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指名手配犯 九条雅紀  作者: 二条理|アコンプリス


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第二章 容疑者の顔は、ニュースになる

 人間の名前は、本人のものだ。

 少なくとも、普段はそう思われている。

 役所に届け、名札に書き、論文の末尾に印字し、誰かに呼ばれて振り向く。名前とは、社会の中で自分を指し示すための小さな札に過ぎない。

 だが、事件が起きると名前は本人の手を離れる。

 ニュースの見出しになる。

 検索窓に打ち込まれる。

 誰かの憶測の主語になる。

 そして、まだ何も証明されていないうちから、勝手に物語を背負わされる。

 その朝、九条雅紀という名前は、九条雅紀のものではなくなった。

     *

 午前五時二分。

 警視庁本部へ向かう車内で、九条雅紀は一度も口を開かなかった。

 後部座席の中央に座り、左右を捜査員に挟まれている。任意同行とはいえ、その光景だけを切り取れば連行に近かった。

 窓の外では、東京の朝が始まりかけていた。

 新聞配達のバイクが細い道を走り、コンビニの搬入口では店員がプラスチックケースを運んでいる。まだ人の顔は眠たげで、道路も空いていた。

 だが、ネットの中だけは違った。

 夜明け前から、街より早く目覚めている。

 助手席の二階堂壮也は、スマートフォンの画面を見つめていた。親指が無言で上下する。画面の光が、彼の横顔を青白く照らしていた。

 運転席の真壁彰は、バックミラー越しに九条を見た。

 九条は窓の外を見ている。

 表情はいつも通りだった。

 だが、真壁にはその静けさが不気味に見えた。

 昨夜、山田美月の端末から九条のスマートフォンへ届いたメッセージ。

――九条先生が、記録を消しに来た。

 死者から届いたはずのない一文。

 その場にいた者の誰もが、しばらく動けなかった。鑑識員でさえ、端末を持つ手を止めていた。

 九条はその一文を見て、ほんのわずかに眉を寄せただけだった。

 恐怖ではない。

 怒りでもない。

 おそらく、違和感を探していた。

 死者からの告発を前にしても、九条雅紀はまず文面を観察する。

 そのことが、真壁には少し腹立たしかった。

 そして、少しだけ救いでもあった。

「二階堂」

 真壁が低く声をかける。

「状況は」

「最悪一歩手前」

「一歩手前なのか」

「まだ公式に名前は出てない。だから一歩手前」

 二階堂は画面を見たまま答えた。

「ただし、世間ではもう出てる」

「どの程度だ」

「知りたいか?」

「言え」

 二階堂は短く息を吐いた。

「“京東大 法医学 九条”が検索上位に出始めてる。公開講座の写真、大学の研究者紹介ページ、過去のテレビ出演の切り抜き、論文データベース、全部拾われてる。右に心臓があるって話までセットで広がってる」

