第十章 指名手配犯、記者会見に現れる
人は、カメラの前では正しい顔をする。
企業の代表は、透明性を語る顔をする。
警察は、厳正な捜査を語る顔をする。
記者は、真実を問う顔をする。
視聴者は、判断する側の顔をする。
誰もが、自分は見ている側だと思っている。
だがカメラの前に立った瞬間、人は同時に見られる側になる。
言葉の選び方。
目線の逃げ方。
沈黙の長さ。
汗の滲み。
手の置き場所。
呼吸の乱れ。
死体が身体に残すように、生者もまた、言葉と沈黙に痕跡を残す。
九条雅紀は、それを知っていた。
彼は死体を読む男だった。
だがその朝、彼が読もうとしていたのは死体ではなかった。
カメラの前で、正しい顔をする人間たちだった。
*
午前九時二十七分。
ルーメン・メディカル本社ビルの前には、すでに報道陣が集まっていた。
歩道には中継車が並び、ビルの正面玄関には警備員が立ち、受付では記者証の確認が行われている。
ビルの大型ビジョンには、青と白を基調にしたルーメン・メディカルのロゴが映し出されていた。
『LUCID Emergency Briefing』
『死因究明の透明性と未来』
まるで新商品の発表会だった。
いや、実際そうなのだろう。
人が死んだ。
人が殺されかけた。
名前が燃やされた。
学校が晒された。
医師が傷を縫った。
刑事が命令を破った。
広報官の声が加工された。
それらすべてを背景映像にして、清水輝は商品を語ろうとしている。
ビルの向かい側、コンビニの二階にある小さなイートインスペースで、二階堂壮也はノートPCを開いていた。
イヤホン越しに、鳳恭介の声が入る。
『報道受付は予定通りです。記者は八十四名。テレビ局が十一社、ネットメディアが二十七、紙媒体が十三、その他フリーランス』
「多いな」
『九条先生の名前が出れば、人は集まります』
「最悪の集客力だ」
二階堂は画面を切り替えた。
警視庁公式の会見対応チャンネル。
各社の速報準備ページ。
SNSのトレンド。
匿名掲示板。
そして、ルーメン本社ビルの公開フロア図。
鳳が前夜から読み込んだ動線は、すでに共有されている。
正面玄関。
報道受付。
役員用エレベーター。
搬入口。
非常階段。
カンファレンスホール。
舞台袖。
同時通訳ブース。
配信制御室。
今回の戦場は、死体発見現場ではない。
発表会場だ。
二階堂はマイクを調整した。
「真壁は」
『地下搬入口側です』
「九条は」
『まだ堀島先生のところです』
「嘘つけ」
鳳は一拍置いた。
『私に嘘は向いていませんね』
「鳳さんも嘘が下手だな。真壁よりはマシだけど」
『九条先生は、すでにビル内にいます』
二階堂は目を閉じた。
「知ってた」
『止めなかったのですか』
「止めたら止まると思う?」
『いいえ』
「じゃあ、そういうことだ」
鳳の声に、わずかな笑みが混じった気がした。
『九条先生は、現在、二階のサービス通路です。堀島先生が同行しています』
二階堂は眉を寄せた。
「堀島先生も?」
『縫合した医師として、術後管理が必要だそうです』
「あの医者、案外肝が据わってるな」
『怒っていました』
「だろうな」
別回線に、江口桜次郎の声が入る。
『俺は反対だ』
二階堂は、ため息をついた。
「桜次郎、お前は学校にいろ」
『いるよ、職員室に。保護者対応の合間』
「忙しいな」
『誰のせいだと思ってんだ』
「俺」
『半分正解』
「残り半分は」
『九条先生』
二階堂は、画面の中の会見場を見た。
まだ壇上には誰もいない。
白い壁。
青いロゴ。
中央に置かれた演台。
左右に大型スクリーン。
そこに清水輝が立つ。
そして、おそらく九条雅紀も。
江口が低く言った。
『壮也』
「何だ」
『ちゃんと戻せよ』
二階堂は黙った。
『九条先生、生徒と約束したんだよ。戻るって』
「分かってる」
『約束を破る大人にはするなよ』
二階堂は、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「本当に教師だな、お前」
『今それを褒め言葉にされても困る』
「戻す」
二階堂は言った。
「俺が、真壁が、鳳が、堀島が。全員で戻す」
『そこは九条先生本人も入れろよ』
「本人が一番信用ならない」
『同感だな』
その会話を、堀島岳斗が別回線で聞いていたらしい。
『全部聞こえてます。本人にも聞こえてます』
九条雅紀の声が重なった。
『信用が低すぎる』
