エピローグ 名前は、誰かの声で戻ってくる
訂正記事は、いつも小さい。
最初の見出しは大きかった。
『法医学者、同僚女性殺害の疑い』
『九条雅紀容疑者、任意同行中に所在不明』
『“死体を知り尽くした男”はどこへ消えたのか』
実名。
顔写真。
職業。
病歴。
身体的特徴。
過去。
交友関係。
何もかもが、本人の手を離れて並べられた。
だが、その後に出た訂正は短かった。
『九条雅紀氏への指名手配解除』
『一連の事件、ルーメン・メディカル関係者を逮捕』
『山田美月氏死亡事件、死因偽装の疑い』
容疑者という文字が消えるまでには、数時間しかかからなかった。
けれど、容疑者という印象が消えるまでに、どれほどの時間がかかるのかは、誰にも分からなかった。
検索窓に「九条雅紀」と打てば、まだ古い見出しが出る。
誰かが保存した画像が出る。
まとめサイトが出る。
憶測を憶測のまま積み上げた匿名投稿が出る。
九条雅紀は無実だったのか。
九条雅紀はなぜ逃げたのか。
九条雅紀は何を隠していたのか。
答えが出たあとも、人は問いを捨てない。
答えよりも、問いの形をした噂の方が、よく燃えるからだ。
*
山田美月の机は、しばらくそのまま残された。
京東大学医学部法医学教室。
法医学棟の一角。
事件から二週間が過ぎても、彼女の机の上には、小さな付箋が貼られたままだった。
――九条先生へ
――この所見、もう一度見てください。
――私が間違っていたら、叱ってください。
山田の字は、少し右に傾いていた。
九条雅紀は、その付箋を長い間見ていた。
机の上には、彼女が使っていたペン、色分けされた資料、飲みかけで捨てられた紙コップの跡、古い解剖記録のコピーが残っている。
人がいなくなった机は、死体に似ている。
そこに身体はない。
だが、その人がどう生きていたかは残る。
九条は、付箋を剥がさなかった。
剥がせば、山田美月が最後に残した声まで片づけてしまう気がした。
背後で、真壁彰が言った。
「遺族に渡す資料は、これで全部か」
「うん」
九条は封筒を閉じた。
山田美月が残した記録。
《LUCID》の内部ログ。
倫理委員会への提出予定資料。
九条を疑うように見せかけながら、実際には九条へ辿らせるために残された矛盾。
それらは、捜査資料としてコピーされたあと、正式に遺族へ説明されることになっていた。
真壁は机の上を見た。
「山田先生は、お前を信じていたんだな」
九条はすぐには答えなかった。
信じていた。
そう言ってしまうのは簡単だった。
だが、山田美月が残した文面には、疑いも恐怖もあった。
九条を信じたい気持ちと、九条が犯人に仕立てられるかもしれないという恐れ。
正しい人間ほど、正しさのために何をするか分からないという警戒。
それは単純な信頼ではなかった。
九条は言った。
「山田先生は、俺を信じていたんじゃないよ」
真壁が見る。
「俺が、間違いを見れば戻る人間だと知っていたんだと思う」
「同じことじゃないのか」
「少し違う」
「お前は、そういう少しを大事にするな」
「死因は、少しで変わるから」
真壁は小さく息を吐いた。
「そうだったな」
九条は山田の机に向かって、静かに頭を下げた。
謝罪では足りない。
感謝でも足りない。
弔いと呼ぶにも、まだ早い。
だから、ただ頭を下げた。
死者には、言葉が届かない。
それでも、生者は言葉を選ぶしかない。
*
江口桜次郎の学校では、文化祭が一週間延期された。
表向きの理由は、安全確認と準備日程の見直し。
本当の理由は、誰も口にしなかった。
正門前に集まった報道陣は、警察の申し入れと学校側の強い抗議で数日後には姿を消した。
だが、完全には消えなかった。
校門の写真。
文化祭ポスター。
生徒の制服。
江口の名前。
それらは、どこかに保存され、どこかで勝手に語られた。
江口は職員室で、保護者説明会用の資料を作っていた。
そこに九条からメッセージが届いた。
――文化祭は、開催されますか。
江口は少し考えてから返信した。
――されます。
――事件のせいで中止にしたら、生徒が事件に負けたみたいになるので。
少しして、九条から返る。