 後部座席の捜査員の一人が、思わず九条を見た。

 九条は反応しない。

「早すぎる」

 真壁が言うと、二階堂は薄く笑った。

「早いんじゃない。準備されてたんだよ」

「準備?」

「誰かが最初から、九条の名前が掘られることを見越して燃料を置いてる。大学名、法医学、女性医師、同僚男性医師。そこから九条に辿り着ける道筋が綺麗すぎる」

「偶然ではないと?」

「偶然でここまで親切な炎上はない」

 二階堂は画面を真壁に向けた。

 そこには、匿名アカウントの投稿が表示されていた。

『京東大法医学のKって、この人?』

『前に公開講座で見た。』

『顔と経歴が強すぎて覚えてる。』

『右に心臓がある法医学者って記事になってた人。』

 添付画像には、壇上に立つ九条の姿があった。

 黒いスーツ。細い指。少し伏せた目。

 講演資料を指し示す横顔は、確かに人目を引く。

 その下に、さらに別の投稿が続く。

『防犯カメラの人と歩き方似てない?』

『えろい』

『てか、メロい』

『てか本人じゃん。』

『法医学者が殺人とか、いちばん完全犯罪できるやつ。』

『右胸刺してるの、本人の心臓が右だから間違えた?』

『怖すぎ。』

 真壁はハンドルを握る手に力を入れた。

「馬鹿馬鹿しい」

「馬鹿馬鹿しいものほど広がる」

 二階堂の声は冷たかった。

「怖い、分かりやすい、ちょっと性的で、ちょっと知的。ネットが好きな条件が揃ってる」

 性的、という言葉に、真壁は眉をひそめた。

「どういう意味だ」

 二階堂は画面を自分に戻した。

「見ないほうがいい」

「言え」

「九条になら監禁されたい、だとさ」

 車内の空気が、一瞬止まった。

 九条が初めて、視線だけを動かした。

「それは、俺と関係のある情報なのか」

 二階堂が振り返る。

「ある。お前の顔が、事件から切り離されて玩具にされ始めてる」

「顔は証拠じゃない」

「世間には証拠より強いものがある」

「何」

「印象だよ」

 九条は少し考えたようだった。

「印象で死因は決まらない」

「死因はな。犯人は決まる」

 その言葉に、真壁は何も言えなかった。

 車は本部の地下駐車場へ入っていく。

 シャッターが閉まり、外の朝日が切断された。

 九条雅紀は、まだ逮捕されていない。

 だが、すでに世間の中では逃げ場を失いつつあった。

     *

 本部の取調室は、窓がなかった。

 白い壁。

 長机。

 記録用カメラ。

 安っぽい椅子。

 九条はそこに座っている。

 真壁は向かいに座り、二階堂は壁際に立っていた。二階堂は本来、この場にいる必要はない。だが、今朝の状況は普通の殺人事件とは違っていた。

 殺人現場と同じ速度で、報道現場が動いている。

 真壁は録音開始の確認を終えると、九条を見た。

「午前一時十三分、解剖準備室の入退室ログにお前のIDが残っている」

「俺は三階の研究室にいた」

「PCログは確認中だ」

「確認すれば分かる」

「分かっても、IDの説明にはならない」

「カードが複製されたか、盗まれた可能性がある」

「盗まれた自覚は」

「ない」

「複製される心当たりは」

「大学のシステム管理者なら可能かもしれない」

「具体名は」

「分からない」

 真壁はメモを取る。

 九条の答えは正確だった。

 そして、あまりにも淡々としていた。

 容疑をかけられた人間は、普通もっと動揺する。怒る者もいれば、泣く者もいる。余計なことを喋りすぎる者もいる。

 九条は違う。

 自分に向けられた疑いを、まるで別の遺体所見のように扱っている。

 それが、捜査員には不利に見える。

「山田美月とは、どういう関係だった」

「同じ教室の研究者」

「親しかったか」

「業務上は」

「私的には」

「食事を共にしたことはある。二人きりではない」

「相談を受けていたな」

「ああ」

「死因推定システムについて」

「そう」

「なぜ昨日、それを話さなかった」

「詳細を聞く前に、彼女が亡くなったから」

「三日前のメッセージには、“死因が先に決まっている気がする”とあった。意味は」

「おそらく、ルーメン・メディカルのシステム《LUCID》に関する疑念」

 二階堂が壁際で顔を上げた。

「LUCID?」

「死因推定補助AIです。司法解剖、検案、救急搬送記録、既往歴、薬物検査結果などを統合し、死因候補を提示するシステムだ」

「そんなものが実用化されてるのか」

「試験導入段階」

「警察にも?」

「一部の自治体、保険関連機関、研究協力先に提供されている」

 真壁は眉をひそめた。

「お前は関わっているのか」

「俺は批判的な立場にいる」

「山田は」

「共同研究に参加していた。ただ、途中から不審を抱いていた」

「何に」

 九条はそこで初めて、少しだけ間を置いた。

「死因が、データから導かれているのではなく、先に望ましい分類へ寄せられている可能性がある」

「望ましい分類?」

「事故死にしたいものは事故死に。自殺として処理したいものは自殺に。犯罪性を低く見せたいものは低く。あるいは逆に、特定の人物を疑わせたい場合は、その方向に」

 二階堂が低く言った。

「便利だな」

「便利であってはならないものだ」

 九条の声が、わずかに硬くなった。

「死因は、処理のためにあるのではない」

 真壁は九条の顔を見た。

 怒っている。

 やはり、九条は怒っていた。

 自分が疑われていることではなく、死因という言葉が別の目的に使われていることに。

「山田は、その不正を掴んでいたのか」

「分からない」

「また分からない、か」

「証拠を見ていないからな」

「だが、山田は死んだ」

「ああ」

「その直前に、お前を呼び出した」

「そう」

「そして、お前を疑うメッセージを残した」

「その文面は、山田先生のものとは考えにくい」

「理由は」

「さっきと重複するが、彼女は文面で俺を“先生”とは単独で書かなかったはず。必ず“九条先生”と書いていた。句読点の打ち方も違う。彼女は緊急時でも、文章の癖が崩れにくい人だから」

 二階堂が小さく笑った。

「文章の癖まで見るのか」

「遺書やメモでは重要だから」

「今のは、お前に都合が良すぎる」

「真実が常に不都合とは限らない」

 二階堂は口を閉じた。

 真壁はメモの手を止めた。

「右胸の傷についてもう一度聞く」

「どうぞ」

「犯人は、お前の完全内臓逆位を知っていた可能性があると?」

「そうだな」

「知っている人間は多いのか」

「公表したことがある。医学講座で症例として話したこともある。言いふらしてはいないが、隠してもいない」

「それが、お前を犯人に見せる材料になると?」

「なり得る」

「自分なら、そんな分かりやすいことはしないと思わないのか」

「思う」

「犯人もそう思わせたいのでは?」

「その可能性はある」

 真壁は軽く目を閉じた。

 作り話のような会話だ、と思った。

 だが、これは現実だ。

 山田美月は死んでいる。

 九条雅紀は疑われている。

 世間はすでに騒ぎ始めている。

 そして、犯人が別にいるなら、今もどこかでこの状況を見ている。

 そのとき、取調室の扉が叩かれた。

 所轄ではない。

 本部の管理官だった。

 真壁は立ち上がり、廊下へ出た。

 管理官の顔は険しい。

「真壁、聴取は一旦止めろ」

「なぜです」

「広報対応が先だ」

 真壁は思わず二階堂を見た。

 二階堂も取調室から出てくる。

「何が出ました」

 管理官は二階堂にタブレットを渡した。

 画面には、朝の情報番組の切り抜きが表示されていた。

 スタジオのキャスターが、深刻そうな顔で原稿を読んでいる。

『京東大学医学部の法医学教室で、女性医師が死亡しているのが見つかった事件で、警視庁が同僚の男性医師から任意で事情を聞いていることが、捜査関係者への取材で分かりました。女性医師は死亡前、男性医師との間で研究上のトラブルを抱えていた可能性があるということです。』

