第三宙 第五夢 最も大切な人
「あなたたちは、私が紡いだ憧れの中で、ゆっくり眠りに落ちていくのよ! おほほほ……」
伊希は再び妖艶な姿へと変わり、魅惑的な笑みを浮かべながらそう言った。
濃い霧の中。
陸達は、霧の中に次第に一つの人影が浮かび上がってくるのを見た。
それは、一人の少女のようだった。
徐々にその姿が鮮明になっていく。
よく見ると、白い霧の中に現れた少女は――雁羽だった。
目の前の雁羽に似た少女は、陸達に向かって微笑んでいる。
驚きながら、陸達は隣にいる本物の雁羽を見た。
そして、再び目の前の少女を見る。
陸達はすぐに理解した。
――また幻境だ。
雁羽は濃い霧の中で、一人の笑顔が眩しい女性を見つけた。
目の前の女性は、甘く優しい笑顔を浮かべている。
その姿は、とても上品で美しかった。
「あなた……だったんだ。普段は写真でしか見られなかったのに……まさか、本人に会えるなんて」
雁羽は少し驚いたように呟いた。
幻影だと分かっている。
それなのに、雁羽の瞳にはいつの間にか涙が滲んでいた。
「私の娘……会いたかったわ」
その女性は、雁羽に優しく語りかけた。
雁羽は彼女を見つめたまま、数秒間黙り込んだ。
そして、ゆっくりと振り返り、彼女に背を向けた。
「私も……。でも、あなたは本物のあなたじゃない」
祁翔は濃い霧の中で、次第に一つの人影が浮かび上がってくるのを見た。
その人影は、少しずつこちらへ近づいてくる。
やがて、その姿がはっきりと見えた。
そこにいたのは――莊洛だった。
莊洛はバスケットボールを手に持ち、楽しそうに笑っていた。
「久しぶり」
莊洛の幻影は顔を上げ、眩しいほどの笑顔を見せた。
「久しぶり……。でも、ここにいるはずじゃない」
祁翔は驚いた。
それでも、申し訳なさそうな声でそう答えた。
幻影だと分かっていても、莊洛の姿を見ることができたことが嬉しかった。
そして、このあと彼を消してしまわなければならないことに、祁翔は強い申し訳なさを感じていた。
「彼は、お前にとって大切な人なんだな? すごく嬉しそうな顔をしている」
狼子が興味深そうに祁翔へ尋ねた。
祁翔は頷いた。
「うん。大切だよ。ものすごく大切。誰よりも大切な人だ」
狼子は少し嫉妬したように言った。
「俺よりも?」
祁翔はしばらく呆然とした。
「お前たちは一緒に比べられないだろ! でも……みんな大切だよ」
「じゃあ、それって俺は彼より大切じゃないってこと?」
狼子は、それでもわざと祁翔をからかい続けた。
祁翔は目の前の狼子を見つめた。
――もし莊洛だったら、きっと同じように自分をからかってくるんだろうな。
祁翔はハスキーの面をつけた狼子を見ながら思った。
――時々、狼子の反応って、本当に莊洛に似ている。
「じゃあ、お前は?」
祁翔はわざと狼子に聞き返した。
「お前は誰を見ているんだ?」
狼子は濃い霧の中に浮かぶ人影を見つめたまま、何も答えなかった。
祁翔は、狼子が一体誰を見ているのか気になった。
しかし、狼子は何も言わない。
「なんで答えないんだよ」
祁翔は頬を膨らませながら言った。
「みんな分かっただろ。今回現れたのは、自分の心の中で一番大切な人……一番会いたい人なんだ。今度こそ、一気に吹き飛ばそう!」
祁翔、陸達、雁羽は同時に頷いた。
四人はそれぞれ宙語を唱え始めた。
同時に――
湛滅之宙。
蔚沁之宙。
霧纓之宙。
紫燦之宙。
四つの宙が同時に展開された。
祁翔は莊洛の幻影を見つめながら言った。
「でも……ここでお前に会えて、本当に良かった。じゃあな」
狼子は幻影に向かって、小さな声で呟いた。
「一緒に頑張ろう。またな」
陸達は、幻影の雁羽を見つめた。
何も言わなかった。
ただ、振り返って本物の雁羽を見ると、彼女に微笑みかけた。
雁羽は母親の幻影を見つめながら言った。
「何があっても……あなたに会えてよかった。写真とまったく同じだね」
その瞬間――
四つの光が霧の中を満たした。
四人の幻影は、濃い霧とともに少しずつ消えていった。
そして楓葉も数本の炎を吐き出し、周囲に張り巡らされていた全ての糸を焼き払った。
濃い霧が徐々に晴れていく。
伊希は目の前の祁翔たちを見つめた。
――どうして……?
