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指名手配犯 九条雅紀  作者: 二条理|アコンプリス


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第三章 逃がす警察官、逃げる医師

 正しいことをするのは、難しくない。

 難しいのは、正しいことが二つある時だ。

 法に従うこと。

 命を救うこと。

 その二つが同じ方向を向いている時、人は迷わない。胸を張って進めばいい。

 だが時に、法は立ち止まれと言い、命は走れと言う。

 その時、人は何を選ぶのか。

 真壁彰は、その問いを嫌っていた。

 刑事は迷うべきではない。迷った時点で、現場は乱れる。判断は鈍り、証拠は失われ、人が死ぬ。

 だから真壁は、いつも順番を守ってきた。

 現場を見る。

 証拠を集める。

 証言を取る。

 嘘を削る。

 残ったものを事実と呼ぶ。

 それだけだった。

 だが、その日の午後、真壁は初めて思った。

 順番を守れば、次の死体が出るかもしれない。

     *

 午後一時五十二分。

 警視庁本部の廊下で、真壁彰は立ち止まっていた。

 手の中には、山田美月の端末から復元された削除済みメールのコピーがある。

――件名:先生が逮捕されたら、二人目が死にます。

――本文:死因は、先に売られている。

 たった二行。

 だが、その二行は、事件の見え方を根底から変えていた。

 山田美月は九条雅紀を疑っていたのか。

 それとも、九条雅紀に警告しようとしていたのか。

 同じ端末から、正反対の意味を持つ文章が出てきた。

 どちらかが本物で、どちらかが偽物なのか。

 それとも、どちらも本物で、山田は途中で考えを変えたのか。

 真壁は紙から目を離した。

 廊下の先、取調室の扉が見える。

 その向こうに九条雅紀がいる。

 重要参考人。

 まもなく容疑者と呼ばれるかもしれない男。

 二階堂壮也が横に立った。

「顔が怖い」

「元からだ」

「いや、今のは刑事の顔じゃない。人を殴る前の顔だ」

「殴らない」

「じゃあ何する気だ」

 真壁は答えなかった。

 二階堂は、真壁の手元のコピーに視線を落とした。

「山田先生が九条に警告していた。しかも、逮捕されたら二人目が死ぬ」

「二人目が誰か分かるか」

「まだ。ただ、ルーメンが会見を前倒しした。午後二時。清水輝が出る」

「偶然か」

「偶然って便利な言葉だな。俺も仕事でよく使う」

「ふざけるな」

「ふざけてない」

 二階堂は声を低くした。

「山田先生のメールが復元された直後に、ルーメンが会見を打つ。タイミングが良すぎる。向こうは、警察の中の動きを把握している可能性がある」

「警察内部に漏洩者がいると?」

「または、大学側か、端末解析の流れを読める人物。少なくとも、こっちが九条逮捕に傾いていることは知ってる」

「証拠はない」

「俺は広報だ。証拠になる前の空気を見るのが仕事だ」

 真壁は、取調室の扉を見つめたまま言った。

「九条に聞く」

「聞いてどうする」

「二人目に心当たりがあるか確認する」

「上が許すか?」

「許可を取る」

 二階堂は小さく笑った。

「お前、本当に真面目だな」

「悪いか」

「悪くはない。今は不便なだけだ」

 真壁は二階堂を睨んだが、何も言わなかった。

 その時、廊下の向こうから管理官が歩いてきた。

 顔が硬い。

「真壁。捜査会議の結論が出た」

 真壁は背筋を伸ばした。

「九条雅紀医師については、逮捕状請求の準備に入る」

 二階堂が、わずかに息を止めた。

 真壁は言った。

「司法解剖の速報所見は」

「まだだ」

「では早すぎます」

「早すぎるかどうかを判断するのは君ではない」

「死因が確定していません」

「死因が刺創でなくても、九条医師の関与は消えない。薬物を使った後に偽装した可能性がある」

「それは、九条を犯人と決めてから証拠を読んでいます」

 管理官の目が細くなった。

「言葉に気をつけろ」

 二階堂が一歩前に出ようとした。

 真壁は手で制した。

「山田美月の削除メールが復元されました」

「報告は受けている」

「彼女は、九条が逮捕されたら二人目が死ぬと書いています」