 画面右上には、こう出ていた。

『死体を扱う専門家に何が?』

 二階堂の顔が歪んだ。

「最悪のテロップだな」

 管理官は言った。

「マスコミが本部前に集まり始めている。京東大にも行っている。大学側はコメントを出す準備をしているそうだ」

「名前は」

「まだ出していない。だが、時間の問題だ」

 二階堂はスマートフォンを取り出した。

「公式コメントは?」

「“個別の捜査内容については回答を差し控える”。それで押す」

「弱いですね」

「何?」

 二階堂は画面から目を離さないまま言った。

「弱いです。そのコメントだと、九条の名前を認めたのと同じに受け取られる。記者は“否定しなかった”と書く」

「では何と言う」

「“本件について、特定の人物を犯人視する報道、投稿は厳に慎むようお願いします”。これを先に出す」

 管理官の目が細くなった。

「それは九条を庇っているように見える」

「庇ってるんじゃありません。捜査を守ってるんです」

 二階堂は即答した。

「いま世間に九条犯人説が固定されると、証言が汚染されます。目撃情報も、関係者の記憶も、全部“九条を見たかもしれない”に寄る。あとから真犯人を追う時に邪魔になる」

 真壁は二階堂を見た。

 珍しく、正論だった。

 管理官はしばらく黙ったあと、短く言った。

「文案を出せ」

「三分ください」

 二階堂は歩きながらスマートフォンに文章を打ち始めた。

 その背中を見て、真壁は思った。

 二階堂は軽口を叩く。

 何事も面倒そうに扱う。

 だが、言葉が人を殺すことを知っている。

 だからこそ、今の状況を誰より危険視している。

     *

 午前七時三十八分。

 警視庁は短いコメントを出した。

『本件については現在捜査中であり、特定の人物を犯人視する報道・投稿は、関係者の名誉および今後の捜査に重大な影響を及ぼす可能性があります。未確認情報の拡散はお控えください。』

