると思ってた。
――追加で恨む。
――感謝する。
江口はスマートフォンを伏せた。
そして立ち上がった。
まず、印刷室だ。
*
午後五時十八分。
九条雅紀は、校門の前に立っていた。
その学校は、都内の住宅街にある公立中学校だった。
校門には『七夕祭』と書かれた文化祭の立て看板があり、生徒たちが描いたらしい色鮮やかなポスターが貼られている。
外から見れば、どこにでもある学校だ。
しかし、九条にとっては病院や大学よりも入りにくい場所だった。
理由は単純だった。
生きている人間が多すぎる。
それも、未成年が多い。
ここで捕まれば、江口に迷惑がかかる。
ここで犯人に追いつかれれば、生徒に危険が及ぶ。
来るべきではなかった。
だが、他に選択肢がなかった。
クロスゲートタワーから脱出した後、九条は二階堂の手配した若い男に案内され、乗り換えを繰り返した。
車には乗らない。電車も長くは使わない。人通りの多い道を避け、監視カメラの少ない裏道を歩く。
それでも、目撃情報は出た。
『九条、代々木で見た。』
『いや似てるだけかも。』
『黒服で背高い人みんな九条に見える。』
『九条先生、東京に何人いるんだよ。』
『もはや概念。』
概念。
九条はその投稿を見て、しばらく意味を考えた。
自分が概念になっている間に、山田美月は遺体安置室にいる。
伊藤蓮は病院に搬送された。
本郷教授は行方が分からない。
概念になっている暇はない。
校門脇の通用口が開いた。
江口桜次郎が顔を出した。
スーツではない。学校用の薄いポロシャツに、首から職員証を下げている。
表情は、非常に悪い。
「うわ」
開口一番、江口は言った。
「本物の指名手配犯だ」
九条は軽く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけします」
「迷惑という言葉で済ませようとしてるあたり、だいぶ図々しいですね」
「通報しますか」
「したら僕の人生も面倒になるので嫌です」
「合理的ですね」
「合理じゃないです。友達の友達を売るほど、人間できてないだけです」
江口はそう言ってから、慌てたように周囲を見た。
「入ってください。早く。あと顔を伏せて。顔面が事件性を帯びてる」
「顔面に事件性はありません」
「あります。いま全国的にあります」
九条は言われた通り、少し顔を伏せた。
江口は通用口から九条を入れ、すぐに鍵を閉めた。
校内に入った瞬間、九条は足を止めた。
廊下の匂い。
ワックス、紙、絵の具、段ボール、汗、給食室の残り香。
病院とも大学とも違う匂いだった。
死者がいない場所の匂い。
九条はそれを、少し懐かしいもののように感じた。
「感傷に浸らないでください」
江口が低い声で言う。
「浸っていません」
「浸ってる顔でした」
「そう見えましたか」
「九条先生、自分の表情筋を信じすぎです」
江口は廊下の先を指差した。
「印刷室に入ってください。今からあなたは、文化祭パンフレットの印刷を手伝う外部業者です」
「私は印刷業者には見えないと思います」
「指名手配犯よりはマシです」
「経験がありません」
「印刷に?」
「はい」
「殺人容疑をかけられる経験はあるんですか」
「ありません」
「じゃあ両方初心者ですね。大丈夫です」
九条は返事に迷った。
江口は早足で進む。
廊下の向こうから生徒たちの声が聞こえる。
「江口先生ー! 模造紙足りません!」
「職員室!」
「江口先生、三年二組の看板、ガムテープ取れました!」
「養生テープ使え!」
「先生、段ボール切るカッターあります?」
「教師に物騒な質問をするな!」
江口は次々と返事をしながら、九条を印刷室へ押し込んだ。
印刷室は狭かった。
大型プリンターが二台。
コピー用紙の山。
色紙、ラミネーター、裁断機。
壁には文化祭実行委員会の予定表。
江口はドアを閉め、鍵をかけた。
それから、九条をまじまじと見た。
「顔色、悪いですね」
「通常です」
「通常が悪いなら、それは悪いんです」
「少し走りました」
「少し?」
「階段を数階分」
「それは少しじゃないです。喘息持ちでしょう」
九条は黙った。