「犯人による攪乱の可能性もある」

「九条を疑わせるメッセージも同じです」

「だからこそ、身柄を確保する必要がある」

「任意同行中です」

「逮捕する。これ以上、世論の中で警察が後手に回るわけにはいかない」

 二階堂が口を挟んだ。

「世論で逮捕するんですか」

 管理官が二階堂を見た。

「広報課は黙っていろ」

「黙っていたら、見出しが勝手に喋ります」

「今は捜査の話をしている」

「これは捜査の話です」

 二階堂の声は冷たかった。

「九条を逮捕した瞬間、この事件は“法医学者による殺人”になります。そこから別の筋へ戻すには、倍の証拠が要る」

「証拠は集める」

「犯人がその時間をくれるといいですね」

 管理官の表情が変わった。

「二階堂、君は何を言っている」

 二階堂は答えなかった。

 その代わり、スマートフォンを真壁に見せた。

 速報。

【速報予定】ルーメン・メディカル代表、京東大事件を受け緊急会見

『「人間の判断に頼る死因究明の限界」について説明か』

 真壁は画面を見つめた。

 人間の判断に頼る死因究明の限界。

 山田美月が死に、九条雅紀が疑われ、その直後にこの言葉が出る。

 偶然だと片付けるには、あまりにも出来すぎている。

「管理官」

 真壁は言った。

「九条に確認させてください」

「何を」

「山田美月のメールの意味です。二人目が誰か。死因が先に売られているとは何か」

「聴取なら許可する」

「いいえ。現場確認です」

 管理官の眉が動いた。

「現場?」

「山田美月の遺体、端末、研究記録。九条は、そこに答えがあると言っています」

「容疑者に現場を見せるつもりか」

「逮捕前の重要参考人です」

「詭弁だ」

 真壁は黙った。

 詭弁だ。

 自分でも分かっていた。

 だが、詭弁でしか命を拾えないこともある。

 管理官は言った。

「却下だ」

 その言葉は短かった。

 真壁の中で、何かが音を立てた。

     *

 午後二時。

 ルーメン・メディカルの緊急会見は、予定より十七分早く始まった。

 警視庁広報室のモニターに、会見場の映像が映し出される。

 白い壁。

 会社ロゴ。

 横長のテーブル。

 マイクが三本。

 中央に座っている男が、清水輝だった。

 年齢は三十代後半。

 紺のスーツに、薄いグレーのネクタイ。髪は整えられ、顔には疲労も焦りもない。

 記者のフラッシュを浴びても、まばたきの回数すら変わらなかった。

 画面の中の清水は、謝罪会見の席にいる人間ではなかった。

 発表会の登壇者に見えた。

「このたび、京東大学医学部法医学教室において痛ましい事件が発生したことに、深い哀悼の意を表します」

 清水は、滑らかな声で言った。

「亡くなられた山田美月先生は、弊社との共同研究にも関わってくださっていた、大変優秀な研究者でした」

 二階堂は腕を組んだまま、画面を見ていた。

 言葉が綺麗すぎる。

 清水は続ける。

「一部報道において、弊社の死因推定補助システム《LUCID》と今回の事件を関連づけるような憶測が見られます。しかし、《LUCID》はあくまで医師の判断を支援するものであり、死因を自動的に決定するものではありません」

 記者が質問する。

「山田先生は《LUCID》に疑問を持っていたという情報がありますが」

 清水は、悲しそうな表情を作った。

「研究に疑問はつきものです。山田先生も、より良いシステムにするため、非常に真摯に議論してくださいました」

「九条雅紀医師との関係は」

 清水は一瞬だけ目を伏せた。

「九条先生は、法医学の分野で大変著名な方です。ただ、弊社システムに対しては以前から批判的な立場を取られていました」

 広報室の空気が変わった。

 二階堂は無言で画面を見続ける。

 清水は、慎重な口調で言った。

「もちろん、それは学術的議論の範囲内です。今回の事件と結びつける意図はありません」

 結びつける意図はない。

 そう言いながら、結びつける。

 最も効果的なやり方だった。

「ただし」

 清水は続けた。

「死因究明という重要な営みが、個人の経験や主観に過度に依存してはならないという問題意識は、私たちが以前から持っていたものです。人間は優れています。しかし、人間は間違える。だからこそ、透明で検証可能な補助システムが必要なのです」