 文章としては、間違っていない。

 だが、正しい言葉が火を消すとは限らない。

 その三分後。

 ネットニュースの見出しが変わった。

『警視庁が異例の呼びかけ 京東大女性医師死亡事件で“特定人物への犯人視”拡大か』

 七分後。

『ネット上で浮上する法医学者Kの名前 警視庁「未確認情報の拡散控えて」』

 十五分後。

『“法医学者K”とは何者か 死亡女性と同じ教室、過去にメディア出演も』

 二階堂は本部の広報室で、それらの見出しを見ながら無言でコーヒーを飲んでいた。

 紙コップのコーヒーはひどく薄い。

 隣のデスクでは、若い広報担当者が電話対応に追われている。

「はい、現段階でお答えできることはありません。はい、実名についても回答を差し控えます。いいえ、逮捕ではありません。任意で事情を……はい、任意です」

 任意。

 その単語が、すでに空虚に聞こえる。

 世間は任意と逮捕の違いをあまり気にしない。

 少なくとも、疑惑の人物の顔写真が流れてしまえば。

 二階堂の端末には、九条の顔が並んでいた。

 公開講座。

 大学の研究者紹介。

 学会発表。

 テレビ番組のキャプチャ。

 どこかの学生が撮ったと思われる廊下での後ろ姿。

 そのどれもが、事件と関係がない。

 だが、関係がないからこそ、好き勝手に意味をつけられる。

『顔が整いすぎてて逆に怖い。』

『法医学者ってだけで設定が強い。』

容疑者っていうより映画の犯人役。

『九条雅紀、名前からして強い。』

『右に心臓があるとか、さすがに盛りすぎ。』

『この人に解剖されるの無理。』

『いや解剖されたいとか言ってる奴いて引く。』

『九条先生になら監禁されたい。』

『不謹慎だけど分かる。』

『被害者いるんだぞ。』

 二階堂は画面を閉じた。

 胸の奥に、鈍い苛立ちがあった。

 ネットの悪意には二種類ある。

 ひとつは、明確に人を傷つけようとする悪意。

 もうひとつは、傷つけている自覚のない興奮だ。

 後者のほうが広がりやすい。

 なぜなら、本人たちは楽しんでいるだけだと思っているからだ。

 広報室の電話がまた鳴った。

 若い担当者が受話器を取る。

「はい、警視庁広報課です。……いえ、現在そのような事実は確認しておりません。……はい、九条雅紀氏という名前については……」

 二階堂は顔を上げた。

 若い担当者と目が合う。

 担当者は困ったような顔で受話器を押さえた。

「二階堂さん、大学関係者を名乗る方からです。九条医師の過去のトラブルについて情報提供したいと」

「切れ」

「え」

「名前と連絡先を聞いて、こっちからかけ直すと言え。向こうから喋らせるな。録音されてる可能性がある」

 担当者は慌てて頷いた。

 二階堂は紙コップを握り潰した。

 始まった。

 事件そのものではない。

 九条雅紀という人間の解体が。

     *

 午前八時二十分。

 京東大学医学部の正門前には、報道陣が集まっていた。

 カメラ、三脚、マイク、腕章。

 普段は学生と医師が行き交う道が、黒い機材で塞がれている。

 大学側の広報担当者が、困り果てた顔で繰り返す。

「現在、警察の捜査に全面的に協力しております。個別の教職員に関する情報についてはお答えできません」

 その背後で、学生たちが遠巻きにスマートフォンを向けていた。

 研究棟の窓からも、人影が覗いている。

 九条が普段使っていた研究室のドアには、すでに警察の封印が貼られていた。

 その室内で、真壁は捜索に立ち会っていた。

 机の上には論文の束。

 専門書。

 薬理学の資料。

 未使用の白いマグカップ。

 書きかけの原稿。

 ディスプレイには、前夜まで開かれていた査読中の論文ファイル。

 九条の言う通り、午前一時十三分前後にPCの操作ログは残っていた。

 ただし、それは完全なアリバイにはならない。

 PCは自動操作もできる。

 遠隔操作もできる。

 本人が席にいた証明には弱い。

 真壁は椅子の背にかかった白衣を見た。

「鑑識」

「はい」

「この白衣を回せ」

「分かりました」

 白衣の袖口、ポケット、襟。

 血液反応が出るかどうか。

 机の引き出しから、九条の予備のIDカードケースが見つかった。

 中身は空だった。

「予備カードは」

 真壁が聞くと、大学の事務職員が青ざめた顔で答えた。

「通常、本人保管です。ただ、紛失時は届け出が必要で」

「九条から届け出は」

「ありません」

 真壁は無言でメモを取った。

 証拠が、またひとつ九条に近づく。

 そのことが気に入らなかった。

 真壁は刑事として、証拠を嫌ってはいけない。

 証拠は道だ。

 事件の中心へ向かうための、唯一の道。

 だが今は違う。

 道が一本道すぎる。

 どこを歩いても、九条雅紀のところへ戻ってくる。

 それが気持ち悪かった。

「真壁さん」

 若い捜査員が声をかけてきた。

「山田美月の研究机から、外部記録媒体が見つかりました」

「中身は」

「暗号化されています。ただ、ラベルが」

 捜査員は透明な証拠袋を差し出した。

 小さなUSBメモリ。

 白いラベルに、手書きの文字。

――LUCID/死亡分類ログ/要確認

 真壁はそれを見つめた。

「解析へ」

「はい」

 そのとき、廊下からざわめきが聞こえた。

 大学関係者の声。

 報道陣の声。

 警備員の制止。

 真壁は窓に近づいた。

 下の正門前で、記者たちが一斉に動いている。

 誰かが来たのではない。

 何かが出たのだ。

 スマートフォンが震えた。

 二階堂からだった。

――見るなと言いたいが、見ろ。

 続いてURLが送られてくる。

 真壁は開いた。

 ネットニュースの画面が表示された。

【実名浮上】京東大学法医学教室の女性医師死亡事件 同僚の九条雅紀医師から事情聴取

 見出しの下に、九条の顔写真があった。

 大学の公式プロフィールから切り取られたものだ。

 真壁は、スマートフォンを握りしめた。

 写真の中の九条は、何も知らない顔でこちらを見ている。

 その下に、すでに大量のコメントがついていた。

『出た。』

『やっぱりこの人か。』

『美しすぎる殺人鬼。』

『顔が良すぎる。』

『右胸が刺されてたって、絶対九条ミスったろ』

『なんで実名出てるの?』

『まだ逮捕されてないんでしょ?』

『逮捕されてないなら名前出すなよ。』

『いや事情聴取されてる時点で怪しい。』

『火消し湧いてる。』

『九条先生、前から怪しいと思ってた。』

 怪しいと思っていた。

 その一文を見た瞬間、真壁はスマートフォンを閉じた。

 人は、事件が起きたあとに過去を作り替える。

 前から怪しかった。

 いつかやると思っていた。

 あの目が普通じゃない。

 あの言い方が冷たかった。

 何もかも、後から貼られる。

 真壁は窓の外を見下ろした。

 報道陣のカメラが、法医学棟の入口へ向いている。

 そのレンズの黒い円が、銃口のように見えた。

     *

 午前九時五分。

 九条の事情聴取は一時中断された。

 取調室の外で、捜査一課の管理官と刑事部の幹部が言い争っている。言い争いといっても、声を荒げる者はいない。むしろ、低い声で淡々と責任の所在を押しつけ合っている。

「実名が出た以上、早めに方針を固める必要がある」

「逮捕状請求にはまだ弱い」

「弱い? 防犯カメラ、ID、被害者のメッセージ、死亡前の相談、十分だろう」

「死因が刺創ではない可能性があります」

「それを言っているのが九条本人だ」

 真壁は廊下の端で、その会話を聞いていた。

 二階堂が隣に来る。

「上は焦ってるな」

「当然だ」

「当然で動くと間違える」

「分かってる」

「分かってる顔じゃない」

 真壁は二階堂を睨んだ。

「お前はどう見てる」

「事件か、炎上か」

「両方だ」

 二階堂はしばらく考えた。

「事件としては、証拠が九条に寄りすぎてる。炎上としては、燃え方が九条に寄りすぎてる」

「同じことを言っているだけだ」

「違う。普通、証拠と炎上は別々に暴走する。現場の証拠は警察の中で、炎上は外で。でも今回は、両方が同じタイミングで同じ方向へ進んでる」

「誰かが合わせていると?」

「その可能性がある」

 二階堂は壁にもたれた。

「最初の匿名投稿、防犯カメラ映像、山田先生の予約送信、実名記事。全部、段階が綺麗すぎる。九条の名前を“自力で見つけた”と思わせながら、実際には見つけさせられてる」