二階堂は即答した。
「高いと思ってたのか」
『いや』
『先生、そこで納得しないでください』
堀島の声だった。
二階堂はわずかに息を吐いた。
この緊張の中で、短い冗談が交わせる。
まだ全員、生きている。
それだけで十分だった。
*
午前九時四十三分。
九条雅紀は、ルーメン・メディカル本社ビルの二階サービス通路にいた。
黒いスーツの上に、搬入スタッフ用の薄いジャケットを羽織っている。
左前腕には、包帯と固定用のサポーター。
顔色は悪い。
堀島岳斗は、九条の隣で険しい顔をしていた。
「先生」
「ん」
「今からでも帰りましょう」
「ここまで来て、それは合理的ではないな」
「患者の安全としては非常に合理的です」
「会見は十時だ」
「傷口は昨日縫いました」
「そうだね」
「知っている人の行動じゃない」
堀島は小さな医療バッグを肩にかけている。
応急処置用の道具、薬剤、予備のガーゼ、吸入薬。
九条の吸入薬は、堀島が新しく用意した。
「持っていますか」
「うん」
「見せてください」
九条はポケットから吸入薬を出した。
堀島は確認する。
「よし。倒れたら使います」
「倒れる予定はないよ」
「予定の話はしていません」
九条は少しだけ目を伏せた。
「堀島」
「はい」
「同行する必要はない」
「あります」
「危険だ」
「医師なので」
「医師は危険へ向かう職業では」
「患者が危険へ向かうなら、医師もついていきます」
堀島は言った。
「ただし、僕はあなたの無茶を肯定していません。自分の体だから許されると思わないでください」
九条は追及しなかった。
サービス通路の先で、鳳からのメッセージが届く。
――十時ちょうど、清水が登壇。
――九条先生は、清水が《LUCID》の透明性を語り始めてから入ってください。
――早すぎると警備に止められます。
――遅すぎると配信が一度切られます。
九条は返信する。
――分かりました。
すぐに二階堂から割り込む。
――分かりましたじゃない。
――カメラの正面に出るな。最初は声だけでいい。
――顔を出すタイミングはこちらで合図する。
九条は画面を見つめた。
自分の顔は、すでに事件の記号になっている。
なら、最初に顔を出せば、すべてがそこへ吸い込まれる。
話の中身ではなく、「九条が出た」という事実だけが拡散される。
二階堂の判断は正しい。
――了解。
今度は江口から。
――無茶しないでください。
――という言葉が無意味なのは知っていますが、一応言います。
――無茶しないでください。
九条は少し考え、返信した。
――努力します。
即座に返事。
――やり直し。
九条は、堀島に画面を見せた。
「何と返すべきだろうか」
「無茶しません、と書いてください」
「事実と異なる可能性が」
「書いてください」
九条は返信した。
――無茶しません。
江口から返る。
――嘘が下手です。
――でも採点はしておきます。
――戻ってきてください。
九条は、少しだけ画面を見つめた。
そして返した。
――戻ります。
送信してから、左腕が痛んだ。
約束は、傷より痛い。
*
午前十時。
ルーメン・メディカル緊急説明会は、予定通り始まった。
壇上に清水輝が現れると、会場のカメラが一斉に向いた。
清水は紺のスーツに、淡いブルーのネクタイ。
疲労の色は見せている。
だが、崩れてはいない。
被害者の死を悼む者の顔。
企業責任を背負う者の顔。
未来を語る者の顔。
よく作られている。
九条は、舞台袖に繋がる細い通路で、その映像を小型端末越しに見ていた。
清水が頭を下げる。
「まず、京東大学医学部法医学教室の山田美月先生、そして一連の事件に巻き込まれた方々に、心よりお見舞い申し上げます」
シャッター音。
「弊社が開発を進める死因推定支援システム《LUCID》に関し、現在多くの憶測が流れております。私どもは、法医学の現場を支援し、死因究明の透明性を高めるため、このシステムを開発してまいりました」
清水の声は滑らかだった。
何度も練習した声だ。
「しかし今回、法医学に携わる専門家が重大事件の容疑を受け、社会に大きな不安が広がっています。もちろん、個別の事件について、私どもが捜査に言及する立場にはありません」
清水は一拍置いた。
カメラが寄る。
「ただ、一つだけ言えることがあります。人間の鑑定には、限界があるということです」
九条の横で、堀島が小さく舌打ちした。
