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指名手配犯 九条雅紀  作者: 二条理|アコンプリス


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11/11

エピローグ 名前は、誰かの声で戻ってくる

 訂正記事は、いつも小さい。

 最初の見出しは大きかった。

『法医学者、同僚女性殺害の疑い』

『九条雅紀容疑者、任意同行中に所在不明』

『“死体を知り尽くした男”はどこへ消えたのか』

 実名。

 顔写真。

 職業。

 病歴。

 身体的特徴。

 過去。

 交友関係。

 何もかもが、本人の手を離れて並べられた。

 だが、その後に出た訂正は短かった。

『九条雅紀氏への指名手配解除』

『一連の事件、ルーメン・メディカル関係者を逮捕』

『山田美月氏死亡事件、死因偽装の疑い』

 容疑者という文字が消えるまでには、数時間しかかからなかった。

 けれど、容疑者という印象が消えるまでに、どれほどの時間がかかるのかは、誰にも分からなかった。

 検索窓に「九条雅紀」と打てば、まだ古い見出しが出る。

 誰かが保存した画像が出る。

 まとめサイトが出る。

 憶測を憶測のまま積み上げた匿名投稿が出る。

 九条雅紀は無実だったのか。

 九条雅紀はなぜ逃げたのか。

 九条雅紀は何を隠していたのか。

 答えが出たあとも、人は問いを捨てない。

 答えよりも、問いの形をした噂の方が、よく燃えるからだ。

     *

 山田美月の机は、しばらくそのまま残された。

 京東大学医学部法医学教室。

 法医学棟の一角。

 事件から二週間が過ぎても、彼女の机の上には、小さな付箋が貼られたままだった。

――九条先生へ

――この所見、もう一度見てください。

――私が間違っていたら、叱ってください。

 山田の字は、少し右に傾いていた。

 九条雅紀は、その付箋を長い間見ていた。

 机の上には、彼女が使っていたペン、色分けされた資料、飲みかけで捨てられた紙コップの跡、古い解剖記録のコピーが残っている。

 人がいなくなった机は、死体に似ている。

 そこに身体はない。

 だが、その人がどう生きていたかは残る。

 九条は、付箋を剥がさなかった。

 剥がせば、山田美月が最後に残した声まで片づけてしまう気がした。

 背後で、真壁彰が言った。

「遺族に渡す資料は、これで全部か」

「うん」

 九条は封筒を閉じた。

 山田美月が残した記録。

 《LUCID》の内部ログ。

 倫理委員会への提出予定資料。

 九条を疑うように見せかけながら、実際には九条へ辿らせるために残された矛盾。

 それらは、捜査資料としてコピーされたあと、正式に遺族へ説明されることになっていた。

 真壁は机の上を見た。

「山田先生は、お前を信じていたんだな」

 九条はすぐには答えなかった。

 信じていた。

 そう言ってしまうのは簡単だった。

 だが、山田美月が残した文面には、疑いも恐怖もあった。

 九条を信じたい気持ちと、九条が犯人に仕立てられるかもしれないという恐れ。

 正しい人間ほど、正しさのために何をするか分からないという警戒。

 それは単純な信頼ではなかった。

 九条は言った。

「山田先生は、俺を信じていたんじゃないよ」

 真壁が見る。

「俺が、間違いを見れば戻る人間だと知っていたんだと思う」

「同じことじゃないのか」

「少し違う」

「お前は、そういう少しを大事にするな」

「死因は、少しで変わるから」

 真壁は小さく息を吐いた。

「そうだったな」

 九条は山田の机に向かって、静かに頭を下げた。

 謝罪では足りない。

 感謝でも足りない。

 弔いと呼ぶにも、まだ早い。

 だから、ただ頭を下げた。

 死者には、言葉が届かない。

 それでも、生者は言葉を選ぶしかない。

     *

 江口桜次郎の学校では、文化祭が一週間延期された。

 表向きの理由は、安全確認と準備日程の見直し。

 本当の理由は、誰も口にしなかった。

 正門前に集まった報道陣は、警察の申し入れと学校側の強い抗議で数日後には姿を消した。

 だが、完全には消えなかった。

 校門の写真。

 文化祭ポスター。

 生徒の制服。

 江口の名前。

 それらは、どこかに保存され、どこかで勝手に語られた。

 江口は職員室で、保護者説明会用の資料を作っていた。

 そこに九条からメッセージが届いた。

