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怪異は文章通りにしか動かない〜噂が現実になる街で、怪異を解く〜  作者: パリトン
星5つのよくできたおまじない

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名前のない子の、名前

噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。


時計屋の二階に、彼女を運んで三日。


 膝から下は、糸のままだった。赤い糸は小指からわたしの手首に繋がったままで、わたしは三日間、事務所のソファで寝泊まりしている。学校には、親戚の看病と言ってある。嘘の下手なわたしにしては、うまくついた方だと思う。


「はっきり言う。正規の直し方は、もう無い」


 三日目の夜、湊さんはそう切り出した。


「人に戻すには、再錨がいる。条件は三つ。窓が開いてること。真名と真話を知ってること。それと――代償を払って、引き受ける奴がいること。……あの子の真話は揃ってる。あんたが憶えてる。だが真名が駄目だ。この世であの子の名前を保持してるのは、もう敵さんのDMログだけ。そして読んだ端から、砂になる」


「敵に、聞くわけにもいかないですもんね」


「聞けば取引になる。あいつ相手の取引は、乾の百倍高くつく」


 湊さんは、しばらく黙った。言うかどうか、迷っている沈黙だった。


「……ひとつだけ、道がある。正規じゃない。裏口だ」


「教えてください」


「元の名前に戻すんじゃない。新しい名前で、編み直す。名無しの怪異を望んだ宿主に縛って、新しい名持ちを作る技術がある。それを、堕ちかけの人間に応用する。……成功すれば、あの子は人に戻る。生きて、笑って、飯を食う。だがな、篠宮」


 湊さんは、わたしの目を真っ直ぐ見た。


「戻ってくるのは『あの子』じゃない。新しい誰かだ。元の名前は永久に失われる。家族の記憶も戻らない。学校の名簿からも、写真からも、この世の帳面という帳面から、元のあの子は消えたままだ。……あの家の食卓は、もう三人分で完成してる。俺たちが直せるのは、命だけだ。人生の方は、直らない」


 命だけ。その言葉の重さを、わたしは三日間、隣で眠る糸の身体を見てきたから、知っていた。


「やります。……で、代償は。誰が、何を払うんですか」


「新しい名持ちには、錨になる縁が最低一本いる。天涯孤独の人間は、この世に留まれん。――で、縁を一本編む方法は、この世にひとつしか確認されてない」


 あ、と思った。


「一番太い縁を、一本ほどいて。それを材料に、新しい縁を一本、編む」


「そうだ。敵さんの処方箋だ。胸糞悪いことにな、あれは呪いの文面である前に、正しい技術だった。……材料を差し出す奴が要る。差し出せば、そいつの一番太い縁が持っていかれる。どれが持っていかれるかは、選べない。財布から抜かれるんじゃない、一番上の札から抜かれるんだ」


「わたしが払います」


 即答したわたしを、湊さんは長いこと見ていた。止めなかった。この人は、止めない。校門前のあの夜、傘から出たわたしを止めなかったのと、同じ目だった。


「……理由を聞いておく。義務じゃない。ただの確認だ」


「わたし、助けられた側なんです。五百人に想像で作られて、押し潰されかけて――誰かが出口をくれたから、今ここにいる。だから、順番なんです。それだけです」


「そうか」


 湊さんは立ち上がって、棚から新しい荷札を取った。


「なら俺は、俺の分を払う。新しい名前ってのは、生まれたてで、この世で一番薄い器だ。放っておけばすぐ消える。だから――俺が毎日、あの子の名前を呼ぶ。一日も欠かさずだ。俺の生活の決まりごとが、また一個増えるわけだ」


 毎日、名前を呼ぶ。それは、あの出品者が十一か月、彼女を繋いでいた手口と、同じ形をしていた。


 同じ形の、正反対のものだった。


 儀式は、静かだった。


 荷札に、湊さんが文面を書く。わたしは彼女の小指の赤い糸に手を添えて、自分の中のどこかが、ほどかれていくのを感じていた。痛みはなかった。ただ、大切な何かが名前も告げずに部屋を出ていくときの、あの空気の動きだけがあった。


 最後に、名前がいる。


「篠宮。あんたがつけろ。あんたの縁で編んだ子だ」


 わたしは、糸の結び目を見た。彼女をこの世に留めた、小さな赤い結び目を。


「――結(ゆい)」


 荷札の文面が、締まった。


『結は、ここにいる』


 たった七文字の、生まれたての、世界で一番小さな噂。


 糸だった膝から下に、ゆっくりと、輪郭が戻ってきた。


 代償が何だったのか、分かったのは翌週だった。


 廊下で、柚葉とすれ違った。


 あの事件から初めて、目が合った。柚葉は何か言いたそうに、唇を動かしかけた。ごめん、の形に見えた。


 わたしは――何も、感じなかった。


 憎くない。怖くない。懐かしくもない。小学校からの十年間が、まるで教科書で読んだ他人の年表みたいに、遠かった。ぶつかった記憶も、絶交の痛みも、事実としては全部憶えているのに、そこに繋がっていたはずの温度だけが、きれいに抜き取られていた。


 ああ、と思った。まだ、あの子だったんだ。喧嘩したままでも、憎んでいても、わたしの一番太い縁は、まだ柚葉だったんだ。


 それを知る方法が、失ってから気づくことしかないなんて、あんまりだと思った。


 選べないと、湊さんは言った。本当に、選べなかった。


「結。飯だ」


「はーい」


 時計屋の二階に、湯呑みが三つ並ぶようになった。湊さんと、わたしと、結の分だ。


 結は、事務所で暮らしている。元の家には帰らなかった。あの家の誰も、もう彼女を覚えていないからだ。


 はじめの二週間、結はほとんど笑わなかった。ある晩、湯呑みを洗いながら、彼女はぽつりと言った。


「あの家の食卓は、もうわたしなしで回ってるから。そこに知らない子が一人増えたら、みんな困るでしょ」


 そう言って、結は少しだけ笑った。ここに来て、初めての笑顔だった。


 乾さんが持ってきた報せは、二つ。ひとつ、例の出品アカウントは、あの夜のうちに完全に消えた。ふたつ、同じ工房の匂いのする商品は、今も三つの別アカウントで売られ続けている。合格祈願の靴紐は、レビュー四百件を超えたそうだ。


「敵は個人じゃなく、店でもなく――流通だよ」と乾さんは言った。「さて常盤くん。君、いつまで黙ってるつもりだい。『お久しぶりです』の件」


 湊さんは答えず、茶を淹れた。四十七歳の、少年の顔で。その横顔に、わたしはまだ、何も訊けずにいる。


 ただ、夜が来るたび、湊さんは必ず一度、階段の下に向かって声を張る。


「結ー。戸締まりしたかー」


「したー!」


 一日も、欠かさずに。


 それが誰かの手口と同じ形をした、正反対のものであることを、わたしはもう知っている。


途中から読んでくださった方へ。

以下1話のリンクになります。

https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/

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