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番外編   主と従僕、いまむかし

※ 本編終了後のお話になります。ご注意ください。



 白井辰巳しらい たつみは困惑していた。

 足もとにぴったりとしがみついている女の子はいったいどういうつもりなのだろうか。

 どうして当主は自分に子守なんてまかせようとしたのだろうか。

 自問してみたところで答えは出ない。




 きっかけは父親のリストラだった。十六になったばかりの辰巳は知らなかったが、本家筋の白河家というのは大層立派な家らしく、職を求めて一家総出で頭を下げに来たのだ。ろくに会ったこともない遠縁の親類に対し、当主だという人の良さそうな男はニコニコしながら出迎えてくれた。

「わかった、知り合いに声をかけてみよう」

「ありがとうございます! なんとお礼をいったらいいか……!」

 ソファをおりて、毛足の長いじゅうたんに頭をこすりつける父親と母親をマネながら、辰巳は世の不条理を味わっていた。

 どうして自分がこんな目に。

 理解はできる。こうして土下座までしなければ、自分はせっかく合格した高校に通えなくなる。今まで通りのふつうの生活さえままならなくなる。

 だが、辰巳の幼いプライドが邪魔をするのだ。

 生まれついた家が違っただけで、こうして地べたに這いつくばる人間と豪奢なソファに座って見下ろす人間に分けられる。

 そう思えば目の前の救世主の笑顔さえ憎らしくなってきた。


「いいんだ、一族で助け合わなくてはね。……それで、こちらも助けてもらいたいことがあるんだけれど、頼めるかな」

「もちろん、なんなりと!」

「君は辰巳君と言ったね」

 苛立たしいほどおだやかで優しい目を向けられ、辰巳は驚いて顔をあげた。とはいえ、自分の鈍い表情筋は一ミリたりとも動いていない。

 返事をしろ、と背中をつついてくる父親がうっとうしく、辰巳はあえて黙ったまま当主である男を見つめた。

「体はわたしより大きいようだが、高校生だね」

「それが何か」

「辰巳っ!」

 母親の悲鳴まじりの叱責がとぶが、当主は鷹揚にうなずいた。

「ああ、いいんだ。お願いと言うのは君になんだ。もし都合がよければ、でいいんだが」

 思わせぶりに言うが、その口ぶりこそ辰巳の気に入らないものだった。父親の仕事のあっせんを頼んだ身だ、断れるはずもない。ならばさっさと命令すればいい。当主はあくまで本人の意思を尊重しようと『いい人』ぶっているようにしか見えなかった。

「バイトを頼みたいんだ」

「バイト?」

「放課後の空いているちょっとした時間でいい。ここへ寄って、わたしの娘の相手をしてほしいんだ」

「……娘さんの、相手」

「ああ、五歳の女の子だ」


 それを聞いて、辰巳は親の事情も忘れて即座に断ろうと思った。

 生まれついて辰巳の顔の筋肉は死んでいる。感情の起伏に表情がともなわないのだ。図体ばかりが大きくなり、すでに身長は百八十近い。おかげで親には可愛げがないとさんざん言われ、友人をつくるにも苦労した。犬には咆えられ、ご老人からは警戒され、子どもには泣かれる。そんな自分が幼い女の子の相手などできるはずもない。


 だが、しかし。

「もちろんです! ぜひやらせていただきますとも!」

「白河家のお役にたてるなんて、この上ない喜びです!」

「よかった、助かるよ」

 両親のおおげさなまでの歓喜の叫び。キラリと光ったようにみえた当主の目。辰巳は死んだと思っていた自分の頬の筋肉がひきつり、口元をしっかり歪ませていることを意識していた。




 そんなこんなでバイトの初日を迎えてしまったのだが、辰巳は第一歩からつまずいて大ケガを負ってしまった。

 両親とともに通されたときと同じ応接間に案内され、バイトの対象である当主の娘とやらに対面するはずが、一目会っただけで拒絶されてしまったのだ。先ほど時給二千円という破格の賃金を提示され、ほんのわずかにやる気を抱いていただけに心が折れそうだ。