九条は何も言わない。
「経験、感情、属人的判断。どれほど優れた専門家であっても、それらから完全に自由になることはできません。だからこそ、記録に基づき、透明で検証可能な死因推定支援が必要なのです」
会場のスクリーンに、《LUCID》のロゴが映る。
青い光。
白い線。
人体の輪郭。
そこに死因分類が流れていく。
Accident
Suicide
Natural death
Homicide
Undetermined
清水は言った。
「《LUCID》は、死者の声なき声を、データによって支えるためのものです」
その瞬間、二階堂の声がイヤホンに入った。
『今だ。声だけ』
九条は、舞台袖のマイクの前に立った。
まだ姿は見えない。
会場には、清水の言葉の余韻が残っている。
九条は静かに言った。
「死者は、データではありません」
会場が止まった。
記者たちが顔を上げる。
清水の表情が、ほんのわずかに硬くなった。
「どなたですか」
九条は続けた。
「死者は、分類されるために死ぬのではありません」
ざわめき。
誰かが叫ぶ。
「九条か?」
「九条雅紀?」
カメラが舞台袖を探す。
清水は、すぐに表情を立て直した。
「警備を」
その声に、舞台脇の警備員が動く。
だが、二階堂が仕込んだ記者の一人が質問を飛ばした。
「九条雅紀容疑者ですか!」
会場のすべての視線が、舞台袖へ向いた。
二階堂の声。
『出ろ』
九条雅紀は、光の中へ出た。
会場が爆発した。
悲鳴。
シャッター音。
怒号。
記者の叫び。
生配信のコメント欄が画面上で流れ続ける。
『九条出た』
『本物?』
『え、本人?』
『指名手配犯が会見乱入?』
『顔がニュースのまま』
『逮捕しろ』
『何この展開』
『映画かよ』
『怖い』
『でも見ちゃう』
九条は壇上の端で立ち止まった。
左腕は固定されている。
顔色は悪い。
だが、目はまっすぐ清水を見ていた。
清水はマイクの前で静かに言った。
「九条先生。あなたがここに来るべきではありません」
「はい」
九条は頷いた。
「私は指名手配されています」
会場がまたざわめく。
「ここへ来れば逮捕されるでしょう」
清水はわずかに目を細めた。
「なら、なぜ」
「あなたが、死因を語っているからです」
九条は壇上の中央へ向かって歩いた。
警備員が近づこうとする。
その前に、客席後方から声が飛んだ。
「警視庁です。全員、その場で」
真壁彰だった。
会場後方、扉の前。
警察手帳を掲げている。
記者たちのカメラが、今度は真壁へ向く。
清水は言った。
「刑事さん。九条先生は殺人容疑で指名手配されているはずです。なぜ止めないのですか」
真壁は答えた。
「止める」
短い言葉。
「だが、話を聞いてからだ」
会場が静まり返った。
清水は微笑んだ。
「それは、警察として適切な判断ですか」
真壁は一歩前へ出た。
「俺の判断だ」
二階堂の声がイヤホンで低く響く。
『真壁、それは後で怒られる』
真壁は聞こえないふりをした。
*
九条は、清水の隣に立った。
壇上の中央には演台。
左右のスクリーンには《LUCID》の紹介資料。
その前に、指名手配中の法医学者。
絵面としては最悪だった。
だからこそ、強かった。
九条は言った。
「清水さん。《LUCID》は、死因を推定しているのではありません」
清水の顔は崩れない。
「何を根拠に」
「山田美月先生が残した内部ログです」
スクリーンが切り替わった。
鳳が配信制御室経由で入れ替えた画面だった。
LUCID_exception_cases
case_0412:転落死 → 急性心不全へ変更
case_0520:過労死疑い → 自然死へ変更
case_0603:薬物中毒疑い → 自殺へ変更
case_0616:法医学者関与疑い → 殺人へ誘導
会場がどよめいた。
清水はスクリーンを見て、すぐに言った。
「それが本物である保証はありません。九条先生は現在、殺人容疑で——」
「保証はありません」
九条は遮った。
「だから、検証します」
清水の目が一瞬だけ動いた。
「検証?」
「はい」
九条は別の資料を表示させた。
山田美月の遺体所見。
右胸部刺創。
出血量。
衣服浸潤。
皮膚収縮。
薬物反応。
眼鏡内側の白色残渣。
九条は淡々と説明した。
「山田美月先生の右胸部刺創は、死後に作られた可能性が高い。出血量、衣服への浸潤、創縁の反応が一致しません。死因は刺創ではなく、薬物による呼吸抑制です」