――強いですね。
江口は画面を見て、小さく笑った。
――強いのは生徒です。
――大人はわりとぼろぼろです。
今度は返事が少し遅れた。
――ご迷惑をおかけしました。
江口は椅子にもたれた。
九条の謝罪は、いつも形が整いすぎている。
そのくせ、肝心なところで少し不器用だ。
――迷惑でした。
――でも、生徒は約束を守りました。
――あなたも戻りました。
――だから、もう次の話をします。
――次の話。
――休む話です。
既読がついたまま、しばらく返事がなかった。
江口は笑った。
「逃げたな」
その時、印刷室の前で九条を見た生徒が職員室の入口から顔を出した。
「江口先生」
「何?」
「あの、九条先生って、本当に戻ってきたんですよね」
江口は頷いた。
「戻ってきたよ」
「じゃあ、約束守ったんですね」
「うん」
生徒は、少し安心したように笑った。
「よかった」
江口はその顔を見て、胸の奥が少し痛くなった。
大人たちが作った事件の中で、この子は恐怖を覚えた。
投稿しないという選択をした。
誰かの名前を晒さないという、小さくて大きな判断をした。
その判断を、大人が守らなければならない。
江口は言った。
「七夕祭、ちゃんとやるぞ」
「はい」
「あと、スマホの使い方について全校集会で話す」
「えー」
「えーじゃない。人を見つけたことと、人を晒していいことは違う」
生徒は少し黙ったあと、頷いた。
「それ、九条先生にも言いました?」
「言う」
「絶対ですよ」
「教師だからね。説教は得意です」
*
鳳恭介の車は、修理工場に入った。
煙幕装置と発信機を取り付けられた車体は、警察の鑑識を経て、しばらく返ってこないらしい。
鳳はその間、電車と徒歩で大学へ通った。
二階堂はそれを聞いて、電話口で言った。
『建物は読めても、電車の遅延は読めないだろ』
「遅延も構造の一部です」
『何でも構造にするな』
「癖です」
鳳は大学の研究室で、ルーメン本社ビルの動線資料を整理していた。
清水輝の逮捕後、建物のログは重要な補助証拠になった。
それだけで犯人を決めることはできない。
だが、人間が嘘をついた時、建物は嘘に協力させられる。
その痕跡を、鳳は淡々と拾った。
扉の開閉。
空調負荷。
搬入口の記録。
カードの使われ方。
誰も見なかった通路。
図面の上では、それらはただの線だった。
しかし事件の後では、その線が誰かの命へ続いていたことが分かる。
鳳は、ふと手を止めた。
九条からメッセージが来ていた。
――鳳先生。
――車の件、申し訳ありません。
鳳は少し考えて、返信した。
――車は修理できます。
すぐに返る。
――ですが、危険に巻き込みました。
――建物を読む者が、建物を使う犯人に巻き込まれるのは、ある意味では自然です。
九条から、しばらく返信がなかった。
鳳は続けて打った。
――ただし、次からはもう少し早く相談してください。
――逃げ道は、追い込まれてから読むより、追い込まれる前に読む方が安全です。
九条から返った。
――分かりました。
鳳は画面を見て、小さく笑った。
分かりました。
九条雅紀のその言葉は、信用できるようで、あまり信用できない。
だから鳳は、念のためもう一つ送った。
――江口先生と堀島先生にも共有しておきます。
今度の返信は早かった。
――それは必要でしょうか。
鳳は穏やかに返した。
――必要です。
*
堀島岳斗は、九条の抜糸予定日を勝手に早められないよう、医務院のカレンダーに赤字で大きく書いた。彼は本来は医務院所属の医師だ。
『九条先生 抜糸予定』
『それまで無茶禁止』
その写真を二階堂に送ると、数分後には江口と鳳にも共有されていた。
九条からは、抗議とも確認ともつかないメッセージが来た。
――共有範囲が広い。
堀島は返信した。
――医療安全上、必要です。
――私の個人情報では。
――命に関わる情報です。
――抜糸予定が。
――先生の場合は。
堀島は送信してから、少し笑った。
笑えるようになったのは、事件が終わったからではない。
九条が生きているからだ。
医師にとって、それは何より大きい。
死体になった人間には、もう治療はできない。