 真壁は廊下の白い床を見た。

「目的は」

「世間に九条を犯人だと思わせること」

「なぜ」

「分からない。ただ、世間が先に犯人を決めると、警察も引っ張られる」

「俺たちがか」

「俺たちも人間だからな」

 二階堂の声は軽かったが、目は笑っていなかった。

「現に上は、九条逮捕に傾き始めてる」

 真壁は黙った。

 否定できなかった。

「山田の死因が確定するまでは待つべきだ」

「その死因を誰が見る?」

「司法解剖の担当医だ」

「九条以外の?」

「当然だ」

 二階堂は鼻で笑った。

「九条が疑われてる事件で、九条に解剖させるわけにいかない。理屈は分かる。でも、もし犯人が九条以外で、しかも法医学を分かってる奴なら?」

 真壁は顔を上げた。

 二階堂は続ける。

「九条が見れば分かる違和感を、別の医師なら見落とす可能性がある。犯人はそこまで計算してるかもしれない」

「九条に解剖させろと言うのか」

「言わない。言った瞬間、俺たちも終わる」

「じゃあどうする」

 二階堂は答えなかった。

 その沈黙が、答えだった。

 九条を表からは使えない。

 だが、九条でなければ読めないものがあるかもしれない。

 それが、最悪だった。

     *

 午前十時十二分。

 本部前で、記者たちが騒ぎ始めた。

 九条雅紀の名前が実名で報じられてから、報道陣の数は倍以上に増えていた。警視庁の正面玄関にはカメラが並び、各社の記者がマイクを握って待ち構えている。

 二階堂は広報担当として、急遽設定された短い囲み取材に出ることになった。

 正面玄関脇のスペースに立つと、記者たちが一斉に声を上げる。

「九条雅紀医師は現在も本部内にいるんですか」

「逮捕の可能性は」

「被害者が残したメッセージの内容は事実ですか」

「防犯カメラに映っていた人物は九条医師本人ですか」

「右胸の刺創は九条医師の身体的特徴と関係があるんですか」

 二階堂はマイクの前に立ち、無表情で言った。

「現在、捜査中です。個別の証拠内容については回答を差し控えます」

「九条医師を犯人と見ているんですか」

「現段階で、特定の人物を犯人と断定する事実はありません」

「では、なぜ任意同行したんですか」

「必要な事情を確認するためです」

「任意同行は続いている?」

「はい」

「九条医師は否認しているんですか」

「供述内容については回答できません」

「ネット上では九条医師の実名や顔写真が拡散しています。警視庁としてどう見ていますか」

 二階堂は一瞬だけ、記者を見た。

「未確認情報の拡散は、関係者の名誉を傷つけるだけでなく、捜査にも重大な支障をきたします。慎重な報道をお願いします」

「慎重な報道と言いますが、捜査関係者から情報が出ているのでは?」

 別の記者が鋭く聞いた。

 二階堂は表情を変えなかった。

「情報管理については適切に対応しています」

「防犯カメラ映像がネット上に出ています。警察から流出したものでは?」

「確認中です」

「確認中ということは、流出の可能性を認めるんですね」

「確認中という意味です」

 記者たちは食い下がる。

 質問は事件そのものから、九条雅紀という人物へ移っていった。

「九条医師は過去にも警察捜査に協力していた人物ですよね」

「警察との癒着はなかったんですか」

「被害者とは個人的な関係があったのでは」

「右に心臓があるという話は事実ですか」

「それは事件と関係がありますか」

 二階堂の目が、わずかに冷えた。

「個人の医療情報に関する質問にはお答えしません」

「しかし、右胸を刺されているという情報が——」

「その情報の真偽についても回答しません」

 記者の一人が声を張った。

「九条医師は、完全犯罪が可能な立場にいたのではないですか」

 二階堂は、その記者をまっすぐ見た。

「可能性だけで人を犯人にするなら、取材が可能なあなた方も全員、情報漏洩の容疑者になります」

 場が一瞬静まった。

 言い過ぎたかもしれない。

 だが、二階堂は撤回しなかった。

「以上です」

 彼はマイクから離れた。

 背後で記者たちがまだ声を上げている。

 だが、その声はもう二階堂には届いていなかった。

 彼のスマートフォンが震えていた。

 差出人不明のメール。

 件名はない。

 本文には、短い一文だけ。

――その言葉も、見出しになる。

 添付ファイルが一つ。

 二階堂は足を止めた。

 開くべきではない。

 それは分かっていた。

 だが、開かないわけにはいかなかった。

 動画ファイルだった。

 再生時間、十一秒。

 画面に映ったのは、京東大学法医学棟の廊下。

 防犯カメラ映像とは別角度だった。

 白衣の人物が、解剖準備室へ入っていく。

 その直前、人物が一度だけカメラのほうを向いた。

 顔が映った。

 九条雅紀だった。

 少なくとも、そう見えた。

 二階堂は動画を停止した。

 喉の奥が乾いた。

 動画の最後に、黒地に白い文字が表示された。

――まだ、始まりです。

     *

 午前十一時二十六分。

 取調室に戻った九条は、二階堂から動画を見せられた。

 真壁も隣に立っている。

 白衣の人物が、カメラを見る。

 九条の顔。

 停止した画面を、九条はじっと見つめた。

「似ているな」

 二階堂が顔をしかめた。

「感想が他人事すぎる」

「俺じゃない」

「それは分かってる。いや、分かってると言い切ると俺も危ないけど、少なくともお前はそう言うだろうな」

 真壁は画面を指差した。

「この角度のカメラは、大学の防犯設備にはなかった」

「隠しカメラか、内部者の私物か」

 二階堂が言う。

「あるいは、最初から撮影用に設置されたか」

 九条は動画の一部を指した。

「ここを戻して」

 二階堂が再生位置を戻す。

「何だ」

「左手の動き」

 白衣の人物がカードをかざす。

 たしかに左手だった。

「俺に似せるなら左手を使うだろう」

「それ以外は」

「手首の角度が違う」

 二階堂が眉を上げた。

「手首?」

「俺はカードをかざすとき、手首を内側に倒す。この人物は外側に逃がしている。左利きに見せようとしている右利きの動きに近い」

 真壁は映像を見た。

 正直、分からない。

 だが、九条は確信しているようだった。

「顔は」

「顔は似ている」

「変装か」

「映像加工の可能性もある」

「証明は」

「専門外」

 二階堂が乾いた笑いを漏らした。