記者の一人が叫ぶ。
「その薬物は?」
「まだ正式鑑定中です。ただし、伊藤蓮さん、本郷准教授、佐々木彩夏さんにも同様の呼吸抑制を示す所見があります」
スクリーンに、三つの事件の比較表が出る。
山田美月:右胸部死後損壊/呼吸抑制
伊藤蓮:首筋注射痕/呼吸抑制/救命
本郷准教授:首筋注射痕/呼吸抑制/救命
佐々木彩夏:右胸部損傷様偽装/呼吸抑制/救命
清水は言った。
「九条先生、あなたは自分に都合の良い所見だけを並べている」
「その可能性はあります」
会場がざわつく。
九条は続けた。
「だから、私だけが読むべきではありません。真壁刑事」
真壁が一歩前に出る。
「佐々木彩夏さんの現場で、九条雅紀の血液と思われる採血管を確保しました」
清水の表情が、ほんのわずかに硬くなった。
真壁は続ける。
「右胸部の血痕とは別に、持ち込まれた血液があった可能性が高い。九条が現場で出血した血ではない」
記者が一斉に手を挙げる。
「それは警察発表ですか!」
真壁は言った。
「現場で確認した事実だ」
後で問題になる言い方だった。
しかし、もう戻れない。
九条は清水を見た。
「清水さん。犯人は、私を犯人に見せるため、私の血液を使いました」
「それも、あなたの推測です」
「はい」
清水はわずかに笑った。
「九条先生。あなたは法医学者です。証拠と推測の違いは、誰よりご存じでしょう」
「存じています」
「なら、ここで断定するのは危険です」
「そうですね」
九条は頷いた。
「だから、あなたにも同じことを求めます」
清水の笑みが止まった。
「あなたは、山田先生の死を、法医学者の限界として語りました。私の逃亡を、人間鑑定の危うさとして語りました。一連の事件を、《LUCID》の必要性として語りました」
九条は一歩、清水に近づく。
「それは、証拠ですか。推測ですか」
会場が静まる。
清水はすぐに答えなかった。
その沈黙を、二階堂は見逃さなかった。
会場外のPCで、SNSの反応を見ながら低く呟く。
「黙った」
清水は、ゆっくりと笑みを戻した。
「社会的な議論です」
「違います」
九条は言った。
「商品説明です」
*
その一言で、会場の空気が変わった。
清水の目が細くなる。
九条は続けた。
「山田先生が死ぬ前から、case_0616には“法医学者関与疑い”という分類が用意されていました。つまり、死体が出る前に、犯人像が先にありました」
スクリーンに、ログのタイムスタンプが拡大される。
山田美月死亡推定時刻より前。
会場がざわつく。
「このログも偽造の可能性がある」
清水が言う。
「あります」
九条は、また認めた。
「ですから、別の記録を重ねます」
次に映ったのは、ルーメン本社ビルの管理ログだった。
鳳恭介が作成した比較表。
防犯映像流出時刻
九条実名拡散時刻
江口勤務校画像投稿時刻
鳳車両画像送信時刻
二階堂加工音声投稿時刻
佐々木彩夏記事差替時刻
右胸部損傷への“訂正投稿”時刻
その横に、ビルのデータ。
サーバールーム空調負荷上昇
役員フロア清掃業者カード使用
非常階段開閉
地下搬入口開閉
鳳の声が会場スピーカーから流れた。
『鳳恭介です。建物の記録から説明します』
記者たちがざわめく。
鳳は姿を見せない。
だが、声は穏やかだった。
『事件に関する情報が投稿、拡散、加工される直前または同時刻に、ルーメン本社ビルのサーバールームと役員フロアが動いています。清水代表個人の入退室記録はありません。しかし、紛失報告が警察へ提出されていなかった清掃業者カードが、複数回使われています』
清水が言った。
「建物のログだけで、誰かを犯人にすることはできません」
『はい。できません』
鳳は即答した。
『建物は、人間の名前までは言いません。ただ、嘘をつく人間ほど、建物に作業をさせます』
会場が静まり返る。
『清水代表。あなたは正面玄関を使わなかった。だから、人の記憶には残らなかった。しかし建物は、あなたが使わせた道を覚えています』
清水は、初めて明確に不快そうな顔をした。
「推測です」
『はい。推測です』
鳳は穏やかに言った。
『だから、次は記録です』
スクリーンに、映像が出た。
佐々木彩夏のラウンジ個室。
清水輝が入室する。
佐々木と向かい合う。
黒い服の男が背後から現れる。
以前は音声がなかった映像。
だが、今回は違った。
音声がある。
佐々木の声。