 二階堂は低く呟いた。

「来たな」

 若い広報担当者が振り向いた。

「何がですか」

「宣伝だよ」

 画面の中で、清水輝は悲劇を語っている。

 だが、その言葉の中心にあるのは死者ではなかった。

 商品だった。

 山田美月の死。

 九条雅紀への疑惑。

 法医学者という職業への不信。

 それらすべてが、《LUCID》の必要性へ向かって並べられている。

 記者がさらに聞いた。

「今回の事件で、法医学者本人が疑われています。死因究明に関わる人間への信頼が揺らいでいるとお考えですか」

 清水は、深く息を吸った。

「個別の事件については捜査の進展を待つべきです。ただ、社会全体として、死因究明の透明性を高める必要があることは、今回改めて浮き彫りになったのではないでしょうか」

 その瞬間、二階堂の端末に通知が殺到した。

『ルーメン代表「人間は間違える」』

『九条事件で死因推定AIに注目』

『法医学者への信頼揺らぐ?』

『《LUCID》とは何か』

 二階堂は、奥歯を噛んだ。

 速い。

 速すぎる。

 記事が出るまでの時間ではない。

 事前に用意されていた見出しが、一斉に公開された速度だった。

 これは炎上ではない。

 誘導だ。

 二階堂は、広報室を飛び出した。

     *

 同じ頃、取調室で九条雅紀は目を閉じていた。

 眠ってはいない。

 何時間も同じことを繰り返す、

山田美月の遺体の位置を、頭の中で何度も再現している。

 右胸の傷。

 血の広がり。

 倒れ方。

 眼鏡。

 左手。

 爪。

 そして、メール。

 九条は目を開けた。

 取調室の扉が開いた。

 真壁が入ってくる。

「九条」

「なに」

「山田の削除メールを見つけた」

「内容は」

 真壁はコピーを机に置いた。

 九条は読んだ。

 顔色は変わらなかった。

 だが、指先がわずかに紙の端を押さえた。

「山田先生の文章」

「分かるのか」

「ああ」

「なぜ」

「件名で俺を“先生”と呼んでいるけど、これは宛名としての省略。本文中ではない。彼女は急ぐ時、件名で要件を済ませることがあった」

「九条を疑うメッセージは偽物で、これは本物だと?」

「断定はできない。ただ、こちらの方が彼女の癖に近い」

 真壁は椅子に座った。

「二人目に心当たりは」

「ある」

 即答だった。

 真壁の顔が険しくなる。

「誰だ」

「伊藤蓮」

「何者だ」

「ルーメン・メディカルの元エンジニア。《LUCID》の死亡分類ログを設計した一人。半年前に退職している」

「山田との関係は」

「山田先生は、彼から情報提供を受けていた可能性がある」

「可能性では困る」

「俺も困っている」

 真壁は九条を睨んだ。

 九条は続けた。

「三日前、山田先生は“ログの奥に名前が残っている”と言っていた。技術者の名前か、症例の名前か、その時点では分からなかった。ただ、ルーメン内部で死因分類の重み付けを変更できる人物は限られる」

「伊藤蓮が二人目だと?」

「彼が生きていれば、犯人にとって不都合だと思う」

「居場所は」

「分からない」

 真壁は苛立ちを隠せなかった。

「何なら分かる」

「山田先生が残した鍵なら、分かるかもしれない」

「鍵?」

「山田先生は、外部サーバーに記録を置いていたはずだ。彼女は以前、“もし自分が死んだら、記録は死体の中に残す”と言っていた」

「そんな話を?」

「酒が入っていた。冗談交じりだったし、現実になるとは思っていなかっただろう」

 真壁は眉をひそめた。

「で、死体の中?」

「正確には、死体所見の中だ」

「どういう意味だ」

「彼女は、記録を開くための認証を、医学所見の組み合わせにしていた可能性がある。死亡推定時刻、主死因、刺創の生前性、薬物の種類、体位、皮膚反応。山田先生の死体を正しく読めば、鍵が開く」