――文化祭は、開催されますか。

 江口は少し考えてから返信した。

――されます。

――事件のせいで中止にしたら、生徒が事件に負けたみたいになるので。

 少しして、九条から返る。

――強いですね。

 江口は画面を見て、小さく笑った。

――強いのは生徒です。

――大人はわりとぼろぼろです。

 今度は返事が少し遅れた。

――ご迷惑をおかけしました。

 江口は椅子にもたれた。

 九条の謝罪は、いつも形が整いすぎている。

 そのくせ、肝心なところで少し不器用だ。

――迷惑でした。

――でも、生徒は約束を守りました。

――あなたも戻りました。

――だから、もう次の話をします。

――次の話。

――休む話です。

 既読がついたまま、しばらく返事がなかった。

 江口は笑った。

「逃げたな」

 その時、印刷室の前で九条を見た生徒が職員室の入口から顔を出した。

「江口先生」

「何?」

「あの、九条先生って、本当に戻ってきたんですよね」

 江口は頷いた。

「戻ってきたよ」

「じゃあ、約束守ったんですね」

「うん」

 生徒は、少し安心したように笑った。

「よかった」

 江口はその顔を見て、胸の奥が少し痛くなった。

 大人たちが作った事件の中で、この子は恐怖を覚えた。

 投稿しないという選択をした。

 誰かの名前を晒さないという、小さくて大きな判断をした。

 その判断を、大人が守らなければならない。

 江口は言った。

「七夕祭、ちゃんとやるぞ」

「はい」

「あと、スマホの使い方について全校集会で話す」

「えー」

「えーじゃない。人を見つけたことと、人を晒していいことは違う」

 生徒は少し黙ったあと、頷いた。

「それ、九条先生にも言いました?」

「言う」

「絶対ですよ」

「教師だからね。説教は得意です」

     *

 鳳恭介の車は、修理工場に入った。

 煙幕装置と発信機を取り付けられた車体は、警察の鑑識を経て、しばらく返ってこないらしい。

 鳳はその間、電車と徒歩で大学へ通った。

 二階堂はそれを聞いて、電話口で言った。

『建物は読めても、電車の遅延は読めないだろ』

「遅延も構造の一部です」

『何でも構造にするな』

「癖です」

 鳳は大学の研究室で、ルーメン本社ビルの動線資料を整理していた。

 清水輝の逮捕後、建物のログは重要な補助証拠になった。

 それだけで犯人を決めることはできない。

 だが、人間が嘘をついた時、建物は嘘に協力させられる。

 その痕跡を、鳳は淡々と拾った。

 扉の開閉。

 空調負荷。

 搬入口の記録。

 カードの使われ方。

 誰も見なかった通路。

 図面の上では、それらはただの線だった。

 しかし事件の後では、その線が誰かの命へ続いていたことが分かる。

 鳳は、ふと手を止めた。

 九条からメッセージが来ていた。

――鳳先生。

――車の件、申し訳ありません。

 鳳は少し考えて、返信した。

――車は修理できます。

 すぐに返る。

――ですが、危険に巻き込みました。

――建物を読む者が、建物を使う犯人に巻き込まれるのは、ある意味では自然です。

 九条から、しばらく返信がなかった。

 鳳は続けて打った。

――ただし、次からはもう少し早く相談してください。

――逃げ道は、追い込まれてから読むより、追い込まれる前に読む方が安全です。

 九条から返った。

――分かりました。

 鳳は画面を見て、小さく笑った。

 分かりました。

 九条雅紀のその言葉は、信用できるようで、あまり信用できない。

 だから鳳は、念のためもう一つ送った。

――江口先生と堀島先生にも共有しておきます。

 今度の返信は早かった。

――それは必要でしょうか。

 鳳は穏やかに返した。

――必要です。

     *

 堀島岳斗は、九条の抜糸予定日を勝手に早められないよう、医務院のカレンダーに赤字で大きく書いた。彼は本来は医務院所属の医師だ。

『九条先生 抜糸予定』

『それまで無茶禁止』

 その写真を二階堂に送ると、数分後には江口と鳳にも共有されていた。

 九条からは、抗議とも確認ともつかないメッセージが来た。

――共有範囲が広い。

 堀島は返信した。

――医療安全上、必要です。

――私の個人情報では。

――命に関わる情報です。

――抜糸予定が。

――先生の場合は。

 堀島は送信してから、少し笑った。

 笑えるようになったのは、事件が終わったからではない。

 九条が生きているからだ。

