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32話 東区画

帝都東区画は、既に戦場の様相を呈していた。


崩れた石壁、倒れた露店の残骸、割れた窓硝子が路上に散らばっている。かつて商人たちの声で賑わっていたはずの通りは、今は物が燃えた匂いと、遠くから響く警報だけが満ちていた。


その瓦礫の合間を、アザレアは迷いのない足取りで進んでいく。


魔力の揺らぎを、感覚だけで辿っていた。


幾多の死線を潜り抜けてきたアザレアの勘は、その一筋の糸を見失わなかった。


路地を折れた先。崩れた建物の瓦礫に、一人の女が腰掛けていた。


長い髪を緩やかに波打たせ、纏う衣は隙間から白い肌を惜しげもなく晒している。


気だるげに微笑むその佇まいは、この惨状の中であまりにも場違いだった。


まるで、戦場そのものが彼女のための舞台装置であるかのように。


「あら――本当に来てくれたのね。しかも、一番乗りだなんて」


女――サロマは、アザレアの姿を認めた瞬間、瞳を輝かせた。獲物を見つけた獣のような、隠しきれない喜色が滲む。


「お前が、帝都に侵入した魔人の一人か」


「ええ。サロマよ、よろしく」


「アザレアだ。名乗るまでもなく、知ってるんだろうけどな」


短い言葉が交わされる。互いの名を確かめ合うだけの、儀礼にも満たないやり取り。


サロマにとっては、これから始まる余興への前置きに過ぎなかった。


アザレアは拳を軽く打ち合わせ、抵抗の意志を示す。


連れて帰られるつもりなど、微塵もなかった。


サロマは、それを見越していたように笑みを深める。


彼女の目的は、最初から従順な降伏などではない。むしろ、抗う相手をどう楽しむか――そこにこそ、彼女の関心の全てがあった。


「あなたにも、少しは楽しんでもらわないとね」


両腕が広げられる。


「――『銘』、怪人達の婚礼式(バージンロード)」


紡がれた言葉とともに、周囲の空気が粘つくように歪んだ。


地面から、幾つもの人影が滲むように浮かび上がってくる。


輪郭が定まり、色を帯び、やがて実体を伴った人間の姿へと変わっていく。一つ、二つ、三つ――最終的に、五つの影が瓦礫の上に立ち並んだ。


その顔ぶれは、決して無名の亡霊たちではなかった。


先頭に立つのは、片眼を眼帯で覆った、いかつい体躯の大男。


潮風に焼けた肌には、幾つもの古傷が刻まれている。


かつて南方の海洋諸国を震え上がらせた大海賊、ブッカ。


三つの国家がこぞって懸賞金を積み、それでも捕らえきれなかったという大罪人が、今は虚ろな瞳でアザレアを見据えていた。


その傍らには、名のある剣豪の亡影。


歴戦を潜り抜けた魔導士の残像。


素手一つで軍勢を退けたと語り継がれる猛者の姿。いずれも、既にこの世を去っているはずの実力者たちだった。


サロマの銘は、魅了した相手を自らの手で看取ることで、その姿を花嫁道具として呼び戻す力だという。


かつて彼女を狩ろうとした者、そして彼女に魅入られて身を滅ぼした者たちが、こうして人形のように蘇らされ、彼女の意のままに動く駒となっていた。


ブッカもまた、その一人なのだろう。海の覇者を自称した男の末路が、こんな形で晒されているという事実に、皮肉以上のものを感じずにはいられない。


サロマの号令一つで、五つの影が一斉に動き出した。


ブッカの振るう大剣、剣豪の踏み込み、魔導士の放つ雷撃、猛者の拳。それぞれが、かつての栄光を体現するかのような一撃を繰り出してくる。


だが、それらの全ては、アザレアには届かなかった。


彼女の掌がブッカの大剣に触れた瞬間、刀身は赤熱し、じゅわりと形を崩して溶け落ちていく。


剣を握っていた腕ごと、瞬く間に灰へと変じていった。


雷撃を纏った腕を逆手に掴めば、触れた箇所から水分という水分が失われ、黒く干からびるように萎んでいく。


猛者の拳を紙一重で躱し、顎へ掌底を叩き込めば、その輪郭は灼熱に炙られたように白く発光し、そのまま輪郭ごと崩壊した。


彼女の銘――ヒエロニモの焔は、触れた対象から水分と熱を根こそぎ奪い、灼熱の灰へと変える力だ。生半可な実力者であれば、その一端に触れただけで原形を保てない。


かつて名を馳せたはずの五つの影は、瞬く間に灰と砂の入り混じったものとなり、風に散っていった。


その光景に、サロマの余裕が初めて崩れる。


「そんな……嘘でしょ。あの人たちは、それぞれの時代で名を轟かせた……ブッカだって、三つの国家を手玉に取った大罪人よ」


信じられないものを見るように、目を見開いたまま立ち尽くしていた。


彼女にとって、あの五体は自らの誇る自慢の戦力だったのだろう。それが、ものの数秒で塵と化した事実を、すぐには受け止められないでいた。


アザレアは、灰となって消えていく残骸を一瞥もせず、サロマへ向き直る。


「弱者の残り香だ」


彼女に言わせれば、単純な理屈でしかなかった。


サロマに魅了され、サロマに殺された程度の実力しか持たなかった者たちだ。どれほど過去に名を轟かせていようと、その死に様が全てを物語っている。


「お前に殺されるくらいの連中のコピーを何体並べたところで――私に通用するわけがない」


一歩、間合いを詰める。


「――っ、舐めるなァ!!」


追い詰められたサロマが、悲鳴じみた叫びとともに全身の魔力を漲らせた。


白かった肌が、内側から発光するように青白く輝き出す。恐怖からの逃走ではなく、なけなしの魔力をかき集めた捨て身の突貫だった。


爪を鋭く伸ばし、獣じみた動きでアザレアへ飛びかかる。速さだけなら、先ほどまでのコピーたちを上回っていたかもしれない。


だが、それだけだった。


アザレアの反応は、涼しいままだった。




アザレアの灼熱の拳が、深々と鳩尾へ沈み込む。声にならない呻きとともに、サロマの体が瓦礫の上へ崩れ落ちた。意識を刈り取られたその体は、徐々に灰塵へと散っていく。


「弱いなら弱いなりの戦い方を考えるんだな」


アザレアはそう言い残し、倒れた敵を一瞥すると、小さく息を吐いた。

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