「ふざけてるのか」

「ふざけていない」

 九条は真壁をまっすぐ見た。

「山田先生は、少なからず自分が殺される可能性を考えていた。そのうえで、犯人が誤読させようとする死体を、逆に鍵にした」

 真壁はしばらく言葉を失った。

 山田美月は、自分の死体が偽装されることを予期していた。

 そして、その偽装を見抜ける人間にしか開けない鍵を残した。

 もしそれが本当なら。

 九条雅紀が必要になる。

 この事件で最も疑われている男が、この事件を解く鍵になる。

「司法解剖は別の医師が担当する」

「ああ」

「その医師が鍵を開けられないと?」

「優秀な医師なら、死因は分かるかもしれない。ただ、山田先生が意図した“矛盾の並び”までは分からない可能性がある」

「お前だけが分かると?」

「山田先生は、俺に向けて残したんだと思う」

「都合が良すぎる」

「俺にとっては最悪だ」

 九条の声が、わずかに低くなった。

「自分の無実を証明するためではない。伊藤蓮が殺される可能性がある。山田先生のメールが本物なら、俺が逮捕された瞬間、犯人は次に進む」

「なぜ逮捕された瞬間なんだ」

「俺が死体を読めなくなるから」

 真壁は動かなかった。

 九条は続けた。

「犯人は、山田先生の死体を俺に読ませたくない。だから、俺を犯人にした。俺が拘束されれば、山田先生の死体は“九条が犯人である”という前提で読まれる。次の死体も同じだ」

