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指名手配犯 九条雅紀  作者: 二条理|アコンプリス


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4/6

第四章 指名手配犯は、死体を読めない

 人は、見たいものを見る。

 夜道で長い影を見れば、それを不審者だと思う。

 ニュースで名前を聞いた顔に似た人間を見れば、それを本人だと思う。

 誰かが「逃げた」と言えば、昨日までただ歩いていただけの男の背中にも、逃亡者の意味が貼りつく。

 九条雅紀は、その日、東京の至るところで目撃された。

 新宿駅の改札。

 品川のコンコース。

 大学病院の裏口。

 京東大学近くのコンビニ。

 都営線の車内。

 喫茶店の窓際。

 雨も降っていないのに黒い傘を差した男。

 白いマスクをした長身細身の男。

 黒い服を着て、少し俯いて歩く男。

 そのほとんどは、九条雅紀ではなかった。

 だが、世間にとっては関係がない。

 九条雅紀は、すでに一人の人間ではなかった。

 街のあらゆる陰に貼りつく、事件の名前になっていた。

     *

 午後三時四十一分。

 医学部資料棟の裏手から外へ出た九条雅紀は、最初に白衣を脱いだ。

 正確には、脱いだのではない。

 搬送用通路を通る際に着せられていた使い捨てのガウンを丸め、資料棟の廃棄物箱に入れた。

 その下は黒いシャツと濃紺のジャケットだった。

 真壁から渡されたプリペイド携帯を右手に持ち、九条は一度だけ振り返った。

 古い搬入口は、すでに閉じている。

 真壁彰は戻った。

 九条を逃がした刑事としてではない。

 現場確認の途中で、重要参考人を見失った刑事として。

 それが通るかどうかは分からない。

 おそらく、通らない。

 九条は小さく咳をした。

 喉の奥が焼けるように乾いている。

 吸入薬は持っていない。警視庁で所持品として預けたままだ。

 犯人は、それも知っているかもしれない。

 完全内臓逆位。

 左利き。

 血液。

 喘息。

 自分の身体が、証拠として使われている。

 不快だった。

 しかし、不快という感情は、いま役に立たない。

 九条は携帯を開いた。

 真壁から転送された情報が一件。

――伊藤蓮。三十七歳。元ルーメン・メディカル開発部。

――午後二時三十分、メディカルデータ・カンファレンス会場で山田美月と接触予定。

――現在所在不明。

――最終確認地点:渋谷区神南、クロスゲートタワー周辺。

 続いて、二階堂から短いメッセージ。

――お前に似た男が伊藤を追ってる。

――たぶん罠だ。

――でも行くんだろ。

――だったら真正面から行くな。

――あと、顔が目立つ。どうにかしろ。

 九条は、画面を数秒見つめた。

 どうにかしろ。

 顔はどうにもならない。

 九条は周囲を見渡した。

 資料棟裏の搬入路は、医学部の敷地の端にある。正面玄関に報道陣が集まっているせいで、裏手には人が少ない。だが、完全な無人ではない。

 白衣姿の学生。

 配送業者。

 警備員。

 スマートフォンを見ながら歩く若い女。

 九条は敷地を出る前に、反対側へ歩いた。

 正門ではなく、職員用の通用口。

 そこから出れば、大通りではなく細い路地へ出られる。

 路地へ出る直前、前方から二人の女子学生が歩いてきた。

「やばくない? 九条先生って本当にあの九条先生?」

「うちの医学部の?」

「そう。公開講座の動画見たことある。顔がさ、もうモデルみたいな」

「いや被害者もうちの先生なんだから不謹慎でしょ」

「分かってるけど、あの防犯カメラ映像、映画の予告みたいじゃなかった?」

 九条は足を止めなかった。

 女子学生の一人が、すれ違いざまに顔を上げた。

 目が合った。

 時間にすれば一秒にも満たない。

 だが、その一秒で、彼女の表情が変わった。

 九条は、そのまま路地へ出た。

 背後で、小さな声が聞こえた。

「え、今の……」

 九条は歩調を変えない。

 走れば目立つ。

 振り返れば確信される。

 逃げる者は、逃げているように動いた瞬間、捕まる。

 角を曲がったところで、携帯が震えた。

 二階堂から。

――今、大学裏で目撃投稿が出た。

――お前か?