 医師にとって、それは何より大きい。

 死体になった人間には、もう治療はできない。

 後悔も、説教も、生活指導も、睡眠を取れという命令も届かない。

 生きているから怒れる。

 生きているから縫える。

 生きているから、次に気をつけてくださいと言える。

 堀島はカルテに記入した。

――左前腕切創。縫合後経過観察。

――感覚障害軽度。今後も確認。

――安静指示。遵守状況に不安あり。

 最後の一文を書いてから、少しだけ迷い、消さなかった。

 医学的に重要な所見だった。

     *

 佐々木彩夏は、一命を取り留めた。

 彼女は数日後に意識を回復し、警察の聴取に応じた。

 清水輝から情報を受け取っていたこと。

 山田美月からも接触を受けていたこと。

 九条を怪物化する記事を書こうとしていたこと。

 その一方で、《LUCID》不正の資料を隠し持っていたこと。

 すべてを話した。

 報道各社は、彼女を被害者として扱った。

 だが、一部の人間は彼女を加害者として責めた。

 九条を燃やした側だ。

 自業自得だ。

 今さら被害者面か。

 人は、誰かを裁く場所を見つけるのが早い。

 佐々木は退院後、自分の名前で短い記事を出した。

『私は、九条雅紀氏を一度、見出しとして扱った。』

『人間ではなく、数字を取る素材として見た。』

『その結果、私自身もまた、誰かの作った見出しの中に閉じ込められた。』

『記事を書く者は、人の名前を扱う。』

『その重さを、私は遅すぎる形で知った。』

 その記事は、大きくは拡散されなかった。

 だが、江口は授業でその一部を使った。

 情報を扱うとはどういうことか。

 誰かの名前を検索するとはどういうことか。

 書くことと晒すことは、どこで違うのか。

 生徒たちは、いつもより静かに聞いていた。

     *

 山田美月の死亡診断書は、後日、訂正された。

 死因欄には、最初に想定された「右胸部刺創による失血死」ではなく、薬物による呼吸抑制の疑いが記された。

 右胸の傷は、死後損壊。

 短い言葉だった。

 だが、その短い言葉のために、いくつもの人生が燃やされ、いくつもの名前が切り刻まれた。

 九条雅紀は、その訂正された書類を見た時、長い間黙っていた。

 隣にいた真壁が言った。

「戻ったな」

「はい」

「山田先生の死因は」

「はい」

 九条は書類から目を離さなかった。

「戻りました」

 死者は戻らない。

 その事実は変わらない。

 だが、死因は戻ることがある。

 嘘の分類から。

 都合のいい物語から。

 誰かが選んだ結論から。

 死者の身体へ。

 死者の時間へ。

 死者の最後の呼吸へ。

 九条は、その書類を丁寧に閉じた。

「山田先生は、刺されて死んだのではありません」

「ああ」

「それが記録されました」

「ああ」

 真壁はそれ以上言わなかった。

 言葉が少ないことが、この時はありがたかった。

     *

 事件から一か月後。

 九条雅紀は、江口の学校を訪れた。

 文化祭の当日だった。

 もちろん、校門から堂々と入ることはできなかった。

 まだ彼の顔を覚えている人間は多い。

 警察からも、しばらくは不用意な外出を控えるよう言われている。

 だが、江口が言った。

――生徒が、文化祭をやります。

――あの日の続きです。

――九条先生が来る必要はありません。

――でも、来たら怒ります。

――来なくても怒ります。

 意味が分からない、と九条は二階堂に相談した。

 二階堂は即答した。

「来いって意味だ」

「怒ると言ってるんだけど」

「江口は来ても来なくても怒る。なら来た方がいい」

「合理的だな」

「江口相手に合理を持ち出すな。負けるぞ」

 そして結局、九条は来た。

 正門ではなく、来賓受付でもなく、裏の通用口から。

 案内したのは鳳だった。

「学校の裏動線に詳しくなりすぎるのは問題では」

 九条が言うと、鳳は穏やかに答えた。

「今日は逃走ではなく、来場です」

「同じ道でも、意味が違う」

「はい。建物は、使う目的で表情を変えます」

 九条は旧校舎の廊下を歩いた。

 あの日、薬物の霧が流れた廊下。

 作業着の男が立っていた場所。

 本郷が倒れていた保健室。

 江口が生徒の前に立った場所。

 そこには今、文化祭の飾りがあった。

 紙の花。

 手描きの看板。

 生徒の笑い声。

 焼きそばの匂い。

 ステージ発表の音楽。

 同じ建物なのに、まるで別の場所だった。