 やっぱり無理な話だったのだ。

 父親はすでに仕事を始めたし、自分はここまで出向いた。娘の方が嫌がったのだから、自分に落ち度はないはずだ。

 そう言い聞かせ自分を慰めていたのが、ここでようやく辰巳は違和感を覚えた。

 茫然とたたずんでいた自分の制服のズボンの端がつんつんと引っ張られている。

 見下ろしてみれば、小さな女の子がズボンをしっかりと握りしめているではないか。

 目があったことを確認すると、彼女は舌たらずに大胆なセリフをはいた。


美月みつき様がいらないなら、わたしがもらっていいですか」

「……え?」


 この子は今何と言った。

 もらう? 俺のことを言っているのか。

 父親からは白河の娘は一人だと聞かされていただけに、彼女がいったい何者なのかすら辰巳にはわかっていなかった。

 しかし、当主は確かに言った。

 娘の美月と明、と。

 ではこの子はどちらだ?

 その疑問は、幸いにも彼女自身が解決してくれた。

「わたしはあきらです、五才です。しらゆり幼稚園のパンダ組です」

 はきはきとしたあいさつに、辰巳はたじろぎながらも頭を下げた。

「俺は白井辰巳です」

「あいさつのときは、何才かと何組さんかも言うんですよ」

 こまっしゃくれた口調だが、きっと誰かのマネに違いない。そう思うと明という女の子がかわいく思え、辰巳は素直に従った。

「……十六才です。一年A組です」

「よくできました!」

「ありがとうございます」

「ねぇ、座らないんですか?」

「……では、失礼します」

 促されるままにソファに腰を下ろすと、女の子は大きな猫目でこちらをのぞき込んできた。ズボンの裾は握ったままだ。


 当主に連れられていった女の子とはあまりにも違う反応に、辰巳はわずかに興味を持った。こちらからコミュニケーションをとってもいいかもしれない、そう思うくらいには。

「あなたは座らないんですか?」

 名前は聞いたが馴れ馴れしく読んでいいものかはかりかね、おおよそ幼児にふさわしくない呼びかけをしてしまった。だが明はなんの違和感もなく受け止めてくれた。

「わたしも座っていいですか?」

「もちろん」

 明がへりに手をかけよじ登ろうとしたところで、彼女が座るにはこのソファは背が高すぎることにようやく気づいた。

「はい、どうぞ」

 小さな体をヒョイと持ち上げ、自分の隣に座らせる。たったそれだけのことなのだが、明は目をこぼれ落ちそうなほど大きく見開いた。

 そして無言でさらに強い眼差しを向けてくる。


 しまった、なれなれしかったか。

 自分の失態に後悔したのも一瞬だった。


「えへへ」

 明はふにゃふにゃと相貌を崩すと、今にも喉を慣らしそうな勢いで辰巳にもたれかかった。その無防備な姿に、喉の下をくすぐってやりたい衝動にかられる。

 かわりに、とたっぷりした色素の薄い髪を指ですいてやると、またハッと目を開いて辰巳を見た後にぐりぐりと頭をすりつけてきた。

 見た目はちょっと気位の高そうな子猫だが、中身は甘えたで人なつっこい子犬だ。

 今まで子どもはもちろん小動物にも好かれたことのなかった辰巳には、そのやわらかい感触と温かな体温は新鮮だった。

「もっと」

 いつの間にか手が止まっていたようで、明は辰巳に甘えた声で催促をする。それが辰巳を刺激した。

ではこれはどうだ。

 辰巳は自分の大きな両手で明の顔を包み、もみ込んでやった。餅のように白く柔い頬がぐにゃぐにゃと動く。

「ぎゅむむむ」

 珍妙に唸る明はなんともかわいらしい。つい夢中になっていると、明も負けじと短い腕を伸ばして辰巳の顔に触れた。そして小さな指が辰巳の頬を控えめに引っ張る。

「変なお顔。きゃはははは!」

 好奇心いっぱいながらも、丁寧な口調を崩さずこちらを品定めしていた子どもが、初めて見せた大笑い。