 九条は返信した。

――おそらく。

 すぐに返ってくる。

――おそらくじゃねえ。

――もう二百リポスト。

――“九条先生、大学裏にいた”だと。

――位置情報は消されてるが遅い。

――すぐ離れろ。

 九条は携帯を閉じた。

 離れる。

 どこへ。

 タクシーは危険だ。

 防犯カメラ、乗車記録、運転手の記憶。

 電車も危険だ。

 駅のカメラと人目が多すぎる。

 徒歩では遅い。

 九条は路地の先にある小さな駐輪場を見た。

 レンタル自転車のポート。

 スマートフォン認証式。

 使えない。

 自分の端末は警察にある。

 プリペイド携帯にはアプリも決済情報もない。

 その時、背後から声がした。

「あの」

 九条は振り返った。

 さっきの女子学生だった。

 息を切らしている。

 手にはスマートフォン。画面には、九条の顔写真が表示されていた。

 九条は黙っていた。

 彼女は青ざめながら言った。

「九条先生、ですよね」

「人違いです」

 嘘は下手だった。

 少女は怯えたように一歩下がったが、スマートフォンを向けることはしなかった。

「先生、逃げてるんですか」

 九条は少しだけ首を傾げた。

「通報しますか」

 少女の指が震えた。

 通報すべきだ。

 彼女の顔にはそう書いてあった。

 当然だ。

 九条雅紀は、ニュースの中ではすでに人を殺したかもしれない男だった。

 少女は唇を噛んだ。

「先生、山田先生を殺したんですか」

「いいえ」

「本当に?」

「はい」

「じゃあ、なんで逃げてるんですか」

 九条は答えに詰まった。

 法律上、正しい説明はいくつもある。

 任意同行中であり、逮捕前であり、逃亡ではなく、現場確認中の所在移動であり——。

 だが、彼女にとってそれは言い訳にしか聞こえないだろう。

 九条は言った。

「次に死ぬ人を止めるためです」

 少女の表情が揺れた。

「警察に言えばいいじゃないですか」

「言いました」

「信じてもらえなかった?」

「半分ほどは」

「半分じゃ駄目なんですか」

「今は、駄目です」

 少女はスマートフォンを握りしめた。

 遠くから、パトカーのサイレンが聞こえる。

 大学周辺へ向かっているのかもしれない。

 九条は言った。

「あなたが通報するのは正しい行動です」

「じゃあ」

「ただ、私がここにいたという情報は、犯人にも届きます」

 少女は息を呑んだ。

「犯人?」

「はい」

「本当に別にいるんですか」

「います」

「なんで分かるんですか」

 九条は少し考えた。

「死体が、そう言っていました」

 少女は、理解できないという顔をした。

 当然だろう。

 九条は自分でも、あまり良い説明ではなかったと思った。

 だが、彼女は通報しなかった。

 代わりに、駐輪場の端に停めてあった自分の自転車を指差した。

「使ってください」

 九条は、少女を見た。

「それは、あなたにとって不利になります」

「盗まれたって言います」

「嘘は推奨しません」

「先生、今それ言うんですか」

 少女は泣きそうな顔で笑った。

「早くしてください。私、怖くなったら通報します」

 九条は一秒だけ躊躇した。

 それから、自転車の鍵を受け取った。

「名前を聞いても?」

「聞かないでください。巻き込まれたくないので」

「賢明です」

「そういうところ、ニュースで見たまんまですね」

 少女は、今度は少しだけ笑った。

 九条は自転車に跨がった。

「ありがとうございます」

「先生」

「はい」

「殺してないなら、捕まらないでください」

 九条は答えなかった。

 答えれば、約束になる。

 約束は、死体より重い。

 彼はペダルを踏んだ。

 背後で、少女のスマートフォンが震えている音がした。

     *

 午後三時五十五分。

 警視庁本部では、九条雅紀が所在不明になったことが正式に確認された。

 廊下の空気は、殺気立っていた。

 管理官の声が、捜査一課のフロアに響く。

「真壁はどこだ!」

 真壁彰は、会議室にいた。

 立っている。

 座れとは言われていない。

 管理官は机を叩いた。

「どういうことだ。重要参考人を現場確認に連れ出し、その後、所在不明? ふざけているのか」