後悔も、説教も、生活指導も、睡眠を取れという命令も届かない。
生きているから怒れる。
生きているから縫える。
生きているから、次に気をつけてくださいと言える。
堀島はカルテに記入した。
――左前腕切創。縫合後経過観察。
――感覚障害軽度。今後も確認。
――安静指示。遵守状況に不安あり。
最後の一文を書いてから、少しだけ迷い、消さなかった。
医学的に重要な所見だった。
*
佐々木彩夏は、一命を取り留めた。
彼女は数日後に意識を回復し、警察の聴取に応じた。
清水輝から情報を受け取っていたこと。
山田美月からも接触を受けていたこと。
九条を怪物化する記事を書こうとしていたこと。
その一方で、《LUCID》不正の資料を隠し持っていたこと。
すべてを話した。
報道各社は、彼女を被害者として扱った。
だが、一部の人間は彼女を加害者として責めた。
九条を燃やした側だ。
自業自得だ。
今さら被害者面か。
人は、誰かを裁く場所を見つけるのが早い。
佐々木は退院後、自分の名前で短い記事を出した。
『私は、九条雅紀氏を一度、見出しとして扱った。』
『人間ではなく、数字を取る素材として見た。』
『その結果、私自身もまた、誰かの作った見出しの中に閉じ込められた。』
『記事を書く者は、人の名前を扱う。』
『その重さを、私は遅すぎる形で知った。』
その記事は、大きくは拡散されなかった。
だが、江口は授業でその一部を使った。
情報を扱うとはどういうことか。
誰かの名前を検索するとはどういうことか。
書くことと晒すことは、どこで違うのか。
生徒たちは、いつもより静かに聞いていた。
*
山田美月の死亡診断書は、後日、訂正された。
死因欄には、最初に想定された「右胸部刺創による失血死」ではなく、薬物による呼吸抑制の疑いが記された。
右胸の傷は、死後損壊。
短い言葉だった。
だが、その短い言葉のために、いくつもの人生が燃やされ、いくつもの名前が切り刻まれた。
九条雅紀は、その訂正された書類を見た時、長い間黙っていた。
隣にいた真壁が言った。
「戻ったな」
「はい」
「山田先生の死因は」
「はい」
九条は書類から目を離さなかった。
「戻りました」
死者は戻らない。
その事実は変わらない。
だが、死因は戻ることがある。
嘘の分類から。
都合のいい物語から。
誰かが選んだ結論から。
死者の身体へ。
死者の時間へ。
死者の最後の呼吸へ。
九条は、その書類を丁寧に閉じた。
「山田先生は、刺されて死んだのではありません」
「ああ」
「それが記録されました」
「ああ」
真壁はそれ以上言わなかった。
言葉が少ないことが、この時はありがたかった。
*
事件から一か月後。
九条雅紀は、江口の学校を訪れた。
文化祭の当日だった。
もちろん、校門から堂々と入ることはできなかった。
まだ彼の顔を覚えている人間は多い。
警察からも、しばらくは不用意な外出を控えるよう言われている。
だが、江口が言った。
――生徒が、文化祭をやります。
――あの日の続きです。
――九条先生が来る必要はありません。
――でも、来たら怒ります。
――来なくても怒ります。
意味が分からない、と九条は二階堂に相談した。
二階堂は即答した。
「来いって意味だ」
「怒ると言ってるんだけど」
「江口は来ても来なくても怒る。なら来た方がいい」
「合理的だな」
「江口相手に合理を持ち出すな。負けるぞ」
そして結局、九条は来た。
正門ではなく、来賓受付でもなく、裏の通用口から。
案内したのは鳳だった。
「学校の裏動線に詳しくなりすぎるのは問題では」
九条が言うと、鳳は穏やかに答えた。
「今日は逃走ではなく、来場です」
「同じ道でも、意味が違う」
「はい。建物は、使う目的で表情を変えます」
九条は旧校舎の廊下を歩いた。
あの日、薬物の霧が流れた廊下。
作業着の男が立っていた場所。
本郷が倒れていた保健室。
江口が生徒の前に立った場所。
そこには今、文化祭の飾りがあった。
紙の花。
手描きの看板。
生徒の笑い声。
焼きそばの匂い。
ステージ発表の音楽。
同じ建物なのに、まるで別の場所だった。
