03話 絶体絶命
足が、限界を訴えていた。
膝が笑い、踏み出すたびに視界が上下に揺れる。
左肩の火傷は、もはや感覚が麻痺しているのか、鈍い熱の塊としか感じられなくなっていた。
それでも走った。走るしかなかった。
「どこまで続いてんだよ、この迷宮……!」
悪態をついた瞬間、目の前に瓦礫の山が現れた。
行き止まり。
崩れた瓦礫が通路を塞ぎ、その向こうへ続いていたはずの道を完全に断っている。
引き返す時間はない。
振り返らずとも分かる。背後の足音は、もう目と鼻の先まで迫っていた。
「――は」
乾いた笑いが漏れる。
ここまでか、と頭のどこかが冷静に告げていた。
魔猿が、足を止める。
ゆっくりと、こちらへ向き直る。醜悪な顔に浮かんでいるのは、飢えでも怒りでもない。
獲物を追い詰めたことを心底楽しむような、歪んだ笑みだった。
長い舌が、覗いた牙の間を舐め上げる。
こんなあっけなく俺は死ぬのか。こんな奴に、終わらせられてしまうのか。
魔猿の長い腕が振り上げられる。
その刹那――轟音。
横合いの壁が、内側から爆ぜるように弾け飛んだ。
石礫と粉塵が視界を埋め尽くす。
反射的に目を庇った俺の耳に、魔猿の悲鳴じみた咆哮が突き刺さった。
粉塵の向こうに、影がある。
魔猿よりも、一回り小さい影。
それが、腕を一振りしただけで、魔猿の巨体が紙屑のように吹き飛び、崩れかけた壁に叩きつけられた。
石が砕け散る音。魔猿の絶叫。
粉塵が晴れていくと、叩きつけた正体の姿が徐々に見えてくる。
その者は――もはや「化け物」と呼ぶには、あまりに整いすぎていた。
すらりと伸びた長身。
闇の中でもはっきりと分かるほど整った顔立ちは、男とも女ともつかない、不思議なほど中性的な造形。
肩にかかる銀色の髪が、粉塵の中でやけに神秘的に映える。
壁に叩きつけられ痙攣する魔猿の首が宙を舞う。
俺はその光景に呆然と立ち尽くしていた。
爆発音を聞きつけ助けに来てくれたのだろうかと考え、声を発しようとした。
だが、次の瞬間――その考えは吹き飛んだ。
肌が、粟立つ。
「――お前が、そうか」
その人影がこちらに向き直った瞬間、目に見えない重みが、のしかかるように全身へ圧しかかってきた。
「やつの後始末をしに来たつもりだったが…ふむ…」
白と黒が反転したような瞳には値踏みの色が見える。
「た…すけてくだ…さ」
震える声で、それだけを絞り出す。声を出すだけで、酸欠にも似た眩暈が襲ってきた。
「そうか、助けてほしいのか」
ただ、目の前に立つ「何か」が、存在するだけで空間そのものを塗り替えているような、圧倒的な気配。
「ならば私と取引をせよ」
「取引、って……」
かろうじて絞り出した声は、自分でも情けないほど掠れていた。
遠くで、何かがまだ喋っている。愉しげな響きだけが、輪郭を失った音の塊として鼓膜を撫でていく。
死にたくない。
――生きなければ。
何も知らないこの世界で、それでも生き残るために。
言い終わる前に、視界が翳る。反応する間もなかった。
「案ずるな、ただ印をつけさせてもらうだけだ」
その人影が指をくいっと持ち上げる。
途端、俺の体が宙に浮かび、目線が合う高さまで運ばれた。
気付けば、指先が、俺の胸元に触れていた。
爪の先が、皮膚を裂き模様を刻んでいく。
「――っ、が、ああああああああっ!!」
喉が張り裂けんばかりの絶叫が、迷宮の壁に反響した。
全身の神経という神経が悲鳴を上げていた。
その者は僅かに眉をひそめた。そして、ただ一瞥。
それだけで、喉の奥から出かかっていた次の絶叫が、ぴたりと止まった。
口を縫われたように声を発することが出来ない。
そして激痛が意識を焼き切った。
視界が白く弾け、そのまま闇に沈んでいった。
――足搔け。
――期待している。
そんな、断片だけが頭の隅に引っかかった気がした。