 真壁はまっすぐ前を見た。

「現場確認中、本人が別動線に入ったため、見失いました」

「見失った?」

「はい」

「君がか」

「はい」

「捜査一課の刑事が、容疑の濃い重要参考人を、大学の地下で見失ったと?」

「逮捕前です。容疑者ではありません」

 管理官の顔が赤くなった。

「言葉遊びをするな!」

 真壁は口を閉じた。

 言葉遊び。

 それは二階堂の領分だ。

 真壁には向いていない。

 だが、いま真壁が守れるのは言葉の境界だけだった。

 逮捕前。

 任意同行中。

 現場確認中。

 所在不明。

 逃走ではない。

 少なくとも、公式にはまだ。

 管理官は低い声で言った。

「九条を逃がしたのか」

「いいえ」

「本当に?」

「はい」

「ではなぜ、君は搬送ルートを使った」

「山田美月の遺体と現場状況を確認する必要があったためです」

「九条にか」

「九条医師の供述と現場の整合性を確認するためです」

「その結果、九条は消えた」

「はい」

 管理官は、真壁を睨みつけた。

「君は自分が何をしたか分かっているのか」

「分かっています」

「なら言ってみろ」

 真壁は沈黙した。

 その沈黙が、答えだった。

 扉が開き、二階堂壮也が入ってきた。

「失礼します」

「広報課は呼んでいない」

「呼ばれなくても来ます。もう記者が嗅ぎつけています」

 管理官は舌打ちした。

「発表はまだだ」

「発表しなくても、出ます」

 二階堂は端末を机に置いた。

 画面には、匿名投稿が表示されている。

『九条雅紀、警察から逃げたってマジ?』

『京東大裏で見た人いるらしい。』

『駅から地下鉄乗った?』

『タクシーで逃げた説。』

『いや本部にいるんじゃないの?』

『警察隠してる?』

『さっき渋谷で見た。黒服、細身、マスクなし。』

『指名手配まだ?』

 管理官は画面を睨んだ。

「誰が漏らした」

「漏らす必要がないんです。目撃と憶測で勝手に組み上がってる」

 二階堂は真壁を一瞥した。

 真壁は何も言わない。

 二階堂は続けた。

「ただ、ここで警察が沈黙すると、隠蔽扱いになります。九条の所在不明を認めるしかない」

「そんなことをすれば、逃走と報じられる」

「もう報じられます」

「では何と言う」

 二階堂は、ほんの一秒だけ真壁を見た。

 そして言った。

「“九条医師については、現場確認中に所在が確認できない状況となっており、現在確認を進めている”。この表現で出します」

 管理官は怒りを堪えるように息を吐いた。

「逃走とは言わないのか」

「逮捕前です。逃走と断定すると、こちらが身柄拘束状態だったことを認める形になる」

「実質逃走だ」

「実質で発表文は書けません」

 真壁は黙って二階堂を見ていた。

 言葉は盾になる。

 だが、盾はいつか割れる。

 管理官は言った。

「緊急配備だ。九条雅紀の身柄確保を最優先とする。逮捕状請求も進めろ」

「容疑は」

「山田美月殺害および証拠隠滅。加えて、任意同行中の所在不明」

 二階堂が小さく言った。

「所在不明は罪名じゃありません」

「黙れ」

 管理官は真壁を指差した。

「君は捜査から外れる」

「伊藤蓮の件は」

「別班が動いている」

「間に合いません」

「君に言われる筋合いはない」

 真壁は拳を握った。

 机の上で、二階堂の端末が震えた。

 新着速報。

【速報】九条雅紀医師、任意聴取中に所在不明

【速報】九条雅紀医師、警視庁が行方を確認中

 それから三十秒も経たないうちに、別の見出しが出た。

【速報】法医学者・九条雅紀氏が逃走か 京東大女性医師死亡事件で重要参考人

 さらに。

【独自】警視庁、九条雅紀医師の身柄確保へ 殺人容疑も視野

 二階堂は、画面を閉じた。

「始まった」

 誰も返事をしなかった。

     *

 午後四時二十二分。

 九条雅紀は、渋谷区神南の複合施設近くにいた。

 少女から借りた自転車は、二駅ほど離れた駐輪場に置いた。

 そこからは徒歩だった。

 街には人が多い。

 多すぎる。

 歩道を行き交う人々の半数近くが、手にスマートフォンを持っている。誰かの顔を見て、画面を確認し、また顔を見る。その仕草が、九条にはすべて自分に向けられているように感じられた。