『清水さん、時間がありません。記事は二十三時公開です。追加で出せる情報があるなら今ください』
清水の声。
『九条雅紀は、世間が必要としている犯人です』
会場に、凍るような沈黙が落ちた。
映像の中で、清水は続ける。
『死体を扱う専門家が、死体を作った。誰もが理解できる。怖い。分かりやすい。そして、法医学への信頼が揺らぐ』
現実の清水の顔から、血の気が引いた。
「これは……」
九条は言った。
「佐々木彩夏さんのPCに残っていた映像です。犯人は音声を消したつもりだったのでしょう。ですが、佐々木さんは外部録音を同期させていました」
二階堂の声がイヤホンで呟く。
『佐々木さん、やるな』
映像の中の清水が言う。
『あなたは、九条雅紀に殺されます』
会場の空気が変わった。
清水は、ついに笑みを失った。
「違う」
短い言葉だった。
「これは編集されています。九条先生が用意した偽映像です」
九条は頷いた。
「その可能性も検証すべきです」
清水はマイクを握った。
「皆さん、彼は指名手配中の容疑者です。殺人事件の容疑者が、違法に取得した映像で私を陥れようとしている。これこそ、人間の鑑定がいかに危ういかの証拠です」
その言葉は強かった。
会場の一部が揺れる。
そうだ。
九条は容疑者だ。
逃げていた。
証拠を持ってきたとしても、それを信じていいのか。
清水は、その揺れに乗った。
「九条先生。あなたは死体を読むと言う。しかし、読んでいるのは死体ではない。あなた自身の都合ではありませんか」
九条は黙って清水を見ていた。
「人間の鑑定は、結局、物語です。あなたは死者を言葉にしているだけだ。死者は喋らない。あなたが代わりに喋らせている。なら、AIの方がまだ透明です」
清水の声に熱がこもる。
「人間は間違える。感情で歪む。関係性で曇る。九条先生、あなたが今ここでしていることこそ、《LUCID》が必要な理由です」
会場の記者たちが息を呑む。
清水は、まだ負けていない。
むしろ、九条の登場すら利用しようとしている。
九条は、静かに口を開いた。
「そうです」
清水が止まる。
「人間の鑑定は、物語になる危険があります。法医学者も間違えます。刑事も、記者も、医師も、広報も、建築学者も、教師も、社会も」
九条は会場を見渡した。
「だから、戻るのです」
その声は大きくない。
だが、会場の奥まで届いた。
「死体へ。記録へ。時刻へ。血液へ。傷の形へ。呼吸の止まり方へ。薬物反応へ。衣服の血の広がりへ。眼鏡の内側に残った粉末へ」
九条は清水を見た。
「自分の結論が間違っているかもしれないと、何度でも戻る。それが人間の鑑定です」
清水は黙っている。
「《LUCID》は戻らなかった。都合の悪い矛盾を、低い重みとして捨てた。死因を推定したのではなく、社会が受け入れやすい死因へ寄せた」
九条は一歩近づいた。
「転落死を急性心不全へ。過労死疑いを自然死へ。薬物中毒疑いを自殺へ。そして今回、山田美月の死を、法医学者による殺人へ」
清水の額に汗が滲んでいる。
「あなたは、死因を選んでいた」
九条は言った。
「死者のためではない。警察が処理しやすいように。保険会社が払わずに済むように。企業が責任を逃れられるように。報道が食いつきやすいように。そして、《LUCID》が必要だと社会が思うように」
清水の手が、演台の縁を握った。
「証拠は」
「あります」
九条は短く言った。
「伊藤蓮さんが意識を取り戻しました」
会場がざわめく。
清水の表情が、初めて明確に崩れた。
スクリーンが切り替わる。
病室。
酸素チューブをつけた伊藤蓮が、ベッドに横たわっている。
映像は録画だ。
横には本郷准教授。
まだ衰弱しているが、意識はある。
伊藤の声が流れる。
『《LUCID》は、死因を推定していません。外部要求で順位が変えられていました。清水さんはそれを“社会実装の調整”と呼んでいました』
清水はマイクから離れかけた。
真壁が一歩前に出る。
逃がさない。
映像の中で、本郷が続ける。
『データ倫理委員会へ提出する予定でした。山田先生は、九条先生を疑っていたのではありません。九条先生が疑われるよう、先に分類が作られていると気づいていた』
山田美月の名前が、会場に戻ってきた。
九条は目を伏せた。
ようやく、山田は被害者として語られた。
容疑者を作るための死体ではなく、不正を止めようとした人間として。
*
清水輝は、演台から一歩下がった。