「お前の専門外、多すぎるな」

「死体なら分かるんだけど」

「その死体を見せてもらえないんだよ、今のお前は」

 九条は黙った。

 その沈黙だけが、少し人間らしかった。

 真壁は九条を見た。

「お前は、山田の死体を見れば何が分かると思っている」

「少なくとも、犯人が何を誤魔化したかったのかは分かると思う」

「死因ではなく?」

「死因も含めて。ただ、犯人の目的は死因そのものではない」

「では何だ」

 九条は少しだけ視線を落とした。

「死体の読まれ方」

 二階堂が腕を組んだ。

「読まれ方」

「うん。山田先生の死体は、俺を犯人として読ませるように作られている。右胸の傷、血液量、メッセージ、防犯映像。すべてが、同じ結論へ向かうよう配置されている」

「それが本当なら、犯人は法医学を知ってる」

「おそらく」

「大学内部か」

「可能性はある」

「ルーメン・メディカルは?」

「共同研究で法医学教室に出入りしていた」

 真壁は手帳を開いた。

「清水輝」

 九条が顔を上げる。

「知っている」

「ルーメン・メディカルの共同創業者。元、京東大学法医学教室の技師。山田の共同研究相手」

「ああ」

「どんな人物だ」

「優秀。少なくとも、記録の扱いに関しては」

「人間としては」

 九条は答えるまでに、少し時間を置いた。

「死体を、情報として扱いすぎる人」

 二階堂が軽く目を細めた。

「お前がそれ言うのか」

「俺は死体を情報としても扱うけど、人間だったものとして扱うことを忘れないようにしている」

 その言葉は静かだった。

 真壁は、九条のそういうところを嫌いではなかった。

 だが、今はそれが何の救いにもならない。

 取調室の扉が再び開いた。

 入ってきたのは、先ほどの管理官だった。

 彼は真壁に一枚の紙を渡した。

「山田美月の手袋から、微量の皮膚片が出た」

「誰の」

「照合中だ。ただ、血液については先に結果が出た」

 真壁は紙を見た。

 血液型。

 DNA型。

 照合結果。

 九条雅紀。

 真壁は目を閉じたくなった。

 二階堂が紙を覗き込む。

「どこから出た」

「山田の右手袋の内側。爪の欠けた指の近く」

「つまり、山田先生は死ぬ前に九条を掴んだ?」

 管理官は冷たく言った。

「そう見るのが自然だ」

 九条は言った。

「不自然です」

 管理官が九条を見下ろす。

「君にとってはそうだろう」

「私が山田先生に掴まれた事実はありません」

「では、なぜ血液がある」

「分かりません」

「また分からないか」

 九条は黙った。

 管理官は真壁に向き直る。

「逮捕状請求を検討する」

「まだ早いです」

 真壁は即座に言った。

「死因も確定していない」

「状況証拠は揃っている」

「揃いすぎています」

 管理官の目が鋭くなった。

「どういう意味だ」

 真壁は答えに詰まった。

 九条が言えば自己弁護。

 真壁が言えば擁護。

 その差はある。

 だが、真壁がここで言えば、上層部には「九条に肩入れしている」と見えるだろう。

 二階堂が横から口を挟んだ。

「広報上も、逮捕は慎重にしたほうがいいです」

「広報上?」

「はい。ここまで情報が出た後で逮捕すると、警察がネット世論に押されたように見えます」

 管理官は二階堂を睨んだ。

「世論ではなく証拠だ」

「そう見えないと言っています」

「君は広報の心配だけしていろ」

「その広報が言ってるんです。今この事件は、捜査と世論が絡まりすぎてる」

 管理官はしばらく二階堂を見ていたが、やがて真壁に言った。

「一時間後に捜査会議だ。九条医師の身柄についてもそこで決める」

 管理官が出ていく。

 扉が閉まったあと、取調室には重い沈黙が残った。

 二階堂が椅子に腰を下ろす。

「詰んできたな」

 真壁は答えなかった。

 九条は、自分の血液が山田の手袋から出たと聞いても、表情を崩していない。

 だが、その顔は先ほどよりもわずかに白かった。

「九条」

 真壁は言った。

「何か隠していることはないか」

「ない」

「本当に?」

「ああ」

「お前の血が、なぜ山田の手袋に付く」

「分からない」

「昨夜以前に、山田と接触したか」

「三日前、研究室で資料を受け取った。その時、紙で指を切った」

 二階堂が顔を上げる。

「それだ」

「でも、山田先生は手袋をしていなかった」

「血の付いた資料を触った可能性は」

「ある。ただ、それが昨夜の手袋の内側に付着する経路は不自然」

「不自然だらけだな」

「だな」

 九条は真壁を見た。

「誰かが、俺の血液を保管していた可能性がある」

 真壁の背筋が冷えた。

「お前の血液を?」

「法医学教室には、研究用の検体や標本がある。俺の血液が残っている可能性もゼロではない。過去の検査、講義資料、症例提示用のサンプルとか」

 二階堂が低く呟いた。

「体質も、血も、顔も、IDも使われてる」

 九条は頷いた。

「うん」

「お前、素材扱いだな」

「不快」

「やっと人間らしい感想が出た」

 真壁は二人のやり取りを聞きながら、胸の奥に重いものを感じていた。

 九条雅紀を犯人にするために、犯人は九条のあらゆるものを使っている。

 名前。

 顔。

 体質。

 利き手。

 ID。

 血液。

 専門性。

 人間一人が、証拠の材料にされている。

 それは、殺人とは別の残酷さだった。

     *

 正午前。

 九条雅紀の名前は、すでに全国ニュースになっていた。

 各局の昼の番組が、京東大学医学部の映像を流している。

 法医学棟の外観。

 正門前の報道陣。

 九条のプロフィール写真。

 防犯カメラ映像とされる白衣の人物。

 コメンテーターが言う。

「法医学の専門家であれば、証拠隠滅の方法にも詳しい可能性がありますよね」

 別の専門家が言う。

「ただし、まだ逮捕されたわけではありません。慎重に見る必要があります」

 その直後、番組のテロップにはこう出る。

『法医学者が女性医師死亡に関与か』

 慎重という言葉は、見出しには負ける。

 二階堂は広報室のテレビを消した。

 若い担当者が怯えた顔で見る。

「消したら状況が分からないだろ」

「点けてても腹が立つだけだ」

 二階堂は自分の端末を確認した。

 匿名掲示板では、九条雅紀に関するスレッドが乱立していた。

【京東大】法医学者K、ガチでやばい

【右胸】九条雅紀って何者?

