第二宙 第八夢 雁羽の夢
雁羽は辺りをきょろきょろと見回し、目をこすりながら周囲を見渡した。
気がつくと、自分のベッドの上にいた。
「……さっきのは夢だったんだ。」
雁羽は小さく呟き、壁に飾られた母親の写真へ視線を向ける。
「どうしてお母さんの夢じゃなかったんだろう……。本当の姿をまだ一度も見たことがないのに。写真でしか知らないのに。」
そう言って、彼女は苦笑した。
さっきの夢はあまりにも現実味があった。
とても大切な夢だったような気がする。
けれど、内容だけがまったく思い出せない。
頭も少し痛み、雁羽は額を押さえた。
ベッドから降りて部屋を出ると、歯を磨いている最中、今日も父親の終わりのない怒鳴り声が聞こえてきた。
雁羽はもう慣れていた。
耳栓を耳にはめる。
幼い頃から言葉による暴力に囲まれて育った彼女にとって、耳栓は自分を守るための唯一の方法だった。
「お前さえいなければ、あいつは出て行かなかった。」
「お前なんて、生まれてこなければよかった。」
身支度を終えた雁羽は父親の罵声を一切気にすることなく、玄関の扉を閉めて学校へ向かった。
バスに乗ると、いつも同じ少年を見かける。
どうやら同じ学校の生徒らしい。
彼はいつもマスクを着けていた。
「あの人も私と同じで、人には言えない秘密を抱えているのかな……。」
長い時間バスに揺られ、ようやく学校前の停留所へ到着する。
バスが止まると、雁羽とその少年は一緒に降りた。
雁羽が前を歩いていると、不意に足を滑らせ、転びそうになる。
その瞬間、一双の手が彼女の身体を支えた。
振り返ると、そこにはさっきの少年がいた。
「……ありがとう。」
雁羽は小さく礼を言い、そのまま教室へ向かった。
少年は去っていく雁羽の背中を見つめ、言いかけた言葉を飲み込み、そのまま歩き出した。
教室へ着いてからも、雁羽の頭には先ほどの出来事が残っていた。
なぜか自然と気分が明るくなっている。
どうしてだろう。
「助けてもらったから……かな。」
そんなふうに自問自答していた。
席に着くと、ほどなくして教師が教室へ入ってきた。
教師は教室の入口へ向かって手招きをする。
「さあ、入っておいで。恥ずかしがらなくていいから。」
ゆっくりと一人の少年が教室へ入ってきた。
教師は手を叩いて皆へ告げる。
「今日からこのクラスへ転入してきた新しいお友達です。名前は陸達さん。」
「それじゃあ、自己紹介をお願いします。」
「……陸達です。」
マスク越しの声は小さく、どこか照れくさそうだった。
「なんでマスクしてるの?」
「風邪でも引いてるの?」
「声は低いけど、元気なさそう。」
教室中でひそひそ話が始まる。
雁羽はその生徒たちを鋭く睨みつけた。
すると皆、慌てて口を閉じる。
「……うるさい。」
雁羽は不機嫌そうに呟いた。
教師は教室の窓際を指差した。
「雁羽さんの隣が空いてるから、そこへ座って。」
陸達は静かに歩み寄り、雁羽へ小さく会釈すると、ゆっくり席へ腰掛けた。
授業はあっという間に終わった。
授業中、陸達は何度も雁羽の方をそっと見つめていた。
放課後。
雁羽が鞄を持って帰ろうとすると、陸達が彼女を呼び止めた。
「何だろう……?」
不思議そうに振り返る。
「一緒に帰らない?」
突然の誘いに雁羽は驚きながらも、戸惑いつつ小さく頷いた。
帰り道。
陸達はマスクを外し、さっきまでとは別人のように明るく楽しそうに話しかけてくる。
雁羽は不思議に思った。
「今日初めて会ったはずなのに……どうしてこんなに懐かしいんだろう。」
そんなことを考えていると、陸達が突然立ち止まった。
「君が好きだ。」
そう言って自然に雁羽の手を握る。
さらに顔を近づけ、そのまま口づけしようとした瞬間――
雁羽は何かを思い出したように彼を押し返した。
彼女は静かに笑う。
「……夢、なのね。」
耳につけた耳栓には『霧纓花』の紋様が浮かび上がり、淡い桃色の光を放つ。
雁羽の胸に、一節の言葉が響いた。
彼女は静かに唱える。
『夢よ――
夢を追い求めることは、
荒れ果てた砂漠で
オアシスを探し続けるようなもの。
それでも歩みを止めなければ、
やがて真なる泉へ辿り着くだろう。』
「宙語」を唱え終えた瞬間、桃色の表紙を持つ《宙之曆》が目の前へ現れる。
ページが開かれると、氷晶のような魔法陣が浮かび上がり、《宙之曆》は『霧纓之杖』へと姿を変えた。
「好きになっちゃ……駄目なの?」
陸達が問いかける。
雁羽は静かに首を振った。
「陸達は私のことを好き。でも、あなたは陸達じゃない。本当の陸達は、こんなことしないもの。」
その瞬間、景色が激しく歪んだ。
雁羽と人面食夢蛛は、陸達の目の前へ現れる。
人面食夢蛛は苦しげな叫び声を上げた。
陸達は顔を上げる。
雁羽が危険だと気づいた彼は、迷うことなく駆け出した。
『沁藍之宙』を展開し、食夢蛛の攻撃を受け止める。
彼は雁羽の前へ防護結界を張る。
しかし、結界を展開する一瞬の隙を突かれ、腕に小さな傷を負ってしまった。
それを見た雁羽は、すぐさま『霧纓之宙』を展開する。
優しい桃色の光が陸達を包み込み、傷はみるみるうちに癒えていく。
やがて人面食夢蛛も霧となって消え去った。
陸達は安心したように雁羽を見つめる。
「大丈夫?」
雁羽は静かに頷く。
「これが、本当の陸達。」
何も言わなくても、私を安心させてくれる人。
雁羽は辺りを見回した。
「みんなは?」
陸達は首を横に振る。
「待つしかない。僕も少し待っていて、ようやく君が戻ってきたんだ。」
雁羽は小さく頷いた。
祁翔や狼子たちも、きっと人面食夢蛛が見せる幸せな夢の中にいるのだろう。
「……ねえ。」
雁羽は首を傾げる。
「陸達は、どんな夢を見てたの?」
陸達はゆっくりとうつむき、小さく首を振る。
そのまま壁際まで歩き、『蔚沁之盾』を横へ立てかけて座り込んだ。
雁羽も静かに彼の隣へ腰を下ろす。
二人はそっと互いを見つめる。
目が合った瞬間、どちらともなく頬が赤く染まった。




