第一章 法医学者は、右胸を刺さない
午前一時十三分。
京東大学医学部法医学棟の廊下に、人の足音はなかった。
白い蛍光灯だけが、夜の建物を淡く照らしている。日中であれば、学生の声や台車の車輪音、教授陣の低い会話が行き交う廊下も、この時間になると病院とは違う静けさを帯びる。
病院の夜には、かすかな息遣いがある。
誰かが眠り、誰かが苦しみ、誰かが呼吸を確認されている。
だが、法医学棟の夜にはそれがない。
ここにあるのは、呼吸を終えた者たちの沈黙だけだった。
廊下の奥で、電子錠が小さく鳴った。
解剖準備室の扉が開く。
白衣を着た人物が、音もなく中へ入った。
手袋をした左手が、内側から扉を押さえる。
扉が閉まる直前、廊下の防犯カメラがその横顔を捉えた。
長身。細い輪郭。
白衣の下に黒いシャツ。
少し伏せた目元。
映像を一時停止すれば、誰もがその名前を言っただろう。
九条雅紀。
京東大学法医学教室の准教授。
警察からも、検察からも、時に忌々しげに頼られる法医学者。
その三十二分後。
解剖準備室の床に、山田美月は倒れていた。
胸の右側に、深い傷があった。
*
真壁彰が京東大学医学部の正門に着いたのは、午前二時五十一分だった。
六月とはいえ、夜明け前の空気はまだ冷たい。
正門脇の植え込みが、車のヘッドライトに濡れたように光っている。警備員が駆け寄ってきたが、真壁は警察手帳を見せるだけで通り過ぎた。
後部座席から降りた二階堂壮也が、眠そうに首を鳴らした。
「大学ってのは、昼間も夜も陰気だな」
「広報課が来る段階じゃない」
真壁が言うと、二階堂は肩をすくめた。
「お前に呼ばれたんだよ」
「俺は呼んでない」
「係長経由でな。『京東大で揉めそうだから、二階堂も行かせろ』って。揉めそうって言い方がもう揉めてる」
真壁は返事をしなかった。
正門から法医学棟までは、徒歩で三分ほどだった。
夜のキャンパスは広く、余計な音が吸い込まれていく。非常灯が点々と灯るだけの構内を歩きながら、真壁は通報内容を頭の中で整理していた。
京東大学医学部法医学教室。
解剖準備室。
女性医師が倒れている。
死亡確認済み。
室内に争った形跡。
入退室記録に不審点あり。
そして、第一発見者の一人が九条雅紀。
その名前を聞いた時点で、真壁は嫌な予感がしていた。
九条は事件を呼ぶ男ではない。
少なくとも本人はそう思っているだろう。
しかし、九条雅紀の周辺で起きる事件は、いつも死体が面倒なことを言う。
ただ死んでいるだけではなく、死んだあとも何かを訴え続ける。
それを読み取るのが九条の仕事だった。
だが今夜は違う。
死体が九条に向かって指を差している。
そんな予感がした。
法医学棟の前には、すでに所轄の車両が二台停まっていた。鑑識のワゴンもある。玄関前のガラス扉には、夜間通用口のカードリーダーが青く光っていた。
警備員に案内され、二人は建物に入った。
廊下は寒かった。
病院のような消毒液の匂いに、古い書類の埃っぽさが混じっている。
真壁は無意識に背筋を伸ばした。
死者のいる建物では、いつもそうなる。
エレベーターで地下に降りる途中、二階堂がスマートフォンを見た。
「まだ外には漏れてない」
「何が」
「京東大。女性医師。法医学教室。九条。どれか一つでも出たら、朝までには面倒なことになる」
「余計なことを考えるな」
「余計なことじゃない。俺の仕事だ」
真壁は横目で二階堂を見た。
警視庁広報課の二階堂壮也は、見た目だけなら捜査員には見えない。
軽い口調、整った顔、いつも何かを少し斜めから眺めているような態度。
だが、言葉の扱いに関しては真壁よりはるかに鋭い。
事件は、起きた瞬間から二つになる。
ひとつは、現場に残された事件。
もうひとつは、世間に語られる事件。
二階堂は後者のほうを見ている。
エレベーターが止まった。
地下二階。
扉が開くと、空気がさらに冷たくなった。
廊下の先に、所轄の刑事が立っている。その向こうに、白い防護服の鑑識員が見えた。
「真壁警部補」
所轄の刑事が会釈した。