 なぜかそれは辰巳の胸を強く打った。


「おや、あなたが笑い声とは珍しい。明さんでしたか」

「けいごさん!」

 明の意識がそれたことを惜しみながら彼女の視線をたどると、扉の前に男が一人立っていた。

 彼を見た途端に明はぴっと背筋を伸ばす。

「けいごさん、ただいま帰りました」

「お帰りなさいませ」

「手を洗ってうがいもして、当主様にごあいさつできました」

「よくできました。幼稚園は楽しかったですか」

「はい!」

 きっとお決まりのやりとりなのだろう。明は満足そうにソファに座りなおした。

 それを見届けてから、男はノンフレームの眼鏡越しにちらりと辰巳に視線をうつした。その顔立ちは整っているが、それ故にひどく冷たい印象だ。なるほど、明が自分の顔に怖がらなかった理由がわかった。この男にくらべれば自分などまだかわいいものだ。口調からして、明が彼の影響を多分に受けていることは間違いない。

「失礼いたしました、白河の秘書を勤める岩土敬吾いわど けいごと申します。おやおや、会ったばかりだというのに、お二人は仲良しですね」

 サラリと言われただけなのに、なぜか悪さをとがめられたように思えて背筋が自然と伸びてしまう。

「美月様がいらないって! わたしがもらったんです」

「ほォ」

 氷のように冷たい視線を浴びせられ、辰巳はどうすることもできずに固まった。こういうときは自分の鉄壁の無表情がありがたい。

「……ふむ」

 品定めがおわったのか、岩土はツカツカとこちらに歩み寄ってきた。

「明さん、少々失礼します」

「なにー?」

「ちょっとだけです、がまんですよ」

 両手を伸ばして明の両耳をふさぐと、岩土は辰巳の正面すれすれまで顔を近づけて早口に言った。


「廊下で泣きわめいていた美月様と当主様の様子からだいたいのことは察しております。これではバイトはままならないかと思いましたが、明さんはあなたをいたく気に入ったようです。モノ扱いなんて無礼は承知ですが、このまま明さんのおもちゃ役になってもらえませんか。時給はあと五百円アップしましょう」

 当主のときとはまた違う有無を言わせぬやり方に、辰巳はたじろぎつつもなんとか答えた。

「……この子相手にバイトができるのであれば、喜んで」

 これは本音だった。

 バイトの面接に失敗した、なんて両親に伝えたら何を言われるかわかったものではない。

 父親の仕事が軌道にのるまでは己の小遣いもままならないだろうし、できることならやらせてほしかった。

 それに、どうもこの明という子は自分の琴線にひっかかる。


 岩土は満足げにうなずいた。

「助かります。注意事項、勤労条件などは追って説明するとして、とりあえず伝えておきたいのは一点のみです」

「なんでしょう」

「この子を甘やかしてください」

「え? なんですって」

 思わず問い返すと、岩土は真剣な面持で続けた。

「とにかく、ここにいる間は何をおいても明さんを優先して甘えさせてください。いいですね」

「は、はァ」

「よろしい」

 ぱっと明の耳から手を離すと、岩土は明をのぞきこんで言った。

「すてきなプレゼントですね。大事にしてあげてください」

「はい!」

 結局俺はこの子のモノか。

 よくわからないが、まァいいだろう。

 自分は自分の役目をこなすだけだ。




 それから辰巳の仕事は明の遊び相手ということで決定した。美月が彼を見ると怖がるので、離れの和室が遊び場だ。高校が終わってから白河家へ訪れ、母屋に一声かけてから離れに向かえば、いつも明がチョコンと縁側に座って待っていてくれた。

 明は実におとなしい子だった。わがままも言わないが、何がしたいとの主張もしない。辰巳も何をしてやればいいのかわからず、とりあえず絵本を読んだり、お絵かきしたり、のんびりと二人で過ごすだけだ。