江口の眉が上がる。
「吸入薬は?」
「警察にあります」
「なぜ命綱を警察に預けて逃げるんですか」
「逃げる予定ではありませんでした」
「計画性があるのかないのか、どっちなんですか」
「状況に応じて判断しています」
「それを世間では行き当たりばったりと言います」
江口は棚を開け、救急箱を取り出した。
「保健室に行かせたいところですが、無理ですね。生徒に見られる。水は?」
「いただけると助かります」
「でしょうね」
江口はペットボトルの水を渡した。
九条は礼を言って受け取り、少しだけ飲んだ。
手がわずかに震えている。
江口はそれを見逃さなかった。
「九条先生」
「はい」
「死体は読めても、自分が消耗してることは読めないんですね」
「必要ありません」
「教師として言いますけど、そういうこと言う大人はだいたい倒れます」
「倒れる予定はありません」
「倒れる人はみんなそう言います」
江口は椅子を引いた。
「座ってください」
「時間がありません」
「座れ」
声が変わった。
教師の声だった。
九条は、少しだけ意外そうに江口を見た。
そして、椅子に座った。
江口は腕を組んだ。
「二階堂から聞きました。本郷先生という人が狙われてるかもしれないと」
「はい」
「居場所は?」
「まだ分かりません」
「じゃあ、ここで何をするんですか」
「山田先生のファイルを確認します。伊藤さんが言った“本郷先生が次”という言葉と、山田先生の残した記録を照合する必要があります」
「端末は?」
「これです」
九条は、若い男から受け取っていた小型端末を取り出した。
鳳経由で用意されたものらしい。ネットワーク接続は限定されている。
江口は呆れた顔をした。
「皆さん、犯罪映画みたいに準備が良すぎませんか」
「私は準備していません」
「そこは威張るところじゃないです」
九条は端末を起動した。
山田美月のファイルの一部が、暗号化された状態で共有されている。
すべてではない。真壁が保全したデータから、二階堂が必要最低限だけ送ったのだろう。
九条はファイル名を確認する。
Hongo_memo
ethics_committee_schedule
LUCID_exception_cases
R_Ito_statement_extract
本郷メモ。
九条はそれを開いた。
文書は短かった。
――本郷准教授には、五月二十七日に相談済み。
――データ倫理委員会で正式に取り上げる予定。
――ただし、本郷先生は「学内だけでは守れない」と発言。
――学外の第三者機関への通報を検討。
――次回接触予定:六月十六日、十七時三十分。
――場所は「安全な場所」。
――合言葉:黒板係。
九条の指が止まった。
江口が覗き込む。
「黒板係?」
「意味が分かりますか」
「いや、僕に聞きます?」
「この言葉は、江口先生の作品名にも含まれています」
「僕の作品を合言葉に使うの、やめてほしいんですけど」
「山田先生が知っていた可能性は」
「九条先生、今それを本気で言ってます?」
「はい」
江口は頭を抱えた。
「勘弁してください。法医学教室の助教が、僕の同人活動まで把握してたら、怖いを通り越して申し訳ない」
「ですが、合言葉が“黒板係”です」
「単語としては普通にあります」
「普通ではありません」
「ミステリ関係者は普通の基準が壊れてるんですよ」
江口は端末の画面を見つめた。
黒板係。
その言葉は、江口にとって他人事ではなかった。
自分が書いた物語の中にも、その言葉はある。
学校、記録、名前を書く行為、消される行為。
山田美月がそれを知っていたのか。
偶然なのか。
それとも、誰かが江口をこの逃亡劇に巻き込むために置いたのか。
江口は嫌な予感がした。
「九条先生」
「はい」
「この合言葉、僕に向けたものじゃないですか」
「その可能性があります」
「なぜ」
「山田先生は、直接私に連絡できなくなった時、私の周囲の誰かに辿らせる方法を考えたのかもしれません」
「僕、周囲なんですか」
「少なくとも、二階堂の周囲ではあります」
「最悪の人間関係ですね」
九条は真面目な顔で頷いた。
「同意します」
「そこは否定してください」