 実際、そのうちいくつかは自分に向けられている。

 大型ビジョンでは、昼のニュースの続報が流れていた。

『京東大学医学部法医学教室の女性医師が死亡した事件で、警視庁から任意で事情を聞かれていた九条雅紀医師の所在が確認できなくなっていることが分かりました。』

 画面に、九条の顔写真が映る。

 九条は足を止めず、ビルのガラスに映った自分の顔を見た。

 ニュースの中の男と、ガラスの中の男。

 同じ顔。

 だが、ニュースの中の男はすでに物語の一部だった。

 殺人容疑。

 法医学者。

 完全犯罪。

 右にある心臓。

 逃走。

 人々はその見出しを見てから、九条を見る。

 順番が逆なら、何も起きないかもしれない。

 ただの背の高い男として通り過ぎたかもしれない。

 だが、見出しは人の目を変える。

 九条はビルの入口を見た。

 クロスゲートタワー。

 医療データ関連カンファレンスの会場は、七階のイベントホール。

 伊藤蓮はここに来る予定だった。

 そして、九条に似た男が伊藤の後を追っていた。

 九条は帽子もマスクも持っていない。

 服装も目立つ。

 正面から入れば、すぐに発見される。

 彼はビルの外周を歩いた。

 搬入口。

 駐車場入口。

 非常階段。

 警備員詰所。

 喫煙所。

 ゴミ集積スペース。

 九条は鳳恭介ではない。

 建物を読むのは専門外だった。

 だが、死体を運ぶ道と、人が隠れる道は似ていることがある。

 人目につかず、短く、清掃しやすく、カメラが少ない道。

 ビルの裏手に、業者用入口があった。

 台車を押したケータリング業者が出入りしている。

 九条は入口から少し離れた場所に立ち、観察した。

 入館証を確認している警備員。

 荷物リストを見ながら署名する業者。

 使い終わった食器を回収するスタッフ。

 その中に、白い箱を積んだ台車を押す男がいた。

 九条は男の左手を見た。

 台車を押す手。

 カードホルダーを触る手。

 袖口。

 右利きだ。

 だが、左手を使おうとしている。

 不自然に。

 九条は、ゆっくりとその男の後を追った。

 業者用入口で、警備員が九条に気づいた。

「すみません、関係者以外は——」

 その瞬間、前方で男の台車が傾いた。

 白い箱が床に落ちる。

 中から、紙コップとプラスチックの蓋が散らばった。

 警備員の視線がそちらへ逸れる。

 九条は動かなかった。

 犯人が仕掛けた隙か。

 偶然か。

 男は慌てたように箱を拾っている。

 だが、その動きが芝居じみていた。

 九条は警備員に言った。

「救護室はどちらですか」

「え?」

「七階のカンファレンス参加者が体調不良と聞きました」

「あなたは?」

「医師です」

 嘘ではない。

 警備員が九条の顔を見た。

 そして、目を見開いた。

 気づいた。

 九条は一歩前に出た。

「人が死ぬかもしれません」

 警備員は固まった。

 通報するべきだ。

 止めるべきだ。

 だが、“医師”という言葉と、“人が死ぬかもしれない”という言葉は、警備員の反射を一瞬だけ鈍らせた。

 その一瞬で、九条は中へ入った。

「待ってください!」

 背後で声が上がる。

 九条は走った。

 喘息のことは、今だけ考えない。

     *

 同じ頃、二階堂壮也は広報室で、九条雅紀の目撃情報を見ていた。

 目撃情報は爆発的に増えている。

『渋谷で見た。』

『いや新宿にいる。』

『池袋の地下通路にいた。』

『黒いシャツ、本人っぽかった。』

『九条先生、歩き方が綺麗すぎて逆に分かる。』

『逃亡犯なのに姿勢良すぎ。』

『顔がニュース写真より断然良かった。』

『こんなイケメンだったら匿う。』