 真壁は、拳を握った。

 その理屈は分かる。

 分かってしまう。

 だが、法はそんな理屈で曲げられない。

「九条」

「はい」

「出頭しろ」

「している」

「そういう意味じゃない。逮捕されても、黙っていろ。弁護士を呼べ。正規の手続きで争え」

「その間に伊藤蓮が死ぬ」

「決まったわけじゃない」

「じゃあ、死んでから確認するか」

 真壁は立ち上がった。

「言葉を選べ」

「選んでいる」

「選んでそれか」

「ああ」

 九条も立ち上がった。

 刑事と法医学者が、取調室の机を挟んで向かい合う。

 九条は静かに言った。

「真壁。俺は逃げるつもりはない」

「なら黙って従え」

「だが、山田先生の死体を読まずに逮捕されるわけにはいかない」

「それを逃げると言う」

「違う」

 九条は、ほんの少しだけ目を伏せた。

「これは、まだ検査」

 真壁は何も言えなかった。

 そのとき、扉が開いた。

 二階堂が入ってきた。

「真壁。状況が変わった」

「何だ」

「伊藤蓮が見つかった」

 九条が顔を上げる。

「どこで」

「都内のホテル。医療データ関連のカンファレンスに参加予定だった。今朝から連絡が取れない。部屋にはいなかった。荷物は残ってる」

 真壁は二階堂を見た。

「生きているのか」

「分からない」

「警察は」

「所轄が確認中。ただし、ルーメン側も探してる」

「なぜルーメンが」

 二階堂は短く言った。

「清水輝が会見で名前を出した。“退職した一部技術者による誤解があった可能性も含めて調査する”ってな」

 九条の表情が変わった。

 ほんのわずかだった。

 だが、真壁には分かった。

 九条は、怒った。

「犯人は伊藤さんを消すつもりだ」

「まだ犯人と決まったわけじゃない」

「いや」

 九条は言った。

「名前を出した時点で、死因はもう用意されている」

     *

 午後二時四十九分。

 京東大学法医学棟の正面玄関前には、報道陣がさらに増えていた。

 警視庁本部前から一部が移動してきたらしい。

 カメラのレンズが、建物の入口を向いている。

 九条雅紀は本部内にいる。

 そう報じられているにもかかわらず、記者たちは法医学棟を撮り続ける。

 事件の舞台だからだ。

 人は、物語の舞台を見たがる。

 たとえそこに何も映らなくても。

 二階堂は正門前に立ち、数人の記者に囲まれていた。

「九条医師は現在どこにいるんですか」

「逮捕状請求の事実は」

「京東大に戻すという情報がありますが」

 二階堂は、顔色一つ変えずに答える。

「個別の捜査活動については回答できません」

「では否定しないんですね」

「肯定もしていません」

「九条医師が現場に戻る可能性は」

「捜査上必要な確認が行われる場合があります」

「九条医師本人を現場に?」

「一般論として、事件関係者に現場状況を確認することはあります」

 記者たちがざわめいた。

 わざとだ。

 あえて、記者たちに“九条が正面玄関から出入りするかもしれない”と思わせている。

 視線を正面玄関に集めるために。

 本当の動線は別にある。

 遺体搬送用の地下ルート。

 鳳恭介から送られてきた古い図面が、二階堂の端末に保存されている。

 法医学棟地下二階。

 解剖準備室。

 遺体保管室。

 搬送用エレベーター。

 地下連絡路。

 医学部資料棟。

 さらにその先、廃止された標本搬入口。

 人間のための道ではない。

 死体のための道だ。

 だから、誰も見ていない。

 報道陣も、大学職員も、警察上層部でさえ。

 二階堂のスマートフォンが震えた。

 真壁からだった。

――到着した。地下へ入る。

 二階堂は短く返信した。

――正面は引き受ける。

――ただし、長くは無理だ。

 送信後、二階堂は顔を上げた。

 記者がさらにマイクを突きつける。

「九条医師を庇っているという批判がありますが」

 二階堂は、その記者を見た。

「警察は誰かを庇うために捜査しているのではありません」

「では、なぜ九条医師の実名報道に慎重なコメントを?」

「逮捕前の個人を、社会が一斉に裁くことは危険だからです」

「しかし、被害者がいます」

「もちろんです」

 二階堂の声が、少しだけ低くなった。

「だからこそ、犯人でない人間を犯人にしてはいけない」

 記者たちが、一瞬静まった。

 その言葉も見出しになる。

 二階堂は分かっていた。

 それでも言った。

     *

 同じ頃、真壁は九条を連れて、法医学棟地下二階の廊下を歩いていた。

 同行しているのは、真壁と若い捜査員が一人。

