02話 なぞのばしょ
俺の名前は、黒須慧。
都内に住んでいる普通の大学生だった。
身長は高い方で、体格も悪くない。
おまけに目つきが悪い。そのせいで、初対面の人間にはよく誤解される。
「黒須先輩って絶対怖い人だと思ってましたよ」
大学に入ってから、何度言われたか分からない台詞だ。
だが、実際に絡まれても凄んだ覚えはない。
むしろ揉め事は誰よりも嫌いな性分だった。
ただ人より少し体が大きくて、少し無口で、少しばかり物事に動じないだけ。
それだけの、どこにでもいる人間のはずだった。
◇
あの日も、特別なことは何もなかった。
講義を受けて、バイトに入って。変わらぬ、いつも通りの一日。
試験が近いわけでもない。
大きな予定があるわけでもない。
明日もきっと、今日と同じような一日になる。
当時の俺は、それを疑いもしなかった。
夜になってから、行きつけの居酒屋へ足を向けた。
一人で飲む酒は嫌いじゃない。
誰かに愚痴を聞いてほしいわけでもない。
ただ、頭の中を空っぽにする時間が時々欲しかった。
その日は、一つ下の後輩と顔を合わせた。
黒髪のショートに、一房だけ差した赤いメッシュ。
160センチそこそこのスタイル抜群の姿に、いつも通りの素っ気ない目を向けてくる。
今井静音。
「黒須先輩、やっぱりここですか」
抑揚の薄い声で、後輩がそう言った。
「ああ、今井か」
「相変わらずつまらないヒゲですね」
「いやヒゲ生えてないけど」
「間違えました、つまらない人ですね」
「やかましいわ!」
「顔怖くなってますよ、ちょびヒゲ」
彼女からのジョークを軽く受け流す。
見た目と口数の少なさから、親友はおろか知り合いすら中々出来ない俺にとって数少ない友人だ。
大学に入ってから一年以上経つが、今でもこうして気軽に話せる相手は多くない。
だからこそ、こういう何でもない時間は嫌いじゃなかった。
「先輩もこんなところで油売ってないで彼女の一人でも作ったらどうですか」
「今までに会った女性は俺の顔見て怯えて逃げていくんだよ」
「虫よけスプレーでも使ってます? 強面レベル高いですしね、悪タイプでも逃げますよ」
「ついに言っちまったな、レベル差の暴力でひんしにしてやろうか」
無遠慮に、飄々と軽口を言ってくる彼女に対し、俺は一種の安心感を抱いていた。
くだらない話をして、酒を飲んで、笑う。
そんな時間が、ずっと続くものだと思っていた。
◇
帰り道の途中で今井と別れた後、少し酔いの残った頭で夜道を歩いていた。
そこで、背後に気配を感じた。
最初は気にも留めなかった。ただ同じ方向へ歩いている誰かだろう、と。
だが、背後の気配は、いつまで経っても一定の距離を保ったままだった。
妙な胸騒ぎがして、意を決して振り返る。
誰もいない。今井がまたふざけて驚かせにきているのかとも思った。
だが暗い道路が、街灯の下に伸びているだけだった。
――変な胸騒ぎだ。とはいえ、気にしすぎても仕方ない。
自分にそう言い聞かせ、再び前を向いて歩き出そうとした、その瞬間。
記憶は、そこで途切れている。
◇
次に目を開けたとき、そこは見知らぬ場所だった。
冷たい石の感触。
闇に沈む、遠く高い天井。
気付けば、円形の広間の中心に倒れていた。
床には焼き付けられたような幾何学的な線が刻まれ、四方には石像が並び、その足元には赤黒く変色した血の染みが点々と続いていた。
「……どこだ、ここ」
声が、妙に大きく響いた。
返事はない。
耳を澄ませても聞こえてくるのは、自分の呼吸と、どこか遠くから滴る水の音だけだった。
酔って、どこかに迷い込んだのか――寝惚けた頭に、まず浮かんだのはそんな間抜けな考えだった。
記憶を飛ばすほど酒をあおり、道で転んで気を失う――
我ながら笑えないほど間抜けな話だ。
情けなくなって、乾いた笑いが漏れた。
だが、すぐにその考えを打ち消す。
薬を嗅がされたのか、殴られて気を失ったのか。
何者かに拉致されて、ここまで運び込まれた可能性もあり得……ないか。
周囲を見回す。
窓もない。
出口らしきものは、目の前の暗い通路だけ。
しかし召喚だの異世界だのという突拍子もない発想よりは、迷い込んだと考えた方がよほど現実味がある。
少なくとも、今の俺にはそう思いたかった。
慌てても仕方ない。
「誰か……探して聞いてみるしかないか……」
しばらく考えた結果、俺は薄暗い通路へと進んでみることにした。