『匿ったら犯罪だぞ。』

『九条になら監禁されたいって言ってる人、本気で病院行け。』

『でも分かる。』

『分かるな。』

 二階堂は眉間を押さえた。

 地獄だった。

 殺人事件が、娯楽に変わっていく。

 容疑者が、キャラクターに変わっていく。

 被害者の名前は薄れ、九条の顔だけが拡散されていく。

 しかも、そのノイズは捜査の邪魔になる。

 百件の目撃情報の中に、本物が一件あるかもしれない。

 だが、残り九十九件の嘘を潰しているうちに、本物は遠ざかる。

 若い広報担当者が言った。

「二階堂さん、これ全部警戒情報として流しますか」

「流すな」

「でも、九条医師の目撃情報が」

「本物まで埋もれる」

「じゃあどうするんですか」

 二階堂は画面を見た。

 渋谷。

 新宿。

 池袋。

 品川。

 京都。

 名古屋。

 ありえない場所まである。

 九条は一人だ。

 一人のはずだ。

 だが、九条に似た男がいる。

 犯人が用意した偽物。

 なら、偽物の目撃情報もある。

 二階堂は考えた。

 消せない。

 止められない。

 なら、利用する。

 彼は担当者に言った。

「公式コメントを出す」

「内容は」

「“ネット上の目撃情報には不確かなものが多く含まれています。個人で追跡、撮影、接触することは危険ですので控えてください”。それから、九条の服装情報は出すな」

「なぜですか」

「服装を出すと、偽物が合わせる」

 二階堂は別の端末で匿名掲示板を開いた。

「それと、渋谷以外の目撃情報を拾え。特に時間が被っているもの」

「渋谷以外?」

「渋谷に本物がいる可能性が高い。だから、渋谷以外の九条目撃を増幅させる」

 担当者は目を丸くした。

「増幅?」

「警察はやらない。だが、公式コメントで“複数地域に目撃情報があるが未確認”と書けば、勝手に散る」

「それ、情報操作では」

「情報整理だ」

 二階堂は淡々と言った。

「犯人も見てる。犯人に、本物の九条がどこにいるか確信させるな」

 担当者は黙った。

 二階堂は画面に目を戻した。

 その時、差出人不明のメッセージが届いた。

――ノイズを増やしても無駄です。

 二階堂は、指を止めた。

 続けて、もう一通。

――こちらには、本物の位置が分かっています。

 添付画像。

 ビルの業者用入口。

 走る九条の後ろ姿。

 撮影時刻は、三分前。

 二階堂は立ち上がった。

「渋谷だ」

「え?」

「クロスゲートタワーに捜査員を回せ。救急もだ」

「九条医師の確保ですか」

 二階堂は一瞬だけ黙った。

 それから言った。

「伊藤蓮の保護だ」

     *

 九条は非常階段を上がっていた。

 エレベーターは使えない。

 監視カメラがある。

 非常階段にもカメラはあるかもしれないが、少なくとも人目は少ない。

 三階。

 四階。

 五階。

 呼吸が乱れ始める。

 胸が狭くなる。

 喉の奥が鳴る。

 九条は手すりに手をつき、短く息を吐いた。

 発作の前兆。

 吸入薬はない。

 犯人が喘息を利用するなら、追い込む場所は階段だろう。

 逃げ道でもあり、呼吸器疾患のある者には罠になる。

 九条は苦笑しそうになった。

 自分の身体を、犯人の方がよく読んでいる。

 六階の踊り場で、物音がした。

 金属扉の向こう。

 誰かがいる。

 九条は扉に近づいた。

 扉の隙間から、低い声が聞こえる。

「伊藤さん、落ち着いてください。警察にはもう話が通っています」

 別の声。

 怯えた男の声。

「嘘だ。山田先生は死んだ。次は俺だって言ってた」

「誰が」

「――だよ。あいつは、――死因なんて選べるって——」

 九条は扉を開けた。