「違う」
声が震えていた。
「違う。あなたたちは分かっていない」
真壁が壇上に上がる。
「清水輝さん。山田美月さん殺害、伊藤蓮さん、本郷准教授、佐々木彩夏さんへの殺人未遂、および証拠偽造、犯人隠避、名誉毀損に関する疑いで話を聞く」
「私は殺していない」
「詳しく聞く」
「私は、必要なことをしただけだ!」
清水の声が、会場に響いた。
その瞬間、二階堂が低く言った。
『来た』
清水は、マイクを握り直した。
「人間の鑑定は、もう限界なんです! 死因は、専門家の密室で決められてきた。遺族は説明を受けるだけ。企業も、警察も、行政も、曖昧な判断に振り回される。なら、死因を透明にする仕組みが必要でしょう!」
真壁が近づく。
清水は叫んだ。
「山田先生は分かっていなかった。伊藤も、本郷も、あなたたちも! 社会は、正しい死因より、処理できる死因を求めている!」
会場が凍りついた。
九条は、静かに清水を見ていた。
「あなたは今、認めました」
清水は息を止めた。
「社会が処理できる死因を、あなたは作っていた」
「違う」
「違いません」
九条の声は揺れなかった。
「死因は、死者のためにあります。生きている人間の都合のために選ぶものではありません」
清水は九条を睨んだ。
「綺麗事だ」
「はい」
九条は頷いた。
「ですが、死者にはその綺麗事しか残せません」
真壁が清水の腕を取った。
清水は抵抗しなかった。
ただ、九条を見ていた。
「九条先生。あなたも同じです」
清水は低く言った。
「あなたも、死者を言葉にしている」
「そうです」
「なら、私と何が違う」
九条は答えた。
「あなたは、結論に死者を合わせた」
短い沈黙。
「私は、死者に合わせて結論を疑います」
真壁が清水に手錠をかけた。
金属音が、会場に響いた。
カメラがその瞬間を捉える。
清水輝は、うつむかなかった。
最後まで、正しい顔を作ろうとしていた。
だが、もう遅かった。
彼の言葉も、汗も、沈黙も、すべて記録されている。
*
清水が連行されると、会場は混乱に包まれた。
記者たちは一斉に質問を叫ぶ。
「九条先生、無実ということですか!」
「逃走していた理由は!」
「警察は誤認逮捕寸前だったのでは!」
「《LUCID》は今後どうなるんですか!」
「九条先生、今のお気持ちは!」
九条は答えなかった。
真壁が九条の前に立つ。
「九条雅紀」
「はい」
「同行してもらう」
「はい」
会場がざわつく。
「逮捕ですか?」
記者が叫ぶ。
真壁は答えない。
九条は静かに両手を前に出した。
左腕には包帯。そのまま真壁の方へ差し出される。
真壁は手錠を取り出さなかった。
「任意同行だ」
九条は少しだけ目を瞬いた。
「私は指名手配されています」
「知っている」
「手錠は」
「必要ならかける」
「必要では」
「ない」
真壁は短く言った。
その瞬間、会場のカメラが一斉に真壁を捉えた。
二階堂がイヤホン越しに呻く。
『真壁、お前それ、あとで説明するの俺だからな』
真壁は聞こえないふりをした。
九条は、ほんのわずかに頭を下げた。
「ありがとう」
「礼はいい。歩けるか」
「歩けます」
堀島が舞台袖から出てきた。
「歩けます、ではありません。歩かせます。途中で止まります」
真壁が堀島を見る。
「医師か」
「はい。逃亡犯を縫った医師です」
二階堂がイヤホンの向こうで言った。
『その自己紹介やめろ』
堀島は聞こえないふりをした。
九条は会場を出る前に、スクリーンを見た。
そこにはまだ、《LUCID》のロゴが残っている。
死因究明の透明性と未来。
九条は小さく言った。
「未来は、便利な言葉ですね」
堀島が聞いた。
「何ですか」
「いいえ」
九条は真壁に付き添われ、会場を出た。
記者たちが追いかけようとする。
警察官が制止する。
カメラが揺れる。
その中で、二階堂壮也は会見場の外に立っていた。
九条が出てくると、二階堂は腕を組んだまま言った。
「派手すぎる」
「申し訳ない」
「謝る相手が多すぎる。リスト作れ」
「二階堂も含まれるの、それ」
「当然だ」
「じゃあ、あとで」
「あとでじゃない。今まず一つ謝れ」
「ご迷惑をおかけしました」
「軽い」
「重い謝罪の仕方を知らない」
「江口と同じこと言わせるな」
その時、二階堂のスマートフォンが震えた。
江口からだった。
――生配信見た。
――生徒が「九条先生戻ってきそう」って。
――戻ってくるよな?