 それだけで給料が手に入るなんていいのだろうか。何より明は退屈ではないのだろうか。

 そんなふうに心配してしまうのだが、明が自分を気に入ってくれているのは事実なようで、何をするでもなく辰巳にぴったりくっついて離れない。


 明が白河本家の娘ではないことは岩土から聞かされていた。そしてその複雑な事情も。

 寂しいのかもしれないな。

 健気な小さな女の子が自分にすがるのがかわいそうで、愛しかった。

 そう思えば辰巳の足は自然と白河家へ向き、数少ない友人たちには彼女ができたのかと誤解されるほどだった。


「辰巳さん! 待ってました」

「明様、お待たせしてすみません。今日は何をして遊びましょうか」

 そんなやり取りをすることにも慣れた頃。


「辰巳くん、調子はどうだい」

 明が自分の生活の中に入り込んでしばらくたったとき、玄関口でちょうど帰宅した白河当主に行き会った。

「問題ありません」

 素っ気なさすぎる態度にも、当主は笑みを崩さない。

「そうか。明をよろしく頼むね」

 最初にあったときほどの敵対心はもうない。なにせ、この人の計らいがなければ辰巳は明に会うことなど絶対になかったのだ。そのことに関してだけは感謝すらしていた。

 いっしょに玄関にはいると、当主は出迎えた使用人にカバンを預けながらよく通る声でただいまと呼びかけた。それだけで奥の廊下からタタタッと軽い足音が近づいてくる。


「お父様、お帰りなさい!」

「ただいま、我が家のお姫様」

 当主の娘である美月は父親に駆け寄るとその腕の中に飛び込み、首根っこにかじりついた。

「おみやげはー?」

「チョコレートケーキがあるよ。デザートに食べようか」

「わぁい!」

 美月は無邪気な歓声をあげると、ぱっと首を床にむけた。

「うれしいね、明!」

「はい、美月様。当主様、お帰りなさいませ」

 美月の後を追ってきたのだろう、駆けてきた明も距離を保ちながら頭を下げた。どう考えても子どもの仕草ではない。

「明、ただいま。出迎えありがとう」

 当主は明にも優しく声をかけた。それだけなら美月と明に特別な差をつけているようには見えない。だが、決定的に違う点がある。彼の手は美月と彼女へのおみやげでいっぱいで、明を抱く余裕はない。


 明が美月を見上げ、美月が明を見下ろす。

 ほんのわずかな生まれの違いで。


 ドクン、と心臓が脈打った。

 それをスタートの合図ととったのか、辰巳の体は弾かれたように動き出す。

「明様、ただいま帰りました!」

 ただいまだと? いつからここが俺の家になった。

 頭の片隅に残っていた理性がそう問いかけるが、体は止まらない。

「あれ? 辰巳さん?」

 当主のわきをすり抜けると、辰巳は勢いよく明を抱き上げた。

「当主様、ここで失礼いたします」

「うんうん、よろしく」

 ようやく辰巳を認識した美月は、石のように父親の腕の中で固まっている。しかし大事な妹が捕らわれていることに気づき、大声で泣き叫んだ。

「あ、あきら! お父様、あきら! 食べられちゃう! やだああああ!! あきらぁあああ!!!」

 辰巳は悲痛な叫びを一切無視し、明を抱いたまま背を向けて歩き出した。


 まったくあのお姫様は人を何だと思っているんだ。そもそも白河家のお姫様だと? 俺のお姫様のほうがよほどかわいいだろうが。あれ、俺のってなんだ?

