05話 身元不明
アザレアは迷宮内に発生した膨大な魔力の残滓を追い、一切の躊躇なく階層を駆け下りていく。
第四十二層、第四十三層――駆け抜けるごとに、纏わりつく魔力の密度が増していくのが分かった。
(濃い。しかも、妙な気配もある)
第四十五層に降り立った瞬間、アザレアの足が止まった。
そして――その中央に、うつ伏せに倒れている人影があった。
「――生きてるか」
駆け寄り、片膝をつく。首筋に指を当てると、弱々しくはあるが、確かな脈があった。息もある。
近くで見て、初めて違和感に気づく。
着ているものが、この国のどんな衣装とも違う。
見慣れない意匠の上着、見慣れない生地。
倒れている黒髪の青年は、この大陸では見ない顔立ちをしていた。
「……お前、どこから来た」
答えが返るはずもない。倒れた青年は、荒い呼吸を繰り返すだけだった。
うつ伏せの体をそっと仰向けにする。その拍子に、胸元の衣服がわずかにはだけた。
(こいつ…)
ただの裂傷ではない。
皮膚の下に、黒い紋様のようなものが、じくじくと脈打つように蠢いている。
アザレアの目が、瞬時に鋭さを増した。
「――アザレア殿!」
遅れて到着した斥候隊、そしてガレスの声が響いた。
息を切らしたガレスが、現場を見て絶句する。
「これは……一体、何が……」
「詳しいことは分からん。だが、この状態の人間が一人、ここに転がってた。それだけは確かだ」
「彼の意識は?」
「ない。深い呼吸はしてるが、目立った外傷は左肩の火傷くらいか。それより問題は――こっちだ」
アザレアが、胸元の傷を示す。ガレスの顔が強張った。
「な…!?その傷は…」
「おそらく…それに、格好も顔立ちも、この国の人間じゃない」
二人の間に、しばらく沈黙が落ちる。
「ガレス、傷に関しては他言無用とする」
「アザレア殿。この者をこのまま放置するわけにはいきません。即刻こちらで処分すべきかと」
「駄目だ、こいつは連れて帰る」
アザレアは、あっさりとそう言い切った。
「帝都の医務室に運んで、詳しく調べさせる。容疑者か、関係者か、それとも単なる被害者か――それを決めるのは、目が覚めてからでいい」
「よろしいのですか?事件との関わりが濃厚な相手。加えてあの傷…上は何というか」
「拘束くらいはさせる。だが、これだけの規模の異変の真ん中にいた人間だ。話を聞かないという選択肢はない」
ガレスは、しばらく考え込んでいたが、やがて小さく頷いた。
「……分かりました。護送の手配をします」
こうして、意識のない黒須慧の身柄は、失踪事件の容疑者兼関係者として、帝国軍によって収容されることとなった。
◇
意識が、水面に浮かび上がるように戻ってくる。
まず感じたのは、清潔な布の匂いだった。
次いで、規則正しい機械音のような、聞き覚えのない音。
「……ここ、は」
掠れた声で呟き、目を開ける。白い天井。柔らかい光。
迷宮の闇とはあまりに違う光景に、一瞬、状況が飲み込めなかった。
体を起こそうとして、違和感に気づく。
左手首に、鈍く冷たい感触。視線を向けると、そこには金属製の枷が嵌められていた。
ベッドの支柱に繋がる、鎖付きの拘束具。
「……え?」
状況を理解しようと頭を巡らせるが、答えは出てこない。
ただ、体を締め付ける枷の重さだけが、現実だと教えてくる。
物音に気づいたのか、扉が開き、白い服を着た女の子が顔を覗かせた。
頭の上には、茶色の毛に覆われた犬のような耳が二つ。
――耳?
一瞬、目を疑った。
見間違いかと思ったが、俺と目が合った瞬間、その耳がぴくりと動いた。
少女は俺の開いた目を見て、一瞬驚いた表情を浮かべると、慌てたように部屋を出ていった。
……今の、何だったんだ?
混乱する頭で考えていると、しばらくして慌ただしい足音が聞こえてきた。
数人が病室に入ってくる。
しばらくして、慌ただしい足音とともに、数人が病室に入ってくる。
「意識が戻ったようですね。気分はどうですか」
先頭に立つ、白衣姿の初老の男が、淡々とした口調で尋ねてきた。医師、というやつなのだろう。
「気分は……ここはどこなんですか?」
「クレイヴェル帝国内の医務室です。私は第六師団所属、ここで軍医をしております、ダリス・ヒューイと申します」
「順を追って説明します。あなたがここに運ばれて三日ほど経っています」
「まず、あなたの左肩の火傷ですが、幸い、処置が早かったため命に別状はありませんでした。ただ」
ダリスは、俺の左肩に視線を落とす。
「これほどの重度の火傷です。跡は、一生残るでしょう」
淡々と告げられたその一言に、思わず言葉を失った。
焼けた皮膚の感触は、今も鮮明に思い出せる。
あの痛みの証拠が、これからもずっとこの体に刻まれ続けるということか。
「そして、この拘束についてですが」
医師の声のトーンが、わずかに硬くなる。
「あなたは、帝国軍が調査中のある騒動の容疑者として、現在、拘束下に置かれています。詳しい事情については――」
言葉が途切れたのは、病室の扉が再び開いたからだった。
現れたのは、燃えるような赤髪をなびかせた、目つきの鋭い女だった。
長い髪は無造作に一つに束ねられているだけなのに、後れ毛の一筋までもが妙に様になっている。
すっと通った鼻筋、意志の強さを絵に描いたような切れ長の目。
「――目、覚めたか」
軽装の鎧を纏ったその女は、大股で歩み寄り、俺を見下ろす。
「お前についちゃ、聞きたいことが山ほどある」
腕を組み、アザレアはベッド脇の椅子に、断りもなく腰を下ろした。
「まずは自己紹介からだ。私はアザレア、名前は?」
俺は、拘束された左手首に視線を落としながら、乾いた喉から声を絞り出した。
「……黒須。黒須慧」
「クロス、ケイ、か。聞かん名だな」
アザレアの目が、値踏みするように細められる。
そして彼女の口からとんでもない言葉が発せられる。
「クロス、お前には冒険者殺害の容疑で死刑が執行されるだろう」




