赤い糸
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
「篠宮。下がれ。ゆっくりだ」
湊さんの声で、気づいた。部屋の空気が、変わっていた。
きっかけは、たぶん、彼女のスマホだった。わたしたちが来てすぐ、彼女は律儀に、出品者へ報告を送っていたのだ。『今日、お客さんが来ました。お守りのことを聞かれました』――当たり前だ。毎日連絡をくれる、名前を呼んでくれる、たったひとりの相手。彼女に残された、最後の縁。報告しない理由がない。
その画面に今、返信が浮かんでいた。
『そう。じゃあ、もういいや』
既読をつけた瞬間、彼女の身体が、傾いだ。
「あ――」
糸が切れた操り人形、という言葉があるけれど、あれは比喩じゃなかった。本当に、切れたのだ。最後の一本が。遠隔で、たった一言で、ゴミを捨てるみたいに。
彼女の輪郭が、夕方の部屋の中で、砂時計みたいに崩れ始めた。指先から、髪の先から、細い細い糸になって、ほどけていく。
「湊さん、あの子、あの子が……!」
「見りゃ分かる!」
湊さんが駆け寄るより早く――机の上の在庫が、一斉に膨らんだ。
何十個の錦の袋が、内側から縫い目を破って弾ける。中から溢れ出したのは、紙でも木札でもなく、糸だった。おびただしい量の、色のない糸。六百二十三人分の、刈り取られた一番太い縁。切られてなお、編まれもせず、袋の中に詰められていた「余り」。
それが、部屋いっぱいに広がって、渦を巻いて、こちらへ雪崩れた。
「傘ァ!」
湊さんがビニール傘を開く。わたしは考えるより先に、その下へ飛び込んだ。――相合傘の下には、悪いものは入れない。二人以上で、初めて傘になる。糸の奔流が傘のドームに触れて、見えない硝子に阻まれ、ごうごうと周りを渦巻いた。
「湊さん、これ、怪異ですか!?」
「もっと質が悪い。文面のない、ただの材料だ!」
傘の骨が軋む。糸は傘の表面を這い回り、入口を、綻びを、探し続けている。
「噂から生まれた怪異なら、文面って檻がある。読めば急所が分かる。だがこいつは器に注がれる前の、剥き出しの中身だ。ルールがない。禁じ手もない。読めない相手とは戦うな、が鉄則だが――」
湊さんは渦の中心を睨んだ。糸の嵐の真ん中で、彼女が、ほどけながら立っていた。もう膝から下が、糸に変わっていた。
「――今夜は、例外だ」
「どうするんですか、ルールがないなら、勝ち目なんて」
「逆だ。ルールがないなら、こっちから与えればいい」
湊さんは片手で傘を支えたまま、胸ポケットから白い荷札と、ペンを抜いた。
「篠宮、講義の続きだ。敵さんは既製品の巨大な噂を部品に使う。お守りの袋を封印に流用したみたいにな。――なら、こっちも同じ技を使う。いいか、糸で、人と人を繋ぐ噂。この国で一番でかいやつ。誰でも知ってる。言ってみろ!」
糸。人と人を、繋ぐ。誰でも――
「……赤い糸!」
「正解だァ!」
運命の相手とは、小指と小指が、赤い糸で結ばれている。国ひとつ分。たぶん、お守りの禁忌と同じくらい、この国で硬い器。
「だが錨には取っ掛かりがいる。この糸の山から、糸口を一本見つけろ。切られた縁の、端っこだ。――手袋を使え!」
放られた左手用の革手袋。嵌めた瞬間、革の内側が、燃えるように熱かった。
――落とし物の手袋は、持ち主の手を覚えている。
この部屋の糸は全部、誰かの手から失くなったものだ。六百二十三人の、大切な、大切な、落とし物。手袋は狂ったように熱を上げて、渦の中の一点を指した。傘の縁ぎりぎり、床すれすれのところに、糸の端が一本、垂れている。
「あれを掴んで、あの子の小指に結べ! 傘から出るなよ、腕だけだ!」
傘の結界の際から、腕を伸ばす。糸の嵐が手の甲を掠めて、皮膚が薄く切れた。指先が、糸の端に触れる。掴む。
その瞬間、手袋越しに、流れ込んできた。この糸の持ち主だった誰かの、手の記憶。誰かと繋いだ手。誰かと分け合ったアイスの、冷たさ。
――知ってる。この記憶、わたしも持ってる。
これは、あの子の糸だ。十一か月前、最初に刈り取られた、あの子の一番太かった縁。ぐるぐると渦巻く六百二十三本の中に、ずっと、混ざっていたのだ。
「結べ、篠宮ァ!」
湊さんが荷札に文字を書き殴り、糸の中程へ結びつけるのが見えた。ほどけかけた彼女の手を掴んで、その小指に、わたしは糸の端を、二重に結んだ。
『赤い糸は、小指に結ばれた相手と、離れない』
湊さんが、荷札の文面を読み上げた。
変化は、色から始まった。透明だった糸の嵐が、端から順に、夕焼けを吸うみたいに赤く染まっていく。荒れ狂っていた渦が、失速する。行き場のなかった六百二十三本が、器を、ルールを、自分が何であるかの説明を与えられて――ゆっくりと、床に落ちて、静かになった。
彼女の身体の、ほどけかけていた輪郭が、小指の結び目のところで、止まっていた。
嵐のあとの部屋で、彼女は眠っていた。膝から下は、まだ半分、糸のままだった。赤くなった糸が、小指からわたしの手首まで、繋がっている。
「……応急処置だ」湊さんは傘を畳んで、深く息を吐いた。「赤い糸の文面で、『離れない』ようにしただけ。ほどけるのを、繋ぎ止めてるに過ぎん。名前の芯が溶けてるのは変わらない。……本当に戻すには、再錨がいる。真名と、真話と――引き受ける奴が」
「引き受ける、って」
「その話は、あとだ。今は考えるな」
湊さんは机の上の、彼女のスマホを拾い上げた。画面はまだ、DMを開いたままだった。
『そう。じゃあ、もういいや』の下に、新しいメッセージが、一件。
わたしたちが読むのを、待っていたみたいなタイミングで。
『在庫の処分、お手数をおかけしました。赤い糸とは、良い手ですね。』
そして、最後の一行。
『――お久しぶりです、常盤さん。まだ、十七歳のままですか?』
湊さんの顔から、表情が消えた。
初めて見る顔だった。四十七年生きた人間の顔でも、少年の顔でもない。ただ、古い古い傷を、真上から踏まれた人間の顔だった。
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/