 廊下の先、非常口付近に二人の男がいた。

 一人は痩せた男。

 眼鏡をかけ、顔色が悪い。

 伊藤蓮だろう。

 もう一人は、黒い服を着た男。

 九条に似ていた。

 遠目なら、間違える。

 身長、体型、髪型、服装。

 顔も、マスクと帽子で半分隠れているが、輪郭は寄せてある。

 男が振り向いた。

 九条と目が合う。

 その目は、九条の目ではなかった。

 男は一瞬驚いたように見えたが、すぐに笑った。

「本物が来た」

 伊藤蓮が九条を見た。

 顔が恐怖で歪む。

「九条……先生?」

「伊藤さん、離れてください」

 九条は言った。

 黒い服の男は、伊藤の肩を掴んだ。

「駄目ですよ。せっかくここまで来たのに」

「あなたは誰ですか」

 九条が問う。

 男は首を傾げた。

「誰に見えます?」

「私には見えません」

「世間には見える」

 男は左手を上げた。

 手袋をしている。

 その手には、小型の吸入器のようなものが握られていた。

 九条の視線が、そこに止まる。

「それを伊藤さんに使うつもりですか」

「先生は本当にすぐ分かる」

「薬剤は」

「当ててみます?」

「ミダゾラム系、あるいはフェンタニル類似の吸入製剤。呼吸抑制を起こせば、階段で転落した事故にも見せられる」

 男は笑った。

「さすが」

 伊藤が叫んだ。

「助けてくれ! 俺はデータを持ってる! 山田先生に渡すはずだった!」

「どこにありますか」

「クラウドに——いや、違う、ローカルにも——」

 男が伊藤の首に腕を回した。

「喋りすぎです」

 九条は一歩前へ出た。

「やめなさい」

「先生、警察が来ますよ」

「でしょうね」

「捕まりますよ」

「その前に、あなたを止めます」

 男は楽しそうに目を細めた。

「法医学者が?」

「医師です」

 九条は、さらに一歩前へ出た。

 呼吸は苦しい。

 視界の端が少し暗い。

 だが、伊藤の首筋が見えた。

 赤い点。

 すでに注射痕がある。

 吸入器は偽装だ。

 本命は、もう投与されている。

「伊藤さん」

 九条は言った。

「眠気はありますか」

「え?」

「吐き気、めまい、息苦しさは」

「少し……頭が」

「座ってください。すぐに」

 男が笑った。

「遅いです」

 伊藤の膝が崩れた。

 九条は走った。

 男が伊藤を突き飛ばす。

 伊藤の身体が非常階段へ向かって倒れる。

 九条は間に入った。

 伊藤の肩を掴み、自分の身体を壁に打ちつける形で支える。

 左胸ではなく、右胸側に衝撃が来た。

 息が詰まる。

 内臓の位置が反転している身体にとって、右胸への衝撃は普通の人間とは意味が違う。

 九条は咳き込んだ。

 その隙に、黒い服の男が非常階段へ逃げる。

 九条は追おうとした。

 だが、伊藤が床に崩れ落ちる。

 瞳孔。

 呼吸。

 脈。

 九条は追跡を捨てた。

 死体を追うより、生者を残す方が先だ。

「伊藤さん。聞こえますか」

 伊藤の呼吸は浅い。

 九条は廊下にあったAEDケースを見た。

 AEDそのものは心停止時の装置だ。今必要なのは気道確保と救急搬送、薬剤情報の特定。

 九条は伊藤の顎を上げ、気道を確保した。

 自分の呼吸も苦しい。

 だが、伊藤の呼吸の方が浅い。

 携帯を取り出し、二階堂へ発信する。

『九条か』

「伊藤蓮を発見。薬物投与されている。場所はクロスゲートタワー六階、非常階段付近。救急要請を」

『もう向かわせてる。お前はそこを離れろ』

「伊藤さんの状態が不安定」

『警察も向かってる』

「分かっている」

『分かってない。お前、今度捕まったら終わりだぞ』

 九条は伊藤の呼吸を確認しながら言った。

「死なせるよりは良い」

『よくねえよ』

