2-7 どこがゴールなのか
「つまりね、この世の中には暗黙のうちに定められている夫という役柄、父親という役柄というものがある。主婦には主婦の役柄があって、妻の役柄や母親の役柄なんかもある。で、家庭というのはそういうものを相手が望んでいると思うタイミングで演じあっているだけなんですよ。要するに、お芝居ですね。もちろんいつも相手の事ばっかり考えているわけにはいかないから、たまには役柄を忘れて振る舞ってみたくもなる。ところがそんなことをやっていては家庭というものは成り立たないし、子供や近所の手前もまずい。だから、いくら疲れていても機嫌が悪くっても、とにかく夫らしいこと、父親らしい発言をしなければならない。こうなったら、分かるでしょ、もう仕事とおんなじですよ」
「へえ、そんなもんですかねえ」
自分で言ってから、何と間抜けな相づちかと情けなくなったが、そのくらいこの話には不意を突かれた。
「大恋愛による結婚とか、学生時代からずっと付き合った末の結婚とかになると若干状況は違うのかも知れないけどね、それでも子供ができたりすればたぶん同じことです。要するに家庭というのも一つの組織、社会には違いないわけだから、円滑に動いていくためにはルールが必要だし、その組織の構成員との決定的な衝突を回避する努力は避けられません。だから、昼間は会社で仕事をし、夜は家庭でやっぱり仕事をしているようなもんなんですよ。決して気が休まることはない」
「奥さんも同じように考えているんですかねえ」
「ま、意識しているかいないかは別として、まったく同じですよ。ただね、もし女房がもう少しだけでも、何ていうのか、甘えてくれるというか、弱さを見せてくれれば、もう少し人間的な付き合い方ができるんじゃないかなんて思うこともあるんだけどね。女房は女房で、それこそテレビドラマみたいに完璧な主婦の役柄をこなしているから、僕としてもそれらしい亭主の役を演じ続けるしかない。これは君には想像もつかないかもしれないけれど、かなり悲惨なものですよ」
「あなたのほうからうちとけてみるというわけにもいかないのですか?」
「頭の中では可能かもしれないけれど、まあ、現実問題としては無理だね。自分で言うのもおこがましいが、それなりの威厳というか重みを保っておくというのも重要な仕事で、これが崩壊したらもうどうしようもない」
「なるほど。しかし、それこそ一生の付き合いなんだし、家庭でもそれじゃあ精神的にも疲れてしまいそうですけど………」
「まあね。だから、これはどこの誰とも知れない君だから勝手なことを言うんだが、時々全部投げ出してしまいたいと思うことがあるんだよ」
僕は、来たな、と思った。