「被害者は山田美月、三十四歳。京東大学法医学教室の助教です。死亡確認は午前一時五十八分。第一発見は警備員と、こちらの教室の九条准教授」
「九条は」
「中にいます」
「中?」
真壁の声が低くなった。
「現場に入れたのか」
「いえ、発見時にすでに……。その後は廊下で待機させています。ただ、ご本人が遺体の状況を見て、刺創と死因が一致しない可能性があると」
「黙らせろ」
二階堂が小さく笑った。
「無理だろ。九条だぞ」
真壁は二階堂を睨んだが、否定はしなかった。
解剖準備室の前に、九条雅紀は立っていた。
白衣姿ではなかった。黒いシャツに、濃紺のジャケット。髪はいつもより乱れている。
だが、その横顔は妙に静かだった。
現場の前にいる人間の顔ではない。
すでに何かを見つけてしまった人間の顔だった。
「九条」
真壁が声をかけると、九条はゆっくりと振り向いた。
「真壁」
「中に入ったのか」
「入った」
「誰の許可で」
「山田先生が倒れていた。許可を求める状況ではなかった」
「触ったか」
「頸動脈を確認した。呼吸も。瞳孔も」
「他には」
「触っていない」
真壁は九条の手を見た。
手袋はしていない。長い指が、体温を失ったように白く見えた。
「九条」
二階堂が一歩前に出た。
「今のうちに言っとくけど、変なことを言うなよ」
「変なこととは」
「遺体がどうとか、刺創がどうとか、普通の人間が聞いたら一発で気味悪がるやつ」
「普通の人間は、死因を気味の良し悪しで判断しない」
「だから言うなって言ってる」
真壁は二人の会話を遮った。
「状況を話せ」
九条は一瞬だけ、解剖準備室の扉を見た。
「午前一時四十七分頃、山田先生からメッセージが届いた。内容は『確認したい記録があります。至急、準備室へ』」
「それで来た?」
「そう。俺は法医学棟の三階にいた。論文の査読をしていたから」
「こんな時間に」
「締切は、死亡時刻を考慮してくれない」
二階堂が眉を上げた。
「お前、そういうところだぞ」
九条は反応しなかった。
「地下に降りたところで、警備員と会った。解剖準備室の扉が半開きになっていたと。中に山田先生が倒れていた」
「扉は施錠されていたんじゃないのか」
「発見時は半開きだった。ただ、警備員によれば、それ以前の巡回時には閉まっていたらしい」
「入退室記録は」
所轄の刑事が横から答えた。
「現在確認中ですが、午前一時十三分に九条先生のIDで解錠されています」
空気が変わった。
二階堂の目が、スマートフォンから九条へ移った。
真壁は表情を変えなかった。
「九条」
「俺はその時間、三階にいた」
「証明できるか」
「研究室のPCにログが残っているはず」
「誰か見ていたか」
「見ていない」
二階堂が小さく息を吐いた。
「よくないねえ」
「何が」
「全部だよ」
真壁は解剖準備室の扉へ向かった。
「中を見る」
鑑識員が靴カバーと手袋を差し出した。
真壁はそれを身につけ、二階堂も少し遅れて続いた。
「お前も入るのか」
「広報課だって現場を見る権利くらいある」
「ない」
「じゃあ、見る義務で」
真壁は諦めた。
扉が開く。
冷気が流れてきた。
解剖準備室は、広くはない。
中央にステンレス製の作業台。壁際には器具棚、薬品保管庫、記録用端末。床は水洗いできるよう、わずかに排水溝へ傾斜している。
山田美月は、作業台の横に倒れていた。
仰向けではない。
左側を下にして、少し身体を丸めるように倒れている。
白衣の前が赤黒く汚れていた。
胸の右側に傷がある。衣服の上からでも分かるほど深い。
若い女性だった。
眼鏡は外れ、床に落ちている。
髪が頬にかかっていた。
真壁は遺体の前にしゃがんだ。
死体を見るとき、まず顔を見る者が多い。
真壁は手を見る。
抵抗したか。
何かを掴んだか。
最後に何をしようとしたか。
山田の右手は胸元に近く、左手は床に伸びていた。
左手の人差し指の爪が、わずかに欠けている。
「争った形跡は」
「棚の一部が乱れています」
鑑識員の神明が答えた。
真壁は床を見た。
血の量が少ない。
刺創の見た目に比べて、明らかに少ない。