いや、違う。
建物が戻ったのだ。
事件現場ではなく、学校へ。
江口が廊下の向こうから歩いてきた。
「来たんですね」
「はい」
「無茶しませんでした?」
「していません」
江口は九条の顔をじっと見た。
「今のは本当っぽいですね」
「本当です」
「ならよし」
江口は小さな紙袋を渡した。
「生徒からです」
「私に?」
「はい。直接渡すと騒ぎになるので、僕が預かりました」
紙袋の中には、小さな栞が入っていた。
文化祭の記念品らしい。
手作りの栞。
青い紙に、白いペンで文字が書いてある。
『名前は、勝手に使わない。』
『約束は、ちゃんと返す。』
九条は、その栞を長く見ていた。
江口が少し照れたように言う。
「中学生の言葉って、時々大人より刺さりますよね」
「はい」
「九条先生」
「はい」
「戻ってきましたね」
九条は顔を上げた。
廊下の向こうで、生徒たちが笑っている。
誰も九条を指差さない。
誰もスマートフォンを向けない。
ただ一人の来客として、そこにいる。
それだけのことが、不思議なほど遠かった。
「はい」
九条は答えた。
「戻ってきました」
*
その日の帰り道、九条は一人で少しだけ歩いた。
堀島には怒られるだろう。
だが、傷はもうほとんど塞がっている。
左手の痺れも軽くなった。
夕暮れの道は、静かだった。
スマートフォンを開けば、まだ検索結果は残っている。
九条雅紀容疑者。
指名手配。
会見乱入。
右に心臓。
死体を読む男。
その言葉たちは、まだどこかで生きている。
完全には消えない。
けれど、今日、九条は別の言葉も受け取った。
戻ってきましたね。
戻ります。
休んでください。
生きて戻った。
名前は、勝手に使わない。
約束は、ちゃんと返す。
それらは記事にはならない。
速報にもならない。
検索結果の上位にも出ない。
だが、人間をこの世界につなぎとめるのは、たぶんそういう小さな声の方だった。
九条は、栞を手帳に挟んだ。
山田美月の記録の隣ではなく、自分の予定表のページに。
これから先も、誰かは死ぬ。
誰かは名前を奪われる。
誰かは、都合のいい死因を与えられそうになる。
そのたびに、九条は戻るのだろう。
死体へ。
記録へ。
疑いへ。
そして、最後には人間へ。
死因は、死者に返された。
名前は、生者に返された。
九条雅紀は、ようやく知った。
人は見出しで壊されることがある。
けれど人は、見出しでは戻ってこない。
名前は、訂正記事の中ではなく、誰かがもう一度まっすぐ呼ぶ声の中で戻ってくる。
だから九条雅紀は、その声に振り返った。
容疑者ではなく、怪物ではなく、まだ生きている一人の人間として。
(了)
読んでくださってありがとうございます。
【ランキング入り作品】
・『哭島列車と五骸童子』完結済
童歌になぞらえて、人が殺される。
登場:真壁、二階堂、九条
https://ncode.syosetu.com/n3202mg/
・『十二灯館は、誰の罪を照らすのか』完結済
十二の灯とともに、人が殺される。
登場:真壁、二階堂、九条、鳳
https://ncode.syosetu.com/n3124mg/
・『雪桜の教室は、誰の子を埋めたのか』完結済
わらべ歌になぞらえて、人が殺される。
登場:真壁、二階堂、九条、江口
https://ncode.syosetu.com/n3162mg/
・『七禍島、鳳恭介の帰還』完結済
過去の事件『七禍』になぞらえて、人が殺される。
登場:真壁、二階堂、九条、鳳
https://ncode.syosetu.com/n3112mg/
・『右にある心臓』完結済(社会ホラー)
九条の身体的特徴が、風評により怪異とされていく。
登場:真壁、二階堂、九条
https://ncode.syosetu.com/n3092mg/
・『青燐荘の十三人目』完結済
死者を悼う場所で、生者が順番に裁かれていく。
登場:真壁、二階堂、九条、鳳、江口
https://ncode.syosetu.com/n1162mg/
閉鎖空間、見立て殺人、法医学、建築ミステリが好きな方は、ぜひ他作品もどうぞ。