普通なら、彼らは幻境に囚われるはずだった。
自分が最も憧れ、最も会いたくて、最も恋しく、そして最も大切にしている人。
そんな存在を目の前に出されたら、普通の人間なら自分から抜け出すことなどできないはずだった。
しかし――
祁翔たちは違った。
「……あり得ない」
伊希が呆然と呟いた。
伊幽、伊無、伊盡もまた、驚愕の表情を浮かべていた。
その瞬間――
陸達が突然、彼らの目の前へと現れた。
陸達は蔚沁之宙を展開する。
足元から沁藍色の光が広がった。
次の瞬間、蔚沁之罩が展開される。
雁羽も霧纓之宙を展開した。
桃虹色の光が溢れ出し、陸達の周囲を包み込む。
雁羽の増幅によって、陸達の宙技はさらに強化されていた。
そのため、伊幽たちは伊希を援護することができない。
伊希がまだ状況を理解しようとしていた、その時だった。
狼子の表情が怒りに満ちていく。
彼は湛滅之宙を展開した。
瞬間――
空気中に凍てつくような冷気が広がった。
「お前みたいな化け物が……他人にとって一番大切な人を、武器にするんじゃねぇ!」
狼子が怒鳴った。
次の瞬間――
狼子は凄まじい速度で伊希の目の前へと現れた。
湛滅之剣を激しく振り抜く。
突き。
斬撃。
何度も伊希へと攻撃を叩き込んだ。
湛滅之剣からは、湛藍色の剣気が放たれる。
突然の狼子の怒りに満ちた猛攻。
伊希は避けることができず、真正面から狼子の斬撃を受けた。
「きゃあああああっ!」
伊希の悲鳴が迷宮中に響き渡る。
その身体は徐々にぼやけていき、彼女の耳をつんざくような絶叫とともに、次第に人の姿を失っていった。
祁翔たちは思った。
――一人、倒したのか?
祁翔にとって、狼子がここまで怒っている姿を見るのは初めてだった。
湛滅之剣を握ったまま、狼子は荒い息を吐いている。
それでも、怒りは収まらない。
その身体は、今も微かに震えていた。
しかし――
事態は、祁翔たちの予想を大きく裏切った。
消滅したはずの伊希の身体が、ゆっくりと変化し始めた。
そして――
徐々にその姿が変貌していく。
やがて、彼女は超巨大な人面食夢蛛へと姿を変えた。
だが、他の人面食夢蛛とは違っていた。
その巨大な蜘蛛の人面には――
伊希自身の顔が残っていた。
「くそぉぉぉぉっ!」
「私が原形に戻るのなんて、いったい何年ぶりだと思ってるのよ!」
伊希は完全に暴走し、血走った目で怒り狂った。
伊幽、伊無、伊盡は、妹である伊希が原形へと変貌した姿を見た。
彼らもまた、怒り狂った。
さらに激しく攻撃を繰り返し、陸達の蔚沁之罩を突破しようとする。
その蔚沁之罩は、先ほど狼子を援護するために、雁羽の増幅効果を受けた陸達が全力で展開したものだった。
特に伊無は、ほとんど狂ったように鞭を振り回していた。
一撃一撃が轟音を響かせる。
祁翔は、怒り狂う伊幽たちを見て少し怯えた。
それでも、必死に平静を装い、宙語を唱え始めた。
足元に紫燦之宙が展開される。
紫色の五芒星と、銀河のように煌めく紫色の召喚陣。
そして――
祁翔の手にした紫靈之杖へ、無数の紫色の光が集まり始めた。
光は次第に集中し――
さらに大きくなり――
さらに広がっていく。
次の瞬間。
紫靈炮が伊幽、伊無、伊盡へ向かって猛烈な速度で放たれた。
一度に三人を狙い撃つ。
轟音とともに紫靈炮が炸裂し、戦場は濃い煙に包まれた。
祁翔たちは息を呑んだ。
やがて、煙が少しずつ晴れていく。
しかし――
「……え?」
祁翔は目を見開いた。
伊幽、伊無、伊盡は――
無傷だった。
「そんな……」
祁翔は驚愕した。
そして、よく見ると、その理由が分かった。
伊幽と伊盡は、白幽刀と白盡刀から生み出した無数の糸を組み合わせ、防護網を形成していた。
さらに伊無の手にした鞭までもが、その防護網に絡みついている。
三人は完全に防御を固めていた。
祁翔はその光景を見ながら、少しだけ顔を曇らせた。
――これは……かなり厄介だ。