「九条が言っていたのは、これか」
二階堂が低く言った。
「おそらくな」
真壁は遺体の衣服を見た。
血液は胸元から広がっている。だが、床の血だまりは大きくない。傷口から流れたというより、衣服に吸われた血があとから滲んだように見える。
生きている人間を刺せば、心臓の動きと血圧が血を押し出す。
死後に刺せば、出血の様子は変わる。
真壁は法医学者ではない。
それでも、これまで九条といくつもの現場を見てきた。
違和感の輪郭くらいは分かる。
「死後か」
二階堂が囁いた。
「断定するな」
「俺じゃない。お前の顔が言ってる」
真壁は黙った。
そのとき、背後から声がした。
「右胸を刺す必要がない」
振り向くと、九条が扉の外に立っていた。
鑑識員が止めようとしたが、九条は中には入っていない。境界線の外から、遺体を見ている。
「入るなと言ったはずだ」
「入っていない」
「喋るな」
「真壁が誤解したまま捜査するよりは、喋ったほうがいい」
二階堂が片手で顔を覆った。
「だからお前、そういうところだって」
真壁は立ち上がった。
「九条。今のお前は関係者だ。専門家じゃない」
「関係者であっても、見えるものは変わらない」
「変わる。お前の言葉は証言になる」
「じゃあ証言する。山田先生は、この刺創では死んでいない」
部屋の中にいた数人が、同時に九条を見た。
九条は表情を変えない。
「右胸部の刺創は深い。しかし床面の血液量、衣服への浸潤、皮膚の収縮の仕方が一致しない。生前に刺された傷なら、もっと出血している。少なくとも、この姿勢で倒れたなら血液の流れ方が違う」
「死因は何だ」
真壁は聞いてしまってから、しまったと思った。
九条は待っていたように答えた。
「現段階では断定できない。ただ、口唇の色、眼瞼結膜、頸部の状態を見る限り、呼吸を抑制された可能性がある」
「薬物か」
「その可能性はある」
所轄の刑事が小声で何かを言った。
真壁は聞こえないふりをした。
九条の言葉には力がある。
だから危険だった。
九条が「刺殺ではない」と言えば、捜査はその方向へ動く。
だが今、九条自身が疑われる可能性がある。
彼の言葉は、真実への道しるべであると同時に、自己弁護にも見える。
「なぜ右胸なんだ」
二階堂が言った。
九条は二階堂を見た。
「犯人が、俺を意識しているからだろうな」
「どういう意味?」
「俺は完全内臓逆位だから」
その場の空気が、さらに冷えた。
完全内臓逆位。
心臓を含む内臓の位置が、通常と左右反転している体質。
二階堂が口を歪めた。
「つまり、山田先生の右胸を刺したのは、お前の身体を連想させるため?」
「その可能性がある」
「自分で言うなよ、そういうこと」
「言わなければ、誰かが後で言う」
真壁は九条から目を離さなかった。
九条の声はいつも通りだった。
淡々としていて、余分な感情がない。
だが、真壁には分かる。
九条は怒っている。
山田美月を殺した犯人にではない。
死体を雑に使った人間に、怒っている。
「山田先生は、何かトラブルを抱えていたか」
「分からない」
「分からない?」
「相談は受けていた」
二階堂が顔を上げた。
「それを世間では分かってるって言うんだよ」
九条は少しだけ目を伏せた。
「研究記録について。彼女は、外部企業と共同研究している死因推定システムに疑問を持っていた」
「企業名は」
「ルーメン・メディカル」
真壁はその名前を手帳に書いた。
「内容は」
「詳細は聞いていない。明日話す予定だった」
「明日?」
「正確には、今日の午後」
山田美月は、その前に死んだ。
いや、殺された。
真壁は遺体を見下ろした。
右胸の傷。
少なすぎる血。
九条のIDで開いた扉。
九条に相談していた被害者。
偶然にしては、すべてが九条の周囲に集まりすぎている。
「山田先生の端末は」
「こちらです」
鑑識員が、作業台の上に置かれたノートPCを示した。
画面はスリープ状態になっている。横にスマートフォンが一台。割れた保護フィルムに、血の小さな点が付着していた。
「開けるか」