江口はため息をついた。
その時、印刷室の外で足音が止まった。
「江口先生?」
生徒の声だった。
江口と九条は同時に黙った。
「先生、中にいますか? パンフレットの紙、取りに来ました」
江口は素早く九条を見た。
九条は立ち上がりかけた。
江口が手で制する。
そして、印刷機の横に積んであった段ボールを指差した。
「後ろ」
九条は無言でそこへ移動する。
江口は深呼吸してから、鍵を開けた。
ドアを細く開く。
「何?」
外にいたのは、女子生徒だった。
三年生だろう。髪を一つに結び、腕に文化祭実行委員の腕章をつけている。
「パンフレット用の厚紙、職員室にないって言われて」
「そこにある。十枚だけ持っていって」
「十枚じゃ足りません」
「足りるように失敗を減らしなさい」
「無理です。うちのクラス、全員失敗でできてるので」
「自己分析が早いな」
生徒は笑いながら印刷室に入ろうとした。
江口は自然に身体で入口を塞いだ。
「先生?」
「中、散らかってるから」
「いつも散らかってますよ」
「今日は特別散らかってる」
「なんですかそれ」
生徒は首を伸ばして中を覗こうとした。
その瞬間、奥でプリンターが動き出した。
九条が誤って操作したのではない。
予約印刷が始まっただけだった。
だが、生徒の視線がそちらへ向く。
段ボールの隙間から、黒い服の袖が見えた。
江口の心臓が跳ねた。
生徒の目が、その袖に止まる。
「誰かいます?」
江口は一瞬で答えた。
「業者さん」
「業者さん?」
「パンフレットの印刷調整。外部の人」
「へえ」
生徒はもう一度覗こうとした。
江口は厚紙を十数枚まとめて渡した。
「はい。早く戻る。走らない。カッターを持ったまま移動しない。スマホを見ながら階段を降りない」
「先生、母親ですか」
「母親より口うるさい教師です」
生徒は笑って廊下へ戻りかけた。
その時、スマートフォンの通知音が鳴った。
生徒が画面を見る。
顔色が変わった。
「え、九条雅紀って指名手配されたんですか」
江口の背中に冷たい汗が流れた。
「スマホ見ながら歩くなって言ったばかり」
「でも先生、これやばくないですか。渋谷で出たって。顔写真も——」
「廊下で事件の話をしない」
「えー、でも今みんな見てますよ。めっちゃイケメンって」
「被害者がいる」
江口の声が、少し強くなった。
生徒は驚いたように顔を上げた。
「……すみません」
「謝る相手は僕じゃない」
「はい」
生徒は厚紙を抱え直した。
そして、もう一度だけ印刷室の奥を見た。
何かに気づいた顔だった。
しかし、何も言わずに去っていった。
江口はドアを閉め、鍵をかけた。
数秒、動けなかった。
段ボールの後ろから九条が出てくる。
「江口先生」
「黙ってください」
「はい」
「生徒に嘘をつかせるところでした」
「申し訳ありません」
「違います。僕が嘘をついたんです」
江口は額を押さえた。
「最悪だ」
九条は黙っていた。
江口は、ゆっくりと息を吐いた。
「九条先生、ここに長くはいられません」
「分かっています」
「本当に分かってます?」
「はい」
「あなた、さっきから分かっていると言いながら、全部悪化させてます」
「否定できません」
「しないでください。こっちが余計に腹立つ」
江口は端末を指差した。
「早く本郷先生の場所を探してください」
「はい」
*
午後五時四十一分。
警視庁では、九条雅紀の指名手配資料が各所に送られていた。
顔写真。
氏名。
年齢。
職業。
身体的特徴。
身長。
服装。
注意事項。
ただし、二階堂壮也は「完全内臓逆位」「喘息」という情報を資料から外させた。
管理官は怒った。
「身体的特徴だろう」
「医療情報です。公開の必要はありません」
「犯人確保に必要なら」
「必要ありません。右に心臓がある男を探してくださいとでも言うつもりですか」
「ふざけるな」
「ふざけているのは、すでにネットです。警察まで加担する必要はない」
二階堂は冷静だった。
冷静でいなければ、怒鳴ってしまいそうだった。
九条雅紀の顔写真が、警察資料として正式に流れた。
それはつまり、もう戻れないということだ。