 どういうわけか頭に血がのぼって仕方なかった。速足で離れへと向かう途中、明は戸惑ったように声をあげた。

「抱っこ……」

「ああ、明様すみません。速くてこわかったですか?」

「ううん」

 明はキョロキョロと落ち着かない様子で辺りを見回している。白い頬はいつになく赤くそまり、興奮しているように見えた。

「たかーい……」

「明様?」


「抱っこしてもらったの、ひさしぶり」


 明はぼんやりとつぶやいた。

 その何気なさ。

 それが何よりの辰巳への断罪だった。


 辰巳は愕然とした。

 そして世話になっている白河家への憎悪を自覚した。

 明はおとなしいのではない。甘え方を知らない子なのだ。そうさせたのは間違いなく白河だ。

 だがそれより憎らしいのは自分自身。自分はなんのためにここに呼ばれた。最初こそ父と金のためだったかもしれないが、今は違う。

 何かしてやれることはないか、と意識にのぼっていたはずなのに、結局何もしていなかった。あの痛ましい光景を目にするまで、気づいてやれなかった。


 仕事といっておきながら役目をまっとうすることもできず、心に沿いたいと思いながら肝心なことはわかろうとしなかった。


 明に甘えていたのは自分だ。




「辰巳さん?」

 ぐらぐらとする頭を必死で支えながら、辰巳は言った。

「……明様。ごっこ遊びをしましょう」

「え?」

 唐突な辰巳の言葉に、明は首をかしげる。

「俺は今、当主様のマネをしました。明様も美月様のまねをしてください」

「美月様のマネ……?」

「いいですか、はじめますよ。もう一回やり直しです。明様、ただいまー!」

「わっ!」

 辰巳は腕を伸ばして明を抱え上げクルクルと回った。

「はい、明様。美月様はさっきなんて言って何をやってました?」

「え? え? えっと、えっと」

「ただいまって言ったらなんてお返事してあげますか?」

 助け舟を出すと、明はおずおずと言った。

「お、お帰りなさい……」

「そう、正解です!」

 辰巳は精一杯口角を上げた。なんとか笑みに見えていればいいのだが。

「次は? 何をしていました」

「ええとね、ぎゅーってしてました……」

「また正解です」

 辰巳は明の短い手を自分の首に回させ、ぎゅっと力を込めて抱き直す。

「次は?」

「ふふふ……。おみやげはー?」

 明も遊びのルールがわかってきたようで、含み笑いを漏らしながらセリフを言った。

「明様は正解! でも俺はチョコレートケーキを買い忘れてしまいました。当主様ごっこゲーム失格です」

「ふふふ! しっかく」

 明は楽しそうに辰巳の首にしがみつき、ぐりぐりと頭を押し付けてくる。

「ゲームに負けたとき当主様はなんて言います?」

 辰巳が問いかけると、明は少し考えてから言った。

「うーん……。いっしょにやったことないからわかんない。美月様とはやるけどね、わたしとはやらないんです、決まりなんですよ」

 その妬みも嫉みも持ち合わせない自然な言葉にまたもや白河への憎しみが募りそうになる。

 しかし今は別にやることがあった。

「そうですか。ではこう言ってください。辰巳の負け!」

「辰巳の負け!」

「くやしいです、明日は絶対買ってきますからね!」

「わぁい!」


 すり寄ってくる明と目を合わせるようにして、辰巳はゆっくりと言った。

「明様。これから俺と二人だけのときは、ずっとごっこ遊びしましょう」

「え? ずっと?」

 きょとりと猫目が動く。まるで夕日を溶かした飴玉みたいな色だ。

「はい。美月様みたいに話して、美月様がするみたいに俺と遊ぶんです。俺のことはお父様っていうかわりに辰巳って呼んでください」

「お名前の後に『さん』ってつけなくていいの?」

「俺だけ特別にしてください」

「とくべつ……」

 聡明な光を宿す明の猫目がじっと辰巳を見つめた。彼女はたびたびこうして人を観察する。きっとそうしないといけない状況下にいるのだ。

 この目に嘘はつけない。そう思った。

「辰巳?」

「はい、明様」

「辰巳」

「はい、明様」

 確認作業を終えると、明はすかさず問いかけた。

「辰巳は、当主様みたくお話ししないの?」

 やはり頭のいい子だ。簡単にだまされてはくれないだろう相手に、辰巳はあえて汚い大人の手を使うことにした。

「俺は辰巳なので当主様ごっこはすぐ負けてしまいます。だからやりません」

「えー? ずるい! それならわたしは明なので美月様ごっこはできません!」

「ダメです、でないとチョコレートケーキなしです」

「やだー!」

 ぷくっと頬をふくらました明に、辰巳はそれだと指をさす。

「あ、その調子です。明様お上手ですよ」

「え? これでいいんですか?」

「今のはちょっとダメです」

「ええー? もー、よくわからない! ……あ、でも、美月様は当主様にこうしてました」

 不意に手を伸ばした明は、えいえい、と辰巳の頬をやさしく引っ張った。

「ちゃんとケーキ持ってきてくれないとダメー! ……ふふふ、変なお顔」

 そう言って笑う明は、なによりも愛らしい。どんなにおもしろいことや悲しいことがあっても動かない辰巳の口元が緩んでいく。

「明様、ハナマルです」

「ほんと? ケーキ、プレゼントしてくれますか?」

「はい。明様のために、たくさんプレゼントします」

 

