2-6 本題らしき方向へ
「いや、もう野球はどうでもいいんです。それより、僕の話を聞いてもらいましょう」
男はそういうと、やっと吹っ切れたように、しかし訥々とした語り口でしゃべり出した。
その話の中味は、要するにどうということのないものだった。
自分の仕事がいかに単調で屈辱的なものであるか、上司の気紛れに振り回されて苦労しているかといった話は、彼にとっては大変なことかもしれないが、聞かされる側にとっては小説やテレビドラマにも出てくる、ごくありふれた話だ。
ただ、そうはいっても、こういう話をこんなにいい加減に生きている学生のバイトに金を払ってまで話したいということの重さには、思い至らざるを得なかった。どこにでもあることだけれど、それこそ至るところで無数の人々がそのことで悩みストレスを溜めている。そうまでして仕事を続けて生きて行かなければいけない社会というものが、僕の行く手にも待ち構えているということだけは紛れもない事実でありそうだ。だから、今の男の話も、決して僕には関係のない他人ごとだとは思わないことによって、辛うじて僕は彼の話についていって、相槌を打ちながら聞くことができた。
これはバイトの効果というものだ。今まで、僕だって飲みに行った店で隣のおっさんから同じようなことを聞かされた経験は一度や二度ではないけれど、そんなときの僕の取る態度は、そんなにいやならやめれば? といった冷ややかなものだったはずで、それは今のこの高等遊民的な気楽な生活に安住しながらの無責任なものだったに違いない。それはよくないことだとは薄々感じながら、でもそんなふうに現実を斜に構えてみることも今しかできない特権なのだからせいぜい有効に使わなければと屁理屈を付けていただけだ。
だが、こうして忍耐を持って相手が満足することを目的として話を聞いていると、その話自体はつまらないものであっても、少なくとも相手の境遇に対する想像力をかきたてなければならない分だけ、これは社会勉強というにはおこがましいけれど、興味深い仕事といえなくもなかった。
男の話が一段落ついた。男はゆっくりとビールを口に運ぶと、いつのまにか運ばれてきていた冷や奴を慎重に割り箸でつかみ上げて食べた。僕は、ただ黙っているのも悪いような気がして、男にビールを注ぎながら話し掛けた。
「なるほど、やっぱり職場というのは大変なものですね。遊びならやめられるし、学校なら何年か我慢すれば出ていくわけなのに……」
「そう。そうなんですよ。この先ずっと同じ毎日を繰り返して定年になるまで続けていくほかはない。そうして気がついた時には僕の体力とか気力とか、そして本当に健康な状態で使える人生の残り時間のほとんどを吸い取られているのですよ」
また話が暗くなってきた。そろそろ話を変えてもいいだろうか。僕が飽きてきたというのも事実だが、多分彼にとってもこの話はもうこのくらいにしてほかの話をしたほうが精神衛生上いいに違いない。
「でも、私生活というか、家庭生活のほうが楽しければそれはそれでいいんじゃないですか?」
「ところがそうもいかないんですよ。まあいろいろな家庭があるだろうから一概には言えないけれど、恐らく大部分の家庭と言うのは要するに学芸会なんですよ」
「は?」
男は意外なことを言った。