二階堂は九条に画面を見せた。
九条は少しだけ目を伏せた。
「戻るよ」
「それ、本人に送れ」
九条は右手でゆっくりと文字を打った。
――戻ります。
すぐに江口から返事が来た。
――八十点です。残り二十点は、ちゃんと休んだらあげます。
九条は画面を見つめた。
「難しい条件だな」
二階堂が言った。
「満点取れ」
*
事件は、その日の午後から一気に反転した。
清水輝は任意同行後、当初は全面否認した。
しかし、佐々木彩夏の録音、伊藤蓮の証言、本郷准教授の記録、ルーメン本社ビルの管理ログ、実行犯の端末、九条の血液を保存した採血管が重なり、黙秘へ転じた。
山田美月の死因は、刺殺ではなく薬物による呼吸抑制の疑いが強まった。
右胸部刺創は死後に加えられた損壊と見られた。
伊藤蓮、本郷准教授、佐々木彩夏への薬物投与も、同一グループの関与が疑われた。
九条雅紀に対する指名手配は解除された。
だが、解除されたのは手続き上の話だった。
ネット上の九条雅紀は、すぐには消えない。
『九条無罪っぽい?』
『いや逃げたのは事実だろ。』
『でも会見かっこよすぎた。』
『顔が良すぎて話入ってこない。』
『清水やば。』
『LUCID怖すぎ。』
『江口先生って誰?』
『鳳先生の建物読みすごくない?』
『二階堂広報の会見見直したらめちゃくちゃ伏線だった。』
『真壁刑事、手錠かけなかったの良かった。』
『堀島先生? 逃亡犯を縫った医師って何。』
人々は、昨日まで九条を犯人として消費していた。
今日は九条をヒーローとして消費し始めた。
方向が変わっただけで、消費であることは変わらない。
それを一番よく分かっていたのは、二階堂だった。
*
夕方。
警視庁の一室で、九条雅紀は事情聴取を終えた。
任意同行とはいえ、聞かれることは多かった。
法医学棟からの移動。
伊藤蓮との接触。
江口の学校での行動。
堀島の診療所での治療。
ルーメン会見場への侵入。
どれも、褒められた行動ではない。
何人かの上層部は、九条を責めた。
当然だった。
九条も反論しなかった。
必要だった。
だが、正しかったとは限らない。
その区別だけは、最後まで残しておくべきだと思った。
聴取室を出ると、廊下に真壁がいた。
「終わったか」
「一応」
「一応か」
「後日、再度呼ばれるらしい」
「だろうな」
二人は並んで歩いた。
廊下の窓から、夕方の光が差している。
九条は言った。
「真壁」
「何だ」
「ご迷惑をおかけしました」
「それは俺だけに言う言葉じゃない」
「うん」
「江口に言え。鳳に言え。堀島に言え。二階堂に言え。山田美月の遺族にも、言える立場になったら言え」
「ああ」
真壁は少し黙ってから言った。
「生きて戻った」
九条は真壁を見た。
「うん」
「それだけは、よかった」
九条は答えに迷った。
真壁は感情を言葉にするのが得意ではない。
だから、その一言は重かった。
「ありがとう」
「礼じゃない」
「じゃあ」
「確認だ」
九条は少しだけ頷いた。
「確認か」
廊下の先で、二階堂が待っていた。
壁にもたれ、腕を組んでいる。
「遅い」
「聴取が長引いた」
「全国指名手配された法医学者が企業会見に乱入したんだから、長引くだろ」
「うん」
「反省してるか」
「してるよ」
「顔が反省してない」
「表情筋の問題だな」
「便利に使うな」
二階堂はスマートフォンを九条に見せた。
検索結果。
九条雅紀。
そこには、今も大量の見出しが並んでいる。
『九条雅紀容疑者』
『指名手配』
『会見乱入』
『法医学者』
『右に心臓』
『無実か』
『事件の真相』
二階堂は言った。
「無罪になっても、検索結果は無罪にならない」
九条は画面を見つめた。
「そうだね」
「消せるものは消す。訂正させるものは訂正させる。名誉毀損は潰す。だが、全部は無理だ」
「うん」
「それでも、生きてる方がいい」
九条は二階堂を見た。
二階堂は目を逸らした。
「江口が言ってた」
「二階堂は」
「俺もそう思ってる」
短い沈黙。
真壁が横で少しだけ口元を動かした。
二階堂が睨む。
「笑うな」
「笑っていない」
「嘘が下手」
「お前に言われたくない」
その時、廊下の向こうから江口桜次郎が歩いてきた。
職員室から直接来たのだろう。
ジャージは少し乱れ、目の下には疲れがある。
だが、足取りは速い。
九条を見るなり、江口は言った。
「戻りましたね」
「はい」
「生徒に報告できます」
「ご迷惑をおかけしました」
「本当に」