 そう言いながら辰巳は心に刻むことがあった。


 本当は美月様ごっこなんてでまかせだ、上手になんてならなくていい。

 ただ、あなたが普通の子どものように振る舞えるきっかけを作ってあげたい。

 まず俺が目指すのは、美月様ごっこが明様の素顔そのものに変わることだ。

 俺にだけは甘えてほしい。

 俺にだけは頼ってほしい。

 ゆるみきった子犬の表情をしてほしい。


 それが俺の仕事であり、この子の心に沿うことだ。


「ねぇ、辰巳」

「はい、明様」

 明はもじもじと辺りを警戒しながら、こっそりと辰巳に耳打ちした。

「あのね、ホントはチョコレートよりあんこが食べたい……。美月様のおねだりのマネ。だめ?」

 いいのかな、いいのかな、とソワソワする明に、辰巳は心臓ごとこの先の人生すべてを捧げる決意が固まった。

「明様……。百点満点、です」




 高校生にしてここまで意識できる少年はそういない。だが彼の家庭環境、そして明という幼い女の子の存在が少年の精神を飛躍的に成長させた。

 若いながらもすでに白河の内部を切り盛りしていた岩土は、辰巳の特異さと明へ向ける一種異様な感情に目を付け、大学進学の援助と引き換えに白河で働くことを提案した。

 辰巳はそれに際し、一つの条件を出した。

 白河家には仕えない。己が仕えるべき人間は白河明ただ一人である、と。




 十年たった今にして思えば、すべて当主と岩土に仕組まれていたことなのではないだろうか、という気がしてくる。

 辰巳は明のみに心酔し、当主をはじめ水音や美月には慇懃無礼ともとれる態度をとってきた。それでもお咎めもなくこれまでずっと明の側にいることができたのは、彼ら二人の理解あってこそだ。

 さらに、こうして新天地に赴こうとする主の側にはべることを許されている。そのために必要な料理洗濯掃除などのスキルは、白河に入ってから仕込まれたもの。まるで最初からそのために用意されていた人材みたいだ。


 どこから見透かされていたのだろう。まさか、最初から?

 白河当主は人心掌握に長けていると聞くが、まさか人の心や未来が読めるのではあるまいな。そうなると岩土も怪しい。最初こそバイトの内容は美月の子守だと言っていたのに、すんなりと対象が明に変わったのは彼の言があったからではないか。

 そんな荒唐無稽な想像にふけっていると、ふわっと背中に覆いかぶさってくるものがあった。


「たーつーみ。ずるいぞ、サボりか? 引っ越しの準備はどうした」

 幼いころからちっとも変らぬ愛らしい主が背中に張り付いてきたのだ。

「申し訳ありません、明様。アルバムというのは恐ろしいトラップです」

 段ボール箱へ詰める途中でふっと開いたが最後、辰巳は写真に残る明の愛らしい笑顔に釘づけになっていたようだ。

 ようやく白河という重い呪縛から離れることができるという安心感からか、つい昔を懐かしんでしまった。

「もー、引っ越し間近なんだから今日はがんばるって言ったのは辰巳だろう」

「明様があまりにも可愛らしくて、つい」

 辰巳はそう言いながら、自分の肩越しに身をのりだしてくる主の横顔を見つめた。

 幼いころよりシャープになった輪郭、だがまったく変わらない思慮をたたえた猫目。


 美月様ごっこを始めてから何年たったろう。彼女は段階をふみ、ようやく自分というものを探し出そうとしている。それを思えばまだ目標は叶っていないのかもしれない。それでも自分に対する無防備すぎるほどの態度は、自分が甘やかしきったことへの功績であるように思えて仕方なかった。