「パスコードが必要です」
「解析に回せ」
真壁が言うと、鑑識員が頷いた。
そのとき、所轄の刑事が廊下から駆けてきた。
「真壁警部補」
「何だ」
「入退室ログ、確認できました」
刑事はタブレットを差し出した。
そこには、時刻とID番号、氏名が表示されていた。
午前一時十三分。
解剖準備室。
九条雅紀。
午前一時四十九分。
解剖準備室。
山田美月。
「おかしいな」
二階堂が呟いた。
「何が」
「山田先生の入室が、死んだ後っぽい」
真壁はタブレットを見直した。
九条のIDで解錠されたのは、一時十三分。
山田のIDで解錠されたのは、一時四十九分。
しかし、九条の話では一時四十七分に山田からメッセージが届き、その後、九条は地下へ降りている。
山田が生きて自分のIDを使ったのか。
それとも、誰かが山田のカードを使ったのか。
「死亡推定時刻は」
真壁が聞くと、九条が答えた。
「正確には司法解剖後だな。ただ、死後硬直の始まり方と体温から考えれば、一時前後から一時半の間」
「一時四十九分には」
「生きていた可能性は低い」
九条の言葉が、また現場を動かした。
真壁は息を吐いた。
「九条、外で待て」
「分かった」
「携帯を出せ」
九条が、わずかに動きを止めた。
二階堂もそれを見逃さなかった。
「嫌な間だな」
九条は内ポケットからスマートフォンを取り出した。
「山田先生からのメッセージが残っている」
「だから出せ」
真壁はスマートフォンを受け取った。
画面はロックされていなかった。
直近の通知に、山田美月の名前がある。
午前一時四十七分。
――確認したい記録があります。至急、準備室へ。
その下に、九条の未送信の返信があった。
――何の記録ですか。
送信されていない。
入力途中で、九条は移動したのだろう。
真壁は画面をスクロールしようとして、手を止めた。
さらに下に、古いメッセージがあった。
三日前。
――九条先生、少しだけお時間をいただけませんか。
――あのシステム、やはりおかしいです。
――死因が、先に決まっている気がします。
真壁は画面を二階堂に見せた。
二階堂の表情から、いつもの軽さが消えた。
「死因が先に決まっている、ね」
「意味が分かるか」
「分かりたくない言葉だな」
九条は黙っていた。
真壁はスマートフォンを証拠品として回収するよう指示した。
その瞬間、九条の視線がわずかに揺れた。
「何だ」
「いや」
「言え」
「山田先生のスマートフォンも確認してほしい」
「する」
「送信履歴だけではなく、下書きも」
「なぜ」
「彼女は慎重な人だった。重要なことを、送信済みにだけ残すとは思えない」
二階堂が小さく笑った。
「容疑者のくせに捜査指揮するな」
「容疑者ではない」
「まだ、な」
その言葉に、真壁は二階堂を睨んだ。
二階堂は悪びれなかった。
「言葉は早めに準備しといたほうがいい。あとで慌てると、だいたい最悪の見出しになる」
見出し。
その単語が妙に耳に残った。
*
午前三時二十七分。
山田美月のスマートフォンのロックが解除された。
誕生日でも、職員番号でもなかった。
解析担当者が試したのは、山田の研究テーマに関連する数列だった。彼女は几帳面な人間だったらしい。重要な端末ほど、個人的な記念日ではなく、研究に紐づいた番号を使う癖があった。
真壁は、廊下に置かれた簡易机の前で解析画面を見ていた。
二階堂は腕を組み、九条は壁際に立っている。
「メッセージアプリを開きます」
解析担当者が言った。
山田美月の最後の送信履歴。
九条へのメッセージ。
同僚への業務連絡。
母親への短い返信。
特に不自然なものはなかった。
「下書きは」
九条が言った。
真壁は無言で解析担当者に目を向けた。
担当者が画面を操作する。
未送信メッセージが一件あった。
宛先は、登録されていない番号。
本文。
――もし私に何かあったら、九条先生を信じないでください。
廊下が静まり返った。
二階堂が、ゆっくりと九条を見た。
真壁も同じだった。
九条は動かなかった。
表情は変わらない。
だが、その沈黙が、初めて言葉より重く感じられた。