【顔画像】容疑者? 法医学者がイケメンすぎる

【考察】右に心臓がある男が右胸を刺した理由

【目撃情報】九条先生を見た人いる?

 目撃情報まで出始めていた。

『今朝、品川で見た。黒い服で歩いてた。』

『いや本部にいるんじゃないの?』

『昨日、新宿で似た人見た。目立ってた』

『京東大の近くのコンビニで見た。』

『マスクしてたけど目が完全に九条。』

『俺の大学にも来てたことある。怖。』

『友達の姉ちゃんが九条と付き合ってたらしい。』

『嘘松』

『でもあの顔なら女関係やばそう。』

 二階堂は舌打ちした。

 人は、知らない空白を耐えられない。

 だから勝手に埋める。

 その埋めたものが嘘でも、面白ければ残る。

 広報室の固定電話が鳴った。

 担当者が取る。

 すぐに顔色が変わる。

「二階堂さん」

「何」

「官邸詰めの記者からです。ルーメン・メディカルが午後にコメントを出すそうです」

 二階堂は眉を寄せた。

「何のコメントだ」

「共同研究に関して」

「早いな」

 早すぎる。

 二階堂は端末で検索した。

 ルーメン・メディカル。

 死因推定AI《LUCID》。

 医療データ解析。

 警察・自治体向け実証実験。

 共同創業者、清水輝。

 清水輝の顔写真が表示された。

 端正な顔の男だった。

 九条とは違う種類の整い方だ。明るく、清潔で、プレゼンテーションに向いた顔。

 紹介文には、こうある。

『テクノロジーによって死因究明の透明性を高める。』

 二階堂は画面を見つめた。

 透明性。

 その言葉が、妙に白々しかった。

     *

 午後零時四十三分。

 捜査会議が始まった。

 会議室の空気は重かった。

 机の上には資料が並び、正面のモニターには事件関係者の相関図が映し出されている。

 中央に山田美月。

 その横に、九条雅紀。

 線が何本も引かれている。

 同僚。

 相談相手。

 メッセージ。

 入退室記録。

 防犯カメラ。

 血液。

 線が増えるほど、九条は中心に見えた。

 真壁はそれを見ながら、別のことを考えていた。

 相関図は便利だ。

 誰と誰が繋がっているか、一目で分かる。

 だが、線を引いた瞬間、人はそこに意味があると思い込む。

 九条と山田の間に何本も線がある。

 だから怪しい。

 そう見える。

 しかし、本当に怪しいのは、線が引かれていない場所ではないのか。

「現時点で、九条雅紀医師が重要参考人であることは明白です」

 担当幹部が説明する。

「被害者の山田美月は死亡前、九条医師に対する不信を示すメッセージを複数残している。防犯カメラ映像には九条医師と酷似した人物が映っており、入退室ログにも九条医師のIDが残っている。さらに被害者の手袋から九条医師の血液が検出された」

 会議室内にざわめきはない。

 皆、資料を見ている。

 資料は冷静だ。

 だからこそ怖い。

 幹部は続ける。

「一方、死因については司法解剖待ちです。右胸部刺創が直接死因かどうかは未確定。ただし、犯行後に偽装工作を行った可能性もある」

 真壁は口を開いた。

「その偽装工作が、九条を犯人に見せるためだった可能性があります」

 会議室の視線が集まった。

 幹部が目を細める。

「根拠は」

「証拠が九条に集中しすぎています」

「それは九条が犯人だからでは?」

「その可能性もあります。ただ、犯人が法医学や大学内部のシステムに詳しい人物なら、九条のID、血液、身体的特徴、防犯映像を利用できた可能性がある」

「君は九条医師と親しいな」

 その一言で、会議室の温度が変わった。

 真壁は背筋を伸ばした。

「捜査上、関わったことはあります」

「私情はないか」

「ありません」

 嘘ではない。

 少なくとも、真壁はそう信じたかった。

 二階堂が後方の席から口を開いた。

「広報課から一点」

 幹部たちの視線が、今度は二階堂に向く。

「現在、九条医師の実名、顔写真、個人情報が急速に拡散しています。逮捕に踏み切る場合、世論は一気に有罪前提で固定されます。もし後に別犯の可能性が出た場合、捜査への信頼は大きく損なわれます」