 表向きは、重要参考人による現場状況の確認。

 管理官には許可を取っていない。

 正確には、許可を取った範囲を、少しだけ広く解釈した。

 真壁は、自分がいま規則の境界線を踏んでいることを理解していた。

 一歩間違えれば、処分では済まない。

 だが、九条は何も言わずに歩いている。

 それが腹立たしかった。

「少しは緊張しろ」

「している」

「顔に出せ」

「努力する」

「その返事はやめろ」

 九条は黙った。

 解剖準備室の前には、鑑識の封印が貼られていた。

 真壁は手袋をつけ、封印の確認を行う。

 若い捜査員が記録を取る。

「九条。中には入るな」

「ああ」

「見るだけだ」

「わかった」

 扉が開く。

 冷気が流れた。

 山田美月の遺体は、すでに搬送準備に入っていた。

 解剖のため、遺体袋に収められる直前だった。

 九条は、入口の外から室内を見た。

 右胸。

 衣服。

 床。

 眼鏡。

 左手。

 ほんの数秒。

 それだけで、九条の目つきが変わった。

「眼鏡」

「何だ」

「レンズの内側を確認して。右レンズではなく、左レンズ」

 真壁は鑑識員に指示した。

 鑑識員が眼鏡を慎重に取り上げ、ライトを当てる。

「何か付いています」

「色は」

「薄い白色。粉末状か、乾いた飛沫のようにも見えます」

 九条が言った。

「吸入剤の残渣かもしれない」

「吸入剤?」

「山田先生に喘息があると聞いたことはない。だが、俺にはある」

 真壁は九条を見た。

「お前の吸入薬か」

「似せた可能性がある」

「またか」

「犯人は、俺の身体的特徴を利用している。完全内臓逆位、左利き、血液。そして喘息」

 真壁は、背筋が冷えるのを感じた。

 右胸の傷は、九条の心臓。

 左手の動きは、九条の利き手。

 血液は、九条の身体。

 吸入剤は、九条の持病。

 犯人は、九条雅紀という人間を分解し、証拠として配置している。

「山田先生は、何かを吸わされた?」

「可能性がある。鎮静作用のある薬物をエアロゾル化したか、吸入器に偽装したか。口唇の色と呼吸抑制の可能性とも合う」

「死因は」

「まだ断定できない。ただ、刺創ではない」

「鍵は」

 九条は遺体を見つめたまま、静かに言った。

「左側臥位。右胸部死後刺創。生前吸入。呼吸抑制。眼鏡左レンズ内側残渣。死亡推定、一時十分から一時三十分の間」

「それが認証になるのか」

「山田先生なら、もう一つ必要にする」

「何を」

「犯人が間違えた部分を」

 九条は部屋の床を指した。

「血液の流れ」

 真壁は床を見た。

 血は少ない。

 だが、作業台の脚元に、小さな擦過痕のような跡がある。

「山田先生は、死後に少し動かされている」

「どこから」

「おそらく作業台側から、扉側へ。犯人は、発見者が最初に胸の傷を見るように位置を調整した」

「それが間違いか」

「ああ。生きて倒れた人間の位置ではない」

 九条は真壁を見た。

「認証語は、おそらく“死後移動”」

 真壁は若い捜査員に指示した。

「山田の端末を」

 捜査員が証拠保管用の端末ケースを開ける。

 山田のノートPCが取り出された。

 ネットワークには繋がない。

 解析用の隔離環境で、復元されたファイルへアクセスする。

 九条が直接触れることはできない。

 真壁がキーボードを操作し、九条が口頭で答える。

 画面に、暗号化されたフォルダが表示された。

LUCID_LOG_PRIVATE

 パスフレーズ入力欄。

 真壁は九条を見た。

「言え」

 九条は短く答えた。

「右胸死後刺創」

 真壁が入力する。

 エラー。

 九条は続けた。

「生前吸入」

 エラー。

「呼吸抑制」

 エラー。

「左側臥位」

 エラー。

 若い捜査員が焦り始める。

「開きません」

 九条は目を閉じた。

「山田先生なら、単語ではなく文章にする」

「時間がない」

「うん」

 九条は、遺体をもう一度見た。

 右胸の傷。

 血の少なさ。

 眼鏡の位置。

 左手の爪。

 床の擦過痕。

 山田美月は、何を残したかったのか。

 自分を疑う文章ではない。

 自分に助けを求める文章でもない。

 死体そのものを、記録にした。

 九条は目を開けた。

「入力して」

「何を」

「“山田美月は右胸を刺されて死んでいない”」

 真壁は一瞬、九条を見た。

 そして入力した。

――山田美月は右胸を刺されて死んでいない

 エンターキーを押す。

 画面が、一瞬暗くなった。

 次の瞬間、フォルダが開いた。

 若い捜査員が息を呑む。

 真壁は画面を見つめた。