「続きがあります」
解析担当者が言った。
本文は、そこで終わっていなかった。
――先生は正しい。
――でも、正しい人ほど、記録を消す理由がある。
――私が見たものを先生が知れば、先生はきっと止めようとする。
――そのためなら、たぶん、何でもする。
二階堂が舌打ちした。
「最悪だな」
九条は画面を見つめたまま、低く言った。
「山田先生らしくない文章だ」
「そう来るか」
「彼女は俺を『先生』とは呼ばない。普段は『九条先生』。文面でも同じ」
「それだけで偽物だと?」
「それだけではない」
九条は一歩前に出ようとした。
真壁が手で制した。
「そこまでだ」
「真壁」
「これ以上喋るな」
「文章に違和感がある」
「お前に有利な違和感だろう」
九条は黙った。
その沈黙が、真壁の胸に刺さった。
言っていることは分かる。
九条はおそらく本当に違和感を見つけている。
だが、それを九条が言えば言うほど、自己弁護に聞こえる。
山田美月が残した未送信メッセージは、九条にとって致命的だった。
二階堂がスマートフォンを見た。
「まずい」
「何が」
「出た」
画面には、ニュース速報が表示されていた。
【速報】京東大学法医学教室で女性医師死亡 警視庁が事件性を視野に捜査
まだ九条の名前は出ていない。
だが、次の通知が続いた。
【独自】死亡女性、同僚の男性医師に相談か 法医学教室内でトラブルの可能性
二階堂は口元を歪めた。
「早すぎる」
「どこから漏れた」
「漏れたんじゃない。流された」
真壁は二階堂を見た。
「どういう意味だ」
「情報の出方が綺麗すぎる。最初に大学名、次に女性医師、次に同僚男性医師。読者が自分で検索したくなる順番だ」
その言葉に、九条が反応した。
「検索させるための記事、ということか」
「そう。名前を伏せることで、逆に探させる。最初から実名を書くより燃える」
二階堂のスマートフォンが、さらに震えた。
SNSの検索画面。
誰かがすでに書き込んでいた。
『京東大 法医学 女性医師 同僚 男性医師って、Kじゃないの?』
別の投稿。
『法医学者K、前にテレビ出てた人?』
『右に心臓があるとかいう人?』
そして、写真。
数年前の公開講座の壇上に立つ九条雅紀の画像。
真壁は思わず九条を見た。
九条は、自分の顔が画面の中で拡散されていく様子を見ていた。
死体を見るときと同じ顔で。
「二階堂」
真壁が言った。
「止められるか」
「無理だな。もう流れた」
「広報で何か出せ」
「出したら認めたことになる。出さなければ勝手に掘られる。どっちも地獄」
二階堂は短く息を吐いた。
「ただ、まだ間に合う。九条の名前を公式に出させるな。少なくとも朝までは」
そのとき、廊下の向こうから別の刑事が走ってきた。
「真壁警部補!」
「何だ」
「防犯カメラ映像、確認できました」
真壁は嫌な予感を覚えた。
刑事はタブレットを差し出した。
映っていたのは、解剖準備室前の廊下だった。
午前一時十三分。
白衣の人物が歩いてくる。
顔は半分しか映っていない。
しかし、長身のシルエット、伏せた目元、歩き方。
二階堂が呟いた。
「似すぎだろ」
人物はカードリーダーに何かをかざし、扉を開けた。
左手で。
そして中へ入っていった。
真壁はタブレットを九条へ向けた。
「お前か」
九条は映像を見た。
長い沈黙があった。
「違う」
「証明できるか」
「今はできない」
「白衣は」
「研究室にある」
「左手でカードを使っている」
「俺は左利きだ」
「顔も似ている」
「似せたんだろう」
二階堂が低く笑った。
「その返し、裁判で言ったら終わるぞ」
九条は二階堂を見なかった。
真壁は映像をもう一度再生した。
白衣の人物は、確かに九条に見える。
だが、真壁は別のところを見ていた。
歩幅。
肩の動き。
顔を伏せる角度。
似ている。
あまりにも似ている。
似すぎている。
真壁はタブレットを返した。
「映像を保全しろ。外部に出すな」
「はい」
二階堂が口を挟んだ。
「もう遅いかもしれない」
「なぜだ」