容疑者。
指名手配犯。
その言葉は、警察が発した瞬間に現実になる。
たとえ後で取り消されたとしても、一度貼られた名前は残る。
若い捜査員が駆け込んできた。
「二階堂さん、目撃情報です」
「どこ」
「都内の中学校付近で、九条らしき人物を見たという投稿が」
二階堂の指が止まった。
「中学校?」
「はい。文化祭準備中の学校らしいです。投稿者は生徒ではなく、近隣住民のようですが」
二階堂は端末を奪うようにして見た。
『近所の中学校の裏門に、九条雅紀っぽい人いた。』
『文化祭? の準備で人多かったから紛れてたかも。』
『黒服、背高い、顔は一瞬だけ。』
『まさかね。』
位置情報は消されている。
だが、背景に校門の一部が写っている。
文化祭の看板。
手描きのポスター。
二階堂はすぐに分かった。
江口の学校だ。
まずい。
江口が九条を匿っていると分かれば、江口も終わる。
教師としても、社会的にも。
それだけではない。
犯人にも伝わる。
犯人は九条の位置を追っている。
九条が江口の学校にいると分かれば、生徒たちが危険に晒される。
二階堂はすぐに投稿の拡散状況を確認した。
まだ少ない。
十数件。
だが、時間の問題だ。
匿名掲示板では、すでに誰かが画像の学校を特定しようとしている。
『この看板どこの学校?』
『都内っぽい。』
『文化祭今週末の中学で検索すれば出る?』
『九条雅紀、中学校に逃げ込むのさすがに草。』
『いや怖いだろ。生徒いるんだぞ。』
『でも文化祭に指名手配犯来るの、映画すぎる。』
二階堂は奥歯を噛んだ。
遊んでいる。
人の命と人生がかかっているのに、見ている側は映画の予告のように消費している。
彼は江口へ電話をかけた。
一コールで出た。
『いま最悪だ』
「こっちもだ。学校が特定されかけてる」
『だろうな。生徒が九条先生を見たかもしれない』
「投稿したか」
『まだ分からない。ただ、気づいた可能性がある』
「九条は」
『印刷室。文化祭パンフレットの地獄に巻き込まれてる』
「本郷の場所は」
『“黒板係”という合言葉が出た』
二階堂は眉をひそめた。
「黒板係?」
『俺に聞くな。俺が一番嫌だ』
「本郷は学校に関係してるのか」
『分からない。ただ、山田先生のメモにその言葉があった。九条先生は、俺に向けられた合図かもしれないと』
二階堂は一瞬黙った。
江口に向けられた合図。
なら、山田美月は九条の周囲を把握していたのか。
あるいは、犯人が江口まで巻き込むよう誘導しているのか。
「江口、すぐ九条を移動させろ」
『どこへ』
「分からん」
『正直だな』
「正直で済む状況じゃない。犯人が学校に来る可能性がある」
電話の向こうで、江口が黙った。
その沈黙の後、低い声が返ってきた。
『生徒に危険が及ぶなら、九条先生を外に出す』
「それは九条が捕まる」
『ここは学校。生徒の方が優先』
二階堂は目を閉じた。
江口らしい答えだった。
だからこそ、頼った。
「分かってる。だから、移動先を作る。五分くれ」
『三分で』
「教師って厳しいな」
『文化祭前の教師は警察より時間に厳しいぞ』
通話が切れた。
二階堂は鳳恭介へ連絡した。
鳳は二コールで出た。
『はい』
「中学校から人を見られずに出すルートを読めますか」
『学校名は』
二階堂は送った。
鳳は数秒黙った。
『校舎の配置図は公開されています。避難経路図も文化祭パンフレットに載っていました』
「早い」
『建物は、自分で喋ることがあります』
「気持ち悪いこと言ってないで答えてください」
『体育館裏の搬入口。そこから給食搬入路に出られます。ただし、文化祭準備中なら生徒がいます。より安全なのは、印刷室から渡り廊下を通って旧校舎側へ出るルートです』
「旧校舎?」
『現在は資料室と美術部倉庫になっているようです。外部からは見えにくい。校外へ出るには用務員室脇の通用門』
「送ってください」
『もう送りました』
「さすが」
二階堂の端末に、簡単な校内図が届いた。
赤線が一本。
印刷室。
渡り廊下。
旧校舎。
美術準備室。
用務員室脇。
通用門。
逃げ道。
いや、鳳ならこう言うだろう。
建物が残している道。