「逮捕の可否は広報で決めるものではない」

「もちろんです。ただ、情報環境も捜査の一部です」

 二階堂は淡々と言った。

「今この事件では、犯人が世論を利用している可能性があります」

 会議室が静まった。

「犯人が?」

「はい。防犯映像の流出、実名記事、匿名投稿のタイミングが整いすぎています。九条医師を犯人視させる情報が、段階的に投下されている」

「陰謀論のように聞こえるな」

「私もそう思います。だから嫌なんです」

 二階堂は言った。

「陰謀論に見えるほど、情報の配置が上手い」

 真壁は、二階堂の横顔を見た。

 軽口はない。

 そこにいるのは、情報の火災現場を見ている人間だった。

 だが、会議の流れは変わらなかった。

 証拠は強い。

 世論も強い。

 組織は、分かりやすい方向へ進みたがる。

 最後に管理官が言った。

「逮捕状請求の準備に入る。ただし、司法解剖の速報所見を待つ」

 真壁は唇を結んだ。

 時間がない。

 そう思った。

     *

 午後一時三十七分。

 九条は取調室で一人、待たされていた。

 机の上には水の入った紙コップがある。

 手をつけていない。

 カメラは回っていない。

 だが、おそらく隣室から見られている。

 九条はそれを承知していた。

 だから、何もしなかった。

 椅子に座り、指を組み、目を閉じる。

 眠っているわけではない。

 頭の中で、山田美月の遺体を見ていた。

 右胸の刺創。

 出血量。

 衣服の浸潤。

 左側を下にした倒れ方。

 口唇の色。

 眼瞼結膜。

 爪。

 欠けた人差し指。

 見た時間は短かった。

 現場は遠かった。

 照明も十分ではなかった。

 それでも、見えたものはある。

 山田は刺されて死んでいない。

 では、何で死んだのか。

 呼吸抑制。

 薬物。

 あるいは、窒息に近い低酸素。

 首に目立った圧迫痕はなかった。

 口鼻を塞がれたなら、抵抗痕がもっとあるはずだ。

 注射痕は確認できていない。衣服の影で見えなかった可能性がある。

 山田は、なぜ左側を下にして倒れていたのか。

 右胸を刺すなら、仰向けか右半身を上にしたほうが傷を作りやすい。

 死後に動かしたのか。

 それとも、倒れた姿勢のまま刺したのか。

 犯人は、何を急いだ?

 そこまで考えたとき、九条は目を開けた。

 山田の左手。

 伸ばされた左手の先。

 床に落ちた眼鏡。

 眼鏡の位置が、おかしかった。

 山田は眼鏡をかけていた。

 倒れた衝撃で外れたなら、顔の近くか、倒れた方向へ飛ぶ。

 だが、眼鏡は少し離れた作業台の脚元にあった。

 誰かが蹴った?

 山田が自分で外した?

 あるいは、何かを見るために——。

 九条は立ち上がった。

 扉の向こうにいるであろう捜査員に言った。

「真壁警部補を呼んでください」

 返事はない。

「山田先生の眼鏡を確認してください」

 沈黙。

「レンズの内側です。何か付着している可能性があります」

 やはり返事はない。

 九条は扉を見つめた。

 自分はもう、死体に近づけない。

 現場にも近づけない。

 証拠にも触れられない。

 それは法医学者にとって、目を塞がれるのに等しかった。

 そのとき、天井のスピーカーから館内放送が流れた。

 無機質な声。

「捜査一課、真壁警部補。至急、鑑識資料室へ」

 九条は顔を上げた。

 何かが見つかった。

 それが自分に有利なものか、不利なものかは分からない。

 ただ、この事件がまだ動いていることだけは分かった。

     *

 鑑識資料室で、真壁を待っていたのは解析担当者だった。

 彼の顔色は悪い。

「山田美月の端末から、削除済みのメールを復元しました」

「内容は」

「九条先生宛です。ただ、送信はされていません。下書きフォルダにも残っていなかった。完全削除されたものを復元しました」

「いつ作成された」

「昨夜、午後十一時五十八分」

 山田が死ぬ一時間ほど前。

 真壁の背中に、緊張が走った。

「読んでくれ」

 解析担当者は画面を見た。

「件名は——」

 そこで彼は一度、言葉を切った。

 真壁は急かさなかった。

 解析担当者は、低い声で読んだ。

――先生が逮捕されたら、二人目が死にます。

 真壁は息を止めた。

「本文は」

 解析担当者は、さらに画面をスクロールした。

「一行だけです」

 真壁は画面を覗き込んだ。

 そこには、山田美月が最後に残したかもしれない言葉があった。

――死因は、先に売られている。

 真壁はしばらく、その文面から目を離せなかった。

 九条雅紀を疑うメッセージ。

 九条雅紀に警告するメッセージ。

 どちらも山田美月の端末から出てきた。

 矛盾している。

 いや、矛盾しているように見せられているのか。

 真壁のスマートフォンが震えた。

 二階堂からだった。

――ルーメンが会見を前倒しした。

――午後二時。

――代表で清水輝が出る。

 真壁は目を閉じた。

 山田のメール。

 九条の逮捕。

 二人目。

 死因は、先に売られている。

 ルーメン・メディカル。

 清水輝。

 すべてが、急速に繋がり始めていた。

 そして、その中心にいる九条雅紀は、今、取調室に閉じ込められている。

 真壁は資料室を飛び出した。

 廊下の先で、二階堂と鉢合わせる。

 二階堂は真壁の顔を見て、すぐに察した。

「何が出た」

 真壁は短く答えた。

「山田の削除メールだ」

「九条を疑うやつか」

「逆だ」

 二階堂の目が細くなった。

 真壁は言った。

「山田は、九条が逮捕されたら二人目が死ぬと書いていた」

 二階堂は一瞬だけ黙った。

 そして、低く呟いた。

「最悪だ」

「なぜだ」

「上は今、九条を逮捕したがってる」

 真壁は、取調室のある廊下を見た。

 そこに九条雅紀がいる。

 事件を読む目を持つ男が、事件から切り離されようとしている。

 二階堂が言った。

「真壁」

「何だ」

「これ、ただの殺人じゃない」

 真壁は頷いた。

 分かっている。

 だが、二階堂はさらに続けた。

「これは、九条を犯人にするための事件でもない」

 真壁は二階堂を見た。

「どういう意味だ」

 二階堂のスマートフォンに、速報が表示された。

【速報】ルーメン・メディカル、京東大事件を受け緊急会見へ

【ルーメン】死因推定AI《LUCID》の共同研究めぐり説明

 二階堂は画面を真壁に向けた。

「九条は、宣伝に使われてる」

 その言葉の意味を、真壁はすぐには理解できなかった。

 だが、次の瞬間、別の通知が重なった。

【独自】警視庁、九条雅紀医師の逮捕状請求を視野

 九条雅紀は、まだ取調室にいる。

 山田美月の死因は、まだ確定していない。

 そして、山田が警告した“二人目”は、まだ生きているのかどうかも分からない。

 真壁は走り出した。

 廊下の蛍光灯が、白く流れていく。

 その先で、九条雅紀の名前はもう、警察よりも先に社会から手錠をかけられていた。


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