「この手の映像は、出るときにはもう出てる」
真壁は言い返そうとした。
だが、その前に二階堂のスマートフォンが震えた。
画面を見た二階堂の顔から、血の気が引いた。
「来た」
彼は画面を真壁に向けた。
匿名の動画投稿アカウント。
投稿されたばかりの短い映像。
法医学棟の廊下。
白衣の人物。
左手でカードをかざす姿。
添えられた文章は、短かった。
『京東大女性医師死亡事件』
『これ、法医学者K本人では?』
再生数は、すでに増え始めていた。
九条雅紀の顔が、夜の中で勝手に歩き出した。
本人より先に。
*
午前四時十二分。
京東大学法医学棟の地下廊下は、捜査員と鑑識員で埋まり始めていた。
九条は壁際の椅子に座らされている。
任意の事情聴取。
まだ逮捕ではない。
だが、その境界線は紙より薄い。
真壁は、九条の正面に立った。
「九条。ここから先は、慎重に答えろ」
「いつも慎重だよ」
「お前の慎重は、普通の人間には無神経に見える」
九条は少しだけ考えた。
「それは、改善すべき点だな」
「今じゃない」
二階堂が横から言った。
「今のお前に必要なのは、無実の証明じゃない。黙ることだ」
「黙っていたら、山田先生の死因が誤って扱われる」
「喋れば、お前が犯人として扱われる」
「それは困る」
「困ってる顔をしろ」
九条は沈黙した。
真壁は、思わず目を伏せた。
九条は変わらない。
死体がある。
間違った読み方をされようとしている。
だから訂正する。
それだけだ。
自分が疑われていることすら、彼にとっては二番目なのだろう。
「山田先生の死因は、刺創ではない」
九条が言った。
二階堂が天井を仰いだ。
「また言った」
「記録して」
九条は真壁を見た。
「右胸の傷は、死後に作られた可能性が高い。生前の主たる死因は、薬物による呼吸抑制、もしくはそれに類する低酸素状態。犯人は、死因ではなく、死体の見え方を作っている」
「見え方?」
「そう」
九条の声は低かった。
「山田先生を殺したあと、俺が殺したように見える死体を作った」
真壁は何も言えなかった。
そのとき、解析担当者が再び走ってきた。
「山田先生の端末から、追加のメッセージが見つかりました」
「下書きか」
「いえ。予約送信です」
二階堂が眉をひそめた。
「予約送信?」
「死亡後に送信される設定になっていました。宛先は、大学の外部相談窓口と、報道関係者と思われるアドレスです」
「止められるか」
「一部はすでに送信されています」
真壁は胸の奥が冷えるのを感じた。
「内容は」
解析担当者は、ためらうように画面を見た。
「読みます」
廊下の空気が止まった。
――私が死んだ場合、最初に疑うべき人物は九条雅紀先生です。
――先生は、ある記録を消そうとしていました。
――私はそれを止めようとしました。
――もし私が殺されたなら、先生が来たからです。
誰も動かなかった。
二階堂の顔から、表情が消えた。
真壁は九条を見た。
九条雅紀は、ゆっくりと目を閉じた。
ほんの一秒だけだった。
目を開けたとき、そこにいたのは、いつもの法医学者だった。
「偽物だ」
真壁は言った。
「黙れ」
「黙らない」
「黙れ、九条」
真壁の声が、廊下に響いた。
九条は口を閉じた。
その沈黙の中で、二階堂のスマートフォンがまた震えた。
一度ではない。二度、三度、連続して震えた。
二階堂は画面を見た。
そして、低く言った。
「終わった」
真壁は画面を覗き込んだ。
ネットニュースの速報が並んでいた。
【続報】京東大学女性医師死亡 死亡直前に「九条先生」と記録か
【独自】法医学者Kに重大疑惑 死亡女性が告発文を残す
【速報】警視庁、同僚男性医師から事情聴取
まだ実名は出ていない。
だが、SNSではもう出ていた。
『九条雅紀で確定?』
『あの法医学者?』
『右胸の傷って、本人の体質と関係ある?』
『自分の心臓が右にあるから、つい右を刺しちゃったんじゃね』
『これドラマじゃん。』
『顔見たけど怖いくらい綺麗。』
『法医学者が殺人とか一番やばいやつ。』
九条の名前が、事件より速く広がっていく。