 いや、違う。

 建物が戻ったのだ。

 事件現場ではなく、学校へ。

 江口が廊下の向こうから歩いてきた。

「来たんですね」

「はい」

「無茶しませんでした?」

「していません」

 江口は九条の顔をじっと見た。

「今のは本当っぽいですね」

「本当です」

「ならよし」

 江口は小さな紙袋を渡した。

「生徒からです」

「私に?」

「はい。直接渡すと騒ぎになるので、僕が預かりました」

 紙袋の中には、小さな栞が入っていた。

 文化祭の記念品らしい。

 手作りの栞。

 青い紙に、白いペンで文字が書いてある。

『名前は、勝手に使わない。』

『約束は、ちゃんと返す。』

 九条は、その栞を長く見ていた。

 江口が少し照れたように言う。

「中学生の言葉って、時々大人より刺さりますよね」

「はい」

「九条先生」

「はい」

「戻ってきましたね」

 九条は顔を上げた。

 廊下の向こうで、生徒たちが笑っている。

 誰も九条を指差さない。

 誰もスマートフォンを向けない。

 ただ一人の来客として、そこにいる。

 それだけのことが、不思議なほど遠かった。

「はい」

 九条は答えた。

「戻ってきました」

     *

 その日の帰り道、九条は一人で少しだけ歩いた。

 堀島には怒られるだろう。

 だが、傷はもうほとんど塞がっている。

 左手の痺れも軽くなった。

 夕暮れの道は、静かだった。

 スマートフォンを開けば、まだ検索結果は残っている。

 九条雅紀容疑者。

 指名手配。

 会見乱入。

 右に心臓。

 死体を読む男。

 その言葉たちは、まだどこかで生きている。

 完全には消えない。

 けれど、今日、九条は別の言葉も受け取った。

 戻ってきましたね。

 戻ります。

 休んでください。

 生きて戻った。

 名前は、勝手に使わない。

 約束は、ちゃんと返す。

 それらは記事にはならない。

 速報にもならない。

 検索結果の上位にも出ない。

 だが、人間をこの世界につなぎとめるのは、たぶんそういう小さな声の方だった。

 九条は、栞を手帳に挟んだ。

 山田美月の記録の隣ではなく、自分の予定表のページに。

 これから先も、誰かは死ぬ。

 誰かは名前を奪われる。

 誰かは、都合のいい死因を与えられそうになる。

 そのたびに、九条は戻るのだろう。

 死体へ。

 記録へ。

 疑いへ。

 そして、最後には人間へ。

 死因は、死者に返された。

 名前は、生者に返された。

 九条雅紀は、ようやく知った。

 人は見出しで壊されることがある。

 けれど人は、見出しでは戻ってこない。

 名前は、訂正記事の中ではなく、誰かがもう一度まっすぐ呼ぶ声の中で戻ってくる。

 だから九条雅紀は、その声に振り返った。

 容疑者ではなく、怪物ではなく、まだ生きている一人の人間として。


(了)


読んでくださってありがとうございます。


【ランキング入り作品】

・『哭島列車と五骸童子』完結済

童歌になぞらえて、人が殺される。

登場:真壁、二階堂、九条

https://ncode.syosetu.com/n3202mg/


・『十二灯館は、誰の罪を照らすのか』完結済

十二の灯とともに、人が殺される。

登場:真壁、二階堂、九条、鳳

https://ncode.syosetu.com/n3124mg/


・『雪桜の教室は、誰の子を埋めたのか』完結済

わらべ歌になぞらえて、人が殺される。

登場:真壁、二階堂、九条、江口

https://ncode.syosetu.com/n3162mg/


・『七禍島、鳳恭介の帰還』完結済

過去の事件『七禍』になぞらえて、人が殺される。

登場:真壁、二階堂、九条、鳳

https://ncode.syosetu.com/n3112mg/


・『右にある心臓』完結済(社会ホラー)

九条の身体的特徴が、風評により怪異とされていく。

登場:真壁、二階堂、九条

https://ncode.syosetu.com/n3092mg/


・『青燐荘の十三人目』完結済

死者を悼う場所で、生者が順番に裁かれていく。

登場:真壁、二階堂、九条、鳳、江口

https://ncode.syosetu.com/n1162mg/


閉鎖空間、見立て殺人、法医学、建築ミステリが好きな方は、ぜひ他作品もどうぞ。

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