 そこには、複数のファイルが並んでいた。

 LUCID_death_classification_weight

 insurance_priority_case

 police_trial_dataset

 R_Ito_statement

 Hongo_memo

 next_case_prediction

 九条が低く言った。

「伊藤さんの記録がある」

 真壁はファイル名をクリックした。

 開いたのは、短いテキストと音声ファイルの一覧だった。

 冒頭に、山田美月のメモ。

――伊藤蓮氏によれば、《LUCID》は一部ケースで死因候補の順位を外部要請により変更している。

――特に、保険金支払い、労災認定、警察発表に影響するケースで改変の疑い。

――伊藤氏は証拠データを保持。

――接触予定:六月十六日、十四時三十分。メディカルデータ・カンファレンス会場。

 真壁は時計を見た。

 午後三時四分。

「十四時三十分は過ぎている」

 二階堂から着信が入った。

 真壁は通話を開く。

「何だ」

『伊藤蓮の目撃情報が出た』

「どこだ」

『カンファレンス会場近くの複合ビル。だが妙なことになってる』

「妙?」

『匿名投稿で“九条雅紀を見た”って騒ぎになってる。場所は伊藤のいるビルと同じだ』

 真壁は九条を見た。

 九条は、すでに理解していた。

「犯人は、伊藤さんを殺して、俺の目撃情報を作るつもりだ」

 二階堂の声が、電話越しに低くなる。

『真壁。まずいぞ。九条がここにいること、上に確認が入ってる』

「どこから」

『分からない。管理官が地下に向かってる』

 真壁は電話を切った。

 廊下の向こうから、複数の足音が聞こえた。

 管理官たちだ。

 真壁は一瞬、目を閉じた。

 ここで九条を引き渡せば、正しい。

 九条は本部へ戻され、逮捕状請求の手続きが進む。

 真壁は職務を守れる。

 だが、伊藤蓮はどうなる。

 山田美月のメール。

 二人目が死ぬ。

 死因は、先に売られている。

 真壁は目を開けた。

「九条」

「はい」

「お前は、伊藤蓮を見つけられるか」

「可能性はある」

「死体を読まずに?」

「まだ死体にしなければいい」

 真壁は、初めて九条の言葉に笑いそうになった。

 最悪の状況で、最悪に不謹慎で、最も九条らしい答えだった。

 真壁は若い捜査員に向き直った。

「君はここに残れ。端末とファイルを保全しろ。誰にも触らせるな」

「真壁さん?」

「命令だ」

 捜査員は戸惑いながらも頷いた。

 廊下の足音が近づいてくる。

 真壁は九条の耳元で言った。

「来い」

「どこへ」

「遺体搬送ルートだ」

 九条は、一瞬だけ真壁を見た。

「それは、逃走の幇助になる」

「違う」

 真壁は低く言った。

「現場確認の続きだ」

     *

 法医学棟の地下には、学生も教職員もほとんど知らない通路がある。

 遺体搬送用の清潔・不潔動線。

 解剖前の遺体、解剖後の遺体、感染リスクのある検体、廃棄物。

 それらを、人の通る廊下とは別に運ぶための通路。

 床はわずかに傾斜し、壁は白い樹脂パネルで覆われている。

 照明は最低限。

 空調の音が低く響いている。

 真壁は、鳳恭介から送られてきた古い図面をスマートフォンで確認した。

 鳳のメッセージ。

――地下搬送エレベーターは、現在の図面では法医学棟内で止まっています。

――ただし、旧医学部資料棟時代の改修図では、標本搬入路と接続していた痕跡があります。

――壁に見える場所の一部は、後施工の軽量壁です。

――逃げ道ではありません。

――建物が、まだ忘れていない道です。

 真壁は、思わず呟いた。

「相変わらず言い方が気持ち悪い」

「鳳先生か」

「そうだ」

「なら正確だろう」

「そこが腹立つ」

 背後で、管理官の声が響いた。

「真壁!」

 見つかった。

 真壁は九条を押すように先へ進ませた。

「走れ」

「喘息がある」

「今だけ忘れろ」

「医学的に無理」

「行けるとこまで行け」

 二人は搬送用エレベーターへ向かった。

 金属製の扉。

 古い操作盤。

 通常の職員証では動かない。

 真壁は山田の端末から復元した管理コードを入力した。

 鳳が図面から推測した非常用コードだった。

 一秒。

 二秒。

 扉が開く。

 中は狭く、ステンレスの壁に冷たい光が反射していた。

 二人が乗り込んだ瞬間、廊下の角から管理官と捜査員が現れた。

「真壁! 何をしている!」

 真壁は扉を閉めるボタンを押した。

 管理官が走ってくる。

「真壁、止まれ!」

 扉が閉まり始める。

 その隙間から、管理官の顔が見えた。