「はい」
「学校に指名手配犯を入れた教師として、僕は今日一日で寿命が五年縮みました」
「申し訳ありません」
「でも、生徒は約束を守りました。投稿しませんでした」
「はい」
「九条先生も守りました。戻りました」
「はい」
「なので、今回は許します」
江口はそこで一度息を吸った。
「ただし、休んでください」
「必要なら」
「必要です」
二階堂が横から言った。
「満場一致」
真壁も頷く。
「休め」
堀島の声が後ろから飛んだ。
「今すぐ休んでください」
全員が振り返る。
堀島岳斗が医療バッグを持って立っていた。
「先生、聴取が終わったなら診ます」
「ここで?」
「ここで」
「警視庁の廊下ですが」
「逃亡犯を診療所で縫った後なので、場所へのこだわりは捨てました」
二階堂が小さく笑った。
「堀島先生、強くなったな」
「なりたくありませんでした」
その後ろから、鳳恭介も現れた。
「建物としては、この廊下は人の滞留に向いていません。移動しましょう」
江口が言った。
「鳳先生、最後まで建物目線ですね」
「癖です」
「怖い癖」
九条は、五人を見た。
真壁。
二階堂。
江口。
鳳。
堀島。
事件の中で、全員がそれぞれの場所に立っていた。
現場を見る者。
言葉を見る者。
人間を見る者。
建物を見る者。
生者を診る者。
死体を読む者。
清水輝は、彼らを共犯者にしようとした。
だが違う。
彼らは、同じ結論へ向かったのではない。
それぞれ違う場所から、何度も疑い直しただけだ。
だから、戻ってこられた。
九条は静かに言った。
「ありがとうございました」
江口が目を細める。
「それ、ちゃんと重い謝罪ですか?」
「感謝です」
「じゃあ受け取ります」
二階堂が言った。
「謝罪は別でリスト作れ」
「はい」
真壁が歩き出した。
「まず休ませる」
堀島が頷く。
「賛成です」
鳳が続く。
「動線を確保します。まだマスコミがうろついている」
江口がため息をつく。
「この人たち、休ませるだけで作戦会議みたいになるんですね」
二階堂が肩をすくめた。
「相手が九条だからな」
九条は何か言おうとしたが、やめた。
言えば、また叱られる気がした。
*
夜。
九条雅紀は、件の診療所のベッドに横になっていた。
左腕は固定され、吸入薬は枕元に置かれ、堀島から「少しでも動いたら追加で説教します」と言われている。
スマートフォンには、江口からメッセージが来ていた。
――生徒に報告しました。
――「九条先生、戻ってきたそうです」と言ったら、泣いてました。
――ちゃんと休んでください。
――休むまでが約束です。
九条は、しばらく画面を見ていた。
返信する。
――休みます。
すぐに返事。
――その言葉、スクショしました。
九条は少しだけ困った顔をした。
次に、二階堂から。
――検索結果は長期戦。
――訂正記事、削除申請、法務対応、全部やる。
――お前は口を出すな。休め。
九条は返信する。
――ありがとう。
真壁からは、短いメッセージ。
――山田美月の件、必ず詰める。
九条は、少し時間を置いて返信した。
――お願いします。
鳳からは、図面のようなものが送られてきた。
――診療所から最も安全に帰宅するルートです。
――ただし、今日は使わないでください。休む日です。
九条は返信した。
――分かりました。
堀島からは、隣室にいるにもかかわらずメッセージが来た。
――寝てください。
九条は、スマートフォンを伏せた。
窓の外には、街の灯りがある。
そのどこかで、まだ自分の名前は検索されているだろう。
まだ誰かが、九条雅紀を容疑者と呼んでいるかもしれない。
まだ誰かが、顔を切り抜き、過去を掘り、身体を語り、物語を作っているかもしれない。
それは、すぐには消えない。
だが今、九条の名前を呼ぶ声は、ニュースの見出しだけではなかった。
真壁が呼ぶ。
二階堂が呼ぶ。
江口が呼ぶ。
鳳が呼ぶ。
堀島が呼ぶ。
容疑者ではなく。
指名手配犯ではなく。
怪物ではなく。
九条雅紀として。
それだけで、十分ではない。
十分ではないが、始まりにはなる。
九条は目を閉じた。
山田美月の死因は、これから正式に記録される。
伊藤蓮も、本郷も、佐々木彩夏も、生きて証言する。
清水輝が選んだ死因は、もう通らない。
死者の言葉を、誰かが勝手に売ることはできない。
少なくとも、今回は。
九条雅紀は、ようやく自分の名前がニュースの見出しではなく、誰かの声で呼ばれるのを聞いた。




