2-5 ぎこちない滑り出し
「あの……」
男が顔を上げるのと、僕がたまりかねて話し掛けるのが同時になった。また、気まずい沈黙が訪れた。話すべきことが見付からないもどかしさは初めてのデートのようでもあったけど、これは何か人工的に造り上げられた関係であるだけにもっと悲惨な状況だと思った。
男はまた黙ってしまった。僕は、うさぎ倶楽部のメンバーとしてはこうした場合にどうすべきかを思案したのだが、とにかくこちらが金をもらっていて向こうがお客さんである以上はこちらから一応望ましい状況を作りだすべきであろうという結論に達し、仕方なく話し掛けたてみることにした。
「この店は、よく来られるんですか?」
「え? ああ、そうですね」
「新宿の西口にこんなお店があるなんて知りませんでした。あ、ビールが来たから、とりあえずいただきましょう」
「ああ、じゃあ、一応、乾杯といきますか」
男はやっと少し表情を崩すと、いかにもうまそうにビールを一口飲んだ。ところが、その後もなかなか話を始めない。やっぱりふだん人にしゃべられてばかりの人間だと、こういう状況の下でも口はすべらかにならないのだろうか。そのためにかなりのお金を払ってあるはずなのに、とも思ったが、あまりこちらがしゃべるのもまずいだろう。僕は松井という男に言われた事をあれこれと思い出しながら男が何か話し始めるのを待った。
一体この男はどんなふうにしてこのうさぎ倶楽部なるものを知り、どんな思いで申し込んだのだろう。そして、今日話すべきことをあれこれと考えてきたのだろうか。少なくともそんなことはなさそうだ。男も、この特異な状況に当惑していたようだった。
もしこれが普通の友人だったり、あるいは単にこの飲み屋で隣り合わせに座ったという間柄だったら、こちらからの話しの向け方もあるだろう。もう少し簡単に、もっと自然に盛り上がれるかもしれない。しかし、恐らく今のこの場合は、相手に対してどんな仕事をしているかとかお子さんは何人いるかとかいうことも聞いてはいけないのだろう。僕は途方に暮れた。こんな馬鹿な商売が本当に成り立っているのかと思った。
「あなたは、野球はどこが好きですか?」
気が付くと、男はそんなことを僕に話し掛けていた。そんなことを聞いたって仕方ないじゃないかという気がしたが、サラリーマンが最初に持ち出す無難な話題だということをどこかで聞いたか読んだかした記憶もあるし、とりあえずはこの話題で舌を滑らかにさせるしかなかろう。
「え、あ、そうでうね、特にどこかのチームのファンていうわけじゃないんです。ただ、好きな選手は何人かいて、チームというよりはその選手を応援します」
「ほう……」
「選手はどんどん代わっていくのに、その器にすぎないチームを応援しているというのはなんか妙な気がします」
言ってから、しまったと思った。いつも僕の考えていることを言葉にしただけなのだが、僕は早速議論を吹っかているんじゃないか。ここは男の好きなチームでも聞いてその話しをさせなきゃいけないと思った。ところが、男はその前に身を乗り出してきた。
「いやあ、そのとおりです。長嶋や王がいた頃の巨人は見ているだけでぞくぞくしてきたもんだが、今の巨人はなっちゃあいない。そうでしょう? あ、君はそんな昔のことは知らないかな」
男はがぜん元気になった。やや意外な展開だったが、まあよしとしよう。これで話を仕事のほうへ持って行ければ上出来だ。
「いえ、子供の頃だけど、おぼろげに覚えていますよ。なにか一人一人が輝いていたって感じですよね。そういうチームは好きだけど、組織の中で息苦しそうにしている雰囲気の選手を見るのは、あまりおもしろいもんじゃないですね」
僕がそう言うと、男はまた黙り込んでしまった。ちょっと話しの展開を急ぎ過ぎてしまったか、と思ったが後の祭りだ。また、重苦しい沈黙が続いた。せっかく男が口を開き掛けたのに、それを塞がせてしまってはバイトとしては失格だ。無理して野球の話を始めたその男に申し訳ないような気がした。
「あ、あなたは、どこのチームが好きなんですか?」
これは明らかに愚問だった。しかし、そうとは知りながら何か話さなくてはいけないと思って、目を閉じるようにして無理やりに声に出した。




