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01話 逃走

薄暗い迷宮には、血と黴の臭いが分かちがたく染みついていた。


クレイヴェル帝国迷宮――最深部。


壁を伝う水は赤黒く濁り、床のあちこちに黒ずんだ染みが放射状に広がっている。


空気は重く澱み、吸うたびに肺の奥にまとわりつくような不快感を残した。


長くこの場に留まれば留まるほど、正気の輪郭が少しずつ滲んでいくような


そんな錯覚すら覚えさせる場所だった。


その澱んだ空気を、今は肺いっぱいに吸い込む余裕すらなかった。


「は、っ――あいつ、なん、だよっ――」


石造りの通路を、一人の青年が駆けていた。


青年は何度も足を取られそうになりながら、それでも前へ進み続ける。


「はっ……はっ……!」


地面を蹴る音が、闇の中に不規則に響く。


振り返る。


暗闇の向こうで、二つの眼が光っていた。


「……っ!」


青年はすぐに前へ向き直った。


見た。


見てしまった。


背後から追ってくる足音は、こちらの倍近い速さで石を叩く。


四肢を使って地を這うように駆けるその音は、次第に大きく、近くなっていく。


「ギャギャ!」


熱を孕んだ気配――そう気付いた直後、視界の端が橙色に染まった。


――シュゴォォッ!!


次の瞬間、頬のすぐ横を、灼熱の塊が通り過ぎていった。


ちらりと後ろを振り返ると醜悪な顔つきでニヤついている。


「ギャ……ギャギャ……」


猿、いや猿と呼ぶには、あまりに禍々しい。


だが、その体躯も、長い腕の動かし方も、紛れもなく猿のそれだった。根拠などなかった。


シュゴォォッ!!


灼熱の塊が頭上を通過した。


石片が雨のように降り注ぎ、熱風が背中を叩いた。


くそっ、わざと外して遊んでやがる。


全力で走る獲物との距離を、いつでも詰められる。


にもかかわらず、あえて一定の間合いを保ち続けている。


まるで、俺がどこまで足搔けるのか、その様を眺めて楽しんでいるかのように。


「一体…どうしてこんな事にっ…!」


怖い。


死ぬのが怖い。


頭ではなく、本能がそう叫んでいる。


恐怖と焦りによってわずかに体勢が崩れる。その一瞬の隙を、魔猿は見逃さなかった。


「ホギャギャギャ!」


二発目の火球が、間合いを詰めながら放たれる。避けきれない。


とっさに身を捩ったが、完全にはかわしきれず


ボォンッ!


左肩に、灼熱の衝撃が突き刺さった。


「あ、ぐああああっ!」


肩から焦げた臭いが立ち上る。


皮膚が焼け爛れる激痛に、視界が一瞬白く染まった。


それでも足は止まらない。止まれば、次は頭が消し飛ぶ。分かりきっていた。


左腕がまともに動かない。


焼けた皮膚の感触が、走るたびに引き攣れて悲鳴を上げる。


それでも、足だけは動かした。


右足。


左足。


ただ、それだけを繰り返す。


出口がどこにあるのかも分からない。


そもそも、この迷宮がどれほど広いのかすら分からない。


それでも走るしかなかった。


背後から聞こえる笑い声が、妙に鮮明だった。


涙が滲むほどの痛みの中、腹の底から怒りにも似た感情が込み上げてきた。


ふざけんなよ……!


どこだよ、いったいここは……!


叫ばずにはいられなかった。


頼んでもいない。


望んでもいない。


ただ普通に大学に通って、遊んでて、何事もなく平和な日本で暮らしていただけだ。


それがどうして、こんな化け物に命を狙われる羽目になる。


答えは返ってこない。


あるのはただ、迫り来る足音と、焼けるような肩の痛みだけだった。


「は……っ、は……っ」


呼吸が整わない。


心臓が痛いほど脈打っている。


それでも走る。


走って、走って――


「……出口、どこだよ……」


呟いた声は、迷宮の暗闇に吸い込まれた。


返事の代わりに、背後からまた足音が響く。


悔しさを噛み殺し、俺は歯を食いしばって、ただ迷宮を走り続けた。

はじめまして、PiiLと申します。初投稿です。

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