 二階堂の声が荒くなった。

『九条、聞け。お前に似た男が逃げた。防犯カメラには、お前が伊藤を襲ったように映ってる可能性がある』

「だろうね」

『だろうねじゃない。現場から離れろ。救急が着くまで隠れて見てろ』

「それは医師として」

『医師としてじゃない。容疑者として考えろ』

 九条は答えなかった。

 電話の向こうで、二階堂が低く言った。

『お前は今、死体を読めない。生きてる人間を救うしかない。だから救ったら離れろ』

 九条は伊藤の首筋を見た。

 注射痕。

 皮膚の赤み。

 呼吸抑制。

 意識混濁。

 これは殺人未遂ではない。

 死因を作る途中だ。

「二階堂」

『何だ』

「これは殺人未遂じゃない」

『は?』

「死因の予行演習だ」

 その時、遠くから複数の足音が聞こえた。

 警備員。

 救急隊。

 警察。

 九条は携帯を切った。

 伊藤の呼吸はまだある。

 浅いが、ある。

「伊藤さん」

 九条は低く言った。

「生きて。あなたには、まだ証言してもらう必要がある」

 伊藤の唇がかすかに動いた。

 声はほとんど出ていない。

 九条は耳を近づけた。

「……本郷」

「本郷?」

「本郷先生が……次……」

 九条は顔を上げた。

 廊下の向こうから、警察官の声が響く。

「いたぞ!」

「九条雅紀だ!」

 九条は立ち上がった。

 逃げるしかない。

 伊藤は生きている。

 救急隊も来る。

 だが、次の名前が出た。

 本郷。

 山田美月が最後に相談していた、京東大学医学部のデータ倫理委員。

 次は本郷が狙われる。

 九条は非常階段へ向かった。

 下からも足音。

 上からも足音。

 挟まれた。

 携帯が震える。

 二階堂からのメッセージ。

――上へ行け。

――七階イベントホールの裏に搬入口がある。

――江口に連絡した。

――逃げ先は作る。

 九条は一瞬、画面を見つめた。

 江口。

 教師であり、同人作家であり、事件に巻き込まれるたびに不機嫌になる男。

 九条は階段を上がった。

 背後で警察官の声が響く。

「止まれ!」

 九条は止まらなかった。

 胸が痛い。

 呼吸が細い。

 視界が揺れる。

 それでも足を動かした。

 七階の扉を開けた瞬間、イベントホールの大型スクリーンが目に入った。

 そこには、ニュース速報が映っていた。

【速報】九条雅紀医師に逮捕状請求へ 伊藤蓮氏襲撃にも関与か

 会場にいた参加者たちが、一斉に九条を見た。

 誰かが悲鳴を上げた。

 誰かがスマートフォンを向けた。

 誰かが叫んだ。

「九条だ!」

 九条雅紀は、数十台のスマートフォンのレンズに囲まれた。

 そのすべてが、彼を犯人として記録しようとしていた。

 彼は一歩だけ後ずさった。

 その時、会場の非常照明が落ちた。

 一瞬、ホールが暗くなる。

 ざわめき。

 悲鳴。

 椅子の倒れる音。

 暗闇の中で、誰かが九条の腕を掴んだ。

「こっちです」

 知らない声だった。

 若い男の声。

「二階堂さんから言われました。江口先生のところまで送ります」

「あなたは」

「聞かないでください。巻き込まれたくないので」

 今日二度目の言葉だった。

 九条は、その手に引かれて暗い搬入口へ入った。

 背後で、ホールの照明が戻る。

 その瞬間、会場中のスマートフォンに通知が走った。

【速報】九条雅紀、渋谷の医療カンファレンス会場で目撃 警察が追跡中

 九条はまた、ニュースの中で先回りされた。

 そして、全国に向けて最初の指名手配速報が流れたのは、その八分後だった。


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