二階堂は江口に図面を転送した。
――鳳ルート。
――印刷室→渡り廊下→旧校舎→用務員室脇通用門。
――三分以内に動け。
すぐに江口から返信。
――文化祭パンフレットより分かりやすいです。
――腹立つ。
*
印刷室で、江口は端末を見て眉を顰めた。
「移動します」
九条は顔を上げた。
「本郷先生の場所がまだ」
「学校が特定されかけています」
九条は立ち上がった。
「すぐ出ます」
その反応の早さに、江口は少しだけ驚いた。
「生徒に危険が及ぶ可能性があります」
「はい」
「迷わないんですね」
「迷う理由がありません」
九条は端末を閉じた。
「私は外に出ます」
「出たら捕まります」
「その方が学校は安全です」
江口は九条を見た。
ニュースの中の九条雅紀は、冷酷な法医学者だった。
死体を扱う完全犯罪の専門家。
逃走中の凶悪犯。
だが目の前の九条雅紀は、生徒に危険が及ぶと聞いた瞬間、自分が捕まる方を選んだ。
江口は息を吐いた。
「本当に、面倒な人ですね」
「申し訳ありません」
「謝ってる暇があるなら、こっちです」
江口は印刷室の鍵を開けた。
廊下には誰もいない。
遠くで生徒たちの声がする。
文化祭準備の喧騒に紛れて、二人は廊下を歩き出した。
九条は顔を伏せている。
江口は前を歩きながら、すれ違う生徒に次々と声をかけた。
「走らない!」
「その段ボールは二人で持つ!」
「廊下にペンキ置くな!」
「スマホしまえ!」
その自然さが、九条を隠していた。
教師は、常に誰かを注意している。
その隣に知らない大人が一人いても、誰も深く見ない。
渡り廊下に差しかかった時だった。
背後から声がした。
「江口先生」
さっきの女子生徒だった。
厚紙を抱えたまま、立っている。
江口は振り返った。
「何?」
生徒は、江口の隣の九条を見ていた。
今度は、はっきりと。
「その人」
江口の喉が詰まった。
九条は何も言わない。
生徒はスマートフォンを握っている。
画面には、九条雅紀の指名手配速報が表示されていた。
江口は一歩前に出た。
「違う」
自分でも驚くほど、下手な嘘だった。
生徒は江口を見た。
「先生、嘘つくの下手ですね」
「教師は正直が売りだから」
「いつも宿題忘れた人に嘘つくなって言うくせに」
「今それを言う?」
生徒の目に、涙が少しだけ浮かんでいた。
「その人、怖い人なんですか」
江口は答えられなかった。
怖い人ではない。
そう言いたかった。
だが、断言できる立場ではない。
九条が一歩前に出た。
「怖がるのは、正しいです」
江口は振り向いた。
「九条先生」
九条は生徒を見た。
「あなたが見ているニュースは、事実の一部です。私は警察に追われています。人が亡くなっています。あなたが私を怖いと思うのは、間違っていません」
生徒は唇を震わせた。
「じゃあ、なんで先生はこの人を連れてるんですか」
江口は、何も言えなかった。
九条が代わりに答えた。
「私が、次に死ぬかもしれない人を探しているからです」
「本当に?」
「はい」
「証拠は?」
「今は見せられません」
「じゃあ信じられない」
「それも正しいです」
生徒は混乱したような顔をした。
九条は静かに続ける。
「だから、信じなくていい。通報してもいい。ただ、もし投稿するなら、位置情報を消してください」
「え?」
「あなたが投稿すれば、警察だけでなく犯人も見ます。ここにいる生徒たちも危険になります」
生徒の顔色が変わった。
「犯人が、ここに来るかもしれないんですか」
「可能性があります」
江口は低く言った。
「九条先生」
「事実です」
「中学生に言うことじゃない」
「知らないまま危険に近づく方が悪い」
江口は反論できなかった。
生徒は、しばらく九条を見ていた。
それから、スマートフォンの画面を消した。
「投稿しません」
江口は息を吐いた。
「ありがとう」
「でも先生」
生徒は江口を見た。
「あとでちゃんと説明してください」
「できる範囲で」
「それ、教師が逃げる時の言い方です」
「よく分かってる」
生徒は九条をもう一度見た。
「人を殺してないなら、ちゃんと戻ってきてください」
九条は答えなかった。