 写真を覗き込んだ明は呆れ気味に言った。

「なんてゆるみきった顔だ。わたしはこのころから辰巳には迷惑かけっぱなしだな」

「いいんです。俺は明様のモノですから」

「そりゃ、辰巳はわたしを甘やかさなければならないんだけど」

 なんのてらいもなく言いのける明に、辰巳は内心にんまりと会心の笑みを浮かべる。

「でもあんまりそういうこと言うとなー、またワガママ言うぞ?」

「明様のワガママならばいくらでも。俺はあなたを甘やかすためだけに存在しています」

 こう誇らしく言えるようになったのはいつからだったか。

 辰巳は自分の首にまわる明の腕に手をそえ、満足げに言った。

「そんなこと言うと容赦しないからな。よし、ちょっと片づけ休憩しよう。お茶を淹れてほしいな」

「はい、明様。お茶請けには光風堂の最中をご用意しましょうね」

「餡は? 言っておくが、わたしは……」

「はいはい、漉し餡と白餡の両方用意してありますよ。二つ食べるのは多すぎますから、半分ずつにして食べましょうね」

「さっすが辰巳! わかってるぅ」

 ぎゅうっと抱きついてくるのは、あの日教えた時から変わらない。それが辰巳には愛おしくてたまらなかった。


 人生で一生を捧げるべき相手に出会える確率はどれほどだろう。決して高くはない数値のはずだが、辰巳は自分がその数値の中に紛れ込んだ数少ない人間であることを知っていた。


「あれ? それもアルバム?」

 明が指さしたのは本棚の影に隠れるように差し込まれた薄い冊子だった。アルバムであれば辰巳自身がすべて管理していたはずだが、なぜかその背表紙に覚えはない。興味よりも不信感を覚えてページをめくれば、答えはすぐにわかった。

「これは……。俺が来る前までの明様の写真ですね」

 辰巳が知るよりも幼い明がそこにはいた。

 美月と遊んだりお昼寝をしたりしている様子が写っている。

「うわァ、わたし小さいな」

「本当にお可愛らしい。くやしいです、俺がいたら、もっとこのアルバムは厚くなっていたはずなのに」

「辰巳はこのとき中学生くらいでしょ。そこまで尽くしてくれなくていいって……」

 主は呆れ顔だが、辰巳は真剣だった。

 見たことのない明の姿に目を奪われ、夢中でページをめくる。そして最後のページにさしかかろうとするところで、辰巳はビシリと音をたてて固まった。


「……明様。これはどういうことですか」

「え? え、これなに? えー!? 何やってんの!? 」


 最後のページに張られていたのは、泣きじゃくる明を抱きしめながら、彼女の額に薄い唇を寄せている岩土敬吾の写真だった。


「明様……!?」

「ちょ、辰巳!? こわいってば、落ち着いてよォ! 知らないって、覚えてないって! うぇえ、敬吾さんこんなことしてくれてたの!? こわっ! でもこの写真今より若くてかわいいかも! うわァ、おもしろい!」


 そういえば。

 明のおねだりに財布をもって走り出そうとした辰巳を呼び止め、明が洋菓子よりも和菓子派、粒餡よりも漉し餡派、さらにおすすめの和菓子屋を教えてくれたのは岩土であったことを今更ながら思い出した。ついでにその時握らされた分厚い封筒も。(必要経費はその都度報告するように、と口添えされた。)


 年ごろを迎えたのは美月だけではない、明も同じだ。

 そして今は厄介な相手に目を付けられているという。

 その相手から学校ごと逃れられることで気を抜いていた辰巳だったが、もっとも警戒すべき男はもっとも身近にいる人間なのではないか、と気が付いた。

 明の口から思わぬ将来設計を聞き、膝から崩れ落ちたのは記憶に新しい。


「明様。俺は絶対にお側を離れませんからね」

「当たり前だろう」

「俺以外の男はみな狼だと思ってくださいね」

「うん?」




 白井辰巳は何をおいても自分の主を甘やかすと決めている。

 すべては主のため、自分の捧げる人生のためである。

 明こそ、辰巳が向ける愛情のすべての受け人なのだ。

 それは今も昔も変わらない。

 



 完結と一度銘打っておきながら続けてしまった番外編第三弾、主人公の従僕白井辰巳でお送りしました。

 主従の出会いとべったべたに甘やかすに至った経緯、と思って書きましたが、いかがでしたでしょうか。

 

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― 新着の感想 ―
[良い点] ふらふらと小説を読み漁っていたら素敵なお話を見つけました....... 辰巳さんの明への献身の経緯が気になっていたので最後の最後で読むことができてよかったです! 有難うございました!
[一言] ブックマークを整理してたら久しぶりに読み直したくなり読みました。もし良ければまた番外を足していただきたいです。
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