真壁はスマートフォンから目を離した。
山田美月の遺体は、まだ解剖されていない。
死因も確定していない。
犯人も分かっていない。
それなのに、世間はもう物語を選び始めていた。
法医学者が女性医師を殺した。
死体を扱う専門家が、完全犯罪を試みた。
自分の特異な身体を模すように、右胸を刺した。
分かりやすく、恐ろしく、拡散しやすい物語。
二階堂が、九条を見た。
「お前、朝まで持たないぞ」
「何が」
「名前だよ」
九条は答えなかった。
その代わり、解剖準備室の扉を見た。
「真壁」
「何だ」
「山田先生を解剖させてほしい」
「できるわけないだろ」
「死因を間違えれば、犯人の思い通りになる」
「お前は今、その犯人として疑われている」
「だからこそだ」
九条は真壁を見た。
その目に、初めて焦りに似たものが浮かんだ。
「俺が疑われている間に、山田先生の死体が誤読される。犯人はそれを狙っている。右胸の傷も、メッセージも、防犯カメラも、すべて同じ方向を向いている」
「同じ方向?」
「俺」
二階堂が何かを言いかけたが、やめた。
九条は続けた。
「証拠が多すぎる。多すぎる証拠は、時に証明ではなく演出だ」
真壁は、九条の言葉を聞きながら、解剖準備室の中に横たわる山田美月を思った。
死者は喋らない。
だが、死者の周囲に置かれたものは喋りすぎている。
ID記録。
防犯カメラ。
メッセージ。
未送信文。
予約送信。
右胸の傷。
すべてが九条雅紀を指している。
まるで、最初からそこへ読者を導くために配置された文章のように。
真壁は低く言った。
「整いすぎている、か」
九条が頷いた。
「そう」
二階堂が、疲れたように笑った。
「容疑者になっても言うこと変わんないな、お前」
九条は二階堂を見た。
「容疑者ではない」
「世間はもうそう呼び始めてる」
その瞬間、廊下の奥から所轄の刑事が駆けてきた。
顔色が悪い。
「真壁警部補」
「今度は何だ」
「警視庁本部から連絡です」
刑事は一度、九条を見た。
そして言った。
「九条雅紀医師を、重要参考人として本部へ任意同行するようにと」
二階堂が小さく息を吐いた。
「任意、ね」
真壁は九条を見た。
九条は立ち上がった。
逃げる気配はない。
抵抗する気配もない。
ただ、解剖準備室の扉をもう一度見た。
その視線に、真壁は気づいた。
九条は山田美月を見ているのではない。
まだ読まれていない死体を見ている。
「九条」
真壁は言った。
「余計なことは言うな」
「分かった」
「本当に分かってるのか」
「努力する」
二階堂が呟いた。
「駄目なやつの返事だ」
九条は歩き出した。
その背中を見ながら、真壁は理由のない不安に襲われた。
いや、理由はある。
九条雅紀を本部へ連れていけば、捜査は進む。
だが同時に、何かが決定的に閉じる。
山田美月の死体が語ろうとしていること。
九条が見つけかけている違和感。
そして、犯人が作った“九条が犯人である”という物語。
その物語が、現実になる。
廊下の窓の外が、わずかに白み始めていた。
朝が来る。
朝になれば、ニュース番組が始まる。
人々はスマートフォンを開く。
九条雅紀の名前を検索する。
顔を見る。
過去を掘る。
体質を語る。
勝手に恐れ、勝手に魅了され、勝手に裁く。
死体より先に、九条雅紀が解剖される。
そのとき、九条のスマートフォンを持っていた鑑識員が声を上げた。
「真壁警部補」
「何だ」
「九条先生の端末に、新しいメッセージが届いています」
真壁は振り向いた。
「山田先生からです」
全員が固まった。
山田美月は死んでいる。
死亡確認は、午前一時五十八分。
今は、午前四時二十九分。
死者から、メッセージが届くはずがない。
真壁は画面を受け取った。
送信者名。
山田美月。
本文は、たった一行だった。
――九条先生が、記録を消しに来た。
真壁の背筋に、冷たいものが走った。
九条雅紀は、画面を見つめていた。
その顔から、完全に表情が消えていた。
そして、廊下のどこかで、誰かのスマートフォンが震えた。
また速報だった。