生徒は言った。
「返事してください」
教師のような口調だった。
九条は少しだけ目を伏せた。
「努力します」
江口が即座に言った。
「それは駄目な大人の返事です」
生徒も頷いた。
「駄目です」
九条は二人を見比べた。
そして、ほんのわずかに困ったような顔をした。
「戻ります」
生徒は頷いた。
「ならいいです」
江口は、背中を押されるように動き出した。
「行きます」
三人はそこで別れた。
生徒は廊下へ戻り、江口と九条は旧校舎へ向かう。
その時、校内放送が流れた。
『文化祭実行委員に連絡します。正門付近に報道関係者と思われる方が来ています。生徒は近づかないでください。繰り返します——』
江口の足が止まった。
「もう来た」
九条が言った。
「報道ですか」
「警察より厄介な場合があります」
「同感です」
江口は渡り廊下の窓から正門を見た。
カメラを持った人影が数人。
その後ろに、スマートフォンを掲げる近隣住民らしき人々。
学校が、見世物になり始めている。
江口は顔を歪めた。
「俺の学校を、事件現場みたいに撮るなよ」
九条は何も言わなかった。
言えば、おそらく謝罪になる。
謝罪では、この怒りは受け止められない。
旧校舎へ入る。
空気が少し変わった。
普段使われていない廊下は、文化祭準備の喧騒から遠く、静かだった。
古い掲示板、使われていない靴箱、美術部の作品が置かれた棚。
その奥に、美術準備室がある。
江口は鳳からの図面を確認しながら進んだ。
「用務員室脇の通用門まで出れば、外に出られます」
「その後は」
「二階堂が何とかするでしょう」
「信頼していますね」
「信頼というより、責任を押しつけています」
「なるほど」
曲がり角に差しかかった時、九条が足を止めた。
「江口先生」
「何ですか」
「誰かいます」
江口は息を止めた。
廊下の奥。
美術準備室の前に、人影があった。
作業着姿の男。
帽子を深くかぶっている。
手には、工具箱。
文化祭準備の業者に見える。
だが、九条は動かなかった。
男がゆっくり振り向く。
その顔は、マスクで半分隠れていた。
江口は低く言った。
「業者さんですか」
男は答えない。
九条は男の手を見ていた。
左手に工具箱。
右手はポケット。
右利き。
だが、左利きに見せる必要はもうない。
ここにはカメラがない。
男はポケットから何かを取り出した。
小型のスプレー缶のようなもの。
九条の顔が変わった。
「吸わないでください」
江口は反射的に息を止めた。
男がスプレーを噴射した。
白い霧が廊下に広がる。
九条は江口の腕を掴み、横の教室へ飛び込んだ。
扉を閉める。
江口は咳き込みそうになるのを必死に堪えた。
「何ですか、あれ」
「吸入で作用する薬物の可能性があります」
「学校で?」
「場所を選ぶ人間ではありません」
廊下の向こうで足音が近づいてくる。
江口は教室内を見回した。
古い机。
椅子。
掃除用具入れ。
窓。
窓の外は中庭。
高さは一階半ほど。
九条は窓へ向かった。
「ここから出ます」
「待ってください。怪我します」
「廊下に戻るより良い」
江口は奥歯を噛んだ。
その時、九条の携帯が震えた。
画面には、差出人不明のメッセージ。
――本郷先生は、もう学校にいます。
九条と江口は、同時に画面を見た。
続けて、画像が届く。
保健室の扉。
その前に倒れている、見知らぬ中年男性。
江口の顔から血の気が引いた。
「保健室……?」
九条が低く言った。
「本郷先生です」
廊下の外で、男の足音が止まった。
扉の向こうから、声がした。
「九条先生」
知らない男の声。
「次の死因は、学校で作りましょう」
江口は、初めてはっきりと恐怖を覚えた。
ここは学校だ。
生徒がいる。
文化祭前の、騒がしくて平和な学校だ。
その中心に、次の死体が置かれようとしている。
九条は窓の鍵を開けた。
そして江口を見た。
「保健室へ行きます」
江口は言った。
「僕も行きます」
「危険です」
「ここは僕の学校です」
その声は震えていなかった。
九条は一瞬だけ江口を見た。
それから頷いた。
廊下の扉が、外からゆっくりと開き始めた。