 怒りと、驚きと、理解できないという表情。

 真壁は言った。

「現場確認です」

「ふざけるな!」

 扉が閉まった。

 エレベーターが動き出す。

 重い振動が足元から伝わってくる。

 九条は壁に手をつき、軽く咳をした。

「真壁」

「黙ってろ」

「今のは、かなり無理がある」

「分かってる」

「俺は出頭するつもりだった」

「今もそうしろ。伊藤を見つけたらな」

 九条は真壁を見た。

「なんでそこまで」

 真壁は答えなかった。

 なぜ。

 自分でも分からなかった。

 九条を信じているからか。

 山田美月のメールを信じたからか。

 二人目を救いたいからか。

 どれも違い、どれも正しい。

 真壁は低く言った。

「死体が増えるのが嫌いなだけだ」

 九条は少しだけ目を伏せた。

「俺もだ」

 エレベーターが止まった。

 扉が開く。

 その先は、医学部資料棟の地下だった。

 使われていない書架。

 古い標本ケース。

 埃の匂い。

 非常灯だけが赤く光っている。

 真壁のスマートフォンが震えた。

 二階堂から。

――正面玄関に記者を集めた。

――だが、上が気づいた。

――九条の所在を聞かれたら、俺はこう答える。

「警察の確認下にあります」

――嘘じゃない。

――まだ、お前が確認している。

 真壁は画面を見て、短く息を吐いた。

「二階堂のやつ」

「なんて」

「嘘ではない言葉を選んだ」

「便利だな」

「便利すぎて腹が立つ」

 二人は資料棟の奥へ進んだ。

 鳳の図面通り、古い搬入口があった。

 外へ続く鉄扉。

 鍵は錆びていたが、内側からは開く。

 真壁が押すと、重い音を立てて扉が開いた。

 外の空気が流れ込む。

 裏手の搬入路だった。

 報道陣はいない。

 警察車両もない。

 死体のための道は、生きている人間を逃がした。

 九条は外へ出た。

 空は曇っていた。

 午後の光が、ビルの隙間に白く落ちている。

 真壁は九条に小さな端末を渡した。

「プリペイド携帯だ。二階堂が用意した」

「いつの間に」

「知らん。あいつはそういう男だ」

「真壁は」

「俺は戻る」

「戻れば、追及される」

「当然だ」

「俺を逃がしたと疑われる」

「疑われるだろうな」

「証拠は」

「ない」

 真壁は九条を睨んだ。

「まだな」

 九条は端末を受け取った。

「伊藤蓮を探す」

「見つけたら連絡しろ」

「わかった」

「それから、九条」

「ん」

「捕まるな」

 九条は、初めて少しだけ表情を動かした。

 笑ったようにも見えた。

「刑事の言葉とは思えないな」

「俺もそう思う」

 遠くでサイレンが鳴った。

 真壁は九条に背を向けた。

「行け」

 九条は一度だけ頷き、搬入路の先へ歩き出した。

 慌てない。

 隠れない。

 それでも、その背中は確かに逃亡者のものだった。

     *

 午後三時二十八分。

 警視庁広報課の二階堂壮也は、記者たちの前に立っていた。

「九条雅紀医師は現在どこにいるんですか」

「本部にいるんですか」

「法医学棟に移送されたという情報があります」

「逃走したという未確認情報もありますが」

 二階堂は、マイクの前で淡々と言った。

「九条医師は、現在も警察の確認下にあります」

 嘘ではない。

 その時点で、真壁彰は九条雅紀を確認していた。

 少なくとも、数分前までは。

 記者たちがさらに声を上げる。

「確認下とは、身柄を確保しているという意味ですか」

「個別の捜査状況については回答できません」

「逃走はしていない?」

「未確認情報の拡散は控えてください」

 その瞬間、二階堂の端末が震えた。

 差出人不明。

 本文。

――逃がしましたね。

 二階堂の表情は変わらなかった。

 だが、背中に冷たいものが走った。

 次のメッセージが来る。

――では、二人目を始めます。

 添付画像が一枚。

 医療データ・カンファレンス会場の案内板。

 その前を、男が歩いている。

 伊藤蓮。

 そして、画像の端にもう一人。

 白衣ではない。

 黒い服。

 細い輪郭。

 伏せた目。

 九条雅紀に似た男が、伊藤蓮の後を追っていた。

 二階堂はスマートフォンを握りしめた。

 記者たちは、まだ質問を続けている。

 誰も気づいていない。

 今この瞬間、事件は次の場所へ移った。

 そして、世間が九条雅紀を指名手配犯と呼ぶまで、もう一時間も残されていなかった。


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